花間集 訳注解説 巻二-20 (83)回目皇甫松十一首 《浪濤沙二首其二》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8060

 巻二-20 (83)回目皇甫松十一首 《浪濤沙二首其二》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017126

の紀頌之5つの校注Blog

 

 

●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注

 

 

Ⅰ李白詩

(李白集校注)

744年-039-#2卷176_13 送張遙之壽陽幕府 #2(卷十七(二)一○一四)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8057

 

 

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744年-集06字解集 侍從宜春苑奉詔賦・送于十八・送白利・送長沙陳太守・送祝八之江東賦Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8039

 

 

孟浩然

李白詩

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曹植詩65

兩都賦序・西都賦・東都賦

李白全詩

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《楚辞九辯》

 

 

 

 

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●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首 

 

 

Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注

806年-25 全唐詩338-_24- 3感春,四首之三 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8058

 

 

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806年-018-#6 全唐文551-11-#6喜侯喜至贈張籍、張徹  【字解集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集7944

 

 

・李商隠詩 (1) 136首の75

・李商隠詩 (2) 135首の61

韓愈1 ・孟郊・張籍と汴州乱41

index-2[800年~804年]27

index-3 805年陽山から江陵36

index-4 806年 39 江陵・国子博士25

 

 

index-5 806年39歳(2)25

index-6 807~809年 20

index-7[810年~811年 44歳] 34

index-8 [812年~814年47歳]46

index-9[815年~816年 49歳57

index-10[817年~818年 51歳]「平淮西碑」28

 

 

index-11 819年『論佛骨表』左遷 38

index-12 820 國子祭酒18

index-13 821年~822年 22

index-14 57歳・病気のため退職。没す14

韓愈 哲学・儒学「五原」

孟郊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"

 

 

Ⅲ 杜詩

詳注

767年-66 柴門 杜詩詳注(卷一九(四)一六四三)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8059

 

 

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757年-集-2 【字解集】 園・歸・園官送菜・園人送瓜 Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7993

 

 

杜甫詩(1)736~751年  53

杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73

杜甫詩(3)45歳 安史の乱に彷徨う 26

杜甫詩(4)757年、左拾遺 43

杜甫詩(5)758年47歳 左遷 53

杜甫詩(6)759年 三吏三別 44

 

 

杜甫詩(7)759年秦州詩 66

杜甫詩(8)759年同谷紀行、成都紀行36

杜甫詩(9)760年、49歳 成都 45

杜甫詩(10)761年、50歳 成都82

杜甫詩(11)762年蜀中転々43

杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49

 

 

(13)763年蜀中転々 96

 (14)764年 三月成都へ帰る 100

 (15)765年正月幕府を辞す 63

(16-1) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)80

(16-2) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)81

 

 

 

杜甫詩 (17-1)767年夔州・西閣・赤甲・瀼西132

杜甫詩 (17-2) 767年・瀼西・東屯 133

杜甫詩 (18)768年江陵・公安縣・岳州 78

杜甫詩 (19)769年・洞庭湖・潭州・衡州 78

杜甫詩 (20)770年・洞庭湖・潭州・衡州。27

杜甫詩 (21)洩れ分(未詳分)・散文

 

 

 

杜甫詩 全詩 総合案内 

 

 

 

●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。

 

 

Ⅳブログ詩集

漢・唐・宋詞

花間集 訳注解説 巻二-20 (83)回目皇甫松十一首 《浪濤沙二首其二》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8060 (01/26)

 

 

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91)回目皇甫松十一首 《天仙子/浪濤沙/楊栁枝/摘得新/夢江南/採蓮子 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8108 (02/03)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●花間集全詩●森鴎外の小説の”魚玄機”詩、芸妓”薛濤”詩。唐から五代詩詞。花間集。玉臺新詠連載開始

 

 

.唐五代詞詩・女性

・玉臺新詠

玉-033 贈婦詩三首井序其二 -#1 〔秦  嘉〕 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ 8061

 

 

