花間集 訳注解説 巻二-06 (67)回目温庭筠 《思帝鄉一首》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7964

巻二-06 (67)回目温庭筠 《思帝一首》 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017110

の紀頌之5つの校注Blog

 

 

●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注

 

 

Ⅰ李白詩

(李白集校注)

744年-030卷164_9 來日大難(卷五(一)三六八)-#2Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集7961

 

 

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744年-集05【字解集】 a初出金門・b東武吟・c來日大難・d古風三十八Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集7979

 

 

孟浩然

李白詩

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諸葛亮 出師表

 

 

曹植詩65

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李白全詩

漁父辞(屈原

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《楚辞九辯》

 

 

 

 

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●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首 

 

 

Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注

806年-19 全唐文551-11-#3至鄧州北寄上襄陽於相公書 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集7962

 

 

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806年-018-#6 全唐文551-11-#6喜侯喜至贈張籍、張徹  【字解集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集7944

 

 

・李商隠詩 (1) 136首の75

・李商隠詩 (2) 135首の61

韓愈1 ・孟郊・張籍と汴州乱41

index-2[800年~804年]27

index-3 805年陽山から江陵36

index-4 806年 39 江陵・国子博士25

 

 

index-5 806年39歳(2)25

index-6 807~809年 20

index-7[810年~811年 44歳] 34

index-8 [812年~814年47歳]46

index-9[815年~816年 49歳57

index-10[817年~818年 51歳]「平淮西碑」28

 

 

index-11 819年『論佛骨表』左遷 38

index-12 820 國子祭酒18

index-13 821年~822年 22

index-14 57歳・病気のため退職。没す14

韓愈 哲学・儒学「五原」

孟郊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"

 

 

Ⅲ 杜詩

詳注

757年-63 園官送菜 -#4 (本文-3) 杜詩詳注(卷一九(四)一六三六)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7963

 

 

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757年-集-2 【字解集】 園・歸・園官送菜・園人送瓜 Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7993

 

 

杜甫詩(1)736~751年  53

杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73

杜甫詩(3)45歳 安史の乱に彷徨う 26

杜甫詩(4)757年、左拾遺 43

杜甫詩(5)758年47歳 左遷 53

杜甫詩(6)759年 三吏三別 44

 

 

杜甫詩(7)759年秦州詩 66

杜甫詩(8)759年同谷紀行、成都紀行36

杜甫詩(9)760年、49歳 成都 45

杜甫詩(10)761年、50歳 成都82

杜甫詩(11)762年蜀中転々43

杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49

 

 

(13)763年蜀中転々 96

 (14)764年 三月成都へ帰る 100

 (15)765年正月幕府を辞す 63

(16-1) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)80

(16-2) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)81

 

 

 

杜甫詩 (17-1)767年夔州・西閣・赤甲・瀼西132

杜甫詩 (17-2) 767年・瀼西・東屯 133

杜甫詩 (18)768年江陵・公安縣・岳州 78

杜甫詩 (19)769年・洞庭湖・潭州・衡州 78

杜甫詩 (20)770年・洞庭湖・潭州・衡州。27

杜甫詩 (21)洩れ分(未詳分)・散文

 

 

 

杜甫詩 全詩 総合案内 

 

 

 

●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。

 

 

Ⅳブログ詩集

漢・唐・宋詞

花間集 訳注解説 巻二-06 (67)回目温庭筠 《思帝一首》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7964 (01/10)

 

 

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70)回目温庭筠 《清平樂/遐方怨/訴衷情/思帝/夢江南 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7982 (01/13)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●花間集全詩●森鴎外の小説の”魚玄機”詩、芸妓”薛濤”詩。唐から五代詩詞。花間集。玉臺新詠連載開始

 

 

.唐五代詞詩・女性

・玉臺新詠

玉-027 羽林郎詩一首 -#3〈〔辛 延年〕〉 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ 7965

 

 

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玉集-04 歌詩一首井序・留別妻一首・羽林郎詩一首【字解集】〈〉 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ 7977

 

 

●薛濤の全詩

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●魚玄機全詩

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花間集 訳注解説 巻二-06 (67)回目温庭筠 《思帝一首》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7964

(一途に思う女心の詩)

