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花間集 皇甫松十一首

91)回目皇甫松十一首 《天仙子/浪濤沙/楊栁枝/摘得新/夢江南/採蓮子 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8108

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 91)回目皇甫松十一首 《天仙子/浪濤沙/楊栁枝/摘得新/夢江南/採蓮子 【字解集】》

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

201723

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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注

 

 

Ⅰ李白詩

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744年-044卷184_33 相逢行(卷四(一)三○五)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8105

 

 

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744年-集06 【字解集】 送族弟綰・送程劉二侍御・前有樽酒行・春日行Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8099

 

 

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●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首 

 

 

Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注

806年-27 全唐文555-03-#5送許郢州序 -#5 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8106

 

 

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806年-018-#6 全唐文551-11-#6喜侯喜至贈張籍、張徹  【字解集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集7944

 

 

・李商隠詩 (1) 136首の75

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韓愈1 ・孟郊・張籍と汴州乱41

index-2[800年~804年]27

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index-5 806年39歳(2)25

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index-9[815年~816年 49歳57

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韓愈 哲学・儒学「五原」

孟郊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"

 

 

Ⅲ 杜詩

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767年-68#2 上後園山#2 杜詩詳注(卷一九(四)一六四七)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8107

 

 

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767年-集-4字解 【字解集】 a槐葉冷淘・ b上後園山・c季夏送弟韶字解 杜詩詳注Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8131

 

 

杜甫詩(1)736~751年  53

杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73

杜甫詩(3)45歳 安史の乱に彷徨う 26

杜甫詩(4)757年、左拾遺 43

杜甫詩(5)758年47歳 左遷 53

杜甫詩(6)759年 三吏三別 44

 

 

杜甫詩(7)759年秦州詩 66

杜甫詩(8)759年同谷紀行、成都紀行36

杜甫詩(9)760年、49歳 成都 45

杜甫詩(10)761年、50歳 成都82

杜甫詩(11)762年蜀中転々43

杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49

 

 

(13)763年蜀中転々 96

 (14)764年 三月成都へ帰る 100

 (15)765年正月幕府を辞す 63

(16-1) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)80

(16-2) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)81

 

 

 

杜甫詩 (17-1)767年夔州・西閣・赤甲・瀼西132

杜甫詩 (17-2) 767年・瀼西・東屯 133

杜甫詩 (18)768年江陵・公安縣・岳州 78

杜甫詩 (19)769年・洞庭湖・潭州・衡州 78

杜甫詩 (20)770年・洞庭湖・潭州・衡州。27

杜甫詩 (21)洩れ分(未詳分)・散文

 

 

 

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91)回目皇甫松十一首 《天仙子/浪濤沙/楊栁枝/摘得新/夢江南/採蓮子 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8108 (02/03)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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【字解集】天仙子二首其一

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 【女尼、女冠、女巫】 (1

 唐代には仏教、道教の両宗教がきわめて盛んであり、寺院、道観は林立し、膨大な数の尼と女道士(女冠)の集団を生み出していた。『唐六典』(巻四)に、盛唐の時代、天下に女道士のいる550の道観、2,122の尼寺があったと記されている。尼や女道士の数はさらに相当なものである。『旧唐書』の「傅奕伝」に、唐初「天下の僧尼の数は十万に満ちる」とあり、『新唐書』の 「百官志」には「天下の女冠は9,888人、女尼は50,576人」とある。『唐会要』の「僧籍」によれば、唐後期の会昌年間(841846)、僧尼は二26万人を超えていた。これらの記録から推測すると、尼僧は少ない時でも数万人、多い時には二十余万人にも達していたと想像される。都から遥か遠方の敦煌地区でも、普通の寺の尼僧は常に一寺院に百人はいた(『敦煌資料』)。道教寺院の女道士の数はやや少なめであった。これに各地で自由に活動している女巫(女占師)を加えて合計すると、御らく数倍にはなるのではないだろうか。国としても無視できない階層を形成していたのである。

この数万もの尼や女道士には、出家以前は高貴な身分であった妃嬪・公主や、衣食に何の心配もない貴婦人・令嬢もいたし、また貧と窮がこもごも重なった貧民の女性、身分の餞しい娼妓などもいた。娼屋のOGなどの駆け込み寺観が存在していたのである。

 

2.天仙子二首其一

(秋の長雨で、巫山に逗留し、巫山の仙女と劉郎のように過ごした、そしてこの日秋晴れになり、「高唐賦」のように襄王と巫女の別れ、珠の涙を流して、巫山十二峰を後にする別れを詠う。)

2.【解説】 

秋の野辺にそれまでつがいでいたはずの白鷺が一羽になって、秋風が吹き、飛び立つ、これまで三峡を下るのに天候が悪くて、長逗留をし、そこで過ごした劉郎も旅立つことになり、

仙女のごとき道教の寺の尼と男の別れを詠う。当時、道教や仏教の尼寺は男に春をささげぐ所と化していた。末句の十二峯は巫山の著名な十二の峯のことで、宋玉「高唐賦」巫山の神女が楚の懐王と夢の中で契りを交わして別れ去った故事に関わる山。ここでは、男女の別離を連想させる働きをしている。当時、道教や仏教の尼寺は男に春を捧げる所と化していた。末旬の十二峯は、坐山の著名な十二の峯のことで、坐山の神女が楚の懐王と夢の中で契りを交わして別れ去った故事に関わる山。ここでは、男女の別離を連想させる働きをしている。

唐の教坊の曲名。単調と双調とがある。『花間集』 にははじめに示したように九首所収。皇甫松の作は二首収められている。単調三十四字、六句五仄韻で、❼❼7❸❸❼の形をとる。

晴野鷺鷥飛一  花發秋江
劉郎此日別天仙  登綺
淚珠  十二晚峯高歷

  
  
  

3. 皇甫松(生卒年不詳)、復姓で皇甫が姓、松が名。一名、嵩とも言う。字を子奇と言い、自ら檀欒子と号した。睦安(今の浙江省淳安)の人。工部侍郎皇甫湜の子、宰相牛僧濡の外甥で、晩唐の詞人。『酔郷日月』 『大隠賦』などの著書のあったことが知られており、これらの書名からすると、隠逸的傾向の強かった人物であったことが分かる。『花間集』 には十二首の詞が収められている。

 

4. 鷺鷥 白鷺。

5.  水辺に生える蓼の仲間のオオケタデ。「思いやり」「汚れない心」をいうことが多い花である。大紅蓼。花色はピンク色。開花期は711月。夏から秋、初冬。

6. 劉郎 別れ去る愛しい男。仙桃を味わった浦島太郎のような人物である劉晨=劉郎である夢心地の状態にある男、何年も訪れてくれなくなっているのでこのようにいう。12年もたっていることと、全く景色が変わって、ここにいる女を含めみんなが全く変わっていたというものだ。 

劉禹錫『再遊玄都觀』

百畝庭中半是苔,桃花淨盡菜花開。

種桃道士今何歸,前度劉郞今又來。

再遊玄都觀 本文 劉禹錫 薛濤関連 唐五代詞・宋詩 薛濤-239--#95 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2742

白居易『贈薛濤』

蛾眉山勢接雲霓,欲逐劉郎北路迷。

若似剡中容易到,春風猶隔武陵溪。

贈薛濤 白居易 全唐詩 巻462  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-131--#  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2202

牛嶠『女冠子 其三』

星冠霞帔,住在蘂珠宮裏。佩叮

明翠搖蟬翼,纖珪理宿粧。

醮壇春艸綠,藥院杏花香。

青鳥傳心事,寄劉郎

女冠子四首 其三 牛嶠  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-316-5-#57-(7)  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3127

牛嶠『夢江南二首 其二』

紅繡被,兩兩間鴛鴦。

不是鳥中偏愛爾,為緣交頸睡南塘,全勝薄情郎

夢江南二首 其一 牛嶠【ぎゅうきょう】 ⅩⅫ唐五代詞、「花間集」 Gs-319-6-#6  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3142 

○阮郎 別れ去って久しく帰らぬ愛しい男。後漢の劉展、阮肇は天台山に薬草を採りに入り、道に迷って仙女に出合い、しばらくともに暮らした。しかし家のことが思い起こされ、帰ってみると、既に数世が過ぎ、見知った人は誰もいなかった。そこで再び山に尋ね入ったが、仙女を探し当てられなかったと言う。以来、阮郎、劉部は、別れ去る男や別れ去って久しく帰らぬ愛しい男を指すようになった。・檀郎/安仁/潘郎 晋の潘岳のあざな。彼は美男子であり、詩人であったが、妻の死にあい「悼亡」の詩三首を作った。後世、妻の死をなげいた模擬作が多く作られた。潘岳の幼名が檀奴だったので、「檀郎」は夫や恋い慕う男を意味する。・潘岳:安仁。滎陽(けいよう)中牟(河南省)の人。陸機と並ぶ美文の文学の大家で,錦を敷きのべたような絢爛(けんらん)たる趣をたたえられた。ことに人の死を悼む哀傷の詩文を得意とし,亡妻への尽きぬ思いをうたった〈悼亡詩(とうぼうし)〉3首はよく知られる。絶世の美男として,また権門の間を巧みに泳ぎまわる軽薄才子として,とかく話題にこと欠かなかった。八王の乱の渦中で悲劇的な刑死を遂げた。

江南二首 其一 牛嶠【ぎゅうきょう】 ⅩⅫ唐五代詞、「花間集」 Gs-319-6-#6  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3142