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玉集-06 同聾歌・贈婦詩三首 【字解集】   Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ 8085

 

 

●薛濤の全詩

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●花間集(2

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●花間集(4

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●魚玄機全詩

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花間集 訳注解説 巻二-20 (83)回目皇甫松十一首 《浪濤沙二首其二》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8060

(妃嬪・妓優・歌妓、華やかな女の一生を鵁鶄に比喩して詠う。)

熱帯性の常緑高木のお庭に、なよなよとした踊りに合わせ、南国の異民族の歌がうたわれる、北の国で生まれたものにとって、恋しくて、心配する。そして、雨が集中して降る季節に変わり、杉林を抜ける風が清々しい季節になり、そして、秋になり、採蓮、菱摘みに舟遊びを楽しむ。やがて、そこに波が起こり、鵁鶄は安眠することが出来なって、そのまま寒気の砂浜に残され、心寂しくかろうじて生き延びるだけで、そして、大江の流れの中に入り流れ去ってゆく。華やかだった女も、いつしか同じように何処かへいなくなっていく。

 

 

 

 

 

花間集 巻二

 

 

 

 

 

 

31.  女妓

紅桃

『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。楊貴妃の侍女。楊貴妃に命じられて、紅粟玉の腕輪を謝阿蛮に渡した。後に、玄宗が安史の乱の勃発後、長安に帰還した時、楊貴妃の侍女の一人として会合する。そこで、楊貴妃の作曲した「涼州」を歌い、ともに涙にくれたが、玄宗によって、「涼州」は広められた。

謝阿蛮

『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。新豊出身の妓女。「凌波曲」という舞を得意としていた。その舞踊の技術により、玄宗と楊貴妃から目をかけられ、腕輪を与えられた。後に、玄宗が安史の乱の勃発後、長安に帰還した時、舞踊を披露した後で、その腕輪を玄宗に見せたため、玄宗は涙を落としたと伝えられる。

張雲容

全唐詩の楊貴妃の詩「阿那曲」で詠われる。楊貴妃の侍女。非常に寵愛を受け、華清宮で楊貴妃に命じられ、一人で霓裳羽衣の曲を舞い、金の腕輪を贈られたと伝えられる。また、『伝奇』にも説話が残っている。内容は以下の通りである。張雲容は生前に、高名な道士であった申天師に仙人になる薬を乞い、もらい受け、楊貴妃に頼んで、空気孔を開けた棺桶にいれてもらった。その百年後に生き返り、薛昭という男を夫にすることにより、地仙になったという。

王大娘

『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。教坊に所属していた妓女。玄宗と楊貴妃の前で雑伎として、頭の上に、頂上に木で山を形作ったものをつけた百尺ある竿を立て、幼児にその中を出入りさせ、歌舞を披露する芸を見せた。その場にいた劉晏がこれを詩にして詠い、褒美をもらっている。

許和子(永新)

『楽府雑録』『開元天宝遺事』に見える。吉州永新県の楽家の生まれの女性で本名を許和子と言った。開元の末年ごろに後宮に入り、教坊の宜春院に属した。その本籍によって、永新と呼ばれた。美貌と聡い性質を持ち、歌に長じ、作曲を行い、韓娥李延年の千年来の再来と称せられた。玄宗から寵愛を受け、演奏中もその歌声は枯れることがなく、玄宗から「その歌声は千金の価値がある」と評せられる。玄宗が勤政楼から顔を出した時、群衆が騒ぎだしたので、高力士の推薦で永新に歌わせたところ、皆、静まりかえったという説話が伝わっている。
安史の乱の時に、後宮のものもバラバラとなり、一士人の得るところとなった。宮中で金吾将軍であった韋青もまた、歌を善くしていたが、彼が広陵の地に乱を避け、月夜に河の上の欄干によりかかっていたところ、船の中からする歌声を聞き、永新の歌と気づいた韋青が船に入っていき、永新と再会し、涙を流しあったという説話が残っている。その士人が死去した後、母親と長安に戻り、民間の中で死去する。最期に母親に、「お母さんの金の成る木は倒れました」と語ったと伝えられる。清代の戯曲『長生殿』にも、楊貴妃に仕える侍女として登場する。

