花間集 巻九 原文集 kanbuniinkai紀頌之 漢詩ブログ10712
花間集 全500首
全詩 総合案内 | ||
花間集 作者別 目次 | ||
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花間集 巻別 目次 | ||
第一巻 | 温助教庭均五十首: | |
| 温庭均:菩薩蠻十四首 更漏子六首 歸國遙二首 酒泉子四首 定西番三首 楊柳枝八首 南歌子七首 河?神三首 女冠子二首 玉蝴蝶一首 | |
第二巻 | 四十九首(?庭?:十六首、皇甫松:十一首、韋莊:二十二首) | |
| 温庭均:清平樂二首 遐方怨二首 訴衷情一首 思帝?一首 夢江南二首 河傳三首 蕃女怨二首 荷葉盃三首 | |
皇甫松:天仙子二首 浪濤沙二首 楊柳枝二首 摘得新二首 夢江南二首 採蓮子一首 | ||
韋 莊:浣溪紗五首 菩薩蠻五首 歸國遙三首 應天長二首 荷葉盃二首 清平樂四首 望遠行一首 | ||
第三巻 | 五十首(韋莊二十五首、薛昭蘊:十九首、牛?:五首) | |
| 韋莊:謁金門二首 江城子二首 河傳三首 天仙子五首 喜遷鶯二首 思帝?二首 訴衷情二首 上行盃二首 女冠子二首 更漏子一首 酒泉子一首 木蘭花一首 小重山一首 | |
薛昭蘊:浣溪紗八首 喜遷鶯三首 小重山二首 離別難一首 相見歡一首 醉公子一首 女冠子二首 謁金門一首 | ||
牛僑:柳枝五首 | ||
第四巻 | 五十首(牛?:二十六首、張泌:二十三首) | |
| 牛?:女冠子四首 夢江南二首 感恩多二首 應天長二首 更漏子三首 望江怨一首 菩薩蠻七首 酒泉子一首 定西番一首 玉樓春一首 西溪子一首 江城子二首 | |
張泌:浣溪紗十首 臨江仙一首 女冠子一首 河傳二首 酒泉子一首 生?子一首 思越人一首 滿宮花一首 柳枝一首 南歌子三首 | ||
第五巻 | 五十首(張泌:四首、毛文錫:三十一首、牛希濟:十一首、欧陽烱:四首) | |
| 張泌:江城子二首 何?神一首 胡蝶兒一首 | |
毛文錫:虞美人二首 酒泉子一首 喜遷鶯一首 贊成功一首 西溪子一首 中興樂一首 更漏子一首 接賢賓一首 贊浦子一首 甘州遍一首 紗?恨二首 柳含煙四首 醉花間二首 浣紗溪一首 浣紗溪一首 月宮春一首 戀情深二首 訴衷情二首 應天長一首 何滿子一首 巫山一段雲一首 臨江仙一首 | ||
牛希濟:臨江仙七首 酒泉子一首 生?子一首 中興樂一首 謁金門一首 | ||
歐陽烱:浣溪紗四首 | ||
第六巻 | 五十一首(欧陽烱:十三、和凝:十三首、顧夐:十八首) | |
| 歐陽炯:南?子八首 獻衷心一首 賀明朝二首 江城子一首 鳳樓春一首 | |
和凝: 小重山二首 臨江仙二首 菩薩蠻一首 山花子二首 河滿子二首 薄命女一首 望梅花一首 天仙子二首 春光好二首 採桑子一首 柳枝三首 漁父一首 | ||
顧?:虞美人六首 河傳三首 甘州子五首 玉樓春四首 | ||
第七巻 | 五十首(顧夐:三十七首、孫光憲:十三首) | |
| 顧?:浣溪紗八首 酒泉子七首 楊柳枝一首 遐方怨一首 獻衷心一首 應天長一首 訴衷情二首 荷葉盃九首 漁歌子一首 臨江仙三首 醉公子二首 更漏子一首 | |
孫光憲:浣溪紗九首 河傳四首 | ||
第八巻 | 四十九首(孫光憲:四十七首、魏承班:二首) | |
| 孫光憲:菩薩蠻五首 河?神二首 虞美人(虞?人)二首 後庭花二首 生?子三首 臨江仙二首 酒泉子三首 清平樂二首 更漏子二首 女冠子二首 風流子三首 定西番二首 河滿子一首 玉蝴蝶一首 八拍蠻一首 竹枝一首 思帝?一首 上行盃二首 謁金門一首 思越人二首 陽柳枝四首 望梅花一首 漁歌子二首 | |
魏承班:菩薩蠻二首 | ||