7. 天仙 天台山の仙女。ここでは道教の寺の尼を指す。

8. 登綺席 素晴らしい酒席に着く。ここでは別離の宴の席に着くこと。

9. 十二晩峯 夕暮れ時の巫山の十二の峯々。夕暮れ時の巫山の十二の峯峯。独秀、筆峰、集仙、起雲、登龍、望霞、聚鶴、棲鳳、翠屏、盤龍、松巒、仙人を指す。

毛文錫『巫山一段雲一首』

雨霽巫山上,雲輕映碧天。

遠峯吹散又相連,十二晚峯前。

暗濕啼猿樹,高籠過客舡。

朝朝暮暮楚江邊,幾度降神仙。

巫山一段雲一首 毛文錫【もうぶんせき】 ⅩⅫ唐五代詞・「花間集」Gs-372-8-#8 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3407

10. 歷歷 一つ一つがはっきりとしているきまり

 

11. 【女尼、女冠、女巫】 (2

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家族あるいは自分が仏教、道教を篤く信じて出家した人々である。しかし、こうした人は少数で圧倒的多数はやはり各種の境遇に迫られ、あるいは世の辛酸をなめ尽して浮世に見切りをつけ、寺院や通観に入って落ち着き先を求めた人々であった。その中には、夫の死後再婚を求めず入信して余生を送ろうとした寡婦もいる。また、家族が罪にふれて生きる道がなく、寺院や通観に入らざるをえなかった者もいる。

また妓女、姫妾が寺院や通観を最後の拠り所にすることもあった。有名な女道士魚玄機はもともとある家の侍妾であったが、正妻が容認しなかったので道観に入った(『太平広記』巻二二〇)。妓女は年をとり容色が衰えると出家するのが一般的だった。唐詩の中には「妓が出家するのを送る」 ことを題材とした作品がたいへん多い。

宮人・宮妓が通観に入る例も少なからぬ割合を占める。彼女たちは年をとり宮中を出でも頼るべき場所とてなく、大多数が寺院・通観を最後の安住の地とした。長安の政平坊にあった安国観の女道士の大半は上陽宮の宮人であった(『唐語林』巻七)。詩人たちは女尼,女冠,女巫かつて、「斎素と白髪にて宮門を酢で、羽服・星冠に道意(修行心)存す」(戴叔倫「宮人の入道するを送る」)、「君看よ白髪にて経を詞する者を、半ばは走れ宮中にて歌舞せし人なり」(慮輪「玉真公主の影殿を過ぎる」)などと詠んで嘆いた。最後になったが、他に貧民の家の大量の少女たちがいる。彼女たちはただ家が貧しく親に養う力がないという理由だけで、衣食に迫られて寺院や道観に食を求めざるを得なかった人々である。総じて言えば、出家は女性たちが他に生きる道がない状況下における、最後の出路、最後の落ち着き先になったのである。

朝廷は旧来のごとく彼女たちに生活資財を支給したから、生活はかえって公主の時より自由になり、束縛を受けなくなった。また女道士の生活は尼僧のそれに比べていくらか自由であったからこそ、公主たちの大半は仏寺に入らず通観に入ったのである。

 

出家した女性の生活は、きわめで特色のあるものだった。まず第一に、彼女たちは人に頼って生きる階層であり、一般には生業に従事しなかった。国家あるいは施主から衣食がすべて供給された。

 

 

天仙子二首其二

12.(人里離れた道教の聖女祠の女、年増になって好きな人は去って行った。それでも天仙子として生きていくしかない。)

唐の教坊の曲名。単調と双調とがある。『花間集』 にははじめに示したように九首所収。皇甫松の作は二首収められている。単調三十四字、六句五仄韻で、❼❼7❸❸❼の形をとる。

天仙子二首其一

晴野鷺鷥飛一  花發秋江
劉郎此日別天仙  登綺
淚珠  十二晚峯高歷

  
  
  

天仙子二首其二

躑躅花開紅照  鷓鴣飛遶青山
行人經始歸來  千萬
錯相  懊惱天仙應有

  
  
  

13. 躑躅 ①【てきちょく】足踏みすること。ためらうこと。②つつじ。女性自身が熟れ時であることを意味する。

ツツジ科ツツジ属の植物の総称。常緑または落葉性の低木、まれに小高木もある。よく分枝し、枝や葉に毛がある。春から夏、白・紅・紫色などの漏斗形で先の5裂した花が咲く。園芸種も多く、ヤマツツジ・サツキ・レンゲツツジ・ミツバツツジなどがある。ツツジ科の双子葉植物は約1400種あり、温帯・寒帯地域および熱帯の高山に分布し、シャクナゲ・アセビ・コケモモ・エリカなども含まれる。《季 春》

躊躇するという意味がある。

春光潭沱秦東亭,渚蒲牙白水荇青。

風吹客衣日杲杲,樹攪離思花冥冥。

酒盡沙頭雙玉瓶,眾賓皆醉我獨醒。

乃知貧賤別更苦,吞聲躑躅涕淚零。』

醉歌行 杜甫 : kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 誠実な詩人杜甫特集 94

14. 紅照水 ツツジの花が咲き乱れて水面に映り、紅い花に染まった様子をいう。

女の居る場所が大江のほとりの娼屋、あるいは、道教の祠、そこに女たちがたくさんいること。女と遊ぶ男たちは船でそこに向かうのである。船着き場に女たちが待っている様子ということである。

15. 鷓鴣 キジ目キジ科の鳥類。「鷓鴣」と呼ばれ、別名に「越雉」、「懐南」がある。茶褐色の羽毛をもつものが多く、コジュケイに似る。句輈格磔という声を出して啼き、霜露を懼れて、秋冬になれば、早晩稀に出でて、時あって、夜飛ぶも、樹葉を以て背上を負おうということである。

李白 『越中覧古』
越王勾践破呉帰、義士還家尽錦衣。
宮女如花満春殿、只今惟有鷓鴣飛。

李白9  越中覧古

温庭筠『菩薩蠻』 (一)

小山重疊金明滅,鬢雲欲度香顋雪。

懶起畫蛾眉。弄妝梳洗遲。

照花前後鏡。花面交相映。

新帖繡羅襦。雙雙金鷓鴣

・鷓鴣 鳥の名。しゃこ。キジ科の鳥。ここでは、雙雙鷓鴣で、男女一緒になることを暗示しており、詞ぜんたいでは、懶起畫蛾眉でも暗示されるように、そのことが、叶わなくて、一人でいる女性の艶めいた寂しさを詠っている。

『菩薩蠻 一』温庭筠  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-1-1-#1 花間集 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1620

16. 青山 遠近法的描写で遠い部分の山を云うが、五行思想で青は春であり、春には行楽で野外で宴をするその背景の山を連想させ、楽しかったことに繋げて連想させるもの。

17.  1.嘴【はし】。意味や解説。《「端(はし)」と同語源》くちばし。二十八宿の一。2.西方の星宿。觜宿。とろきぼし。未練をあらわすもの。

18. 行人 ①官名。賓客を接待する外交官。②道を行く人。旅人。③出征兵士。④使者の通称。⑤仏道を修行する人。行者(ぎょうじゃ)

柳枝五首其一

解凍風來末上青,解垂羅袖拜卿卿。

無端裊娜臨官路,舞送行人過一生。

(柳枝五首 其の一)

解凍の 風來れば 末上の青となり,羅袖を解き垂れ、卿卿に拜す。

無端 裊娜【じょうだ】にして 官路に臨み,行人を舞い送り 一生を過す。

19. 始歸來 さあ、初めに帰ろう。陶淵明《歸去來辭》

参考:(三字經魂斷始歸來,相思仍未斷,心頭如鹿撞,忐忑在心田。

三字經は、百家姓・千字文とならぶ、伝統的な中国の初学者用の学習書である。3文字で1句とし、偶数句末で韻を踏んでいる。

人之初、性本善。性相近、習相遠。

苟不教、性乃遷。教之道、貴以専。

人の初め、性本と善なり。性相い近し、習い相い遠し。

苟くも教えずんば、性乃ち遷る。教えの道は  専を以て貴ぶ。

性善説(せいぜんせつ)とは、人間の本性は基本的に善であるとする倫理学・道徳学説、特に儒教主流派の中心概念。人の本性に関する考察は古今東西行われてきたが、「性善説」ということばは儒家のひとり孟子に由来する。

20.  1 乱れて入りくむ。 まじる。「錯雑・錯綜(さくそう)/交錯」2まちがえる。あやまる。

21. 相倚 禍福相倚.【釋義】:指禍與福相因而生。 【出處】《老子》第五十八章「禍兮福所倚,福兮禍所伏。」

22. 懊惱 悔恨 懊悔。懊:深く思い悩む。憂え もだえる。「懊悩」

23. 天仙 天上の仙人。神仙。

『天仙配』 (てんせんばい、tiānxiānpèi、ティエンシェンペイ)は、中国の説話。かなり古くから小説や戯曲などの題材とされてきた。 玉皇大帝と西王母の第七の娘である七仙女と人間の男性・董永と恋に落ちる異類婚姻譚のひとつ。中国では、『董永与七仙女(董永と七仙女)』の名で知られ、及び周濯街の長篇神話小説之六の『七仙女正伝』は、中国の四大民間説話の一つとされている。

物語の初出は東晋の文学者・干宝による神怪小説『捜神記』。董永と「天の織女」という名乗りの女性に出会い、天女と董永の間の愛を描いた天女降嫁譚。普段は七夕伝説と混淆したと考えられる。後に民間の戯曲は七仙女と織女を分離して、「董永と七仙女」・「牛郎織女」という異なる物語になっている。

漢王朝、漢蜀(今の湖北省孝感市)[1]に董永という男がいた。幼くして母をなくし、父子でなんとか生活をやりくりしていたが、ついにその父親まで死んでしまった。

葬式を出すお金もないので、自分の身を売り、そのお金で父の葬式を出そうとする[2]

その様子を天から見ていた玉皇大帝は、董永の孝行息子ぶりに感動し、7番目末娘の七仙女を人間世界に派遣し、董永を助けることにする。 やがて、一緒に暮らすうち二人の間に愛情が芽生え、結婚してしまう。天界では、勝手に人間と結婚してはならない(許可がないと、人間世界へ降りていったり、人間と接触することすら許されない)という掟があるので、玉皇大帝の命令で、七仙女は天界へと連れ戻されてしまう。