念奴

『開元天宝遺事』に見える。容貌に優れ、歌唱に長け、官妓の中でも、玄宗の寵愛を得ていた。玄宗の近くを離れたことがなく、いつも周りの人々を見つめていて、玄宗に「この女は妖麗で、眼で人を魅了する」と評された。その歌声は、あらゆる楽器の音よりもよく響き渡ったと伝えられる。唐代詩人の元稹の「連昌宮詞」に、玄宗時代の盛時をあらわす表現として、玄宗に命じられた高力士が、彼女を呼び、その歌声を披露する場面がある。清代の戯曲『長生殿』にも、永新とともに、楊貴妃に仕える侍女として登場する。

 

 

皇甫松3《巻2-19 浪濤沙二首其一》

浪濤沙二首其一

(今は穏やかな漁村の景色が広がり、波が砂を洗う水際の近くに、むかし瀟湘の二妃のように身を投げた女がいた、去年のことだった、別れた人を思って長江の景色を詠う)

灘頭細草接疎林,浪惡罾舡半欲沉。

緩やかな流れから、早瀬が始まる河辺りには、か細い葉の草がはえ、疎らな雑木林に続いている。風が強く波が立って、漁船が四隅を竹竿で張った沙網を仕掛け、網は半ば沈みかけようとしている。

宿鷺眠鷗飛舊浦,去年沙觜是江心。

水際の白鷺が棲みついていかもめは砂地で眠っているところ、昔、水の神が棲んでいた住まいのあたりだろう、入り江の港の方に飛んでいく。去年のことだった、その砂浜で觜宿の星を見て投身した神女は帰ってこない、瀟湘の二妃とおなじような大江の別れの心というものか、もう二度と逢うことはない。

(浪濤沙 二首其の一)

灘の頭 細草 疎林に接し,浪惡く 罾舡 半ば沉まんと欲す。

宿鷺 眠鷗 舊浦に飛び,去年 沙觜 是れ江の心なり。

 

(改訂版)-70-2皇甫松4《巻2-20 浪濤沙二首其二》

浪濤沙二首其二

(妃嬪・妓優・歌妓、華やかな女の一生を鵁鶄に比喩して詠う。)

蠻歌豆北人愁,蒲雨杉風野艇秋。

熱帯性の常緑高木のお庭に、なよなよとした踊りに合わせ、南国の異民族の歌がうたわれる、北の国で生まれたものにとって、恋しくて、心配する。そして、雨が集中して降る季節に変わり、杉林を抜ける風が清々しい季節になり、そして、秋になり、採蓮、菱摘みに舟遊びを楽しむ。

浪起鵁鶄眠不得,寒沙細細入江流。

やがて、そこに波が起こり、鵁鶄は安眠することが出来なって、そのまま寒気の砂浜に残され、心寂しくかろうじて生き延びるだけで、そして、大江の流れの中に入り流れ去ってゆく。華やかだった女も、いつしか同じように何処かへいなくなっていく。

(浪濤沙二首其の二)

蠻歌 豆 北人の愁,蒲雨 杉風 野艇の秋。

浪起き 鵁鶄 眠りは得られず,寒沙 細細にして 江に入りて流る。


 

皇甫松3《巻2-19 浪濤沙二首其一》

『浪濤沙二首其一』 現代語訳と訳註

(本文)

浪濤沙二首其二

蠻歌豆北人愁,蒲雨杉風野艇秋。

浪起鵁鶄眠不得,寒沙細細入江流。

 

蠻歌豆北人愁,松雨蒲風野艇秋。

浪起眠不得,寒沙細細入江流。

 

(下し文)

(浪濤沙二首其の二)

蠻歌 豆 北人の愁,蒲雨 杉風 野艇の秋。

浪起き 鵁鶄 眠りは得られず,寒沙 細細にして 江に入りて流る。 


 