第九巻 | 十九首(魏承班:十三首、鹿虔?六首、閻選:六首、毛熙震:十六首) | |
| 魏承班:滿宮花一首 木蘭花一首 玉樓春二首 訴衷情五首 生?子二首 ?鐘樂一首 漁歌子一首 | |
鹿虔衣: 臨江仙二首 女冠子二首 思越人一首 虞美人一首 | ||
閻選:虞美人二首 臨江仙二首 浣溪紗一首 八拍蠻二首 河傳一首 尹參卿鶚六首 臨江仙二首 滿宮花一首 杏園方一首 醉公子一首 菩薩蠻一首 | ||
毛熙震:浣溪紗七首 臨江仙二首 更漏子二首 女冠子二首 清平樂一首 南歌子二首 | ||
第十巻 | 五十首(毛熙震:十三首、李珣:三十七首) | |
| 毛熙震:河滿子二首 小重山一首 定西番一首 木蘭花一首 後庭花三首 酒泉子二首 菩薩蠻三首 | |
李珣:浣溪紗四首 漁歌子四首 巫山一段雲二首 臨江仙二首 南?子十首 女冠子二首 酒泉子四首 望遠行二首 菩薩蠻三首 西溪子一首 虞美人一首 河傳二首 | ||
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花間集とは、
『花間集』詞人の一人である欧陽烱は、衛尉少卿の任にあった趙崇祚が大勢の文士を集めて討論をさせ、選んだ五百首の詞集を編纂し、題名を付けるよう請われ、序の形で、その経緯や『花間集』詞の特質や『花間集』詞が如何なる文学の流れを汲むものか、またそれがどんな環境のもとで歌われたかを明らかにした。
欧陽烱はまず冒頭で、『花間集』に収められた詞は、玉に彫刻を施しその美しきに一層の磨きをかけたようなものであり、天然の造化を模倣しながらも、それより造かに巧みであること、またそれは、あたかも春の花や葉を切り取って、春と鮮やかさを競い合ぅかのようであると断言する。
その歌は、昔、国中を探してもわずか数人の著しか歌えなかった高雅な白雲謡の歌にも似て、それを仙女のような女性が歌えば、それを聞きつつ酒を傾ける男たちほ陶然として酒に酔うと述べ、『花間集』の詞が歌姫の侍る宴席で歌われるものであったことを示唆する。「春の艶やかさを奪い」とは、『花間集』に詠われた季節に春が圧倒的に多いことによる。仙女のような歌姫が歌う『花間集』の詞は、その昔の一つ一つが自ずから鸞鳥の鳴き声に合致し、その響きは空を流れる雲をも留めるほどであり、その言葉の一つ一つは十二音階の音律にぴったりと合っていることを指摘する。
続いて欧陽烱は、『花間集』 の詞が楽府詩に連なるものであり、贅沢を競い合うどんな富豪の家を凌駕する趙家の(趙崇祚)の豪華な宴席では、貴公子が詞を色紙にしたためて美女に手渡すと、それを受け取った美女が拍子木を手に取って、それを歌えば、美女の美しきは嫌が上にも勝ると言い、ここでも『花間集』の詞が宴席のためのものであることを言う。
『花間集』の詞に類似する歌は、既に南朝の時代に作られているが、それは言葉が雅やかでないばかりか、実体を伴わぬ空疎なものであったこと、そして、唐の玄宗皇帝の時代になって初めて外面内面ともにそなわった清平楽調が作られ、近年に至って温庭筠の詞集『金茎集』が現れたことを指摘し、詞が名実ともに新しい時代の文学となったことを言う。しかし、この評価は巻末の晃謙之の欧文とは相反するものがある。この後、欧陽桐は筆を続けて、先に触れた『花間集』命名の謂われについて語り筆を結ぶ。欧陽胴は 『花間集』 にきわめて高い評価を与えているが、これは自身が 『花間集』 詞人の一員であったこと、また、編集者の趙崇祚との人間関係に起因するものといえよう。
