79)回目温庭筠 《河傳三首/蕃女怨二首/荷葉盃三首 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8036

 温庭筠 《河傳三首/蕃女怨二首/荷葉盃三首 【字解集】》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017122

の紀頌之5つの校注Blog

 

 

●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注

 

 

Ⅰ李白詩

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744年-037卷176_24 送祝八之江東賦得浣紗石(卷十七(二)一○二九)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8033

 

 

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744年-集05【字解集】 a初出金門・b東武吟・c來日大難・d古風三十八Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集7979

 

 

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●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首 

 

 

Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注

806年-22 全唐詩338-_23 #3杏花 -#3 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8034

 

 

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806年-018-#6 全唐文551-11-#6喜侯喜至贈張籍、張徹  【字解集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集7944

 

 

・李商隠詩 (1) 136首の75

・李商隠詩 (2) 135首の61

韓愈1 ・孟郊・張籍と汴州乱41

index-2[800年~804年]27

index-3 805年陽山から江陵36

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index-5 806年39歳(2)25

index-6 807~809年 20

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index-9[815年~816年 49歳57

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index-11 819年『論佛骨表』左遷 38

index-12 820 國子祭酒18

index-13 821年~822年 22

index-14 57歳・病気のため退職。没す14

韓愈 哲学・儒学「五原」

孟郊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"

 

 

Ⅲ 杜詩

詳注

767年-65#7 課伐木并序 杜詩詳注(卷一九(四)一六三九)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8035

 

 

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757年-集-2 【字解集】 園・歸・園官送菜・園人送瓜 Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7993

 

 

杜甫詩(1)736~751年  53

杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73

杜甫詩(3)45歳 安史の乱に彷徨う 26

杜甫詩(4)757年、左拾遺 43

杜甫詩(5)758年47歳 左遷 53

杜甫詩(6)759年 三吏三別 44

 

 

杜甫詩(7)759年秦州詩 66

杜甫詩(8)759年同谷紀行、成都紀行36

杜甫詩(9)760年、49歳 成都 45

杜甫詩(10)761年、50歳 成都82

杜甫詩(11)762年蜀中転々43

杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49

 

 

(13)763年蜀中転々 96

 (14)764年 三月成都へ帰る 100

 (15)765年正月幕府を辞す 63

(16-1) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)80

(16-2) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)81

 

 

 

杜甫詩 (17-1)767年夔州・西閣・赤甲・瀼西132

杜甫詩 (17-2) 767年・瀼西・東屯 133

杜甫詩 (18)768年江陵・公安縣・岳州 78

杜甫詩 (19)769年・洞庭湖・潭州・衡州 78

杜甫詩 (20)770年・洞庭湖・潭州・衡州。27

杜甫詩 (21)洩れ分(未詳分)・散文

 

 

 

杜甫詩 全詩 総合案内 

 

 

 

●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。

 

 

Ⅳブログ詩集

漢・唐・宋詞

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70)回目温庭筠 《清平樂/遐方怨/訴衷情/思帝/夢江南 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7982 (01/13)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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.唐五代詞詩・女性

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玉-031 同聾歌一首 -#3 〔張 衡〕 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ 8037

 

 

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玉集-04 歌詩一首井序・留別妻一首・羽林郎詩一首【字解集】〈〉 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ 7977

 

 

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79)回目温庭筠 《河傳三首/蕃女怨二首/荷葉盃三首 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8036

 

 

 

溫庭筠59《巻2-09 河傳三首其一》

河傳三首其一

1.(大江のほとりの娼屋館の若いおんなが採蓮に向かう、ここに遊びに来た貴公子たちが声をかける、遊んだあとはそれぞれ女を棄てて帰っていくと詠う)

河傳
・双調五十五字、前段七句同氏韻五平韻、後段七句三穴韻四平韻(詞譜十一)。『花間集』中、最も異形式の多い曲の一つ。『花間集』には十八首所収。温庭筠の作は三首収められている。双調五十五字、前段二十七字七句二仄韻五平韻、後段二十八字七句三仄韻四平韻で、❷❷③⑥⑦②⑤/❼❸❺③③②⑤の詞形をとる。

  
曉妝  仙景箇女採
請君莫向那岸  年 好花新滿舡【セン】

紅袖搖曳逐風 垂玉  腸向柳絲
浦南  浦北歸   晚來人已

  
  
  
 

   
  
   

 

江畔,相喚。

大江の淵の岸辺のあたりで、大きな声で呼んでいる。

2. 李白《越女詞,五首之三【《越中書》所見也。】》

耶溪採蓮女,見客棹歌迴。

笑入荷花去,佯羞不出來。

(越女の詞,五首の三【《越中書》見る所なり。】)

耶渓 採蓮の女、客を見て 棹歌して迴る。

笑って荷花に入って去り、佯【いつわ】り羞【はじ】て 出で来らず。

李白《越女詞,五首之四》

東陽素足女,會稽素舸郎。

相看月未墮,白地斷肝腸。

(越女の詞,五首の四)

東陽 素足の女,会稽 素舸の郎。

相看て 月 末だ墜ちず,白地に 肝腸を断つ。

越女詞,五首之五

鏡湖水如月,耶溪女似雪。

新妝蕩新波,光景兩奇

 (越女の詞,五首の五)

鏡湖 水 如月のごとく,耶溪 女 雪のごとし。

新妝 新波に蕩ゆらめき,光景 兩つながら奇絶。

3. 曉妝 夜の化粧を落として化粧を直すこと。閨で過ごした夜化粧を落として、朝化粧をし直す。

『浣溪沙』 

淸曉妝成寒食天,柳球斜嫋間花鈿,捲簾直出畫堂前。 

指點牡丹初綻朶,日高猶自凭朱欄,含顰不語恨春殘。

(浣溪沙)

淸曉妝成す 寒食の天に,柳球斜めに 嫋【じょう】として  花鈿を 間す,

簾を捲き 直ちに出づ  畫堂の 前。

 點【さ】す牡丹の初めて綻【ほころ】べる朶【えだ】を,

 高くして 猶ほも自ら  朱欄に 凭【よ】り,

顰【ひん】を含むも 語らず  春殘を恨むを。

4. 女採蓮 〔蓮子〕蓮の実。蓮の果実は食用になるため、この詩の女性たちもこれを採集しに来ているのである。

蓮はその場所によって名称が異なり、『爾雅』釈草に、「荷、英渠、其茎茄、二葉蓬、其本密、其華函萏、其実蓮、其上藕、其中的、的中薏」(「荷、芙渠、其の茎は茄、其の葉は遐、其の本は菰、其の華は函萏、其の実は蓮、其の根は藕、其の中は的、的の中は薏)と説明がある。

南朝の民歌「子夜歌」「子夜四時歌」のなかに「憐子」(あなたを愛する)

5.「男耕女織」、これは中国古代の標準的な農家の生活をあらわすものである。唐代の農民は官府に租税を納める外に、なお調として絹、綾、布、綿などを納めねばならず、これらの任務はみな女性たちが担わされていた。少数の豪紳地主の家の女性を除いて、大多数の農家の女性は、その生涯のすべてを養蚕や紡織の仕事に投じた。社会全体の「衣と食」という二つの大仕事は、彼女たちがその半分を担ったのであるが、それと同時に彼女たちは精美な織物を大量に作って古代文明に貢献したのである。

孟郊《織婦辞》「夫是田中郎,妾是田中女。當年嫁得君,爲君秉機杼。 筋力日已疲,不息窻下機。如何織紈素,自著藍縷衣。 官家牓村路,更索栽桑樹。」(夫は田中の郎、妾は田中の女。当年君に嫁し得て、君の為に機杼を秉る。筋力は日に巳に疲るるも、窓下の機を息めず。如何せん紈素を織るに、自らは襤褸の衣を著くるを)。

これが一般の農家の女性たちの労働と生活の状況であった。

 

春が来るとすぐに彼女たちは明ければ桑の葉を摘み、蚕を飼うことに暮れるまでするようになる。

来鵠《蚕婦》「曉夕采桑多苦辛,好花時節不閒身。」(暁夕桑を採んで苦辛多く、好花の時節も不閑身。)

張籍 《江村行》「桑林椹黑蠶再眠,婦姑采桑不向田。」(桑林植黒く蚕は再び眠り、婦姑は桑を採んで田に向かわず)。

彼女たちは天の神様に御加護を祈る、どうか繭がたくさん取れますようにと。

王建 蔟蚕辞「但だ青天を得て雨下らず、上に蒼蝿無く下に鼠無からんことを。新婦は蔟を拝して繭の稠がるを願い…。三日箔を開けば雪く団団、先ず新たな繭を将で県官に送る。已に聞く郷里にては織作を催すと、去きて誰人の身上に著けられん。

蠶欲老,箔頭作繭絲皓皓。

場寬地高風日多,不向中庭蒿草。神蠶急作莫悠揚,年來爲爾祭神桑。

但得青天不下雨,上無蒼蠅下無鼠。新婦拜簇願繭稠,女灑桃漿男打鼓。

三日開箔雪團團,先將新繭送縣官。已聞里催織作,去與誰人身上著。

 