花、花が咲いてる、枝一面の紅は朝や夕暮れにかすみがかかるのに似ています。

薄絹の袖に、画模様の車の帳に、どれもみなつがいの画ばかりで腸が断ち切られるようにうずくのです。車を停め、顔振り背けるようにして冷静に人と語らってみたけれど、斜めに挿せるカンザシの金の鳳凰はゆらゆら揺れる。もう若くないということなのでしょうか、今の私にとっては、もう春が終わろうとしていて、それでも、これからは、後漢の阮郎のように「家に帰らざる」ということだけがあるということなのでしょうか。

 

 

 

 

 

花間集 巻二

 

 

 

 

 

 

教坊妓・長安の官妓

宮妓は後代の娼妓を意味するものではなく、専門に宮廷に奉仕する女芸人であった。彼女たちは歌舞や楽器を習い、縄・竿・球・馬などを操る曲芸を学んだ。その職責は皇室が挙行する各種の祝祭・式典・宴会などの儀式に出演したり、また平生にあっては天子の耳目を楽しませることであった。

宮妓の大部分は直接民間から選抜された芸、容貌ともに秀でた楽戸、侶優などの女子、それに少数の一般平民出身の女子であった。たとえば、著名な宮廷歌妓の永新は、もともと吉州(江西省吉安県)の楽戸の娘であり、歌が上手だったため選ばれて宮中に入った。辞填壇はもとは色町の妓女であったが、挙が上手だったため宮中に入って仕えることになった。平民女性で選抜されたものは、玄宗時代には特に「搊弾家」(演奏家)と称された(以上は、段安節『楽府雑録』「歌」、『古今図書集成』閏媛典閏艶部、崔令欽『教坊記』による。)。

○楽戸 楽籍という賤民身分の戸籍に属し、宮中の官妓、在野の楽人などが登録されていた。

 

 

彼女たちの中には、また別に朝臣や外国からの使節が献上した女性も、一部分であるが含まれていた。たとえば、敬宗の時代、浙東(浙江省一帯)から朝廷に飛燕、軽風という二人の舞妓が献上されている。また文宗の時代、回紇に降嫁した太和公主が馬にまたがって弓をひく七人の娘を献上したこともあった(『杜陽雜編』巻中、『旧唐書』文宗紀下)。それ以外に、少数ではあるが、元々官女であった女性の中から選ばれ、訓練を受けて宮妓になったものもいた。宮妓たちは、礼楽を司る太常寺に属したり、あるいは歌舞・伎楽・雑技・俳優を統括する教坊の管轄に属した。先人の考証によると、玄宗の時代から太常寺にはもはや女妓はいなくなり、すべて教坊の所属になったという(任半塘『教坊記箋訂』中華書局、一九六二年)。

 

玄宗は音楽、歌舞を特に愛好したので、彼の治世には宮妓の人数は大幅に増大し、教坊は隆盛を極めた。また玄宗は宮中に梨園、宜春院などを設け、特に才能のある芸妓を選りすぐり、宮中に入れて養成した。当時、宜春院に選抜された妓女は、「内人」とか、「前頭人」とよばれた。玄宗は常日頃、勤政楼の前で演芸会を開き、歌舞の楽妓は一度に数百人も出演することがあり、また縄や竹竿を使う、さまざまな女軽業師の演戯もあった。この後は、もうこれほどの盛況はなかったが、しかし教坊は依然として不断に宮妓を選抜して教坊に入れていた。憲宗の時代、教坊は皇帝の勅命だと称して「良家士人の娘及び衣冠(公卿大夫)の家の別邸の妓人を選び」内延に入れると宣言したので(『旧唐書』李緯伝)、人々は大いに恐れおののいた。そこで憲宗は、これは噂であると取り消さざるを得なかった。文宗の時代、教坊は一度に「霓裳羽衣」(開元、天宝時代に盛んに行われた楽曲)の舞いを踊る舞姫三百人を皇帝に献上したことがあった。

○梨園、宜春院 玄宗は長安の禁苑中に在る梨園に子弟三百人を選んで江南の音曲である法楽を学はせ、また宮女数百人を宜春北院に置いて梨園の弟子とした。

○霓裳羽衣 【げいしょううい】開元、天宝時代に盛んに行われた大人数の舞い踊りの楽曲。

 

 

これら何百何千もの宮妓は、どのような生活をしていたのであろうか。宮妓は宮人と共通するところもあったが、しかし全く同じというわけでもなかったようだ。宮人の中から選抜されて宮妓にされたものの大半は、「宮婦」の身分のままであったが、それ以外の民間から選抜されたものの地位と身分は、一般の宮人に比べてやや高かったようである。各時代の記録はきわめて少ないが、ただ玄宗の時代についてだけは、『教坊記』という書物が彼女たちについて専門に書いている。