碧霞元君(へきかげんくん)は、中国の女神であり、泰山信仰でもっとも人気がある女神である。別名:天仙聖母碧霞玄君(てんせんせいぼへきかげんくん)、泰山老母(たいざんろうぼ)、泰山玉女(たいざんぎょくじょ)、天仙娘々(てんせんにゃんにゃん)、天仙玉女碧霞元君(てんせんぎょくじょへきかげんくん)など。

神格:人々の出世、結婚、豊作など全般にわたる。

 

浪濤沙二首其一

24.(今は穏やかな漁村の景色が広がり、波が砂を洗う水際の近くに、むかし瀟湘の二妃のように身を投げた女がいた、去年のことだった、別れた人を思って長江の景色を詠う)

花間集には浪濤沙は皇甫松の二首が所収されている。雑曲歌辞、七言絶句形式、二十八字四句三平韻⑦⑦7⑦の詞形をとる。

蠻歌豆北人  蒲雨杉風野艇
浪起鵁鶄眠不得  寒沙細細入江

  
  

皇甫松(生卒年不詳・父皇甫湜が約777~約830とされているので約800~約850と考える。親子とも、隠遁者の為形跡を遺していない)、復姓で皇甫が姓、松が名。一名、嵩とも言う。字を子奇と言い、自ら檀欒子と号した。睦安(今の浙江省淳安)の人。韓愈門下、工部侍郎、皇甫湜の子、宰相牛僧孺の外甥で、晩唐の詞人。『酔郷日月』 『人隠賦』などの著書のあったことが知られており、これらの書名からすると、隠逸的傾向の強かった人物であったことが分かる。花間集では「皇甫先輩松」とある。唐代では、進士を先輩と呼ぶので、進士で、出仕しないで終わったのだろう。『花問集』 には十二首の詞が収められている。

25.《雑曲歌辞》 

浪濤沙 雑曲歌辞であるところの浪濤沙【浪淘沙ろうとうさ】。波が砂をよなげる。この作は、黄河や長江の流れを詠じている。『楚辭』の九歌に擬しているといわれる。九歌は一種の祭祀歌であると考えられる。湖南省あたりを中心にして、神につかえる心情を歌ったものとするのが、有力な説である。九歌と総称されるが、歌の数は十一ある。作者は屈原とされるが、異説もある。王逸は、屈原が懐王に追われて、瀟湘地域に旅した際、土着の祭祀歌があまりに野卑だったので、優美なものに改作して与えたのだとする。同時に、その神に対する心情のうちに、自分の王に対する忠誠を寓意として歌いこんだともいう。

雑曲歌辞:楽府詩の一つ。内容は雑然としており、志を描写するものや感情を発露するものであり、宴遊や歓楽、うらみや別離の情、行役や征戍の苦労を詠ったものがある。

26.浪濤沙:なみが砂を洗う。詞牌・『浪濤沙(浪淘沙)』となる。 ・濤淘:よなげる。米を水に入れて、ゆりとぐ。物を水に入れて、揺らし動かして洗う。

 

灘頭細草接疎林,浪惡罾舡半欲沉。

緩やかな流れから、早瀬が始まる河辺りには、か細い葉の草がはえ、疎らな雑木林に続いている。風が強く波が立って、漁船が四隅を竹竿で張った沙網を仕掛け、網は半ば沈みかけようとしている。

27. 罾 正方形の網の四隅を竹ざおで張った沙網。水底に沈めておいて、時々引き上げて魚をとる。

 

宿鷺眠鷗飛舊浦,去年沙觜是江心。

水際の白鷺が棲みついていかもめは砂地で眠っているところ、昔、水の神が棲んでいた住まいのあたりだろう、入り江の港の方に飛んでいく。去年のことだった、その砂浜で觜宿の星を見て投身した神女は帰ってこない、瀟湘の二妃とおなじような大江の別れの心というものか、もう二度と逢うことはない。

28. 舊浦 この詩は、屈原楚辞九歌に基づいており、瀟湘、黄河の水神を連想させるものである。いかに重要な河であったかは神話や伝説からも十分にうかがえる。 10個の太陽のうち9個を射落としたという伝説を持つ羿は、河伯を弓で射てその妻の雒嬪を奪ったといわれる。河伯とは黄河の神であり、雒嬪とは黄河の支流のひとつ洛水の女神である。瀟湘神:詞牌の一。詞の形式名。『瀟湘曲』ともいう。詳しくは下記の「構成について」を参照。この作品がこの詞牌の起源になる。湘妃と斑竹の、亡き人を偲ぶ故事で、深い味わいを出している。

29. 觜【し】二十八宿の一。西方の第六宿。オリオン座北部の三つの星をさす。とろきぼし。觜宿。付き合いをするには吉とされて始めたものの、別れたというほどの意味になろうか。皇甫松の作品は暗示的な表現が多い。

30. 女道士は、唐代の女性の中できわめて自由奔放な人々であったから、唐代の女道士は娼優に近かったという学者もいる(梁乙真『中国婦女文学史綱』、譚正璧『中国女性文学史話』)。

 彼女たちは深い教養を身につけ、常に宮廷、王府、貴族豪門の屋敷に出入りしては、軍事・政治の大事に参両したり、天文や人事に関する吉凶を占ったので、皇帝・皇后や貴顕から大いに信用された。女道士の許霊素はかつて粛宗の張皇后を助け、偽の詔勅を作り、皇后の生んだ子を皇太子にした(『旧唐書』后妃伝下)。また、尼僧の王奉仙は唐末、節度使間の戦争が激しかった時、朝廷の観察使等の大官や将帥たちの軍師となり、軍中の賞罰、作戦などすべて自ら決した(『資治通鑑』巻二五七、嬉宗光啓三年)。こうした例は決して少なくない。

 彼女たちは、社交、外出、生活などなんでも比較的自由だった。上述の出家した玉真公主は、玄宗時代には特殊な地位にあって活躍した人物である。彼女は常時宮廷に出入りし、兄玄宗や高官貴顕とよく一緒に出かけて遊んだ。唐詩の中には、当時の近臣たちの唱和の作品に、玉真公主とともに遊んだことを特別に詠んだ詩がある。ところで、尼僧や女道士は常に四方の名山大川を自由に遊歴することができた。李白はかつて友人の女道士祐三清が南岳(浙江省呉興県に所在)に遊ぶのを送ったが、その時送別のために詩をつくっている。「呉江の女道士、頭に蓮花巾を戴く、……足下には遠遊の履、波を凌いで素き塵を生ず」(李白「江上に女道士拷三清の南岳に遊ぶを送る」)こうした女道士はなんと自由でロマンチ″クな平とか。女道士は時々道観で人前に顔をさらして経を講じたが、それに惹かれて上流階級の子弟の一群が争って見に行った。

 韓愈は「華山女」(華山は峡西省華陰県にある山)と題する詩の一節で、「華山の女児家道(道教)を奉じ、……汝を洗い面を拭って冠岐(冠と肩かけ)を著け、白咽 紅頬長眉青し。遂に来たって座に陛って真訣(道教の秘訣)を演べ、……観中に人満ちて観外に坐し、後れて至るものは地無くして聴くに由無し。……豪家の少年 壹に道を知らんや、来って遁ること百匝(百周)して脚停どまらず。……仙梯(神仙の世界へのはしご)単じ難くして俗縁重し、浪りに青鳥(西王母の使いの鳥、ここでは華山女を指す)に憑って丁寧を通ず」と歌っている。

 

 このょうな女道士の説法は、多くの男たちを引きつけてやまなかった。彼女たちの行勤はさらに自由奔放であり、高官名士と広く交際して彼らと詩詞の応酬をし、風を吟じ月と遊び、、琴を弾き碁を打ち、同席して酒を飲み、挾を連ねて遊びに出、ふざけあっては談笑し、しないこととてないという有様であった。当時の才女として有名な女道士李季蘭、魚玄機などは社交界の明星であり、近世の社交界の花形のような存在であった。「遊び人はおめかしをし、争って彼女たちと懇ろになろうとし、あるいはまた酒を持参して行く者は必ず琴を弾き詩をつくり、その間冗談を言ってふざけあった」(『三水小噴』緑鮪)。李季蘭は開元寺で文人たちと会合をもち、席上当意即妙に、「山気 日夕佳し」(陶淵明の詩「飲酒」の一句)を借りて、同席の劉長卿の持病である痛気(ヘルニア。山気と痛気は同じ発音)をからかって、満座の爆笑を誘った(『唐才子伝』巻二)。女道士の交際の自由奔放さの一端を知ることができる。

31.  女妓

紅桃

『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。楊貴妃の侍女。楊貴妃に命じられて、紅粟玉の腕輪を謝阿蛮に渡した。後に、玄宗が安史の乱の勃発後、長安に帰還した時、楊貴妃の侍女の一人として会合する。そこで、楊貴妃の作曲した「涼州」を歌い、ともに涙にくれたが、玄宗によって、「涼州」は広められた。

謝阿蛮

『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。新豊出身の妓女。「凌波曲」という舞を得意としていた。その舞踊の技術により、玄宗と楊貴妃から目をかけられ、腕輪を与えられた。後に、玄宗が安史の乱の勃発後、長安に帰還した時、舞踊を披露した後で、その腕輪を玄宗に見せたため、玄宗は涙を落としたと伝えられる。

