花間集 訳注解説 巻二-24 (87)回目皇甫松十一首 《摘得新二首其二》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8084

 巻二-24 (87)回目皇甫松十一首 《摘得新二首其二》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017130

の紀頌之5つの校注Blog

 

 

●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注

 

 

Ⅰ李白詩

(李白集校注)

744年-043卷163_15 春日行(卷三(一)二四九)-#1Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8081

 

 

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744年-集06字解集 侍從宜春苑奉詔賦・送于十八・送白利・送長沙陳太守・送祝八之江東賦Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8039

 

 

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●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首 

 

 

Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注

806年-27 全唐文490-14-#1送許郢州序 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集7671

 

 

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806年-018-#6 全唐文551-11-#6喜侯喜至贈張籍、張徹  【字解集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集7944

 

 

・李商隠詩 (1) 136首の75

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韓愈1 ・孟郊・張籍と汴州乱41

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index-5 806年39歳(2)25

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index-9[815年~816年 49歳57

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index-11 819年『論佛骨表』左遷 38

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韓愈 哲学・儒学「五原」

孟郊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"

 

 

Ⅲ 杜詩

詳注

767年-67#1 槐葉冷淘#1 杜詩詳注(卷一九(四)一六四五)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8083

 

 

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757年-集-2 【字解集】 園・歸・園官送菜・園人送瓜 Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7993

 

 

杜甫詩(1)736~751年  53

杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73

杜甫詩(3)45歳 安史の乱に彷徨う 26

杜甫詩(4)757年、左拾遺 43

杜甫詩(5)758年47歳 左遷 53

杜甫詩(6)759年 三吏三別 44

 

 

杜甫詩(7)759年秦州詩 66

杜甫詩(8)759年同谷紀行、成都紀行36

杜甫詩(9)760年、49歳 成都 45

杜甫詩(10)761年、50歳 成都82

杜甫詩(11)762年蜀中転々43

杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49

 

 

(13)763年蜀中転々 96

 (14)764年 三月成都へ帰る 100

 (15)765年正月幕府を辞す 63

(16-1) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)80

(16-2) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)81

 

 

 

杜甫詩 (17-1)767年夔州・西閣・赤甲・瀼西132

杜甫詩 (17-2) 767年・瀼西・東屯 133

杜甫詩 (18)768年江陵・公安縣・岳州 78

杜甫詩 (19)769年・洞庭湖・潭州・衡州 78

杜甫詩 (20)770年・洞庭湖・潭州・衡州。27

杜甫詩 (21)洩れ分(未詳分)・散文

 

 

 

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●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。

 

 

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91)回目皇甫松十一首 《天仙子/浪濤沙/楊栁枝/摘得新/夢江南/採蓮子 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8108 (02/03)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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.唐五代詞詩・女性

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玉集-06 同聾歌・贈婦詩三首 【字解集】   Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ 8085

 

 

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玉集-06 同聾歌・贈婦詩三首 【字解集】   Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ 8085

 

 

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花間集 訳注解説 巻二-24 (87)回目皇甫松十一首 《摘得新二首其二》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8084

(今の一時が新たな事として掴み取って楽しもう、その二)

今の一時が新たな事として掴み取って楽しもう、枝という枝、葉という葉、春景色になっている。枝も栄えて葉も茂る。今のこの時こそ、楽しもう。笛や琴の音楽が盛んになれば、美味しいお酒が酌み交わされる。役所の人間たちの宴は酣になる。こうした宴には平生から行われていて、今を楽しむことであり、皆新たなことを得るのであるのは、幾十度になるだろうか、そして、その後には、褥にお香の香りが広がっているものだ。

 

 

 

 

 

 

花間集 巻二

 

 

 

 

 

 

皇甫松7《巻2-23 摘得新》

摘得新二首 其一

(王子喬のように玉笛を吹こう、大盃一杯の大酒を酌みかわそう、時を逃すことなく、今宵の歓を尽くすべきことを詠む。)【今の一時が新たな事として掴み取って楽しもう、その一】

酌一巵,須教玉笛吹。

まず、大盃一杯の大酒を酌みかわす、そこには、王子喬のように玉笛を吹き鳴らさせることが必要である。そうすれば、王子喬のように仙界に行って不老長寿を得るかもしれない。

錦筵紅燭,莫來遲。

錦の筵、紅梅のもとに蝋燭ともされたその下で、この時は再びは来ないものだからこの時を逃さず、楽しむことである。

繁紅一夜經風雨,是空枝。

春盛り、桃の花もただの一夜の軽やかな風と雨が降って来れば、空しきただの枝となるではないのか。だから、咲き誇っている時にこそ、たのしまねばならないのである。

(新たにするを得るを摘る【てきとくしん】二首 其の一)