 

選ばれて宜春院に入った「内人」は身分が最も高かった。彼女たちが演舞する時には、雲韶院で訓練中の宮人とは衣服や装飾品に高低の区別があり、「内人」には佩魚が許されていたが、宮人には許されなかった。内人は比較的優遇されており、その家庭は「内人家」とよばれ、みな宮廷の外の外教坊に住み、季節ごとに宮廷から糧米が支給されていた。内人の中で皇帝から最も寵愛を受けていた「十家」と称される内人は邸宅を賜り、日常の賞賜もたいへん多かった。また、内人は家族と常時会うことができ、毎月の二日、十六日、あるいは自分の誕生日などに母親や姉妹が訪ねることができた。敬宗の時、皇帝は自ら内人の家族千二百人を招待し、教坊で宴席を設け、褒美として錦を下賜した(『旧唐書』敬宗紀)。

○佩魚 五品以上の貴人が身に着けることを許されていた魚形のバッジ(佩び玉)

 

 

彼女たちの生活も比較的自由で、彼女たちに対する宮中の束縛も、それほど厳格ではなかった。年をとり容色が衰えると、宮中から出て家に帰りたいと申し出ることが許されており、宮人のように必ずしも深宮の中で朽ち果てねばならないというわけではなかった。『教坊記』に記されている竿木妓の范漢女大娘子、許渾の「簫煉師に贈る」という詩に出てくる内妓の簫煉師、また『楽府雑録』に記されている宣徽院(宮中の一役所)の門弟楊氏などは、みな年老いて後、宮中から退出した内人であった。張祜の「退宮の人」という詩に、「歌喉漸く退えで宮闈を出でんとし、泣いて伶官(宮中の楽官)に話せば 上 帰るを許す」とある。廖融の「退官妓」という詩に、「一旦色衰えて故里に帰るも、月明 猶お夢に梁州(曲名)を按く」とあるが、これらはいずれも内人が年老いて後、宮中から退いたことを述べているのである。宮妓が宮中から出た後の境遇は、おしなべてそれほど良いというわけでもなかったが、宮人に比べれば概して自由の身であった。以上によって、唐朝の宮廷は宮妓を芸人と見なして待遇し、宮人のような賎民身分とは区別していたこと、宮妓たちの待遇はまだ比較的良かったことが分かる。

 

宮妓は芸術家であり、原則として芸は献じるが身は献じないということになっていたし、一般の宮人に比べれば高い礼遇を受けていたとはいえ、彼女たちも皇帝の慰み物にすぎず、その漁色の対象になった。玄宗の弟の申王は、冬になると宮妓たちに周囲をすき間なく囲ませて暖をとり、これを「妓圃」とよんだ。別の弟の岐王は寒い時妓女の懐に手を入れて暖をとった(『開元天宝達事』巻上)。こうした事例からみると、宮妓たちは芸人ではあったが、結局のところ娼妓との区別は、彼女たちが皇室専用の慰み物であるというにすぎない。

 

 

 

宮妓はまたしばしば皇帝の御下賜晶として大臣や貴族に与えられた。唐の各時代に、某人に「女楽」幾組を下賜するといった記録があるが、この 「女楽」とはよく訓練された宮中の楽妓のことである。宮妓たちはその半生を軽やかな音楽とあでやかな舞、笠・策などの笛や太鼓の中に費やし、そして少なからざる宮妓がその名を後世に残したのであるが、しかし生前の境遇はといえば、たいへん不幸なものであった。彼女たちはいったん年老いて容色が衰え、婚期を逸すると、宮中を退いてから嫁に行くのは容易でなく、また芸を売るのはさらに難しかった。それでひじょうに多くの宮妓が尼か女道士となって、孤独と貧寒の中で残生のけりをつけなければならなかった。たとえば、先に述べた宮廷の名妓粛煉師は寺観の中で一生を終えたし、有名な歌妓永新は当時皇帝から光栄ある寵愛をこうむっていたが、安史の乱の後、宮中を出て一人の読書人に付き従い、その読書人が死んだ後は母とともに長安に帰り、乱世の中で老いて死んだ(『楽府雑録』「歌」)。

 

 