こうした労働と生活の風景は、南方の女性たちがあたかも牧歌的な田園生活を送っていたかのように思わせるが、実際は彼女たちの生活も詩人が描くような詩情に富むものでは決してなかった。彼女たちにも、北方の姉妹たちと同じょうに様々な苦痛と困難があった。ただ江南はわりに豊かであり、またこれまで戦乱も一貫して比較的少なかったので、彼女たちが受ける災難はやや少なかっただけのことである。それよりも重要なことは、詩人たちが江南の明るく美しい景色に陶酔して、女性の労働をロマンチックに飾り立てて詠んだので、彼女たちの苦労があまり反映されずに終ったことである。

 

6. 採蓮について、梁の武帝が、南朝の民歌である「西曲」を改めて作った「江南弄」の七曲のうちの一つであり、その後梁の簡文帝、元帝、劉孝威、朱超、母君攻、呉均、陳の後引、階の盧思、、般英里、唐代では崔国輔、彦伯、李白、賀知章、王昌齢、戎呈、儲光義、墨壷、白居易、斉己が同題で詠じている他、王勃「採蓮帰」、閻朝隠「採蓮女」、李白「湖辺採蓮婦」、溫庭筠「張静婉採蓮曲」がいずれも『楽府詩集』の同じ巻に採録されている。

内容は、蓮の花や蓮採りの女性の美しさ、また男性に対する恋情を詠うものを特徴としている。若い女、素足、水にかかわる女たちは、好奇な目で詩人たちは捉えた。

「採蓮」は文字通り蓮を摘み採る。蓮の花を摘んだり、蓮の実を摘んだりする意味で用いられるが、張籍のこの詩では蓮の実を摘むこと。用例は古くからあり、梁の武帝が「採蓮曲」を作る際に基づいたとされる前漢の古楽府「江南」(『宋書』楽志三)に、「江南可採蓮、蓮葉何田田」(江南 蓮を採るべし、蓮葉 何ぞ田田たる)と見える。

杜甫には用例がない。張籍に詩中で使われる例がもう一例、「烏棲曲」に、「呉姫採蓮自唱曲、君王昨夜船中宿」(呉姫 蓮を採りて 自ら曲を唱い、君王 昨夜 船中に宿る)とある。

 

の譜音双関語として多く見える。

7. 少年 ・少年:遊侠の若者。年若い者。貴公子。いかに示すのは城下において我が物顔で遊び回るが、この詩では舟で花街に遊びに来た貴公子たちをいう。唐詩で「少年」といえば、王維 少年行
新豐美酒斗十千,咸陽遊侠多少年。
相逢意氣爲君飮,繋馬高樓垂柳邊。 
李白 17少年行
少年行      
五陵年少金市東、銀鞍白馬度春風。
落花踏尽遊何処、笑入胡姫酒肆中。
杜甫 少年行

馬上誰家白面郎、臨階下馬坐人牀。
不通姓氏麤豪甚、指點銀瓶索酒嘗。
 
王昌齢『少年行』
走馬遠相尋,西樓下夕陰。結交期一劍,留意贈千金。

高閣歌聲遠,重門柳色深。夜闌須盡飲,莫負百年心。
いなせな若者や壮士を詠う。

8. 垂玉腕 船縁から素手を垂らして蓮を摘む

9. 柳絲 女の細腰。

 

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10.河傳三首其二

『花間集』中、最も異形式の多い曲の一つ。『花間集』には十八首所収。温庭筠の作は三首収められている。双調五十五字、前段二十七字七句二仄韻五平韻、後段二十八字七句三仄韻四平韻で、❷❷③⑥⑦②⑤/❼❸❺③③②⑤の詞形をとる。

河傳三首其一

  
曉妝  仙景箇女採
請君莫向那岸  年 好花新滿舡【セン】

紅袖搖曳逐風 垂玉  腸向柳絲
浦南  浦北歸   晚來人已

  
  
  
 

   
  
   

河傳三首其二

  
雨蕭蕭 煙浦花橋路
謝娘翠蛾愁不消 朝 夢魂迷晚

蕩子天涯歸棹 春已晚 語空腸
若耶溪 溪水西 堤 不聞郎馬

 
 
  

  ●
   

 

12. 湖上 中盤に謝娘が出ることから、太湖あたりかもしれない。すると湖畔の樓閣であろう。

13. 湖、樓閣、浦、花、橋、道、すべてあの人との思い出の場所である。嘗てはあの人に携えられて遊んだところなのだ。

14. 煙浦 雨靄のかかった入り江。

15. 花橋 湖畔のの道の両側に花が咲き、その花いっぱいの途中に野橋がつづき、路が続く。

16. 謝娘 美女や妓女、あるいは愛妾(の棲む家)。唐の李徳祐が豪邸を築いて謝秋娘を池のほとりの楼閣に住まわせたことによる。比喩する相手が特定される場合は、晋の謝安であったり、謝靈運、謝朓を示す場合もある。というのは晋の謝安が東山の彼を愛した故事から出たもの。過去女もそういう時期もあった。李白『送侄良攜二妓赴會稽戲有此贈』「攜妓東山去。 春光半道催。遙看若桃李。 雙入鏡中開。」
『更漏子 一』温庭筠  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-15-2-#1 花間集 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1676

17. 翠蛾 翠の蛾眉。
18.
 終朝 宵の化粧(翠蛾)をして待っていても終に朝になってしまう。
19.
 夢魂 夜は夢の中で迷い、昼は魂が雨靄に迷い、夕暮れは潮の波に迷うということ。

20. 蕩子 放蕩の男子。いわゆる貴公子という場合もある。久しく他方に行ったまま、遊びつづけて帰ってこない人。古詩十九首 第ニ首「青青河畔艸、欝欝園中柳。盈盈楼上女、皎皎当窓牅。娥娥紅紛粧、繊繊出素手。昔為倡家女、今為蕩子婦。蕩子行不帰、空牀難独守。」とある。
古詩十九首之二 (2) 漢詩<89>Ⅱ李白に影響を与えた詩521 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1380

21. 若耶渓 今新江省紹興県南にある。西施が紗を浣ったところ。ここは素女を西施にたとえていう。西施ものがたり 参照
『採蓮曲』
若耶渓傍採蓮女、笑隔荷花共人語。
日照新粧水底明、風飄香袖空中挙。
岸上誰家遊冶郎、三三五五映垂楊。
紫騮嘶入落花去、見此踟蹰空断腸

李白10  採蓮曲

李白『越女詞 五首 其三』 
耶溪採蓮女,見客棹歌囘。
笑入荷花去,佯羞不出來。

119 《越女詞,五首之三》李白index- 6 726年開元十四年26歳》 <119> Ⅰ李白詩1299 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5043

22. 温庭筠の同名の詞は以下の通り内容は連詞のようであるが、注釈は省略する。
●《巻2-09 河傳三首其一》
江畔,相喚。曉妝鮮,仙景個女采蓮。
請君莫嚮那岸邊。少年,好花新滿船。
紅袖搖曳逐風暖(一作軟),垂玉腕,腸嚮柳絲斷。
浦南歸,浦北歸。莫知,晚來人已稀。

(河傳三首 其の一)

江畔,相いに喚【よびあ】う。

曉妝の仙,仙景 箇女 蓮を採る。

君に請う 向う莫れ 那の岸邊,少年,花を好み 新たに舡滿つ。

紅袖 搖れ曳き 風暖を逐う,玉腕を垂れ,腸は向えど 柳絲斷つ。

浦南 歸りて,浦北 歸り,知る莫れ,晚來りて 人に稀れなり。

(大江のほとりの娼屋館の若いおんなが採蓮に向かう、ここに遊びに来た貴公子たちが声をかける、遊んだあとはそれぞれ女を棄てて帰っていくと詠う)

大江の淵の岸辺のあたりで、大きな声で呼んでいる。

朝化粧をきれいにした仙女たちがいる、いまにも霓裳羽衣の曲を舞おうかという光景のなかに、たった一人の女が蓮を摘み取っている。

清らかなあなたにお願いしたいのは向うの方に行ってはダメだということ、そう、あそこの岸辺のことだ。遊侠の貴公子たちがたむろしているのだ。美しく佳い花の美人ばかりを新たに選んで、舟遊びの船をいっぱいにしようとしている。

女たちの紅い袖がそちらから吹いてくる暖かい風に揺れている、袖をたくし上げて輝くような白い素肌を見せ、船縁から垂らして蓮を摘む。貴公子に恋いの思いを向けても、柳の梢を断ち切るように翌朝にすぐわかれる。

船着き場から南に帰っていくもの、北に帰るものがいたとしてもそれ以上を知ろうとするものではない。やがて夕刻になるまでに若者も、やがてだれもいなくなる。

●《巻2-10 河傳三首其二》

湖上,閑望。
雨蕭蕭,煙浦花橋路遙。
謝娘翠蛾愁不消,終朝,夢魂迷晚潮。
蕩子天涯歸棹遠,春已晚,
語空腸斷。
若耶溪,溪水西。
柳堤,不聞郎馬嘶。

(河傳三首 其の二)