一巵【し】を酌み、須く玉笛を吹かしむべし。

錦筵 紅の蝋燭、来たり遅るること莫かれ。

繁紅 一夜 風雨を経れば、是れ空枝なり。

 

(改訂版)-74-2皇甫松8《巻2-24 摘得新二首其二》
摘得新二首 其二

(今の一時が新たな事として掴み取って楽しもう、その二)

摘得新,枝枝葉葉春。

今の一時が新たな事として掴み取って楽しもう、枝という枝、葉という葉、春景色になっている。枝も栄えて葉も茂る。今のこの時こそ、楽しもう。

管弦兼美酒,最關人。

笛や琴の音楽が盛んになれば、美味しいお酒が酌み交わされる。役所の人間たちの宴は酣になる。

平生都得幾十度,展香茵。

こうした宴には平生から行われていて、今を楽しむことであり、皆新たなことを得るのであるのは、幾十度になるだろうか、そして、その後には、褥にお香の香りが広がっているものだ。

(新たにするを得るを摘る【てきとくしん】二首 其の二)

新たにするを得るを摘る,枝枝 葉葉の春。

管弦 美酒を兼ね,最關の人。

平生 都て得る 幾十度,香りが茵【しとね】に展ず。

 

 

『摘得新二首 其一』 現代語訳と訳註

(本文)

摘得新二首 其二

摘得新,枝枝葉葉春。

管弦兼美酒,最關人。

平生都得幾十度,展香茵。

 

(下し文)

(新たにするを得るを摘る【てきとくしん】二首 其の二)

新たにするを得るを摘る,枝枝 葉葉の春。

管弦 美酒を兼ね,最關の人。

平生 都て得る 幾十度,香りが茵【しとね】に展ず。

 

(現代語訳)

(今の一時が新たな事として掴み取って楽しもう、その二)

今の一時が新たな事として掴み取って楽しもう、枝という枝、葉という葉、春景色になっている。枝も栄えて葉も茂る。今のこの時こそ、楽しもう。

笛や琴の音楽が盛んになれば、美味しいお酒が酌み交わされる。役所の人間たちの宴は酣になる。

こうした宴には平生から行われていて、今を楽しむことであり、皆新たなことを得るのであるのは、幾十度になるだろうか、そして、その後には、褥にお香の香りが広がっているものだ。

 

(訳注)

60. 摘得新二首 其二

(今の一時が新たな事として掴み取って楽しもう、その二)

「妓」は歌舞音曲に携わったり、縄・竿・球・馬などを操る女芸人を総称する言葉であって、決して肉体を売る女性だけを指すものではなかった。それで常に「聴妓」(音楽を聴く)とか、「観妓」(歌舞を観る)という言い方があったのである。「妓」は娼妓と女芸人を合せた呼称ということができる。事実、芸人は常に売笑を兼ね、娼妓もまた芸を提供せねばならなかった。両者には時として明確な区別というものがなかったので、合せて「妓」と呼んだのは怪しむに足りない。「娼」となると、唐代には多く娼妓を指した。そして「女優」とか、「女伶」などの類の言葉は当然芸人を指した。しかし、彼女たちの身分・地位・生活などは娼妓と非常に近かったので、両者を合せて「妓優」とか「娼優」とかよぶ呼称が常に存在した。それゆえ彼女たちも一括して論ずることにする。以上は本論に入る前の「正名」(名称と実態を正しく概念規定すること)の作業である。

さて、唐代には「妓」と呼ばれた人は三種類あった。家妓・宮妓・官妓の三種である。いずれも妓と称されたが、三者の身分・生活はそれぞれ異なっていた。家妓は私人が自宅で養い蓄えている女楽、歌舞人であり、私有財産であって、姫妾とか婦女と呼ばれる人と同類であった。

唐の教坊の曲名。『花間集』には皇甫松の二首のみ所収。単調二十六字、六句四平韻で、③⑤/5③/7③の詞形をとる。

其一

酌一  須教玉笛
錦筵紅  莫來
繁紅一夜經風雨  是空

  
  
  

其二

摘得  枝枝葉葉
管弦兼美酒  最關
平生都得幾十度  展香

  
  
  

 

摘得新,枝枝葉葉春。

今の一時が新たな事として掴み取って楽しもう、枝という枝、葉という葉、春景色になっている。枝も栄えて葉も茂る。今のこの時こそ、楽しもう。

 

管弦兼美酒,最關人。

笛や琴の音楽が盛んになれば、美味しいお酒が酌み交わされる。役所の人間たちの宴は酣になる。

61. 關人 役所の人間。

 

平生都得幾十度,展香茵。

こうした宴には平生から行われていて、今を楽しむことであり、皆新たなことを得るのであるのは、幾十度になるだろうか、そして、その後には、褥にお香の香りが広がっているものだ。