長く宮中に住む宮妓の他に、玄宗の時代から長安と洛陽の宮殿にほど近い街区に、左右二つの芸妓養成のための外教坊が設けられた。ここでも多数の芸妓が養成されたが、この芸妓は宮廷の専用に充てられ、官官によって管理された。彼女たちが宮妓と異なるのは、宮中には住まず、必要な時に呼び出され宮中の御用に供された点にある。記録によれば、右教坊の芸妓の多くは歌がうまく、左教坊のものは舞いが上手だった。彼女たちは宮妓と同じょうに民間から選抜された技芸練達の人々であった。玄宗は彼女たちをたいへん愛したが、しかし「侠遊(民間の遊里)の盛んなるを奪うを欲せず、未だ嘗て置きて宮禁(宮中)に在らしめず」)と詩人に詠まれた名歌妓の念奴、「凌波曲」(玄宗が夢の中で龍宮の女に頼まれて作ったといわれる詩曲)をよく舞った新豊の女芸人謝阿蛮(『明皇雑録』補遺)、『教坊記』に記載されている歌舞妓の顔大娘、鹿三娘、張四娘、裳大娘、それに竿木妓の王大娘、および、杜甫の「公孫大娘が弟子の剣器を舞うを観る行」という詩に出てくる、剣舞の名手公孫大娘などは、みな長安の外教坊に所属する芸妓であったらしい。というのは、記録によると彼女たちは一般に長く宮中に留まることはなく、行動は比較的自由だったし、特に男女関係は比較的自由であった。