唐が滅亡して、中原では五つの王朝が長江流域では十数もの地方政権が興亡を繰り返したが、四川盆地を拠とする前・後の蜀は豊かな経済力を基盤に安定した地域となっていた。前・後の蜀は君臣共に一時の安逸をむさぼり、享楽に耽ることで、ここに前・後の蜀の頽廃文化が形成された。それの中核を担ったのは、中原、江南から、文化人のみならず、妓優、楽工、各種職人が戦火を避けて、蜀の地に終結したことが大きな原因である。
編者の趙崇祚は、祖籍は開祖父の趙廷隠が後蜀の大祖・孟知祥に従って蜀に入り、親軍を統括すること十数年。趙崇祚は衛尉少卿となり、弟の崇韜は都知領殿直となって、ともに親軍の指揮に参与した。趙氏一門は要職を占め、その暮らしぶりは贅を尽くしたものであった。
『太平廣記』巻四〇九引孫光憲《北夢瑣言》
「趙廷除起南宅北宅、千梁萬供、其諸奢麗、莫之與儔。後枕江?、池中有二島嶼、遂甃石循池、四岸皆種垂楊、或間雜木芙蓉、池中種藕。毎至秋夏、花開魚躍、柳陰之下、有士子執巻者、垂綸者、執如意者、執塵尾奢、譚詩論道者。」
邸宅は並ぶものがないほど豪奢で、庭の池に二つの島を造り、岸辺に楊柳を、池の端に水芙蓉を、池の中に蓮を植えていた。毎年、夏や秋になれば、花は咲き魚は躍り、柳の木陰で人々が思い思いに巻物を持ち、釣糸を垂れ、如意やら大鹿の尾で作った払子やらを揮い、詩を語り、道を論じたりしていた。
趙崇祚はこのすべての芸の優れたもの、風流あるものを集めたサロンで、「広く賓客に会い、時に談論風発する中で、近来の詩客の曲子詞五百首を集め、十巻に分けた」という。
1.花間集 全500首 訳注解説(2漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7574
(花間集序)
『花間集』の詞は美玉をさらに彫刻を施したようだ、造化にならってそれよりも遙かに巧みである。そこにある詩の花や葉を裁ち、剪定してととのえ、男と女の春の艶めきを取り込んで鮮やかさを競い合うがごとく作った歌をあつめている。それ故に穆王がために白雲の歌を唱えは、西王母の歌声は清らかに、仙酒を酌めば、穆王は心から酔いしれるものをとりあげる。その歌は国中でわずか数人の者しか歌えなかったという白雪の歌よりも名が轟き、その昔の一つ一つは作られた歌詞が美しい音楽に自ずから鸞鳥の唱に合っているというものを選んでいる。その響きは行く雲をも留めて感動的であるし、言葉の一つ一つは十二律の音律にみな唱和し、適合している。
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| 花間集 五百首 序 欧陽烱 | | |||
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花 間 集
(1)
『花間集』詞人の一人である欧陽烱は、衛尉少卿の任にあった趙崇祚が大勢の文士を集めて討論をさせ、選んだ五百首の詞集を編纂し、題名を付けるよう請われ、序の形で、その経緯や『花間集』詞の特質や『花間集』詞が如何なる文学の流れを汲むものか、またそれがどんな環境のもとで歌われたかを明らかにした。
欧陽烱はまず冒頭で、『花間集』に収められた詞は、玉に彫刻を施しその美しきに一層の磨きをかけたようなものであり、天然の造化を模倣しながらも、それより造かに巧みであること、またそれは、あたかも春の花や葉を切り取って、春と鮮やかさを競い合ぅかのようであると断言する。
花間集序花間集序
作者:武徳郡節度判官歐陽炯 撰