(現代語訳)

(妃嬪・妓優・歌妓、華やかな女の一生を鵁鶄に比喩して詠う。)

熱帯性の常緑高木のお庭に、なよなよとした踊りに合わせ、南国の異民族の歌がうたわれる、北の国で生まれたものにとって、恋しくて、心配する。そして、雨が集中して降る季節に変わり、杉林を抜ける風が清々しい季節になり、そして、秋になり、採蓮、菱摘みに舟遊びを楽しむ。

やがて、そこに波が起こり、鵁鶄は安眠することが出来なって、そのまま寒気の砂浜に残され、心寂しくかろうじて生き延びるだけで、そして、大江の流れの中に入り流れ去ってゆく。華やかだった女も、いつしか同じように何処かへいなくなっていく。

 

(訳注)

浪濤沙二首其二

32.(妃嬪・妓優・歌妓、華やかな女の一生を鵁鶄に比喩して詠う。)

花間集には浪淘沙は皇甫松の二首が所収されている。雑曲歌辞、七言絶句形式、二十八字四句三平韻⑦⑦7⑦の詞形をとる。

蠻歌豆北人  蒲雨杉風野艇
浪起鵁鶄眠不得  寒沙細細入江

  
  

皇甫松(生卒年不詳・父皇甫湜が約777~約830とされているので約800~約850と考える。親子とも、隠遁者の為形跡を遺していない)、復姓で皇甫が姓、松が名。一名、嵩とも言う。字を子奇と言い、自ら檀欒子と号した。睦安(今の浙江省淳安)の人。韓愈門下、工部侍郎、皇甫湜の子、宰相牛僧孺の外甥で、晩唐の詞人。『酔郷日月』 『人隠賦』などの著書のあったことが知られており、これらの書名からすると、隠逸的傾向の強かった人物であったことが分かる。花間集では「皇甫先輩松」とある。唐代では、進士を先輩と呼ぶので、進士で、出仕しないで終わったのだろう。『花間集』 には十二首の詞が収められている。

《雑曲歌辞》 宮廷では、数百里の遠方からも、歌の好きな人々、踊りの腕を競わせる「歌競」「舞競」を常時開いた。

浪濤沙 雑曲歌辞であるところの浪濤沙【浪淘沙ろうとうさ】。波が砂をよなげる。この作は、黄河や長江の流れを詠じている。『楚辭』の九歌に擬しているといわれる。九歌は一種の祭祀歌であると考えられる。湖南省あたりを中心にして、神につかえる心情を歌ったものとするのが、有力な説である。九歌と総称されるが、歌の数は十一ある。作者は屈原とされるが、異説もある。王逸は、屈原が懐王に追われて、瀟湘地域に旅した際、土着の祭祀歌があまりに野卑だったので、優美なものに改作して与えたのだとする。同時に、その神に対する心情のうちに、自分の王に対する忠誠を寓意として歌いこんだともいう。

雑曲歌辞:楽府詩の一つ。内容は雑然としており、志を描写するものや感情を発露するものであり、宴遊や歓楽、うらみや別離の情、行役や征戍の苦労を詠ったものがある。・浪濤沙:なみが砂を洗う。詞牌・『浪濤沙(浪淘沙)』となる。 ・濤淘:よなげる。米を水に入れて、ゆりとぐ。物を水に入れて、揺らし動かして洗う。

 

蠻歌 豆 北人愁,蒲雨杉風野艇秋。

熱帯性の常緑高木のお庭に、なよなよとした踊りに合わせ、南国の異民族の歌がうたわれる、北の国で生まれたものにとって、恋しくて、心配する。そして、雨が集中して降る季節に変わり、杉林を抜ける風が清々しい季節になり、そして、秋になり、採蓮、菱摘みに舟遊びを楽しむ。