元稹 「連昌宮詞」 に、「〔高〕力士 伝呼して念奴を覚れど、念奴は潜に諸邸を伴って宿す」という句がある。

419_1 《連昌宮詞》元稹 

連昌宮中滿宮竹,久無人森似束。又有牆頭千葉桃,風動落花紅蔌蔌。

宮邊老翁為余泣,小年進食曾因入。上皇正在望仙樓,太真同憑闌幹立。

樓上樓前盡珠翠,炫轉熒煌照天地。歸來如夢複如癡,何暇備言宮裏事。 

初過寒食一百六,店舍無煙宮樹綠。夜半月高弦索鳴,賀老琵琶定場屋。

力士傳呼覓念奴,念奴潛伴諸郎宿。須臾覓得又連催,特敕街中許然燭。

春嬌滿眼睡紅綃,掠削雲鬟旋裝束。飛上九天歌一聲,二十五郎吹管逐。 

逡巡大遍涼州徹,色色龜茲轟錄續。李謨笛傍宮牆,得新翻數般曲。

平明大駕發行宮,萬人歌舞塗路中。百官隊仗避岐薛,楊氏諸姨車鬥風。

明年十月東都破,禦路猶存祿山過。驅令供頓不敢藏,萬姓無聲淚潛墮。 

兩京定後六七年,卻尋家舍行宮前。莊園燒盡有枯井,行宮門閉樹宛然。

爾後相傳六皇帝,不到離宮門久閉。往來年少長安,玄武樓成花萼廢。

去年敕使因斫竹,偶門開暫相逐。荊榛櫛比塞池塘,狐兔驕癡緣樹木。 

舞榭欹傾基尚在,文窗窈窕紗猶綠。塵埋粉壁舊花鈿,烏啄風箏碎珠玉。

上皇偏愛臨砌花,依然禦榻臨階斜。蛇出燕巢盤鬥栱,菌生香案正當衙。

寢殿相連端正樓,太真梳洗樓上頭。晨光未出簾影黑,至今反掛珊瑚鉤。 

指似傍人因慟哭,卻出宮門淚相續。自從此後還閉門,夜夜狐狸上門屋。

我聞此語心骨悲,太平誰致亂者誰。翁言野父何分別,耳聞眼見為君

姚崇宋璟作相公,勸諫上皇言語切。燮理陰陽禾黍豐,調和中外無兵戎。 

長官清平太守好,揀選皆言由相公。開元之末姚宋死,朝廷漸漸由妃子。

祿山宮裏養作兒,虢國門前鬧如市。弄權宰相不記名,依稀憶得楊與李。

廟謨顛倒四海搖,五十年來作瘡痏今皇神聖丞相明,詔書才下蜀平。 

官軍又取淮西賊,此賊亦除天下寧。年年耕種宮前道,今年不遣子孫耕。

老翁此意深望幸,努力廟謀休用兵。

念奴

『開元天宝遺事』に見える。容貌に優れ、歌唱に長け、官妓の中でも、玄宗の寵愛を得ていた。玄宗の近くを離れたことがなく、いつも周りの人々を見つめていて、玄宗に「この女は妖麗で、眼で人を魅了する」と評された。その歌声は、あらゆる楽器の音よりもよく響き渡ったと伝えられる。唐代詩人の元稹の「連昌宮詞」に、玄宗時代の盛時をあらわす表現として、玄宗に命じられた高力士が、彼女を呼び、その歌声を披露する場面がある。清代の戯曲『長生殿』にも、永新とともに、楊貴妃に仕える侍女として登場する。


 

 

 

 

 

花間集 教坊曲《思帝郷》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

花間集 教坊曲『思帝』四首

 

 

溫助教庭筠

巻二

思帝郷一首

花花、満枝紅似霞

 

 

韋相莊

巻三

思帝郷二首 其一

雲髻墜,鳳釵垂

 

 

巻三

思帝鄕二首 其二

春日遊,杏花吹滿

 

 

孫少監光憲

巻八

思帝一首

如何?遣情情更。

 

 

 

 

 

 

 

 

(旧版)

思帝郷

(一途に思う女心の詩)
花花、満枝紅似霞。

花、花が咲いてる、枝一面の紅は朝や夕暮れにかすみがかかるのに似ています。

羅袖画簾腸断、阜香車。

薄絹の袖に、画模様の車の帳に、どれもみなつがいの画ばかりで腸が断ち切られるようにうずくのです。

廻面共入閑語、戦箆金鳳斜。

車を停め、顔振り背けるようにして冷静に人と語らってみたけれど、斜めに挿せるカンザシの金の鳳凰はゆらゆら揺れる。

唯有阮郎春尽、不帰家。

もう若くないということなのでしょうか、今の私にとっては、もう春が終わろうとしていて、それでも、これからは、後漢の阮郎のように「家に帰らざる」ということだけがあるということなのでしょうか。

 

(思帝郷)

花花、満枝 紅 霞に似たり。

羅袖 画簾 腸 断ゆ、香車を早め。

 

面を遅らして 人と共に閑かに語る、戦える箆 金鳳 斜めなり。

唯だ阮郎の 春 尽きるも、「家に帰らざる」有り。

 

(改訂版)

思帝郷

(春が来るたび寵愛を受け絶頂のころを辛く思い出すが、それでも、その時の事は女としての矜持であり、今もその時の者を身に着け、部屋を飾って待つ、次々に新しい妃嬪もとに行くのはいいけど、女ばかりが老け込むわけではないと詠う)

花花、満枝紅似霞。

花、花が満面に咲き、枝満面の花紅に日が射して、紅のかすみがかかっているのかとおもわれ、あの頃も花の下に筵をした時のようだ。

羅袖画簾腸断、阜香車。

薄絹の袖も、画模様の車の帳にも、寵愛を一手に受けていた時に贈られたもの、愛し続けるとどれもみなつがいの画ばかりをよろこんだもので、それはいま、腸が断ち切られるようにうずくものだ。車を停め眺め直す。

廻面共入閑語、戦箆金鳳斜。

顔振り背けるようにしても、同乗のおつきの者には冷静に語ることはしなくて押し黙った、すると、斜めに挿せるカンザシの金の鳳凰はゆらゆら揺れて、おもいだしてしまう。

唯有阮郎春尽、不帰家。

また、仙女に在って、後漢の阮郎のように「家に帰らざる」といってるうちに、春が尽きて老いてしまうのは女だけではないのだから。

 


 

『思帝郷』 現代語訳と訳註

(本文)

思帝郷

花花、満枝紅似霞。

 

羅袖画簾腸断、阜香車。

廻面共入閑語、戦箆金鳳斜。

 

唯有阮郎春尽、不帰家。

 

(下し文)

(思帝郷)

花花、満枝 紅 霞に似たり。

羅袖 画簾 腸 断ゆ、香車を早め。

面を遅らして 人と共に閑かに語る、戦える箆 金鳳 斜めなり。

唯だ阮郎の 春 尽きるも、「家に帰らざる」有り。

 

(現代語訳)

(一途に思う女心の詩)