鏤玉雕瓊,擬化工而回巧。裁花剪葉,奪春豔以爭鮮。是以唱雲謠則金母詞清,挹霞醴則穆王心醉。名高白雪,聲聲而自合鸞歌。響遏青雲,字字而偏諧鳳律。楊柳大堤之句,樂府相傳。芙蓉曲渚之篇,豪家自制。莫不爭高門下,三千玳瑁之簪。競富樽前,數十珊瑚之樹。則有綺筵公子,繡幌佳人,遞葉葉之花箋,文抽麗錦。舉纖纖之玉指,拍按香檀。不無清絕之辭,用助嬌嬈之態。自南朝之宮體,扇北裏之倡風,何止言之不文,所謂秀而不實。有唐已降,率土之濱,家家之香徑春風,寧尋越豔。處處之紅樓夜月,自鎖常娥。在明皇朝則有李太白應制《清平樂》詞四首,近代溫飛卿複有《金筌集》。邇來作者,無愧前人。今衛尉少卿趙崇祚,以拾翠洲邊,自得羽毛之異。織綃泉底,獨殊機杼之功。廣會眾賓,時延佳論。因集近來詩客曲子詞五百首,分為十卷,以炯粗預知音,辱請命題,仍為序引。昔郢人有歌《陽春》者,號為絕唱,乃命之為《花間集》。庶(以陽春之甲將)使西園英哲,用資羽蓋之歡。南國嬋娟,休唱蓮舟之引。時大蜀廣政三年夏四月日序。
花間集序-#1
(花間集の序として)
鏤玉雕瓊,擬化工而回巧。
『花間集』の詞は美玉をさらに彫刻を施したようだ、造化にならってそれよりも遙かに巧みである。
裁花剪葉,奪春豔以爭鮮。
そこにある詩の花や葉を裁ち、剪定してととのえ、男と女の春の艶めきを取り込んで鮮やかさを競い合うがごとく作った歌をあつめている。
是以唱雲謠則金母詞清,挹霞醴則穆王心醉。
それ故に穆王がために白雲の歌を唱えは、西王母の歌声は清らかに、仙酒を酌めば、穆王は心から酔いしれるものをとりあげる。
名高白雪,聲聲而自合鸞歌。
その歌は国中でわずか数人の者しか歌えなかったという白雪の歌よりも名が轟き、その昔の一つ一つは作られた歌詞が美しい音楽に自ずから鸞鳥の唱に合っているというものを選んでいる。
響遏青雲,字字而偏諧鳳律。
その響きは行く雲をも留めて感動的であるし、言葉の一つ一つは十二律の音律にみな唱和し、適合している。
(花間集の序)
玉を鏤り瓊を雕り,化工に擬【のぞら】えて回【はる】かに巧なり。
花を裁ち葉を剪り,春豔を奪いて以って鮮を爭う。
是を以て雲謠を唱えば則ち 金母の詞 清らかなり,霞醴を挹めば則ち 穆王の心 醉うなり。
名は白雪より高く,聲聲は而して自ら鸞歌に合す。
響は青雲を遏【とど】め,字字は而して偏に鳳律に諧【かな】う。
-#2
楊柳大堤之句,樂府相傳。
芙蓉曲渚之篇,豪家自制。
莫不爭高門下,三千玳瑁之簪。
競富樽前,數十珊瑚之樹。
則有綺筵公子,繡幌佳人,遞葉葉之花箋,文抽麗錦。
舉纖纖之玉指,拍按香檀。
不無清絕之辭,用助嬌嬈之態。
-#3
自南朝之宮體,扇北裏之倡風,何止言之不文,所謂秀而不實。
有唐已降,率土之濱,家家之香徑春風,寧尋越豔。
處處之紅樓夜月,自鎖常娥。
-#4
在明皇朝則有李太白應制《清平樂》詞四首,近代溫飛卿複有《金筌集》。
邇來作者,無愧前人。
今衛尉少卿趙崇祚,以拾翠洲邊,自得羽毛之異。
織綃泉底,獨殊機杼之功。
廣會眾賓,時延佳論。
-#5
因集近來詩客曲子詞五百首,分為十卷,以炯粗預知音,辱請命題,仍為序引。
昔郢人有歌《陽春》者,號為絕唱,乃命之為《花間集》。
庶(以陽春之甲將)使西園英哲,用資羽蓋之歡。南國嬋娟,休唱蓮舟之引。
時大蜀廣政三年夏四月日序。
(花間集の序)
玉を鏤り瓊を雕り,化工に擬【のぞら】えて回【はる】かに巧なり。
花を裁ち葉を剪り,春豔を奪いて以って鮮を爭う。
是を以て雲謠を唱えば則ち 金母の詞 清らかなり,霞醴を挹めば則ち 穆王の心 醉うなり。
名は白雪より高く,聲聲は而して自ら鸞歌に合す。
響は青雲を遏【とど】め,字字は而して偏に鳳律に諧【かな】う。
-#2
楊柳大堤の句、楽府 相い伝え、芙蓉曲渚の篇、豪家 自ら製す。
高門の下、三千の玳瑁の簪を争い、富罇の前、数十の珊瑚の樹を競わざるは莫し。
則ち綺延の公子、繍幌の佳人 有り、葉葉の花牋を逓し、文は麗錦を抽き、繊繊たる玉指を挙げて、柏は香檀を按ず。
清絶の辞、用て矯饒の態を助くること無くんはあらず。
-#3
南朝の宮体、北里の倡風を扇りてより、何ぞ「之を言いて文ならず」、所謂「秀でて実らざる」に止まらんや。