33. 蠻歌 珍しい江南か南国のうたがうたわれる宴席を開いていることをさす。

34. 豆 ・荳 草の名、にくづく。花が葉間に生ずる。その形から、南方では少しく開いた花を含胎花といい、歳が若くして妊娠することをいう。ニクズク属は、ニクズク科の1属。学名Myristica。ミリスティカ属とも。属名はギリシャ語で香油を意味するミュリスティコス から。 熱帯性の常緑高木。東南アジア、オーストラリアに自生。 種子から、スパイスのナツメグ とメース 、生薬の肉荳蔲が作られる。

35. 蒲雨 集中豪雨。スコール。

36. 野艇 採蓮や、菱摘みを見る遊び。

 

浪起鵁鶄眠不得,寒沙細細入江流。

やがて、そこに波が起こり、鵁鶄は安眠することが出来なって、そのまま寒気の砂浜に残され、心寂しくかろうじて生き延びるだけで、そして、大江の流れの中に入り流れ去ってゆく。華やかだった女も、いつしか同じように何処かへいなくなっていく。

37. 鵁鶄 ごいさぎ.(1)、一名{-+}。鳬に似て脚高く毛冠あり(2)。高木に巣くい、子を穴中に生む。子其の母の翅を銜へ飛びて上下す(3)。淮賦の所謂、「鸕{+}は雛を八九に吐く、鵁鶄は翼を銜へ低昂する」者なり。

38. 細細 非常に細いさま。また、細く弱々しいさま。「―とした声」かろうじて続いているさま。また、やっとのことで維持するさま。

39.音楽と歌舞

古来から儀礼として重視されていた音楽と舞踊であったが、外来音楽と楽器の流入により、相当な発展をとげた。唐代には娯楽性も向上し、楽器の種類も大幅に増加した。合奏も行われ、宮廷では大規模な楽団による演奏が度々行われた。

初唐では九寺の一つである太常寺が舞楽を司る中心となり、宮廷舞楽のうちの雅楽を取り扱った。714年に「梨園」が設置され、300人の楽工が梨園弟子になり、後に宮女も加えられた。教坊は内教坊か初唐から置かれていた。この上、玄宗期に雅楽と区分された俗楽や胡楽、散楽を扱うことを目的とした左右教坊が増設された。胡楽は西域を中心とした外来音楽で、唐代の宮廷舞楽の中心であった十部楽のうちの大半を占めた。

 

宮廷音楽で歌われる歌の歌詞は唐詩が採用された。民間にも唐詩を歌詞にし、音楽にあわせて歌うものが現れ、晩唐には音楽にあわせるために書かれた詞を作られた。また、「闘歌」という歌の上手を競わせる遊びも存在していた。

舞踊は宮廷や貴族の酒宴ばかりでなく、民間の酒場や行事でも頻繁に行われた。外国から様々な舞踊が伝えられ、その種類も大きく増加した。様々な階層のものが舞踊を好み、楊貴妃や安禄山は胡旋舞の名手であったと伝えられる。

舞踊は、ゆったりした動きの踊りを「軟舞」、テンポが速い激しい踊りを「健舞」と分けられた。「胡旋舞」や「胡騰舞」は健舞に含まれた。伝統舞踊に外国からの舞踏が加わっていき発展していった。

唐代の宮廷では、楽団の演奏にあわせて大勢が舞踊を行うことで多かった。また、「字舞」と呼ばれる音楽とともに踊り、身体を翻す瞬間に衣の色を換え、その後に地に伏して全員で字の形を描くという集団舞踏も存在し、多い時は百人単位で行われた。

唐代の皇帝の中でも、玄宗が特に音楽がすぐれており、外国の音楽を取り入れた「霓裳羽衣の曲」を作曲したとされる。この曲とともに、楊貴妃が得意とした「霓裳羽衣の舞」が行われ、宮人が数百人で舞うこともあった。

安史の乱以後は、戦乱や、梨園の廃止、教坊の縮小とともに、楽工や妓女は地方に流れ、音楽や舞踊の普及は進んでいくことになった

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