張雲容

全唐詩の楊貴妃の詩「阿那曲」で詠われる。楊貴妃の侍女。非常に寵愛を受け、華清宮で楊貴妃に命じられ、一人で霓裳羽衣の曲を舞い、金の腕輪を贈られたと伝えられる。また、『伝奇』にも説話が残っている。内容は以下の通りである。張雲容は生前に、高名な道士であった申天師に仙人になる薬を乞い、もらい受け、楊貴妃に頼んで、空気孔を開けた棺桶にいれてもらった。その百年後に生き返り、薛昭という男を夫にすることにより、地仙になったという。

王大娘

『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。教坊に所属していた妓女。玄宗と楊貴妃の前で雑伎として、頭の上に、頂上に木で山を形作ったものをつけた百尺ある竿を立て、幼児にその中を出入りさせ、歌舞を披露する芸を見せた。その場にいた劉晏がこれを詩にして詠い、褒美をもらっている。

許和子(永新)

『楽府雑録』『開元天宝遺事』に見える。吉州永新県の楽家の生まれの女性で本名を許和子と言った。開元の末年ごろに後宮に入り、教坊の宜春院に属した。その本籍によって、永新と呼ばれた。美貌と聡い性質を持ち、歌に長じ、作曲を行い、韓娥李延年の千年来の再来と称せられた。玄宗から寵愛を受け、演奏中もその歌声は枯れることがなく、玄宗から「その歌声は千金の価値がある」と評せられる。玄宗が勤政楼から顔を出した時、群衆が騒ぎだしたので、高力士の推薦で永新に歌わせたところ、皆、静まりかえったという説話が伝わっている。
安史の乱の時に、後宮のものもバラバラとなり、一士人の得るところとなった。宮中で金吾将軍であった韋青もまた、歌を善くしていたが、彼が広陵の地に乱を避け、月夜に河の上の欄干によりかかっていたところ、船の中からする歌声を聞き、永新の歌と気づいた韋青が船に入っていき、永新と再会し、涙を流しあったという説話が残っている。その士人が死去した後、母親と長安に戻り、民間の中で死去する。最期に母親に、「お母さんの金の成る木は倒れました」と語ったと伝えられる。清代の戯曲『長生殿』にも、楊貴妃に仕える侍女として登場する。

念奴

『開元天宝遺事』に見える。容貌に優れ、歌唱に長け、官妓の中でも、玄宗の寵愛を得ていた。玄宗の近くを離れたことがなく、いつも周りの人々を見つめていて、玄宗に「この女は妖麗で、眼で人を魅了する」と評された。その歌声は、あらゆる楽器の音よりもよく響き渡ったと伝えられる。唐代詩人の元稹の「連昌宮詞」に、玄宗時代の盛時をあらわす表現として、玄宗に命じられた高力士が、彼女を呼び、その歌声を披露する場面がある。清代の戯曲『長生殿』にも、永新とともに、楊貴妃に仕える侍女として登場する。

 

浪濤沙二首其二

32.(妃嬪・妓優・歌妓、華やかな女の一生を鵁鶄に比喩して詠う。)

花間集には浪淘沙は皇甫松の二首が所収されている。雑曲歌辞、七言絶句形式、二十八字四句三平韻⑦⑦7⑦の詞形をとる。

蠻歌豆北人  蒲雨杉風野艇
浪起鵁鶄眠不得  寒沙細細入江

  
  

皇甫松(生卒年不詳・父皇甫湜が約777~約830とされているので約800~約850と考える。親子とも、隠遁者の為形跡を遺していない)、復姓で皇甫が姓、松が名。一名、嵩とも言う。字を子奇と言い、自ら檀欒子と号した。睦安(今の浙江省淳安)の人。韓愈門下、工部侍郎、皇甫湜の子、宰相牛僧孺の外甥で、晩唐の詞人。『酔郷日月』 『人隠賦』などの著書のあったことが知られており、これらの書名からすると、隠逸的傾向の強かった人物であったことが分かる。花間集では「皇甫先輩松」とある。唐代では、進士を先輩と呼ぶので、進士で、出仕しないで終わったのだろう。『花間集』 には十二首の詞が収められている。

《雑曲歌辞》 宮廷では、数百里の遠方からも、歌の好きな人々、踊りの腕を競わせる「歌競」「舞競」を常時開いた。

浪濤沙 雑曲歌辞であるところの浪濤沙【浪淘沙ろうとうさ】。波が砂をよなげる。この作は、黄河や長江の流れを詠じている。『楚辭』の九歌に擬しているといわれる。九歌は一種の祭祀歌であると考えられる。湖南省あたりを中心にして、神につかえる心情を歌ったものとするのが、有力な説である。九歌と総称されるが、歌の数は十一ある。作者は屈原とされるが、異説もある。王逸は、屈原が懐王に追われて、瀟湘地域に旅した際、土着の祭祀歌があまりに野卑だったので、優美なものに改作して与えたのだとする。同時に、その神に対する心情のうちに、自分の王に対する忠誠を寓意として歌いこんだともいう。

雑曲歌辞:楽府詩の一つ。内容は雑然としており、志を描写するものや感情を発露するものであり、宴遊や歓楽、うらみや別離の情、行役や征戍の苦労を詠ったものがある。・浪濤沙:なみが砂を洗う。詞牌・『浪濤沙(浪淘沙)』となる。 ・濤淘:よなげる。米を水に入れて、ゆりとぐ。物を水に入れて、揺らし動かして洗う。

 

33. 蠻歌 珍しい江南か南国のうたがうたわれる宴席を開いていることをさす。

34. 豆 ・荳 草の名、にくづく。花が葉間に生ずる。その形から、南方では少しく開いた花を含胎花といい、歳が若くして妊娠することをいう。ニクズク属は、ニクズク科の1属。学名Myristica。ミリスティカ属とも。属名はギリシャ語で香油を意味するミュリスティコス から。 熱帯性の常緑高木。東南アジア、オーストラリアに自生。 種子から、スパイスのナツメグ とメース 、生薬の肉荳蔲が作られる。

35. 蒲雨 集中豪雨。スコール。

36. 野艇 採蓮や、菱摘みを見る遊び。

 37. 鵁鶄 ごいさぎ.(1)、一名{-+}。鳬に似て脚高く毛冠あり(2)。高木に巣くい、子を穴中に生む。子其の母の翅を銜へ飛びて上下す(3)。淮賦の所謂、「鸕{+}は雛を八九に吐く、鵁鶄は翼を銜へ低昂する」者なり。

38. 細細 非常に細いさま。また、細く弱々しいさま。「―とした声」かろうじて続いているさま。また、やっとのことで維持するさま。

39.音楽と歌舞

古来から儀礼として重視されていた音楽と舞踊であったが、外来音楽と楽器の流入により、相当な発展をとげた。唐代には娯楽性も向上し、楽器の種類も大幅に増加した。合奏も行われ、宮廷では大規模な楽団による演奏が度々行われた。

初唐では九寺の一つである太常寺が舞楽を司る中心となり、宮廷舞楽のうちの雅楽を取り扱った。714年に「梨園」が設置され、300人の楽工が梨園弟子になり、後に宮女も加えられた。教坊は内教坊か初唐から置かれていた。この上、玄宗期に雅楽と区分された俗楽や胡楽、散楽を扱うことを目的とした左右教坊が増設された。胡楽は西域を中心とした外来音楽で、唐代の宮廷舞楽の中心であった十部楽のうちの大半を占めた。

 

宮廷音楽で歌われる歌の歌詞は唐詩が採用された。民間にも唐詩を歌詞にし、音楽にあわせて歌うものが現れ、晩唐には音楽にあわせるために書かれた詞を作られた。また、「闘歌」という歌の上手を競わせる遊びも存在していた。

舞踊は宮廷や貴族の酒宴ばかりでなく、民間の酒場や行事でも頻繁に行われた。外国から様々な舞踊が伝えられ、その種類も大きく増加した。様々な階層のものが舞踊を好み、楊貴妃や安禄山は胡旋舞の名手であったと伝えられる。

舞踊は、ゆったりした動きの踊りを「軟舞」、テンポが速い激しい踊りを「健舞」と分けられた。「胡旋舞」や「胡騰舞」は健舞に含まれた。伝統舞踊に外国からの舞踏が加わっていき発展していった。

唐代の宮廷では、楽団の演奏にあわせて大勢が舞踊を行うことで多かった。また、「字舞」と呼ばれる音楽とともに踊り、身体を翻す瞬間に衣の色を換え、その後に地に伏して全員で字の形を描くという集団舞踏も存在し、多い時は百人単位で行われた。

唐代の皇帝の中でも、玄宗が特に音楽がすぐれており、外国の音楽を取り入れた「霓裳羽衣の曲」を作曲したとされる。この曲とともに、楊貴妃が得意とした「霓裳羽衣の舞」が行われ、宮人が数百人で舞うこともあった。

安史の乱以後は、戦乱や、梨園の廃止、教坊の縮小とともに、楽工や妓女は地方に流れ、音楽や舞踊の普及は進んでいくことになった

 

 

40.