湖の上り,閑かに望む。

雨 蕭蕭として,煙める浦に花橋の路遙なり。

娘 翠蛾を謝するは愁い消さず,終に朝なり,夢魂は晚の潮に迷う。

蕩子は天涯にあり棹して歸るは遠く,春 已に晚く,鶯語 空しく腸斷す。

若耶溪,溪水の西。

柳の堤,郎の馬嘶くも聞えず。
●《巻2-11 河傳三首其三》
同伴,相喚。杏花稀,夢裏每愁依違。
仙客一去燕已飛。不歸,淚痕空滿衣。
天際雲鳥引晴(一作情)遠,春已晚,煙
渡南苑。
雪梅香,柳帶長。小娘,轉令人意傷。

(河傳三首其の三)

同伴し,相い喚ぶ。

杏花稀れにして,夢裡 每に依違を愁う。

仙客 一去って 鷰已に飛び,歸らず,淚痕 空しく衣滿つ。

天際 雲鳥 晴遠を引く,春已に晚れ,煙靄 南苑に渡る。

雪梅 香り,柳帶 長く,小娘,轉た人をして意傷きわ令む。

 

◆李白《越女詞,五首之三【《越中書》所見也。】》

耶溪採蓮女,見客棹歌迴。

笑入荷花去,佯羞不出來。

(越女の詞,五首の三【《越中書》見る所なり。】)

耶渓 採蓮の女、客を見て 棹歌して迴る。

笑って荷花に入って去り、佯【いつわ】り羞【はじ】て 出で来らず。

119 《越女詞,五首之三》李白index- 6 726年開元十四年26歳》 119> Ⅰ李白詩1299 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5043

◆李白《越女詞,五首之四》

東陽素足女,會稽素舸郎。

相看月未墮,白地斷肝腸。

(越女の詞,五首の四)

東陽 素足の女,会稽 素舸の郎。

相看て 月 末だ墜ちず,白地に 肝腸を断つ。

119 《越女詞,五首之三》李白index- 6 726年開元十四年26歳》 <119 Ⅰ李白詩1299 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5043

◆越女詞,五首之五

鏡湖水如月,耶溪女似雪。

新妝蕩新波,光景兩奇

 (越女の詞,五首の五)

鏡湖 水 如月のごとく,耶溪 女 雪のごとし。

新妝 新波に蕩ゆらめき,光景 兩つながら奇絶。

121 《越女詞,五首之五》李白index- 6 726年開元十四年26歳》 <121 Ⅰ李白詩1301 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5053

 

(はにかんだ採蓮の娘たちを詠う)越女の詞,五首の三

若耶渓頭でハスの実をつむ娘たちは、旅人を見つけると舟歌を唄いながら舟をあちらへこいで遠ざかる。

そうして、にっこり笑ってハスの花の影にかくれ、はずかしそうに、思わせぶりに、しなを作って、なかなか出て来ない。

119 《越女詞,五首之三》李白index- 6 726年開元十四年26歳》 <119> Ⅰ李白詩1299 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5043

 

(謝靈運の『東陽溪中贈答二首』の詩を現地で体験して詠う。)

東陽生まれと称する素足の女と、会稽の白木の舟の船頭とが顔を見あわせている。

名残月が沈まないので互いに語り合い、見つめ合っているのだ、それは、あからさまに、心も体も別れることが分かっているから名残惜しんでいるのさ。

120 《越女詞,五首之四》李白index- 6 726年開元十四年26歳》 <120> Ⅰ李白詩1300 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5048

 

(若耶渓から流れてくる鏡湖の水は澄みきって真白な月を映す、若耶溪の娘たちも色白であると詠う)越女の詞,五首の五

鏡湖は水は澄み切っていて月が映ると月光の鏡の中の美人の顏をうつしているようだ,若耶溪にあつまったむすめたちも雪のように色白である。

初々しい化粧姿は船上でゆれれば、すがすがしい波がうつってゆく,その光景はどちらも比べがたく素晴らしいというだけだ。

121 《越女詞,五首之五》李白index- 6 726年開元十四年26歳》 <121> Ⅰ李白詩1301 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5053

 

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23. 宮人・宮女・妃嬪

彼女たちは身を九重(天子の宮殿)に置き、はなはだ高貴であるように見えるが、じつはただの皇帝家の家碑に過ぎず、衣食の心配がなくたいへん幸福のように見えるが、じつは人間性を最も残酷に破壊された人々であった。

宮廷においては、少数の地位の高い后妃の他は、万単位で数えられる普通の宮人であり、唐代では「宮女」「宮娥」「宮婢」などとも呼ばれていた。彼女たちは長安にあった三大皇宮(太極宮、大明宮、興慶宮、)と東都洛陽にあった大内(天子の宮殿)と上陽の両宮殿、及び各地の離宮〔芙蓉苑〕、別館、諸親王府、皇帝陵、宗廟にそれぞれ配属されていた。

 

24. 宮官と職掌

宮廷は小社会であり、宮人の中にも身分の高下貴賎があり、また様々な等級があった。后妃たちに「内官」 の制度があったように、宮人たちには「宮官」 の制度があった。宮官と内官を比較してみると、品階の上で差があったばかりでなく、いくらかの本質的な区別があったようだ。つまり、内官は官と称したが身分上は妃嬪の身分に属すべきもの、つまり皇帝の妾でもあったが、宮官にそうした身分はなく、ただ宮中の各種の事務を司る職員にすぎなかった。当然、これはあくまで身分上のことに過ぎず、彼女たちと皇帝の実際の関係に何ら影響しないことは、ちょうど主人と家碑の関係と同じである。

 

宮官は宮人の最上層にある人々であり、後宮のさまざまな部局に属する職員であった。唐朝の後宮には六局尚宮局、尚儀局、尚服局、尚食局、尚寝局、尚功局)があり、宮中のすべての事務を管理していた。六局の各首席女官の尚宮、尚儀、尚服、尚食、尚寝、尚功が六部の尚書(長官)になった。六局の下に二十四司を統括し、各司の女官はそれぞれ別に司記、司言、司簿、司闈、司籍、司楽、司賓、司賛、司宝、司衣、司飾、司使、司膳、司醞、司薬、司饎、司設、司輿、司苑、司灯、司制、司珍、司森、司計に分けられていた。またその他に二十四典、二十四掌、及び宮正、阿監、形史、女史など各級の女官もあった。これらの女官には品級・給与が与えられており、彼女たちは礼儀、人事、法規、財務、衣食住行(行は旅行、出張等の手配)などの宮廷事務を担当した(『旧唐書』職官志三)。

 

宮官は事務官であったから、必ずしも容貌とか、皇帝のお気に召すかどうかにこだわる必要はなく、良家の出身で才徳兼備の女性を選びさえすればよかった。著名な才女であった宋若昭は、徳宗によって宮中に召され宮官の首席尚宮に任命された。裳光延の母庫秋氏は婦徳の名が高く、武則天に召されて女官御正に封じられた(『新唐書』蓑行倹伝)。

六局の宮官の他に、宮中には内文学館があり、宮人の中の文学の教養ある者を選んで学士とし、妃嬪宮人に教養、読み書き、算術などを教育する仕事を担当させた。

 

河傳三首其三
25.(曲江離宮の妃嬪宮女が舟遊びの時に見初められ、時を過ごしたが、季節が変わるころには、放置された、次の春が過ぎようとする頃、同じような若い宮女がまた一人池端にいると詠う。)

この場合の客とは春の舟遊びが過ぎても一人で居る事の出来る、自由な暮らしができるものは、宗廟に置かれた妃嬪宮女、妓女が身請けされ別宅に置かれた場合、寡婦ということも考えられるがこの詩の女性には、労働という雰囲気は全く感じられないし、不倫の云う背信さも感じられない。したがって、「南苑」ということから離宮、宗廟に置かれた妃嬪・宮女を題材にしたものであろう。

また新しい、一人ぼっちの女を作ってしまったようだといって詩が終わる。

花間集に河傳は十八首、溫庭筠の作は三首収められている。双調五十五字、前段二十七字七句二仄韻五平韻、後段二十八字七句三仄韻四平韻で、❷❷③⑥⑦②⑤/❼❸❺③③②⑤の詞形をとる。

・河傳三首其一

  
曉妝  仙景箇女採
請君莫向那岸  年 好花新滿舡【セン】

紅袖搖曳逐風 垂玉  腸向柳絲
浦南  浦北歸   晚來人已

  
  
  
 

   
  
   

・河傳三首其二

  
雨蕭 煙浦花橋路
謝娘翠蛾愁不 朝 夢魂迷晚

蕩子天涯歸棹 春已晚 語空腸
若耶溪 溪水西 堤 不聞郎馬

 
 
  

  ●
   

・河傳三首其三

  
杏花  夢裡每愁依
仙客一去鷰已  歸 淚痕空滿

天際雲鳥引晴 春已  煙靄渡南
雪梅  柳帶長   轉令人意

  
  
  
 

   
  
   

・双調五十五字、前段七旬同氏韻五平韻、後段七句三穴韻四平韻(詞譜十一)。

 