有唐巳降【いこう】、率土の浜、家家の香逕春風、寧くんぞ越艶を尋ねん。
処処の紅楼、夜月 自ら常娥を墳ざす。
-#4
明皇の朝に在りては、則ち李太白の応制清平楽詞四首 有り、近代の温飛卿には復た『金筌集』有り。
邇来 作者 前人に塊ずること無し。今
衛尉少卿 字は弘基、翠を洲辺に拾い、自ら羽毛の異なれるを得て、綃を泉底に織り、独り機杼の功 殊なるを以て、広く衆賓を会し、時に佳論を延ぶ。
-#5
困りて近来の詩客の曲子詞五百首を集め、分けて十巻と為す。
烱 粗ぼ知音に預かるを以て、命題を請わるるを辱くし、仍りて序引を為る。
昔 郢人に陽春を歌う者有り、号して絶唱と為す。
乃ち之に命じて『花間集』と為す。
庶わくは西園の英哲をして用て羽蓋の歓びを資けしめ、南国の嬋娟をして蓮舟の引を唱うを休めしめんことを。時に大蜀広政三年夏四月日 序す。
『花間集序』 現代語訳と訳註解説
(本文) -#1
鏤玉雕瓊,擬化工而回巧。
裁花剪葉,奪春豔以爭鮮。
是以唱雲謠則金母詞清,挹霞醴則穆王心醉。
名高白雪,聲聲而自合鸞歌。
響遏青雲,字字而偏諧鳳律。
(下し文) -#1
玉を鏤り瓊を雕り,化工に擬【のぞら】えて回【はる】かに巧なり。
花を裁ち葉を剪り,春豔を奪いて以って鮮を爭う。
是を以て雲謠を唱えば則ち 金母の詞 清らかなり,霞醴を挹めば則ち 穆王の心 醉うなり。
名は白雪より高く,聲聲は而して自ら鸞歌に合す。
響は青雲を遏【とど】め,字字は而して偏に鳳律に諧【かな】う。
(現代語訳)
(花間集序)
『花間集』の詞は美玉をさらに彫刻を施したようだ、造化にならってそれよりも遙かに巧みである。
そこにある詩の花や葉を裁ち、剪定してととのえ、男と女の春の艶めきを取り込んで鮮やかさを競い合うがごとく作った歌をあつめている。
それ故に穆王がために白雲の歌を唱えは、西王母の歌声は清らかに、仙酒を酌めば、穆王は心から酔いしれるものをとりあげる。
その歌は国中でわずか数人の者しか歌えなかったという白雪の歌よりも名が轟き、その昔の一つ一つは作られた歌詞が美しい音楽に自ずから鸞鳥の唱に合っているというものを選んでいる。
その響きは行く雲をも留めて感動的であるし、言葉の一つ一つは十二律の音律にみな唱和し、適合している。
(訳注) -#1
花間集序
武徳郡節度判官 歐陽炯 撰
○武徳軍節度判官 官名。節度判官は節度使の属官。
○欧陽烱(896-971) 五代の詞人。益州華陽(今の四川省成都)の人。前蜀、後唐、後蜀、宋と四王朝に仕えた。笛に長じ、歌詞を多く作ったが、一流のものは少なかった。なお宋書』 では烱の字が迥になっている。『花間集』に十七首の詞が、『尊前集』に三十一首の詞が収められ、今日、計四十八首の詞が伝わる。欧陽桐の「花間集序」は、当時、詞がどのような環境のもと、何を目的にして作られたか、あるいは詞の由来がどのように認識されていたかについて言及しており、詞史の上で、貴重な文献になっている。
益州の華陽、今の四川省成郡の人。若くして前蜀の王衍に仕えて中書舎人となり、後唐に前蜀が滅ぼされると、王衍に従って洛陽に行った。その後、孟知祥が後蜀を建てたので、欧陽烱は蜀に移り、中書舎人、翰林学士、礼部侍郎、陵州の刺史、吏部侍郎等に任じられた。後蜀が宋によって亡ぼされると、宋朝に帰した。欧陽烱は笛に長じていたので、末の太祖超匡胤は常に彼を召し出し笛を演奏させたと伝えられる。欧陽烱は音楽に明るかったということで、『花間集』の編者、後蜀の趙崇祚に請われて『花間集』の序文を書いた。序文の日付は、後蜀の広政三年(940年)夏四月になっている。欧陽烱の詞は、『花間集』には十七首が収められている。
鏤玉雕瓊,擬化工而回巧。
『花間集』の詞は美玉をさらに彫刻を施したようだ、造化にならってそれよりも遙かに巧みである。