 

 

 

 

 

 

 

花間集 教坊曲 『楊柳枝』二十四首

 

 

溫助教庭筠(温庭筠)

巻一

(改訂)楊柳枝八首之一

館娃宮外鄴城西,

 

 

巻一

(改訂)楊柳枝八首之二

宜春苑外最長條,

 

 

巻一

(改訂)楊柳枝八首之三

金縷毿毿碧瓦溝,

 

 

巻一

(改訂)楊柳枝八首之四

御柳如絲映九重,

 

 

巻一

(改訂)楊柳枝八首之五

織錦機邊鶯語頻,

 

 

巻一

(改訂)楊柳枝八首之六

蘇小門前柳萬條,

 

 

巻一

(改訂)楊柳枝八首之七

牆東御路傍,

 

 

巻一

(改訂)楊柳枝八首之八

兩兩黃鸝色似金,

 

 

皇甫先輩松(皇甫松)

巻二

楊柳枝二首其一

春入行宮映翠微

 

 

巻二

楊柳枝二首其二

爛熳春歸水國時

 

 

牛給事嶠(牛嶠)

巻三

柳枝五首其一

解凍風來末上青,

 

 

巻三

柳枝五首其二

橋北橋南千萬條,

 

 

巻三

柳枝五首其三

狂雪隨風撲馬飛,

 

 

巻三

柳枝五首其四

王宮裡色偏深,

 

 

巻三

柳枝五首其五

裊翠籠煙拂暖波,

 

 

張舍人泌(張泌)

巻四

柳枝一

膩粉瓊粧透碧紗,

 

 

和學士凝(和凝)

巻六

柳枝三首  其一

軟碧瑤煙似送人,

 

 

巻六

柳枝三首  其二

瑟瑟羅裙金縷腰,

 

 

巻六

柳枝三首 其三

鵲橋初就咽銀河,

 

 

顧太尉(顧

巻七

楊柳枝一首 顧夐

秋夜香閨思寂寥,

 

 

孫少監光憲(孫光憲)

巻八

陽柳枝四首 其一

閶門風暖落花乾

 

 

巻八

陽柳枝四首 其二

有池有榭即濛濛,

 

 

巻八

楊柳枝四首其三

根柢雖然傍濁河,

 

 

巻八

楊柳枝四首其四

萬株枯槁怨亡隋,

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 41.

唐代三百年間に封ぜられた后妃のうち、皇后と地位が比較的高いか、あるいは男子を生んだ妃嬢だけが史書にいささかの痕跡を残した。その他の女性は消え去って名も知れない。『新・旧唐書』「后妃伝」 には、全部で二十六人の皇后、十人の妃嫁が記載されている。その他で史書に名を留めているものはおよそ五、六十人である。その内、高祖、玄宗両時代の人が最も多い。高祖には竇皇后の他に、万貴妃、ヂ徳妃、宇文昭儀、莫嬢、孫嬢、佳境、楊嬢、小楊嬢、張捷好、郭妊婦、劉捷好、楊美人、張美人、王才人、魯才人、張宝林、柳宝林などがいた。玄宗には王皇后、楊皇后、武恵妃、楊貴妃、趨麗妃、劉華妃、銭妃、皇甫徳儀、郭順儀、武賢儀、董芳儀、高娃好、柳娃好、鍾美人、慮美人、王美人、杜美人、劉才人、陳才人、鄭才人、闇才人、常才人などがいた。もちろん史書に名を残せなかった人はさらに多い。史書の記載から見ると、高祖、玄宗両時代の妃嫁がたしかに最も多かったようである。

 

 

42. 楊柳枝

漢の鐃歌鼓吹曲で、唐の教坊曲。白居易は古い曲名を借りて新たな曲を作った、そのことを宣言した詞。詩の形式は七言絶句体であるが、白居易が新たな曲調を附けたもの。柳を詠い込む唐の都・洛陽の民歌として作っている。やがて、詞牌として数えられる。七言絶句の形式をした例外的な填詞。七言絶句形式や七言四句体をした填詞には他に『採蓮子』『陽関曲』『浪淘沙(二十八字体)』『八拍蠻』『江南春』『阿那曲』『欸乃曲』『水調歌』『清平調』などがある。それぞれ七言絶句体と平仄や押韻が異なる。また、曲調も当然ながら異なりあっている。これら『採蓮子』『陽関曲』『浪淘沙(二十八字体)』『八拍蠻』『江南春』『阿那曲』『欸乃曲』『水調歌』『清平調』の平仄上の差異についてはこちら。七言絶句体で、七言絶句とされないものに『竹枝詞』がある。『楊柳枝』と前出『竹枝詞』との違いを強調してみれば、前者『楊柳枝』は、都・洛陽の民歌となるだけに優雅である。それに対して『竹枝詞』は、表現が直截である。巴渝(現・四川東部)の人情、風土を歌ったもので、鄙びた風情とともに露骨な情愛を謡っていることである。相似点は、どちらも典故や格調を気にせず、近体七言絶句よりも気楽に作られていることである。

唐教坊の曲名。単調と双調がある。花間集には二十四首所収(異名の「柳枝」九首を含む)皇甫松の詩は二首で、単調二十八字四句三平韻で、⑦⑦7⑦の詞形をとる。

楊柳枝二首其一

春入行宮映翠  玄宗侍女舞煙
如今柳向空城綠  玉笛何人更把

  
  

楊柳枝二首其一

(避寒の温泉宮に春が訪れ、池端の柳の緑が茂るが、いまはここに誰もいない、何処からか折楊柳の笛曲が聞えてきて、玄宗当時の数万人とも言われた宮女の情をおもい、更に笛の音が聞えてきて堪えがたいと詠う。)

43. 行宮 皇帝の、行幸時あるいは、政変などの理由で御所を失陥しているなどといった場合、一時的な宮殿として建設あるいは使用された施設の事を言われる。他に行在所(あんざいしょ)、御座所(ござしょ)、頓宮(とんぐう) .その各所に妃嬪は配属されていた。ここでは避寒の温泉宮、避暑地の離宮をいう。

44. 翠微  薄緑色にみえる山のようす。また、遠方に青くかすむ山。 山の中腹。八合目あたりのところ。

45. 玄宗侍女 唐太宗位之初后の時の女は実に三千人,であった。百年後玄宗のときには侍女は八千人になった。『新唐書』「宦者傳」、「開元、宮嬪はおおよそ四万に至る。」と、玄宗の時の宮女の数を示している。杜甫は、「先帝侍女八千人」といい、白居易も「後宮の佳麗三千人」李百薬は「無用の宮人は数万に達する」といっている。女たちは皇帝の妻妾であり、錦衣を着て山海の珍味を食し、ひとたび呼ばわれば百人の下稗が答える、最も高貴にして最も権勢の高い人々であった。しかし、その運命は逆にまた最も不安定であり、いつでも天国から地獄に堕ち、甚だしい場合には「女禍」(皇帝を色香によ惑わせた罪)の罪名を負わされ犠牲の羊にされた。あるいは、皇帝がひとたび崩御すると、后妃たちの財産、生命、地位はたちまち何の保障もなく、天下の母の鏡と尊ばれながら、じつは常に他人に運命を翻弄され、吉凶も保障し難い境遇にあったのである。宮人は、身を九重(天子の宮殿)に置き、はなはだ高貴であるように見えるが、じつはただの皇帝家の家碑に過ぎず、衣食の心配がなくたいへん幸福のように見えるが、じつは人間性を最も残酷に破壊された人々であった。宮廷においては、少数の地位の高い后妃の他は、万単位で数えられる普通の宮人であり、唐代では「官女」「宮城」「宮脾」などとも呼ばれていた。彼女たちは長安にあった三大皇宮(太極宮、大明宮、興慶宮)と東都洛陽にあった大内(天子の宮殿)と上陽の両宮殿、及び各地の離宮、別館、諸親王府、皇帝陵にそれぞれ配属されていた。

玄宗の時代、ひじょう妃嬪がはなはだ多かったので、「妃嬪たちに美しい花を挿すよう競わせ、帝は自ら白蝶を捕えて放ち、蝶のとまった妃嬪のところに赴いた」。また、妃嬪たちは常に「銭を投げて帝の寝所に誰が侍るのかを賭けた」(『開元天宝遺事』巻上、下)。彼女たちの苦痛を想像することができる。

「長門(妃嬪の住む宮殿)閉ざし定まりで生を求めず、頭花を焼却し挙を卸却す。玉窓に病臥す 秋雨の下、遥かに聞く別院にて人を喚ぶ声」(王建「長門」)、「早に雨露の翻って相い誤るを知らば、只ら荊の簪を挿して匹夫に嫁したるに」(劉得仁「長門怨」)、「珊瑚の枕上に千行の涙、是れ君を思うにあらず 是れ君を恨むなり」(李紳「長門怨」)等々と詩人に描写されている。唐代の人は「宮怨」「婕妤怨」「長門怨」「昭陽怨」などの類の詩詞を大量に作っており、その大半は詩人が后妃になぞらえて作ったものであるが、じつに的確に后妃たちの苦悶と幽怨の気持とを表している。これらの作品を貴婦人たちの有りもしない苦しみの表現と見なすべきではない。これらには彼女たちの、宮中での不自然な夫婦生活に対する怨み、民間の普通の夫婦に対する憧れがよく表現されている。女性として彼女たちが抱く怨恨と憧憬は、自然の情に合い理にかなっている。

46. 舞煙絲 香の煙が糸引いて立ち上る様子をいう。

47. 如今 今,今どき,近ごろ如今的年人近ごろの若者.