26. 杏花稀 杏花は晩春がさかり、それがほとんど散ってしまっていること。曲江の杏園であろうか。

27. 夢裡 夢の中で一緒である。

28. 每愁 眼が醒めれば連絡がないことを心配する。

29. 依違 寄り添って生きていくことの生活とまったく違う。

30. 仙客 仙人。鶴の別名。採蓮の所に来ている男。仙客來(學名:Cyclamen persicum),別名蘿蔔海棠、兔耳花、兔子花、一品冠、篝火花、翻瓣蓮,是紫金牛科仙客來屬多年生草本植物。シクラメン花。

31. 空滿衣 この場合の「衣」は二人で満になる布団が空であること。

・南苑:曲江の南にあった庭園。芙蓉苑のこと。

1.御苑名。 因在皇宮之南, 故名。 歷代所指不一。

《宋書‧明帝紀》: “以 南苑 借 張永 , 云‘且給三百年, 期訖更’。”

唐 杜甫 《哀江頭》詩: “憶昔霓旌下 南苑 , 苑中萬物生顏色。”

哀江頭  

少陵野老呑聲哭,春日潛行曲江曲。

江頭宮殿鎖千門,細柳新蒲爲誰綠。』

憶昔霓旌下南苑,苑中萬物生顏色。

天寶の昔を思い起こせば、天子が五彩旗を掲げて曲江の南苑、芙蓉苑に行幸をされたものだ。御苑にあるあらゆるものは、生き生きとし、それぞれが輝かしく動いていた。 

 

 

1. 唐宋の女性の生活

唐代の女性は比較的高い地位と比較的多くの自由を享受していたけれども、しかし結局は、男尊女卑の封建社会から脱出することはできなかった。それゆえ、法律の上でも現実の生活の上でも、また観念の上でも、依然として様々な不平等な待遇を受けた。

まず、法律の上では、男女は全く不平等であった。経済・財産の上では、女性はただわずかな嫁入り費用を分けてもらえるだけで、兄弟たちとちがって財産を相続する権利はなかった。男の相続人がなく「戸絶」(後嗣の絶えた家)と認められた情況下ではじめて、未婚あるいは既婚の女性が財産の相続権に与ることができたのである(楊廷福「唐代婦女の法律上における地位」『法律史論叢』第三輯、法律出版社、一九八三年)。『全唐文』(巻九八〇)に、次のような記載がある。「洛陽の人見諺は、先ず本県から同郷人任蘭の死後に戸絶となった任蘭の住宅一区画を支給された。ところが、任蘭の娘婿の郭恭理から訴えられた。県官は晃諺の所有と断じたが、州官は娘に返せと判決した。しかし鬼諺は服さなかった」という事件である。上級の州の判決文は、「宅及び資産は、近親者たる娘のものである。令式に条文があり、この規定に拠るべきである」というものであった。この事件からみると、たとえ女子が健在であっても、この戸はやはり県官から「死絶」とされたのである。女子の財産相続権は法律で明確に定められているのに、それが認められるまで大変な手間をかけねはならなかったことがわかる。

 

夫婦関係では、夫が妻を棄てても何ら法律上の罰則はなかったが、妻や妾が夫を棄てた場合は制裁を受けねばならなかった。「妻や妾が勝手に夫のもとを去った場合は、二年の徒刑に処し、さらに他人の嫁となったものは二等級二年間)加算する」(『唐律疏議』巻一四)。さらに不平等なことは、夫が妻を殴って負傷させた場合、罪は「一般人の場合より二等級減ずる」、逆に妻が夫にそうした場合は「徒刑一年」、また夫に重傷を負わせた場合は「一般の殴傷より二等級罪を重くする」というのである(『唐律疏議』巻二二)。同じ喧嘩の訴訟でも、量刑の軽重は男女によって異なっており、男は減刑、女は増刑となった。これは男女間の法律上の地位の不平等を示したものであるばかりか、さらに夫婦の間の地位の不平等をも示していた。媵妾の類に至っては、正妻に比べてさらに一等級低かった。男女の差別の上に良民、賎民の差別が加重され、量刑にも軽重の区別がつけられた。この他、女性にはまた「連坐」の刑罰があり、未婚の娘は父の罪に連坐し、既婚の夫人ならば夫と子の罪に連坐する定めであったから、父や夫、子が罪を犯せば、自分に罪がなくても連坐制によって奴稗にされる女性が大変多かった。この法律の規定は、まさに女性を男性の付属品とみなす明らかな反映である。

 

女性は現実の生活でも、さらに多くの不幸に見舞われた。彼女たちは独立した人格をもたない資財であり男の慰み物と見なされたので、常に権勢を持つ人々から侮辱され、掠奪され、そして占有された。こうした不幸は戦乱の時が最も甚だしく、官軍であれ、「胡兵」であれ、常に女性を掠奪、強姦した。杜甫はかつて官軍がほしいままに女性を掠奪するのを非難して、「婦女 多くは官軍中に在り」(杜甫「三絶句」)と詠ったことがある。回紇などの「胡兵」に掠奪された女性はさらに悲惨であった。「生きては名家の女と為り、死しては塞垣(万里の長城)の鬼と作る」(戎昱「苦哉行」)というわけで、永遠に家族と団欒することはできなかった。また、女性は第二等の下賤の輩と見なされていたので、一度戦乱とか変事とかがあった場合には、真っ先に犠牲となった。安史の乱の時、名将張巡は陥落寸前の城を守っていたが、城内の食糧が尽きると、こともあろうに自分の愛妾を殺して将兵に食べさせ、続いてまた城中にいた女性を捜し出して軍糧とし、それを食べ尽くすと老幼の男子の順番とした(『旧唐書』張巡伝)。建中年間、節度使李希烈は汴州(河南省開封市)を攻撃したが攻略できず、ついに女性と輜重(軍事用物資)をもって壕を埋めたてた(『太平広記』巻二六九)。これら血の滴るような惨劇ほど、女性の卑賎な地位と不幸を示しているものは他にない。

 

蕃女怨二首 其一

1.(寵愛を失っても妃嬪は寵愛を受けるための努力をするけれど、後宮の宮殿という近くにいるのにまるで、北の辺境にいる男を思う女の気持ち以上に遠くなっていると詠う。)

2. 蕃女怨 未開の種族。野蛮な民族。神の紅い外国から来た女。

遠くから来た妃嬪が寵愛を失ってしまったことを表現した詩である。

温庭筠の創始の曲と言われ、『花間集』には温庭筠の二首のみ所収。単調三十一字、七句四仄韻●二平韻○で、❼❹3❸❹⑦③の詞形をとる。

萬枝香雪開已 細雨雙
鈿蟬箏 金雀 畫梁相

鴈門消息不歸 又飛

  
  

 

3. 香雪 梨や杏の白く香しい花を指す。

◎万物が成長する春が来る、寵愛を受けるチャンスが生まれる春という宮殿の景色を表す。

4. 鈿蟬箏 蟬の鈿蟬飾りの琴。

5. 金雀屈 金泥で描いた雀の絵のある扇。

◎この三句は、後宮の宮殿の中ですぐそこに天子がいて、顔を合わすこともあるのにすれ違い、相手にされないことを表している。

6. 雁門消息木帰來 雁門にいる男からの便りのないこと。雁門は今の山西省の雁門関の西の雁門山。雁は秋にここを発って南に渡ると考えられていた。

7. 又飛迴 ここでは今年の春、雁がまた北へ帰って行くこと。女は夫への便りを手紙の使者である雁に託したい。しかし雁は女性のことなどお構いなしに無情にも飛び帰って行く、といった意味合い。いずれにしても、女への思いが伝わってこないことを云う。

◎この二句は、季節が変わっても便りがないことを、実際にこの詩の中の宮殿のような家に住むものの夫が雁門に行っているわけではなく、寵愛を受けるべく妃嬪も、季節、季節でいろんな努力をしてうったえる。それに対して、全く反応がないことを、雁門に行った征夫の返事がないことに置き換えることで、強調している。

 

8. 唐の有名芸妓

紅桃

『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。楊貴妃の侍女。楊貴妃に命じられて、紅粟玉の腕輪を謝阿蛮に渡した。後に、玄宗が安史の乱の勃発後、長安に帰還した時、楊貴妃の侍女の一人として会合する。そこで、楊貴妃の作曲した「涼州」を歌い、ともに涙にくれたが、玄宗によって、「涼州」は広められた。

謝阿蛮

『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。新豊出身の妓女。「凌波曲」という舞を得意としていた。その舞踊の技術により、玄宗と楊貴妃から目をかけられ、腕輪を与えられた。後に、玄宗が安史の乱の勃発後、長安に帰還した時、舞踊を披露した後で、その腕輪を玄宗に見せたため、玄宗は涙を落としたと伝えられる。

張雲容

全唐詩の楊貴妃の詩「阿那曲」で詠われる。楊貴妃の侍女。非常に寵愛を受け、華清宮で楊貴妃に命じられ、一人で霓裳羽衣の曲を舞い、金の腕輪を贈られたと伝えられる。また、『伝奇』にも説話が残っている。内容は以下の通りである。張雲容は生前に、高名なであった申天師に仙人になる薬を乞い、もらい受け、楊貴妃に頼んで、空気孔を開けた棺桶にいれてもらった。その百年後に生き返り、薛昭という男を夫にすることにより、地仙になったという。