花、花が咲いてる、枝一面の紅は朝や夕暮れにかすみがかかるのに似ています。

薄絹の袖に、画模様の車の帳に、どれもみなつがいの画ばかりで腸が断ち切られるようにうずくのです。

車を停め、顔振り背けるようにして冷静に人と語らってみたけれど、斜めに挿せるカンザシの金の鳳凰はゆらゆら揺れる。

もう若くないということなのでしょうか、今の私にとっては、もう春が終わろうとしていて、それでも、これからは、後漢の阮郎のように「家に帰らざる」ということだけがあるということなのでしょうか。

 

(訳注)

1. 思帝郷

(一途に思う女心の詩)

長安と洛陽の宮殿にほど近い街区に、左右二つの芸妓養成のための外教坊が設けられた。ここでも多数の芸妓が養成されたが、この芸妓は宮廷の専用に充てられ、官官によって管理された。彼女たちが宮妓と異なるのは、宮中には住まず、必要な時に呼び出され宮中の御用に供された点にある。記録によれば、右教坊の芸妓の多くは歌がうまく、左教坊のものは舞いが上手だった。彼女たちは宮妓と同じょうに民間から選抜された技芸練達の人々であった。

詩人に詠まれた名歌妓の念奴、「凌波曲」(玄宗が夢の中で龍宮の女に頼まれて作ったといわれる詩曲)をよく舞った新豊の女芸人謝阿蛮(『明皇雑録』補遺)、『教坊記』に記載されている歌舞妓の顔大娘、鹿三娘、張四娘、裳大娘、それに竿木妓の王大娘、および、杜甫の「公孫大娘が弟子の剣器を舞うを観る行」という詩に出てくる、剣舞の名手公孫大娘などは、みな長安の外教坊に所属する芸妓であったらしい。というのは、記録によると彼女たちは一般に長く宮中に留まることはなく、行動は比較的自由だったし、特に男女関係は比較的自由であった。これらを題材にしたものが、思帝郷である。

唐の教坊の曲名。『花間集』には四首所収で温庭筠籍の作は一首、韋荘は二首、顧夐が一首収められている。単調三十六字、八句五平韻で、②⑤6③6⑤6③の詞形をと

115 思帝郷 其一 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-289-5-#43  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2992

思帝鄕 其二 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-263-5-#17  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2697

 

花花、満枝紅似霞。

花、花が満面に咲き、枝満面の花紅に日が射して、紅のかすみがかかっているのかとおもわれ、あの頃も花の下に筵をした時のようだ。

2. 霞 夕焼けや朝焼け。朝や夕暮れにかすみがかかるさま。

 

羅袖画簾腸断、阜香車。

薄絹の袖も、画模様の車の帳にも、寵愛を一手に受けていた時に贈られたもの、愛し続けるとどれもみなつがいの画ばかりをよろこんだもので、それはいま、腸が断ち切られるようにうずくものだ。車を停め眺め直す。

3. 羅袖画簾腸断 着物の袖、絹の帳、番の画のはいったものは寵愛を受けて、何時までも愛し続けると贈られたものである。その夫婦、つがいの画をみると、別れ去って久しく寵愛をうしなってしまった愛しいお方に対して、思い焦がれる胸の思いと情事の思いが悶々とすることで腸が断ち切られるようにうずくこと。

4. 卓香車 車を停める。卓は停める。香車は香しい車、車の美称。

 

廻面共入閑語、戦箆金鳳斜。

顔振り背けるようにして、同乗のおつきの者には冷静に語ることはしなくて押し黙った、すると、斜めに挿せるカンザシの金の鳳凰はゆらゆら揺れて、おもいだしてしまう。

5. 戦箆金鳳斜 髪に斜めに挿した哲の金の鳳凰飾りが揺れる。戦は揺れ動く。箆はここではカンザシ。

 

唯有阮郎春尽、不帰家。

また、仙女に在って、後漢の阮郎のように「家に帰らざる」といってるうちに、春が尽きて老いてしまうのは女だけではないのだから。

6. 阮郎 別れ去って久しく帰らぬ愛しい男。後漢の劉展、阮肇は天台山に薬草を採りに入り、道に迷って仙女に出合い、しばらくともに暮らした。しかし家のことが思い起こされ、帰ってみると、既に数世が過ぎ、見知った人は誰もいなかった。そこで再び山に尋ね入ったが、仙女を探し当てられなかったと言う。以来、阮郎、劉部は、別れ去る男や別れ去って久しく帰らぬ愛しい男を指すようになった。 
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