48. 玉笛 美人であるか、一芸に秀でていることで後宮に召された。この二句は、李白《2420春夜洛城聞笛》(春夜 洛城に笛を聞く) 「誰家玉笛暗飛声、散入春風満洛城。比夜曲中聞折柳、何人不起故園情。(誰が家の玉笛ぞ 暗に聲を飛ばす、散じて春風に入って 洛城に 滿つ。此の夜 曲中 折柳を 聞く、人か起こさざらん 故園の情。)にもとづいている。

李白44 春夜洛城聞笛

 

楊柳枝二首其二

49. (越の国を後にして独り呉の国をその微笑で傾国させたという西施の宮殿跡に春景色は同じように広がっているけれど、この景色が呉の国を滅ぼしたのではなく、美女の微笑におぼれたから傾国したのだということが認識されることだ。)

楊柳枝

漢の鐃歌鼓吹曲で、唐の教坊曲。白居易は古い曲名を借りて新たな曲を作った、そのことを宣言した詞。詩の形式は七言絶句体であるが、白居易が新たな曲調を附けたもの。柳を詠い込む唐の都・洛陽の民歌として作っている。やがて、詞牌として数えられる。七言絶句の形式をした例外的な填詞。七言絶句形式や七言四句体をした填詞には他に『採蓮子』『陽関曲』『浪淘沙(二十八字体)』『八拍蠻』『江南春』『阿那曲』『欸乃曲』『水調歌』『清平調』などがある。それぞれ七言絶句体と平仄や押韻が異なる。また、曲調も当然ながら異なりあっている。これら『採蓮子』『陽関曲』『浪淘沙(二十八字体)』『八拍蠻』『江南春』『阿那曲』『欸乃曲』『水調歌』『清平調』の平仄上の差異についてはこちら。七言絶句体で、七言絶句とされないものに『竹枝詞』がある。『楊柳枝』と前出『竹枝詞』との違いを強調してみれば、前者『楊柳枝』は、都・洛陽の民歌となるだけに優雅である。それに対して『竹枝詞』は、表現が直截である。巴渝(現・四川東部)の人情、風土を歌ったもので、鄙びた風情とともに露骨な情愛を謡っていることである。相似点は、どちらも典故や格調を気にせず、近体七言絶句よりも気楽に作られていることである。

唐教坊の曲名。単調と双調がある。花間集には二十四首所収(異名の「柳枝」九首を含む)皇甫松の詩は二首で、単調二十八字四句三平韻で、⑦⑦7⑦の詞形をとる。

楊柳枝二首其一

春入行宮映翠  玄宗侍女舞煙
如今柳向空城綠  玉笛何人更把

  
  

楊柳枝二首其二

爛熳春歸水國  王宮殿柳絲
黃鶯長叫空閨畔  西子無因更得

  
  

50. 爛熳 ① 花の咲き乱れるさま。 「桜花-」  -と咲く」 「花の-たるも/世路日記 香水」  ありのままに輝き現れるさま。ひかり輝くさま。

51. 水國 水郷。江南の地一帯のこと。 越に比較して呉の交通は運河、湖を結んだ航行によるものが主要で、輸送力が国力につながっていた。

52. 王宮殿 姑蘇台。呉王の夫差が西施のために築き遊宴を開いた台。

中国江蘇省呉県(現、蘇州市)の南西、姑蘇山上にあった離宮。呉王夫差が越を破って得た美人西施らを住まわせた。(胥台しょだい。)・館娃官 呉の宮殿の名。西施の居所。・古臺・館娃宮・木涜 姑蘇台と 館娃宮は木涜にある。これは、春秋時代、呉の王が越から貢がれた木材を使って西施のために霊岩山に「館娃宮」を建てさせ、紫石山に姑蘇台を建てさせた際、工事が非常に大規模になって材木を集めるのに3年かかり、水路が木で埋め尽くされたことから「木涜」という地名で呼ばれるようになったという。蘇州市から西に5キロ、太湖に隣接し、霊岩山のふもとに位置す。池が無数にあることから、堤防強化の植樹の柳の緑が目立ち、七句の「橫淥水」という表現につながる。

53. 西子 西施のこと。西施は、中国の女性。美人として知られ、王昭君・貂蝉・楊貴妃を合わせて中国古代四大美女といわれる。

西施についての詩

西施ものがたり  李白がよく取り上げた題材

李白《西施》

西施越溪女,出自苧蘿山。

秀色掩今古,荷花羞玉顏。

浣紗弄碧水,自與清波閒。

皓齒信難開,沈吟碧雲間。

句踐徵豔,揚蛾入關。

提攜館娃宮,杳渺詎可攀。

一破夫差國,千秋竟不還。

111-1 《西施》李白index- 6 《726年開元十四年26歳》 襄陽・荊州・武昌・漢口・洞庭湖・金陵・揚州と遊ぶ。 <111-1> Ⅰ李白詩1290 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4998

111-2 《西施》李白index- 6 《726年開元十四年26歳》 襄陽・荊州・武昌・漢口・洞庭湖・金陵・揚州と遊ぶ。 <111-2> Ⅰ李白詩1291 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5003

 

東陽溪中贈答二首その(1) 謝霊運(康楽) 詩

謝霊運 會吟行#3 詩集 354

謝霊運<7>  述祖徳詩 二首(1)序 詩集 364

李白「烏棲曲」 
姑蘇台上烏棲時、王宮里醉西施。 
歌楚舞歡未畢、青山猶銜半邊日。 
銀箭金壺漏水多、起看秋月墜江波。 
東方漸高奈樂何。

烏棲曲 李白125花の都長安(翰林院供奉)

 

蘇台覧古

旧苑荒台楊柳新、菱歌清唱不勝春。
只今惟有西江月、曾照呉王宮裏人。
李白8  蘇台覧古

李白 9 越中覧古
越王勾践破呉帰、義士還家尽錦衣。
宮女如花満春殿、只今惟有鷓鴣飛。

李白9  越中覧古

李白10  採蓮曲

淥水曲  李白 11

江上吟  李白特集350 -288

古風五十九首 第十八 李白

浣紗廟

越相謀計策多,浣紗神女已相和。

一雙笑靨才回面,十萬精兵盡倒戈。

範蠡功成身隱遁,伍胥諫死國消磨。

只今諸長江畔,空有青山號苧蘿。

浣紗廟 魚玄機  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-74-10-#  804_6 【浣紗廟】魚玄機  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1912 

 

羅隱 江南行  

江煙濕雨蛟綃軟,漠漠小山眉黛淺。

水國多愁又有情,夜槽壓酒銀船滿。

細絲搖柳凝曉空,呉王臺榭春夢中。

鴛鴦喚鸂鶒不起,平鋪綠水眠東風。

西陵路邊月悄悄,油碧輕車蘇小小。

 

西施(または西子)とは、古代中国の女性である。紀元前5世紀頃の人。

 姓が施、諱が夷光とされる。中国四大美女の一人に上げられることが多い。

浙江省紹興市諸曁県(浙江省紹興市)の人。生まれた苧蘿村には施という姓の家族が多かったが、西側の村に住んでいたため、西施と呼ばれるようになったという。

 

当時、この地方は春秋戦国時代の真っ只中、呉と越の国が争っていた。呉王夫差に敗れた越王勾践は、呉への復讐の過程で、夫差を骨抜きにするため西施や鄭旦などの美女を呉に献上した(謀臣の范蠡の進言を採用したといわれる)。

 夫差はやがて朝政を顧みなくなり西施にのめり込むようになったという。その間に着々と復讐の準備をしていた勾践は呉に対し攻勢に立ち、紀元前473年にこれを滅ぼした。

 

西施のその後については下記の説がある。

越王勾践の夫人や呉の民からその美貌を恐れられ、生きたまま革袋に入れられ長江に沈められた。その後長江ではハマグリがよく獲れるようになり人々は「西施の舌」と呼んだ。

彼女を呉王に送るなど世話した范蠡に付き従って、越を出奔し共に余生を過ごした。

 

伝説

果たしてどこまで西施が呉と越の運命を動かしたかは分からないが、傾国の美女として見られたことが西施を絶世の美女と扱う要因の一つになったと思われる。

 

『荘子』天運編にこんな話がある。西施の生まれた苧蘿村の東側の村にも施を姓とする女性がいて東施と呼ばれていたが、お世辞にも美女ではなくブ…だった。

西施には胸が痛むという持病があり、その発作が起きると、胸元を押さえ眉間に皺をよせるその姿はあまりに美麗だった。東施もこれを真似した所、ただでさえ醜い顔がもっとひどくなり、人々は戸を閉めたり遠くに逃げる有様だった。

これが「顰に倣う」(ひそみにならう;中国語では東施倣顰)の故事の由来となった。

 

54.(王子喬のように玉笛を吹こう、大盃一杯の大酒を酌みかわそう、時を逃すことなく、今宵の歓を尽くすべきことを詠む。)【今の一時が新たな事として掴み取って楽しもう、その一】

王子喬のように玉笛を吹き、鶴に乗って、仙界に雪不老長寿を得た。だから王子喬は年を取ることに気を使わなくても良い人であったが、人の寿命は金石のように不変ではないのだ。いつまでもいきると予測できる命はないのた。軽やかな風と雨が降れば散り去ってしまうのだ。だから、この花が咲き誇っているこのひと時をむだにしてはならない。

唐の教坊の曲名。『花間集』には皇甫松の二首のみ所収。単調二十六字、六句四平韻で、③⑤/5③/7③の詞形をとる。

摘得  枝枝葉葉
管弦兼美酒  最關
平生都得幾十度  展香

  
  
  

55. 巵 四升 〔約7.2リットル〕 入りの大盃。

56. 教 ここでは使役を表す。

仙人と黄色い鶴に関する黄鶴伝説 『列異伝』に出る故事。 子安にたすけられた鶴 (黄鵠が、子安の死後、三年間その墓の上でかれを思って鳴きつづけ、鶴は死んだが子安は蘇って千年の寿命を保ったという。ここでは、鶴が命の恩人である子安を思う心の強さを住持に喩えたもの。

57. 燭 「」は蠟の俗字,蠟燭。

58. 莫来遅 時を逃すな、の意。漢の無名氏『西門行』。「飲醇酒、炙肥牛、請呼心所歡、可用解愁憂。人生不滿百、常懷千歳憂。晝短而夜長、何不秉燭游。」(醇酒【じゅんしゅ】を飲み、肥牛【ひぎゅう】を炙り、請する心に歡ぶ所を呼べば、用って愁憂を解く可けん。人生は百に滿たず、常に千歳の憂いを懷う。晝【ひる】短くして夜長く、何ぞ燭游を秉らざるや。よい酒を飲み、肥えた牛の肉を炙り、自分の心から許せる相手をよびたいのだ、そのうえで初めて心の憂いを解消することが出来るというものなのだ。

人生は百年にも満たないというのに、常に千年後の憂いを心配するおろかなものである。

秋の日は昼は短くして夜は長いのが苦であるなら、明かりを照らし夜を比に継ぎ足して遊ばないのだ。(毎夜毎夜、ともし火を掲げて遊びをつくすべきなのだ。)