王大娘

『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。教坊に所属していた妓女。玄宗と楊貴妃の前で雑伎として、頭の上に、頂上に木で山を形作ったものをつけた百尺ある竿を立て、幼児にその中を出入りさせ、歌舞を披露する芸を見せた。その場にいた劉晏がこれを詩にして詠い、褒美をもらっている。

許和子(永新)

『楽府雑録』『開元天宝遺事』に見える。吉州永新県の楽家の生まれの女性で本名を許和子と言った。開元の末年ごろに後宮に入り、教坊の宜春院に属した。その本籍によって、永新と呼ばれた。美貌と聡い性質を持ち、歌に長じ、作曲を行い、韓娥李延年の千年来の再来と称せられた。玄宗から寵愛を受け、演奏中もその歌声は枯れることがなく、玄宗から「その歌声は千金の価値がある」と評せられる。玄宗が勤政楼から顔を出した時、群衆が騒ぎだしたので、高力士の推薦で永新に歌わせたところ、皆、静まりかえったという説話が伝わっている。
安史の乱の時に、後宮のものもバラバラとなり、一士人の得るところとなった。宮中で金吾将軍であった韋青もまた、歌を善くしていたが、彼が広陵の地に乱を避け、月夜に河の上の欄干によりかかっていたところ、船の中からする歌声を聞き、永新の歌と気づいた韋青が船に入っていき、永新と再会し、涙を流しあったという説話が残っている。その士人が死去した後、母親と長安に戻り、民間の中で死去する。最期に母親に、「お母さんの金の成る木は倒れました」と語ったと伝えられる。清代の戯曲『長生殿』にも、楊貴妃に仕える侍女として登場する。

念奴

『開元天宝遺事』に見える。容貌に優れ、歌唱に長け、官妓の中でも、玄宗の寵愛を得ていた。玄宗の近くを離れたことがなく、いつも周りの人々を見つめていて、玄宗に「この女は妖麗で、眼で人を魅了する」と評された。その歌声は、あらゆる楽器の音よりもよく響き渡ったと伝えられる。唐代詩人の元稹の「連昌宮詞」に、玄宗時代の盛時をあらわす表現として、玄宗に命じられた高力士が、彼女を呼び、その歌声を披露する場面がある。清代の戯曲『長生殿』にも、永新とともに、楊貴妃に仕える侍女として登場する。

 

蕃女怨二首 其二

9. (北の辺境から嫁いだものの、離宮の片隅で一人さびしく春をすごす蕃胡娘を詠う。)

蕃女怨 未開の種族。野蛮な民族。神の紅い外国から来た女。敦煌曲、涼州曲を演奏し、歌い、踊るために、長安に来て、後宮に入った。

遠くから来た妃嬪が寵愛を失ってしまったことを表現した詩である。

温庭筠の創始の曲と言われ、『花間集』には温庭筠の二首のみ所収。単調三十一字、七句四仄韻●二平韻○で、❼❹3❸❹⑦③の詞形をとる。

萬枝香雪開已 細雨雙
鈿蟬箏 金雀 畫梁相

鴈門消息不歸 又飛

  
  

 

磧南沙上驚鴈,飛雪千

玉連環,金鏃,年年征

畫樓離恨錦屏,杏花

  
  
 

 

 

10.・磧南沙上 川の流れに沿う平地で、ふだんは水の流れていない、石や砂の多い所。北の砂漠を連想させ、雁は雁書で書簡が届くこと。詞の成り立ちからすると、北方の娘が後宮に入ったもの、その寂しさを詠ったものという所か。

 

11.・玉連環 もっとも古い種類の知恵の輪と考えられている。 『戦国策』には、「秦の昭王が斉国に玉連環を贈った」という記述が出てくる。確証はないがこの「玉連環」が、「九連環」と同種のものであるといわれている。

12.・金鏃箭 金:鏃やじり。箭:武器・狩猟具の一。弓の弦(つる)につがえ、距離を隔てた目的物を射るもの。木または竹で作った棒状のもので、一方の端に羽をつけ、他方の端に鏃(やじり)をつける。「―をつがえる」2木材や石など、かたいもの

13.・離恨 別離の悲しみ。人と別れるつらさ。故郷と分かれてきたこと。寵愛を失ったこと。

14.・杏花 長安曲江の杏園の杏花。アンズはバラ科の喬木(きょうぼく)で、原産地は中国。リンゴやモモに似た白または薄ピンクの花を咲かせ、春の訪れを告げるようすは可憐(かれん)で、詩にもうたわれているほど。

 

 

1. 歌舞と音楽

歌舞と女楽、これらは唐代には上は天子、公卿から、下は庶民、士人に至るまでの、すべての人々にとって欠くことのできない芸術的楽しみであった。それゆえこれらは宮廷から、あらゆる社会の階層に至るまで盛んに行われた。宮廷の中にあった教坊、宜春院、梨園、それに長安・洛陽両京にあった外教坊などには、歌舞と音栗に携わる芸妓が多数集中していた。朝廷は天下の名人を広く捜し出したので、唐代の女性芸術家の最も優れた人々をそこに集めることができたのである。彼女たちは恵まれた条件を与えられ、専門的な教育を受けた。また宮廷では常時大規模な催しが開かれたので、彼女たちは芸術的才能を充分に発揮することができ、高度な芸術的才能をもった人々が輩出することになった。その他、貴族や富豪が、自宅に家妓を抱えておく風習も盛んであった。彼らは専門家を招いて家妓を教育し、賓客の歓送迎会、家の慶事や誕生日などの御祝には、必ず家妓に芸を披露させて興趣を添えた。各地の官妓たちの歌舞や音楽の才能も人々から重視され、官庁の歓送迎会、宴会、遊覧の際には、彼女たちの出演は不可欠な漬物となっていた。妓優、姫妾たちが音楽、歌舞を得意としただけでなく、家庭の女性も音楽を習い楽器に通じることを家庭の娯楽、高雅な修養とみなしていた。こうした風潮によって、優秀な芸術家が数多く育成されたのである。

彼女たちの中には一声喉をころがせば長安の大通りに鳴り響いたといわれる歌手、曲を作り楽器を見事に奏でる音楽家、舞姿が美しく絶妙な芸を身につけた舞踊家、その他様々な方面に才能を発揮した芸術家がいた。

 

永新念奴は、共に盛唐時代の著名な宮廷歌手であった。永新の本名は許和子といい、もとは吉州永新(江西省永新県)の楽家(音楽を専業にしていた家)の娘であり、選ばれて宮廷に入った。彼女は歌が上手なばかりでなく、新しい歌を編み出すことができた。秋が深まり月が晴々と輝き、楼台、宮殿が静まりかえった時に、彼女がひと声歌えば、その声は長安の大通りに響き渡ったという。ある時、玄宗皇帝は勤政楼で大宴会を開き、数多くのアトラクションを催した。楼閣の下の観衆は数千数万に達し、その喧騒は凄まじかった。玄宗はいささか不機嫌になり、宴会を罷めて退席しょうとした。

この時、宦官の高力士が「永新を呼んで楼台上で一曲歌わせたら、きっと騒ぎは収まります」と提案した。そこで永新は髪をかき上げ袖をたくし上げ、楼台に出て歌った。歌声がひとたび響くと、はたして広場はしーんと静まり返り、あたかも誰一人いないかのようだった。彼女の歌は、「喜ぶ者がそれを聴くとますます元気づけられ、悲しい者がそれを聞くと断腸の思いに沈む」と評され、芸術的な影響力は絶大なものがあった(『楽府雑録』「歌」)。

 

念奴も歌がたいへん上手で、玄宗は彼女をひじょうに愛し、一日たりとも側を離れることを許さなかった。彼女は歌声で人を魅了したばかりでなく、身振りも人の心をうった。彼女は歌う度に観衆を見まわし、流し目を送ってうっとりさせた。歌声は雲や霞を突き抜け、鐘・太鼓・笙・竿(大型の笙)などにぎやかな音も、彼女の歌声を凌ぐことはできなかった(『開元天宝遺事』巻上)。

 

また、張紅紅という著名な歌手がいた。彼女はもともと父について大道で歌を唱って暮らしていたが、その歌声が将軍寺青の耳にとまり彼の姫妾にされた。彼女は非常に賢く、曲をすぐ覚えてしまった。ある時、韋青は一人の楽工(歌舞演奏の芸人)に曲を作らせ一遍だけ歌わせた。側にいた張紅紅は豆を置きながらメロディーとリズムを覚えて、楽工が歌い終るとすぐ一人で歌い、楽工を大いに驚かせた。彼女の芸術的才能は後に代宗の耳にも達し、宮中に召されて才人に封じられ、宮中で「記曲娘子」(曲覚えの名手)とよばれた(『楽府雑録』「歌」)。

 

教坊妓の中でも、任智方の四人の娘は、いずれも歌が上手で、それぞれの歌いぶりに特徴があった。中でも「二番目の娘は発声の仕方が柔かく物悲しく、歌が終る時いつ止んだのか分からないほど静かだった。三番目の娘は物腰が穏やかで、側で見ると歌を唱っているという意識が全くないようであった。四番目の娘は声が穏やかでしっとりしており、また透き通るように澄んでいてその声はあたかも空から降ってくるようだった」(『教坊記』「仕氏四女」、以下本書によるものは特別注記しない)。