62. 茵(しとね)とは座ったり寝たりするときの敷物の古風な呼称。寝るときの敷物は「褥」という文字を使い、ベッドパッドなどのことを指す。本項では寝殿造りなどに見られる座具である。通常、畳の上に敷かれた真綿入りの座具であり、座布団の一種といえる。四方の縁(へり)を錦(にしき)などで囲った正方形の敷物。縁は位階により五位以上は黄絹、六位以下は紺布などとなっていた。

 

63. 妓優

 玄宗は音楽、歌舞を特に愛好したので、彼の治世には宮妓の人数は大幅に増大し、教坊は隆盛を極めた。また玄宗は宮中に梨園、宜春院などを設け、特に才能のある芸妓を選りすぐり、宮中に入れて養成した。当時、宜春院に選抜された妓女は、「内人」とか、「前頭人」とよばれた。玄宗は常日頃バ勤政楼の前で演芸会を開き、歌舞の楽妓は一度に数百人も出演することがあり、また縄や竹竿を使う、さまざまな女軽業師の演戯もあった。この後は、もうこれほどの盛況はなかったが、しかし教坊は依然として不断に宮妓を選抜して教坊に入れていた。憲宗の時代、教坊は皇帝の勅命だと称して「良家士人の娘及び衣冠(公卿大夫)の家の別邸の妓人を選び」内廷に入れると宜言したので(『H唐書』李絲伝)、人々は大いに恐れおののいた。そこで憲宗は、これは噂であると取り消さざるを得なかった。文宗の時代、教坊は一度に「覚裳羽衣」(開元、天宝時代に盛んに行われた楽曲)の舞いを踊る舞姫三百人を皇帝に献上したことがあった。

 

  * 梨園、宜春院。玄宗は長安の禁苑中に在る梨園に子弟三百人を選んで江南の音曲である法楽を学ばせ、また宮女数百人を宜春北院に置いて梨園の弟子とした。

 

 これら何百何千もの宮妓は、どのような生活をしていたのであろうか。宮妓は宮人と共通するところもあったが、しかし全く同じというわけでもなかったようだ。宮人の中から選抜されて宮妓にされたものの大半は、「宮婢」の身分のままであったが、それ以外の民間から選抜されたものの地位と身分は、一般の宮人に比べてやや高かったようである。各時代の記録はきわめて少ないが、ただ玄宗の時代についてだけは、『教坊記』という書物が彼女たちについて専門に書いている。その

記載によると、選ばれて宜春院に入った「内人」は身分が最も高かった。彼女たちが演舞する時には、雲詔院で訓練中の宮人とは衣服や装飾品に高低の区別があり、「内人」には佩魚(五品以上の貴人が身に着けることを許されていた魚形のバヴジ)が許されていたが、宮人には許されなかった。内人は比較的優遇されており、その家庭は「内人家」とよばれ、みな宮廷の外の外教坊に住み、季節ごとに宮廷から糧米が支給されていた。内人の中で皇帝から最も寵愛を受けていた「十家」と称される内人は邸宅を賜り、日常の賞賜もたいへん多かった。また、内人は家族と常時会うことができ、毎月の二目、十六日、あるいは自分の誕生日などに母親や姉妹が訪ねることができた。敬宗の時、皇帝は自ら内人の家族千二百人を招待し、教坊で宴席を設け、褒美として錦を下賜した(『旧唐書』敬宗紀)。

 

彼女たちの生活も比較的自由で、彼女たちに対する宮中の束縛も、それほど厳格ではなかった。年をとり容色が衰えると、宮中から出て家に帰りたいと申し出ることが許されており、宮人のように必ずしも深宮の中で朽ち果てねばならないというわけではなかった。『教坊記』に記されている竿木妓の芭漢女大娘子、許渾の「蕭煉師に贈る」という詩に出てくる内妓の蕭煉師、また『楽府雑録』に記されている宣徽院(宮中の一役所)の門弟楊氏などは、みな年老いて後、宮中から退出した内人であった。張結の「退宮の人」という詩に、「歌喉漸く退えて宮閲を出でんとし、泣いて伶官(宮中の楽官)に話せば 上 帰るを許す」とある。席融の「退宮妓」という詩に、「一且色衰えて故里に帰るも、月明 猶お夢に梁州(曲名)を按く」とあるが、これらはいずれも内人が年老いて後、宮中から退いたことを述べているのである。宮妓が宮中から出た後の境遇は、おしなぺてそれほど良いというわけでもなかったが、宮人に比べれば概して白由の身であったといえよう。以上によって、唐朝の宮廷は宮妓を芸人と見なして待遇し、宮人のような賤民身分とは区別していたこと、少なくとも玄宗の時代には、宮妓たちの待遇はまだ比較的良かったことが分かる。

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