59. 繁紅 今が盛りと咲き誇る花。紅はここでは紅梅のこと。

60. 摘得新二首 其二

(今の一時が新たな事として掴み取って楽しもう、その二)

「妓」は歌舞音曲に携わったり、縄・竿・球・馬などを操る女芸人を総称する言葉であって、決して肉体を売る女性だけを指すものではなかった。それで常に「聴妓」(音楽を聴く)とか、「観妓」(歌舞を観る)という言い方があったのである。「妓」は娼妓と女芸人を合せた呼称ということができる。事実、芸人は常に売笑を兼ね、娼妓もまた芸を提供せねばならなかった。両者には時として明確な区別というものがなかったので、合せて「妓」と呼んだのは怪しむに足りない。「娼」となると、唐代には多く娼妓を指した。そして「女優」とか、「女伶」などの類の言葉は当然芸人を指した。しかし、彼女たちの身分・地位・生活などは娼妓と非常に近かったので、両者を合せて「妓優」とか「娼優」とかよぶ呼称が常に存在した。それゆえ彼女たちも一括して論ずることにする。以上は本論に入る前の「正名」(名称と実態を正しく概念規定すること)の作業である。

さて、唐代には「妓」と呼ばれた人は三種類あった。家妓・宮妓・官妓の三種である。いずれも妓と称されたが、三者の身分・生活はそれぞれ異なっていた。家妓は私人が自宅で養い蓄えている女楽、歌舞人であり、私有財産であって、姫妾とか婦女と呼ばれる人と同類であった。

唐の教坊の曲名。『花間集』には皇甫松の二首のみ所収。単調二十六字、六句四平韻で、③⑤/5③/7③の詞形をとる。

其一

酌一  須教玉笛
錦筵紅  莫來
繁紅一夜經風雨  是空

  
  
  

其二

摘得  枝枝葉葉
管弦兼美酒  最關
平生都得幾十度  展香

  
  
  

61. 關人 役所の人間。

62. 茵(しとね)とは座ったり寝たりするときの敷物の古風な呼称。寝るときの敷物は「褥」という文字を使い、ベッドパッドなどのことを指す。本項では寝殿造りなどに見られる座具である。通常、畳の上に敷かれた真綿入りの座具であり、座布団の一種といえる。四方の縁(へり)を錦(にしき)などで囲った正方形の敷物。縁は位階により五位以上は黄絹、六位以下は紺布などとなっていた。

 

 

63.この詞と同じような隠遁者の詩。

不老長寿の人間,いわゆる仙人の実在を信じて,みずからも仙術によって仙人たらんことを願った思想。前4世紀頃から,身体に羽が生えていて空中を自由に飛行できる人が南遠の地や高山に住んでいるとか,現在の渤海湾の沖遠くに浮ぶ蓬莱などの三神山に長生不死の人とその薬があるとかいう説があり,そのような人々が仙と呼ばれた。

漢の無名氏《西門行》

西門行

出西門、歩念之、今日不作樂、當待何時。

夫爲樂、爲樂當及時。

何能坐愁拂鬱、當復待來茲。

飲醇酒、炙肥牛、請呼心所歡、可用解愁憂。

人生不滿百、常懷千歳憂。

晝短而夜長、何不秉燭游。

自非仙人王子喬、計會壽命難與期。

自非仙人王子喬、計會壽命難與期。

人壽非金石、年命安可期。

貪財愛惜費、但爲後世嗤。

西門行 【せいもんきょう】

西門を出で、歩みて之を念う、今日 樂しみを作さずんば、當【まさ】に何れの時をか待つべき。

夫れ樂しみを爲さん、樂しみを爲すには當に時に及ぶべし。

何んぞ能く坐し愁えて鬱を拂いて、當に復た來茲を待んや。

醇酒【じゅんしゅ】を飲み、肥牛【ひぎゅう】を炙り、請する心に歡ぶ所を呼べば、用って愁憂を解く可けん。

人生は百に滿たず、常に千歳の憂いを懷う。

晝【ひる】短くして夜長く、何ぞ燭游を秉らざるや。

仙人王子喬に非らざるより、計會して壽命【じゅみょう】を與に期するを難し。

仙人王子喬に非らざるより、計會して壽命【じゅみょう】を與に期するを難し。

人壽は金石に非らず、年命安くんぞ期す可けん。

財を貪【むさぼ】りて費を愛惜すれば、但 後世の嗤【わらび】と爲るのみ。

 

歓楽街のある西門を出たのであるが、歩きながらおもいかえしてみる、今日、楽しいことはしていない、こんなことではいったいいつ楽しむことができるというのだ。

そもそも悦楽をえようというのなら、楽しむべき時に逃さないようにしないといけないのだ。

どうして座ったままでくよくよし悶々と苦悩したとしてまさに来年まで待たなければいけないなんてことはあるまいに。

よい酒を飲み、肥えた牛の肉を炙り、自分の心から許せる相手をよびたいのだ、そのうえで初めて心の憂いを解消することが出来るというものなのだ。

人生は百年にも満たないというのに、常に千年後の憂いを心配するおろかなものである。

秋の日は昼は短くして夜は長いのが苦であるなら、明かりを照らし夜を比に継ぎ足して遊ばないのだ。(毎夜毎夜、ともし火を掲げて遊びをつくすべきなのだ。)

仙人の王子喬ではないから寿命を数えたところで他人と寿命時期を同じようにすることなど難しいのだ。

王子喬のような仙人ではないから、寿命を数えたところでたかが知れたものということだ。

人の寿命は金石のように不変ではないのだ。いつまでもいきると予測できる命ではないのた。

財貨をむさぼり、出費を惜しむことだけをしたとしても、その結果はただ、後世の笑われ草、嗤となるだけのことである。

 

謝霊運(康楽) 『登臨海嶠發疆中作,與從弟惠連,可見羊何共和之。』 「倘遇浮丘公,長子徽音。」

あるいは、もし、山中で浮丘公のような仙人にあうようなことがあったならは、王子喬がそのまま山にとどまったように永久に君のおたよりを貰えぬことになるだろう。 

・浮斤公 列仙伝に「王子喬は好んで笙を吹く。道人の浮丘公は接して以て嵩山にのぼる」。周の霊王の太子。笙を吹くことを好み、とりわけ鳳凰の鳴き声を出すことが得意だった。王子喬がある時、河南省の伊水と洛水を漫遊した時に、浮丘公という道士に出逢った。王子喬は、その道士について嵩山に登っていった。そこにいること三十余年、浮丘公の指導の下、仙人になった。その後、王子喬は白い鶴に乗って、飛び去った、という『列仙傳』に出てくる故事中の人物。

 

李白  春夜宴桃李園序 

夫天地者,萬物之逆旅;

光陰者,百代之過客。

而浮生若夢,爲歡幾何?

古人秉燭夜遊,良有以也。

況陽春召我以煙景,大塊假我以文章。

會桃李之芳園,序天倫之樂事。

群季俊秀,皆爲惠連。

吾人詠歌,獨慚康樂。

幽賞未已,高談轉清。

開瓊筵以坐華,飛羽觴而醉月。

不有佳作,何伸雅懷?

如詩不成,罰依金谷酒斗數。

春夜 桃李園に 宴する序       

夫(そ)れ 天地は, 萬物の逆旅(げきりょ)にして、光陰は,百代の過客なり。

而(しか)して 浮生は 夢の若し,歡を爲(な)すこと 幾何(いくばく)ぞ?

古人 燭を秉(と)りて夜に遊ぶ,良(まこと)に以(ゆえ)有る也。

況(いは)んや  陽春 我を召くに煙景を以てし,大塊 我に假すに  文章を以てするをや。

桃李の芳園に 會し,天倫の樂事を 序す。

群季の俊秀は,皆 惠連 爲(た)り。

吾人の詠歌は,獨り康樂に 慚(は)づ。

幽賞 未だ已(や)まず,高談  轉(うた)た清し。

瓊筵を 開きて 以て華に坐し,羽觴を飛ばして 月に醉(よ)ふ。

佳作 有らずんば,何ぞ 雅懷を 伸べんや?

如(も)し 詩 成らずんば,罰は金谷の酒斗數に依(よ)らん。

 

 

【王子喬】とは。意味や解説、類語。中国、周代の仙人。霊王の太子といわれる。名は晋。白い鶴にまたがり、笙(しょう)を吹いて雲中を飛んだという。

鶴に乗って昇天したといわれる神仙で、周の霊王(在位前572~前545)の38人の子の一人である太子晋のこと。王喬ともいう。 

 伝説によると、王子喬は若くから才能豊かで、笙(しょう)という楽器を吹いては鳳凰(ほうおう)が鳴くような音を出すことができた。伊川(いせん)、洛水(河南省洛陽南部)あたりを巡り歩いていたとき、道士の浮丘公(ふきゅうこう)に誘われ中岳嵩山(すうざん)に入り、帰らなくなった。

 それから30年以上後、友人の桓良が山上で王子喬を探していると、ふいに本人が現れ、「7月7日に緱氏山(こうしざん)の頂上で待つように家族に伝えてくれ」といった。

 その日、家族がいわれたとおり山に登ると、王子喬が白鶴に乗って山上に舞い降りた。だが、山が険しく家族は近づくことができなかった。と、王子喬は手を上げて家族に挨拶し、数日後白鶴に乗って飛び去ったという。

 そこで、人々は緱氏山の麓や嵩山の山頂に祠を建てて、王子喬を祀ったといわれている。

 

 

古風,五十九首之七 a-#1

客有鶴上仙,飛飛凌太清。

揚言碧雲裡,自道安期名。

兩兩白玉童,雙吹紫鸞笙。

去影忽不見,回風送天聲。

舉首遠望之,飄然若流星。

願餐金光草,壽與天齊傾。

 