 

劉采春と周徳華は俳優、楽工の身分に属する歌手であり、二人は母娘の関係であった。劉采春の歌声は空の雲をつき通すほど響きわたった。その歌はすべて当代の才子が書いた新詩であり、中でも羅貢曲が得意だった。周徳華は楊柳詞を歌うのが上手で、多くの名門・豪族の家の女性たちが彼女から歌を学んだ。彼女の性格は上品で世俗に媚びず、一流の作者による優れた歌曲を唱うだけで、輕佻浮薄な歌はいっさい唱わなかった(『雲渓友議』巻九、一〇)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

花間集 教坊曲『荷葉盃』十四首

 

 

作者

初句7字

 

 

溫助教庭筠

巻二14

荷葉盃 三首 其一

一點露珠凝冷

 

 

巻二15

荷葉盃 三首 其二

鏡水夜來秋月

 

 

巻二16

荷葉盃 三首 其三

楚女欲歸南浦

 

 

韋荘(韋相莊)

巻二44

荷葉杯二首其一

絶代佳人難得

 

 

巻二45

荷葉杯二首其二

記得那年花下

 

 

(顧太尉

巻七22

荷葉盃九首其一

春盡小庭花落,

 

 

巻七23

荷葉盃九首其二

歌發誰家筵上,

 

 

巻七24

荷葉盃九首其三

弱柳好花盡拆,

 

 

巻七25

荷葉盃九首其四

記得那時相見,

 

 

巻七26

荷葉盃九首其五

夜久歌聲怨咽,

 

 

巻七27

荷葉盃九首其六

我憶君詩最苦,

 

 

巻七28

荷葉盃九首其七

金鴨香濃鴛被,

 

 

巻七29

荷葉盃九首其八

曲砌蝶飛煙暖,

 

 

巻七30

荷葉盃九首其九

一去又乖期信,

 

 

 

 

 

 

 

 

2. 荷葉杯 其一

(舟遊びで池にf浮かべた船の上で、歓びの時を過ごしたが、今は別れて断腸の思いでいるけれど、水面を抜ける風に当たるとその時と同じような涼しさを感じたと詠う。)

唐の教坊の曲名。『花間集」一には十四首所収。温庭筠の作は三百収められている。単調二十三字、六句四仄韻二平韻で、❻❷③❼❷③の詞形をとる。

一點露珠凝,波,滿池

綠莖紅艷兩相,腸,水風

  

  

094荷葉杯 其一 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-279-5-#33  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2942

荷葉杯 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-258-5-#12  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2672

3.・池塘 いけ。池は円く、塘は四角いのをさす。謝靈運『登池上樓』「池塘生春草,園柳變鳴禽。」登池上樓 #1 謝霊運<25>#1  詩集 395 kanbuniinkai紀 頌之漢詩ブログ1002

4.・綠莖 けい【茎〔莖〕】[漢字項目]とは。意味や解説。[常用漢字][音]ケイ(慣)[訓]くき〈ケイ〉植物のくき。「花茎・塊茎・球茎・根茎・地下茎」男根。「陰茎・包茎」〈くき(ぐき)〉「歯茎・水茎」[難読]芋茎(ずいき)

 

5. 歌舞と音楽 (2

 

文宗の時代、宮人の沈阿翹は歌と舞いが上手な上、また作曲と演奏もできた。彼女が「何満子」(宮廷妓の何満子が作った作品)という舞曲を演じた時には、音の調べ、舞う姿ともやわらかくしなやかで流れるように素晴らしかった。「涼州曲」という一曲を演奏した時なぞは、音が清らかで哀調を帯び、文宗はこれぞ天上の音楽であると称讃した。そして最も優れた才能をもつ宮人を選んで彼女から芸を学ばせた。後に、この女性は宮中を出て秦という姓の男に嫁した。夫が出張していた時、『翹制曲』「憶秦郎」(秦郎を憶う」という一曲を作って、遥かに思慕の情を寄せた(『古今図書集成』「閏媛典閏藻部」、『杜陽雄編』巻中)。

泰娘は貴族の家の家妓であった。多芸多才で、歌舞弾奏なんでも窮めないものはなく、当時、都の貴顕の子弟は争って泰娘の名を伝えた。劉南錫は「泰娘の歌」を作ってその経歴を記している。

武則天の時代に、もう一人よく歌曲を作る無名の宮人がいた。その夫は菟罪で獄に陥ち、自分も籍没されて宮中の婦女にされた。彼女は日頃、篳篥を上手に吹き、また音律にもよく通じていた。

 

そして、「離別難」(別れの苦しみ)という曲を作って、自分の悲しみと恨みの気特を托した(『楽府雑録』「離別難」)。

楽器に精通している女性などは、数えきれぬほどたくさんいた。宰相宋璟の娘の宋氏は獦鼓(インドから中央アジアを経て伝わった太鼓の一種)を専門に習い、その技量はかなり高度な水準に達していた(南卓『掲鼓録』)。楊志の父方の叔母は、もともと宮妓であり、琵琶の演奏で一世を風廃した女性であった(『楽府雑録』「琵琶」)。ひじょうに多くの唐詩の諸篇に、楽器を演奏する高度な技術と妙なる音声を持つ女性たちのことが描かれている。白居易の有名な詩「琵琶行」には、次のように琵琶妓の絶妙な技術と芸術的な影響力とが生々と描かれている。

 

【琵琶行】白居易

・・・・・・・・・・・・・・・

轉軸撥絃三兩聲,未成曲調先有情。

絃絃掩抑聲聲思,似訴平生不得志。

低眉信手續續彈,説盡心中無限事。

 

輕慢撚抹復挑,初爲霓裳後綠腰。

大絃如急雨,小絃切切如私語,

切切錯雜彈,大珠小珠落玉盤。

間關鶯語花底滑,幽咽泉流氷下難。

氷泉冷澀絃凝絶,凝絶不通聲暫歇。

別有幽愁暗恨生,此時無聲勝有聲。

銀瓶乍破水漿迸,鐵騎突出刀槍鳴。

 

曲終收撥當心畫,四絃一聲如裂帛。

東船西舫悄無言,唯見江心秋月白。

・・・・・・・・・・・・・・・

 

(琵琶の行 )

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軸を 轉(し)め 絃を 撥ひて  三兩聲,未だ 曲調を 成さざるに  先ず 情 有り。

絃絃 掩抑して  聲聲に 思ひ,平生  志を 得ざるを 訴ふるに 似たり。

眉を低れ 手に信せて  續續と 彈き,説き盡くす  心中 無限の事。

 

輕く(し)め 慢く撚りて  抹み 復た 挑ひ,初めは 霓裳を 爲し  後は 綠腰。

大絃は として  急雨の如く,小絃は 切切として  私語の如し,

と 切切と  錯雜して 彈き,大珠 小珠  玉盤に 落つ。

間關たる 鶯語  花底に 滑かに,幽咽せる 泉流は  氷下に難む。

氷泉 冷澀して  絃 凝絶し,凝絶 通ぜず  聲 暫し 歇(や)む。

別に  幽愁の 暗恨 生ずる  有り,此の時  聲 無きは  聲 有るに 勝る。

銀瓶 乍ち 破れ  水漿 迸(ほとばし)り,鐵騎 突出して  刀槍 鳴る。

 

曲 終らんとして 撥(ばち)を收め  當心を 畫き,四絃 一聲  裂帛の如し。

東船 西舫  悄として 言(ことば) 無く,唯だ見る 江心に  秋月の 白きを。

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詩人の描写の素晴らしさに感謝したいと思う。古代の女性演奏家の技芸と人を感動させる琵琶曲を、わずかながらも知ることができたのであるから。

唐代は音楽が発達したばかりではない。舞踊もまた黄金時代を現出した。宮中では常時、大規模な歌舞の催しが開かれていた。たとえば、「上元楽」、「聖寿楽」、「孫武順聖楽」等であり、これらには常に宮妓数百人が出演し、舞台は誠に壮観であった。宮廷でも民間でも、舞妓は常に当時の人々から最も歓迎される漬物を演じた。たとえば、霓裳羽衣舞(虹色の絹と五色の羽毛で飾った衣裳を着て踊る大女の舞)、剣器舞(西域から伝来した剣の舞)、胡旋舞(西域から伝来した飛旋急転する舞)、柘枝舞(中央アジアから伝来した柘枝詞の歌に合わせて行う舞)、何満子(宮妓の何満子が作曲し、白居易が作詩し、沈阿翹が振り付けした歌舞)、凌波曲(美人がなよなよと歩く舞)、白貯舞(白絹を手にした舞)等々が白居易は1霓裳羽衣舞」を舞う妓女たちの、軽く柔かくそして優美な舞姿を描写している。

 

6. (後宮の秋の夜の舟遊び、歌舞と採蓮に出た宮女たちのそれぞれが思いやることを詠う)

【解説】 

秋、蓮を採る時節の乙女の愁いを詠う。前半の三句は、蓮を採る時節、水面に映る秋の月の白々とした輝きについて述べ、後半の三句は、蓮採りの乙女が冷たい水面に向かって、物思いに耽るさまを描く。蓮の実探りは昼の仕事であるが、後宮の大池で、昼間のように明るくし、季節行事、歌舞の宴の中で、行われたもので、この詩には、労働を感じさせるものがないし、采蓮する宮女は舟遊びの行事として見れば納得できる光景である。月明かりの夜などにも蓮の実採りが行われ、宮女たちの「素手」「素足」「松明」「月明」「歌舞」と頽廃な行事としていたことが分かる。なお「採蓮」は「採憐」と同音で、「憐」が恋しい人、可愛いことを意味することから一種のエロを求める意が感じられる。

唐の教坊の曲名。『花間集」一には十四首所収。温庭筠の作は三百収められている。単調二十三字、六句四仄韻二平韻で、❻❷③❼❷③の詞形の詞形をとる。

其一

一點露珠凝,波,滿池

綠莖紅艷兩相,腸,水風

  

  

其二

鏡水夜來秋,如

採蓮,小娘紅粉對寒

,正思

  
  
  

 

7. ・鏡水 鏡のような水面。風の吹かない静かな水面を云う。

8. ・夜來 夕方の薄明かりがなくなったころ。

9. ・秋月 秋の夜の月。

10. ・如雪 夜も更けたころの月の照らした様子。

11. 採蓮 楽曲には採蓮曲がある。娘たちが詠う歌である。採蓮のことは、六朝時代から詩によまれて、李白が長江下流域、呉越を旅する時の多くの詩を残している。
李白『採蓮曲』
若耶渓傍採蓮女、笑隔荷花共人語。
日照新粧水底明、風飄香袖空中挙。
岸上誰家遊冶郎、三三五五映垂楊。
紫騮嘶入落花去、見此踟蹰空断腸。
李白10  採蓮曲

淥水曲  李白 11

越女詞 五首 其一 李白12

越女詞 五首 其二 李白13

越女詞五首其三 14其四 12-5其五

李白秋浦歌十七首其十三  
淥水淨素月。 月明白鷺飛。 
郎聽采菱女。 一道夜歌歸。
秋浦歌十七首 其三 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集247/350

12. ・小娘 小娘の用語解説 - まだ、一人前に成長していない女。145歳くらいの少女。軽いあざけりの気持ちを含んでいうことが多い。後宮に入って間もない宮女をいう。

13. ・紅粉 口紅と白粉。

14. ・寒浪 冷たい水に差し向けていること。

15. ・惆悵 恨めしく思うこと。恨み嘆くこと。うらめしい。うらみがましい。温庭筠『更漏子 一』「惆悵謝家池閣」  謝女というのは晋の謝安が東山の彼を愛した故事から出たもの。過去女もそういう時期もあった。李白『送侄良攜二妓赴會稽戲有此贈』「攜妓東山去。 春光半道催。遙看若桃李。 雙入鏡中開。」送姪良携二妓赴会稽戯有此贈  李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -287
池閣は、謝霊運の「池塘生春草」謝霊運の「池塘生春草」にかけて、池堀に春草の生ずるようになったという春情にかける意がある。

16. ・思惟 ここでは恋しく思うこと。

 

17. 歌舞と音楽 (3

 

唐代は音楽が発達したばかりではない。舞踊もまた黄金時代を現出した。宮中では常時、大規模な歌舞の催しが開かれていた。たとえば、「上元楽」、「聖寿楽」、「孫武順聖楽」等であり、これらには常に宮妓数百人が出演し、舞台は誠に壮観であった。宮廷でも民間でも、舞妓は常に当時の人々から最も歓迎される漬物を演じた。たとえば、霓裳羽衣舞(虹色の絹と五色の羽毛で飾った衣裳を着て踊る大女の舞)、剣器舞(西域から伝来した剣の舞)、胡旋舞(西域から伝来した飛旋急転する舞)、柘枝舞(中央アジアから伝来した柘枝詞の歌に合わせて行う舞)、何満子(宮妓の何満子が作曲し、白居易が作詩し、沈阿翹が振り付けした歌舞)、凌波曲(美人がなよなよと歩く舞)、白貯舞(白絹を手にした舞)等々が白居易は「霓裳羽衣舞」を舞う妓女たちの、軽く柔かくそして優美な舞姿を描写している。

・・・・・・・・・・・・

案前舞者顏如玉,不著人家俗衣服。

虹裳霞帔步搖冠,鈿瓔累累佩珊珊。

・・・・・・・・・・・・

飄然轉旋迴雪輕,嫣然縱送游龍驚。

小垂手后柳無力,斜曳裾時雲欲生。

煙蛾斂略不勝態,風袖低昂如有情。

・・・・・・・・・・・・

 

「案前 舞う者 顔は玉の如く、人家の俗なる衣服を著けず。虹の裳 霞の帔(内掛け」 歩揺の冠、細瓔は累累として珊珊を佩ぶ。.……諷然と転旋すれば廻る雪より軽く、嫣然と縦送すれば游る龍も驚く。小しく手を垂れし後 柳は力無く、斜めに裾を曳く時 雲 生ぜんと欲す。煙き蛾は斂略めて態に勝えず、風はらむ袖は低く昂く 情有るが如し」(白居易「霓裳羽衣歌」)

 

白居易の《胡旋女》

胡旋女,胡旋女,心應弦,手應鼓。

弦鼓一聲雙袖舉,回雪飄搖轉蓬舞。

左旋右轉不知疲,千匝萬周無已時。

人間物類無可比,奔車輪緩旋風遲。

曲終再拜謝天子,天子為之微齒。

胡旋女,出康居,徒勞東來萬里余。

中原自有胡旋者,斗妙爭能爾不如。

天寶季年時欲變,臣妾人人學圜轉。

中有太真外祿山,二人最道能胡旋。

梨花園中冊作妃,金雞障下養為兒。

祿山胡旋迷君眼,兵過黃河疑未反。

貴妃胡旋惑君心,死棄馬嵬念更深。

從茲地軸天維轉,五十年來制不禁。

胡旋女,莫空舞,數唱此歌悟明主。

 

胡旋の女 胡旋の女、心は弦に應じ 手は鼓に應ず。

弦鼓一聲 雙袖舉がり、回雪飄搖し 轉蓬舞ふ。

左に旋り右に轉じて疲れを知らず、千匝 萬周 已む時無し。

人間物類 比すべき無く。奔車 輪緩 旋風 遲し。

曲終り再拜して天子に謝す、天子之が為に微かし齒を(ひら)く。

胡旋の女 康居に出ず、勞して東來すること萬里余。

中原に自ずから有胡旋の者有り、斗妙 爭能 爾如かず。

天寶の季年 時に變はらんと欲し、臣妾人人 圜轉を學ぶ。

中に太真有り 外には祿山、二人最も道ふ 能く胡旋すと。

梨花園中 冊して妃と作し、金雞障下 養ひて兒と為す。

祿山の胡旋 君は眼を迷はし、兵黃河を過ぐるも未だ反せずと疑ふ。

貴妃の胡旋 君が心を惑はし、死して馬嵬に棄つるも 念ひ更に深し。

茲(これ)より地軸天維轉じ、五十年來 制せど禁ぜず。

 

胡旋舞は別の風格がある。これら舞妓のなかから、何人かの出色の舞踊家が出現した。

楊玉環(楊貴妃)、彼女は以千年後百年にもわたって絶世の美人として、また「女禍」として史上有名になった。しかし、人は往々この女性が天才的な舞踊家、音楽芸術家であったことを軽視する。彼女は多方面の芸術的才能を持っており、特に舞踊に長じ、「霓裳羽衣舞」の類いまれな踊り手として、千古の後までその名が伝えられている。彼女はまた胡旋舞等の舞いも踊ることができた。同時にまた音律にも長じ、多種多様な楽器にもよく通じていた。特に撃磐(石製の打楽器の演奏)が最も得意であり、その音声は冷たく清らかであり、またオリジナリティに富んでいて、宮廷の名楽師でも及ばなかった。また琵琶もたいへんL手で、梨園で演奏した時、音色は張りつめ澄みきって、雲外にただよう如くであった。それで、親王、公主、貴婦人たちは争って彼女の琵琶の弟子になろうとした。笛豊た上手であった。ある華、彼女は玄宗の兄賢の玉笛をこっそり借りて吹いたため、玄宗皇帝の不興をかった。しかし、風流文士たちは「梨花の静院に人の見ゆる無く、閑ろに寧王の玉笛を把りて吹く」(『楊太真外伝』に引く張詰の詩句)などといって、きわめで風流なことと褒めそやした。

 

楊貴妃の侍女張雲容も「霓裳羽衣舞」が上手だったので、楊貴妃は詩をつくって彼女の舞姿を誉めそやした。「羅袖 香を動かし 香己まず、紅蕖は嫋嫋 秋煙の裏。軽き雲は嶺上にて乍ち風に揺らぎ、嫩き柳は池塘にて初めて水を払う」(楊貴妃「阿那曲」)。