(不老長寿の仙人の安期生にいただいた神仙草を食べ、不老長寿となって生命は天とならび帰服したという思いを詠う。)

五種の鶴の背にのった各仙人がそろって、大空を飛びまわって老子を神とする太清境までおりこえて行こうとしている。

東のあおい空に湧き立つように浮かぶ雲の中から名のりをあげて、わたしは安期生と呼ばれているものであると言われる。

左右の両脇にに、白玉のように美しいお顔の童子をお伴にして、ともに紫檀で鸞のかたちの笙を合奏している。

ところが安期生はで傳説の通りたちまち、姿は見えなくなり、向かい風が吹いてくると今度は手紙ではなく、天上の音楽を送ってきた。

安期生さがして首をのばして遠くを望んでみたが、それまで聞こえてきた天上の調が、流れ星が消えていくように聞こえてこなくなった。

わたしの願いは、安期生から神仙草をいただいて食べることであり、共に不老長寿となって生命は天とならび帰服することにあるのである。

 

古風,五十九首の七 a-#1

客に鶴上の仙有り、飛飛として 太清を凌ぐ。

揚言す 碧雲の裏、自ら道う 安期の名。

両両 白玉の童、雙んで吹く 紫鸞の笙。

去影 忽ち見えず、回風 天声を送る。

首を挙げて 遠く之を望めば、諷然として 流星の若し。

願わくは金光 草を餐し、寿 天と斉しく傾かん。

 

 

夢江南

68. (江南で過ごした日、水陸駅では、毎夜送別の宴が開かれ、一夜の思い出をつくったと詠う)

・夢江南:【ぼうこうなん】単調の望江南、望江南、謝秋娘、夢江南、憶江南と同調。「夢」の音は「ぼう」がふさわしい。「む」は慣用音。なお「望江南」は【ばうこうなん】と言う。詞の形式名。花間集二巻第所収。 平韻 一韻到底。韻式は「AAA」。

かつて江南の水陸駅で過ごした日、一夜の思い出を詠う。夢に見たということで、旅の夜の思い出を描く。梅の実の熟す頃の江南、しとしとと雨の降る夜、宿駅の橋、船の中で誰かが吹く笛、遅くまで送別の話し声が聞こえてくる、と。皇甫松の詩は自身の経験の詩ではなく、客観的に見、女と過ごすということは、こういうことだろうと、閨情の様子を想定する。

唐の教坊の曲名。『花間集』には六首あり、皇甫松の作が二首収められている。夢江南二作品中の第一である。単調二十七字、五句三平韻で、37⑦⑤の詞形をとる。

蘭燼落  屏上暗紅
閒夢江南梅熟日  夜船吹笛雨蕭
人語驛邊

  
  

白居易の「憶江南」「江南好,風景舊曾諳。 日出江花紅勝火,春來江水綠如藍。 能不憶江南。」「夢江南」と「憶江南」は同一詞調。(江南好し。風景 旧【もと】より 曽て諳【そら】んず、日出づれば 江花 紅きこと火に勝り。春来れば 江水 緑なること 藍の如し、能く 江南を 憶はざらんや。)江南は素晴らしい。その風景はずっと昔から私の記憶に焼きついている。太陽が昇ると江上の花は火のように真っ赤に見え、春が来れば江の水は藍のように緑色になる。どうして江南を慕わずにいれよう。

 69. 蘭燼:香油の入った立派なロウソクの燃え残り。・蘭:蘭膏。香油。また、植物の蘭と、特に関係はない場合もある。・燼:燃え残り。燃えさし。「燼滅/灰燼・余燼」。李淸照の「獨上蘭舟」の蘭も木蘭の舟の意はあるが、結果としては、美称。

70. 屏上:屏風の。屏風に描かれている。ここは屏風に映る蝋燭の揺らめく炎の照らしをいう。

71. 暗:ロウソクが消えかかっているので、薄暗くなっている。

72. 紅蕉:紅いカンナ。カンナは美人蕉という。

73. 閒夢:のどかな夢。ここの「閒」は「閑」の意(音も)。

74. 江南:中国南部。長江以南。

75. 梅熟日:梅の実が熟す晩春、初夏に。=黄梅季、黄梅天。梅雨どき。

76. 閒夢江南梅熟日:ひそやかな夢は江南の初夏を辿る。白居易の「江南好,風景舊曽諳。日出江花紅勝火,春來江水綠如藍。能不憶江南!」に応えているとも思える。

77. 夜船:作者との関係が不明。作者は韋荘のように、船にいるのか、それとも、夜船でだれかが笛を吹いているのか。韋荘の「菩薩蛮」「人人盡説江南好,遊人只合江南老。春水碧於天,畫船聽雨眠。」も参考になる。

78. 吹笛:笛を吹く。静かな宵、遙か彼方から笛の音が伝わってきた、ということ。音が聞こえるということは、静かだからなので、静かな夜、と解しても好かろう。

79. 蕭蕭:もの寂しいさま。ここでは雨が静かに降る様子をいう。 

80. 人語:人の話し声が聞こえる。少なくとも泣いて、取りすがるという状況ではない。上の読み下しでは「人は語る」と読んではいるが…。 女性の話し声がする、鳥のさえずり、美人の声が聞こえる、という感じの意味である。「人語」の場合、「語」は、日本語で「かたる」という重々しい感じよりも「声が聞こえる」という軽いものの方がふさわしい。

81. 驛邊橋:古代の駅舎。宿舎。この場合、水陸駅の水辺であり、陸路の要衝である橋の側の亭。

 

採蓮子二首 其一

89.(酒宴で、秋の風物詩の採蓮に出た娘を想定して女たちと男との楽しいやり取りを詠う)

唐の教坊の曲名。「教坊記』は采蓮子と記す。お座敷、宴会の席で詠うもので、意味合い的には男同士で飲みながら、下ネタの意味を込めて、娼妓に歌わせ、踊らせるものである。

『花間集』には皇甫松の二首のみ所収。

単調二十八字、四句・平韻で、各句末に二字の囃子詞が付く。この囃子詞を含めると三十六字になり、⑦❷、⑦❷。7❷、⑦❷。の詞形をとる。( )内は囃子詞。

菡萏香蓮十頃  小姑貪戲採蓮
晚來弄水船頭濕  紅裙裹鴨

  
  

皇甫松:皇甫が姓。睦州の人(現・浙江建徳)。皇甫湜の息子。生没年不詳。唐代の人。花間集では「皇甫先輩松」とある。唐代では、進士を先輩と呼ぶので、進士で、出仕しないで終わったのだろう。

 

90. 菡萏:ハスの花。はちす。

91. 香蓮:薫り高いハス。

92. 頃:面積の単位。一頃=百畝で、周代、古代では、1,82ヘクタール。碧波万頃(広い水面)という風に広さの表現となっている。

93. 陂/堤。ここでは、池。

94. 舉棹:第一句と三句の後に来るおはやしのことば。「(舟を漕ぐ)さおをあげて」止まってじっと見るという意味を含む。(下ネタの意味もある)

95. 小姑:女の子。乙女。年若い娼妓。

96. 貪戲:遊びほうけている。じゃれあっている。

97. 採蓮遲:ハスを採るのがなかなか進まない。採蓮したものを岸に集荷するのが遅れる。

98. 年少:第二句と四句の後に来るお囃子のことば。「年が若い(者)」(下ネタの意味もある)

99. 晩來:薄暗くなってきて。

100. 弄水:水遊びをしている。

101. 船頭濕:船の上が濡れる。船頭:へさき。船首のこと。船頭さんのことではない。

102. 更:おまけに。

103. 脱:(衣服を)ぬぐ。

104. 紅裙:紅いスカート(状の着物)。

105. 裹:(くゎ;guo3)つつむ。

106. 鴨兒:アヒル。カモ。児は、名詞などに付く接尾辞。現代語では、可愛い感じを出す場合もあるが、特に意味はない。アヒルの子、ヒヨコという意味は普通ない。

 

採蓮曲    
      
若耶渓傍採蓮女、笑隔荷花共人語。
日照新粧水底明、風飄香袖空中挙。
岸上誰家遊冶郎、三三五五映垂楊。
紫騮嘶入落花去、見此踟蹰空断腸。


若耶渓のあたりで蓮の花摘む女たち
笑いさざめきハスの花を隔てて語り合う
陽照は化粧したての顔を明るく水面に映しだし、
吹いている風は香しい袖を軽やかに舞い上げている
岸辺にはどこの浮かれた若者だろうか
三々五々としだれ柳の葉影に見え隠れ。
栗毛の駒は嘶いて柳絮のなかに消え去ろうと
この女たちを見ては行きつ戻りつむなしく心を揺さぶられる。


(採蓮曲)

若耶【じゃくや】渓の傍り 採蓮の女、笑って荷花【かか】を隔てて人と共に語る。
日は新粧を照らして水底明らかに、風は香袖を飄して空中に挙がる。
岸上  誰が家の遊冶郎【ゆうやろう】ぞ、三三、五五、垂楊に映ず。
紫騮【しりゅう】落花に嘶【いなな】きて入りて去り、此れを見て踟蹰【ちちゅう】して空しく断腸。

 馬とともにおふざけをして垂楊(しだれやなぎ)の葉陰に消えていった若者たちのうしろ姿と、一方、急におしゃべりを止めて「踟蹰」(ためらい)がちに顔を赤らめている乙女たちの姿を、李白は描いている。ハスを採る娘らとその乙女の気を引こうとしている若者=遊冶郎、現在だったらチャラ男のこと?。もう若い者の中に入りきれない客観してみている李白。

 

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1 Comments

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雫  

2017-02-03 18:15

いつも訪問ありがとうございます。
今日は節分、
漢文委員会 紀 頌之紀 頌之さんに、
福の神が舞い降りますように。
ヽ(≧▽≦)/福は内♪

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