これと同じ時期、新豊(陝西省臨潼)の女俳優謝阿蛮は凌波曲を上手に踊った。常時、宮廷に出入りし、玄宗と楊貴妃からたいへん愛された。ある時、彼女が舞い、玄宗と楊貴妃が親しく自ら伴奏した。楊貴妃は特別に金を散りばめた腕輪を褒美として贈った(『楊太真外伝』、『明皇雑録』補遺)。

当時、公孫大娘の「剣器の舞」も非常に有名で、その演舞は雄壮で人々の魂まで揺り動かした。

杜甫は次のように詠っている。

 

杜甫《2099觀公孫大娘弟子舞劍器行》767年大曆二年56

昔有佳人公孫氏,一舞劍氣動四方。

觀者如山色沮喪,天地為之久低昂。

爀如羿射九日落,矯如群帝驂龍翔。

來如雷霆收震怒,罷如江海凝清光。

絳脣朱袖兩寂寞,況有弟子傳芬芳。

臨潁美人在白帝,妙舞此曲神揚揚。

與余問答既有以,感時撫事增惋傷。

先帝侍女八千人,公孫劍器初第一。

五十年間似反掌,風塵傾動昏王室。

梨園子弟散如煙,女樂餘姿映寒日。

金粟堆南木已拱,瞿唐石城草蕭瑟。

玳筵急管曲復終,樂極哀來月東出。

老夫不知其所往,足繭荒山轉愁疾。

【爀は火+霍であるが字書にないため代用する】

 

公孫大娘が弟子の剣器を舞うを観る行杜甫

昔 佳人の公孫氏有り、一たび剣幕を舞えば四方を動かす。

観る者は山の如くして色は沮喪し、天地も之が為に久しく低昂す。

爀として羿(伝説の弓の名人)の九日(九つの太陽)を射て落すが如く、矯として群帝(五帝)の龍を驂(二頭だての車)として翔るが如し。

来たるは雷霆の震怒を収むるが如く、罷むるは江海の清光を凝らすが如し。

緯唇 珠袖 両つながら寂寞、晩(晩年)に弟子有り、芬芳を伝う。

臨頴の美人(李十二娘)、はく帝に在り、妙みに此の曲を舞いて神揚揚たり。

余と問答す 既に以有り、時に感じ事を撫して惋傷を増す。

先帝の侍女 八千人、公孫の剣器 初めより第一。

五十年間 掌を反すに似て、風塵は傾動として王室に昏し。

梨園の子弟 散ずること煙の如く、女楽(歌妓)の余姿 寒日に映ず。

金粟堆(玄宗の御陵の名)の南 木己に拱きく、笹唐の石城(白帝城) 草蕭瑟たり。

玳筵(豪華な宴席) 急管(せわしげな笛の音) 曲復た終り、楽しみ極まりて哀しみ来たり 月は東に出づ。

老夫は其の往く所を知らず、足は荒山に繭して(足にたこができて)転た愁疾たり。

 

唐の後期、宝暦二年(826)、浙江東部の地から、飛燕、軽鳳という二人の舞妓が着物として朝廷に献上された。彼女たちの舞姿はあでやかで、歌舞がひと度始まるとあらゆる鳥が台上に集まったといわれる。歌舞が終ると、皇帝は彼女たちが風に吹かれ日にさらされることを心配して宝帳(豪華な天幕)の中に入れた。官女たちは、「宝帳 香は重重、一双 紅き芙蓉」と歌った(『杜陽雑編』巻中)。その他にも、宮妓の粛煉師という女性がおり、柘枝舞が大変上手であり、この舞いで彼女にかなう人はいなかった。また教坊妓の顔大娘、鹿三娘、張四娘等も、みな歌、舞ともに優れていた。

 

唐代にはまた一種の芝居化された歌舞があり、専門家はこれを「歌舞戯」とよんだ。これには少なからざる女芸人が出演した。則天武后はかつて高宗に、「天下の婦女が俳優の戯を行うことを禁ずる」勅令を出すよう願った(『旧唐書』高宗妃上)。当時女性を中心とする演劇がすでに盛んであったことがわかる。女俳優の劉来春は、「陸参軍」という劇を演じるのが最も上手だった(『雲渓友議』巻九)。「踏謡娘」という劇はそれ以上に流行した。これはもともと北斉の時代には男が女に扮していたが、唐代には男女共演となった。この歌劇では主役をやる女性―〔いじめに合う蘇郎中の妻〕―は歌いかつ舞い、それに多くの人々が唱和した。この歌劇は教坊妓の張四娘が最も上手だった。ある唐詩は、女芸人が街頭でこの劇を演じている様子を、「手を挙げて花鈿を整え、身を翻して錦延に舞う。馬は囲みて行処に匝り、人は蔟がり 場を看て円し」(常非月「談容娘を詠ず」)と描写している。

 

また当時、民間には町の横丁で「変文」を語り唱う女性たちもいた。変文とは今日の「評書(講談)」や「大鼓(鼓を打って唱う演芸)」などのように、語り唱う民間芸だった。吉師老は「萄女が昭君に転じ変ずるを看る」という詩一首を書いて、萄女が変文を語り唱う有様を次のように描写している。「妖姫は未だ石梢の裾を著けず、自ら遣う 家は錦水の溝に連なると。檀口(美人のロ)は解き知る 千載の事、清詞は嘆ずるに堪えたり 九秋の文。翠眉聾むる処 楚辺の月、画巻(王昭君出塞234

の絵巻)開く時 塞外の雲」。惜しいことに、これら民間の芸術家たちの姓名は、みな埋没してしまって分からない。

 

18.荷葉杯 其三

(秋になって夜の採蓮に出た乙女たちの恋しい男を思いやることを詠う)

唐の教坊の曲名。『花間集」一には十四首所収。温庭筠の作は三百収められている。単調二十三字、六句四仄韻二平韻で、❻❷/③❼/❷③の詞形をとる。

荷葉盃 三首其一

一點露珠凝,波,滿池

綠莖紅艷兩相,腸,水風

  

  

荷葉盃 三首其二

鏡水夜來秋,如

採蓮,小娘紅粉對寒

,正思

  
  
  

荷葉盃 三首 其三

楚女欲歸南,朝,濕愁

小船搖漾入花,波,隔西

   

   

094荷葉杯 其一 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-279-5-#33  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2942

荷葉杯 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-258-5-#12  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2672

 

19. ・楚女 戦国時代、秦、燕、斉、趙、魏、韓、楚があり、楚の女性がきれいであったことでこういう。呉楚越の女性は、多く後宮に自薦他薦、貢物とされた。宮女は15歳で試験を受けて後宮に仕える。21歳が年期が終える。歌舞音曲の上手い者でもこの規定になる。適齢期が1518歳であったから、年季明けでは、第一夫人は難しい。寵愛を失って妃賓でも家臣、他家に嫁がせられる場合もあった。それ以外で女性が旅をするというのは難しい。したがってこの女性は、年期を終えた妓優の宮女が洛陽の港から故郷か、あるいは第二夫人、愛妾として旅立つということであろう。

20. ・南浦 長江下流域の江南の港、浙江省、会稽、紹興をいう。ここは洛陽の船着き場。以下の詩に基づくものである。

『楚辞、九歌、河伯』「子交手兮東行、送美人兮南浦。波滔滔兮來迎、魚鱗鱗兮媵予。」(子と手を交へて東行し、美人を南浦に送れば。波は滔滔として來り迎へ、    魚は鱗鱗として予に媵(したが)ふ。汝と手を携えて東に行き、汝を南の川辺に送っていけば、波は滔滔として來り迎え、魚は鱗鱗として私につき従うのだ

河伯とは黄河の神をさす。この歌はその河伯が愛人とのひと時の逢瀬を楽しむさまを歌っている。内容からして祭祀歌とは言えず、むしろ恋愛歌であると受け取れる。南方の楚の人が北方の黄河の神を歌ったのである。

【参考】

李白『陪従祖済南太守泛鵲山湖

水入北湖去、舟従南浦囘。

遙看鵲山傳、却似送人来。

陪従祖済南太守泛鵲山湖 李白 Kanbuniinkai紀頌之の漢詩 李白350- 202

杜甫夔州《2042憑孟倉曹將書覓土婁舊莊

平居 喪亂  ,不到 洛陽岑 

為歷 雲山  ,無辭 荊棘深 

北風 黃葉  南浦 白頭吟 

十載 江湖  ,茫茫 遲暮心 

牛嶠『感恩多二首其二』

自從南浦別,愁見丁香結。

近來情轉深,憶鴛衾。

幾度將書托煙鴈,淚盈襟。

淚盈襟,禮月求天,願君知我心。

春の東から初夏の南と時間の経過を感じさせる。その時間経過は、女の蕾を女盛りを過ぎようとする時間経過も感じさせる。下句の「西風」で完全に別れてしまったことを感じさせる。
 

21. ・漾 笑顔がこぼれる.水がゆらゆら揺れる。

22. ・花裏 花裏は上陽宮をさす。

23. ・西風 1 西方から吹いてくる風。にしかぜ。2 寂しい秋の風。秋風。

 

 

 

 

 

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