○鏤玉雕瓊 『花間集』の詞は美しい玉にさらに彫刻を施したようだ、ということ。鐘は彫り刻む。壇は赤玉。
○鏤玉雕瓊 この句も『花間集』の詞の素晴らしさを言う。擬はなぞらえる。化工は造化・造物主のたくみさ。回は迥、遙か。
裁花剪葉,奪春豔以爭鮮。
そこにある詩の花や葉を裁ち、剪定してととのえ、男と女の春の艶めきを取り込んで鮮やかさを競い合うがごとく作った歌をあつめている。
○春豔以爭鮮 妃嬪、後宮宮女、教坊の曲、妓優、妓女の恋心、逢瀬、別離、棄てられた後の生活、を艶やかに詠う。
是以唱雲謠則金母詞清,挹霞醴則穆王心醉。
それ故に穆王がために白雲の歌を唱えは、西王母の歌声は清らかに、仙酒を酌めば、穆王は心から酔いしれるものをとりあげる。
○是以 そういうわけで、それ故。
○唱雲謡則金母詞清 「雲謡」は白雲謡。「金母」は西王母。「穆天子伝」に中国の西の果て、西王母の住まう崑崙山の山頂にある池の名。『穆天子伝』に「(穆)天子 西王母を瑤池の上に觴し(酒を勧め)、西王母 天子の為に謡う」というように、西王母が穆天子と会した場。穆天子は周の穆王が伝説化された存在。仙界の女王である西王母と地上の帝王とが交歓する故事は、穆天子のほかに、漢の武帝の話もある。老子が西王母と一緒に碧桃(三千年に一度実が生るという仙界の桃)を食べたという話がある(『芸文類聚』巻八六などが引く『尹喜内伝』)。『漢武故事』には、西王母が七月七日に漢の武帝のもとを訪れ、持参した桃を食べさせた、武帝がその種を取っておこうとすると、西王母がこの桃は三千年に一度実を結ぶものだから地上で構えても無駄だと笑った。どうしてもほしいなら、と約束の訓戒を与えた。武帝は、訓戒を守らず侵略のための浪費と、宮殿を数多くたててまっていた 本句は、西王母と穆天子、老子の故事を借り、『花間集』の詞は、すべての詞が歌姫の侍る宴席で歌われるものであったことを示す。
○挹 酒を酌む。
○霞醴 仙酒。
○穆王 前注の穆天子。
名高白雪,聲聲而自合鸞歌。
その歌は国中でわずか数人の者しか歌えなかったという白雪の歌よりも名が轟き、その昔の一つ一つは作られた歌詞が美しい音楽に自ずから鸞鳥の唱に合っているというものを選んでいる。
○白雪 古代の高雅な名曲の名。国中でわずか数人の者しか歌えなかったという。○合鸞歌 作られた歌詞が美しい音楽に合っている。鸞は霊鳥の名。鳳凰の一種。神霊の精で、五色の色をそなえ鶏の形をし、鳴き声は五音に適い、ゆったりと厳かで、嬉しい時には舞い踊って楽しむという。
響遏青雲,字字而偏諧鳳律。
その響きは行く雲をも留めて感動的であるし、言葉の一つ一つは十二律の音律にみな唱和し、適合している。
○響遏青雲 歌の響きが流れる雲さえも止めるほどに感動的である。
○鳳律 十二律の音階。十二律は十二音の楽律で、八度にわたる音列を十二音階で形成したもの。今日の音階のハ調と、へ調に当たる。
1.花間集 全500首 訳注解説(3漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7580
古楽府の名曲「折楊柳」「楊柳枝」、「大堤曲」「大堤行」の歌は、楽府詩、教坊の曲として長く伝えられているようなものを選んだのである。漢の古詩で詠った「芙蓉」、六朝何遜の「曲渚」の篇は文豪大家が自ら作ったものであるものを選んだ。趙崇祚の贅の限りを尽くした邸宅の文芸サロンで、木陰に遊び、詩を論じ、道を論じ合ったが爭うことはなく、そこで、数知れぬ鼈甲の簪を飾った妓女を競わぬ者はなかったのだ。盛大な宴席においては歌向ける大盃を呑み競うけれど、趙一族の邸宅に在る数多くの珊瑚の樹の豪華さを競い合える者はまったくいなかった。かくて、きらびやかな宴席には公子たちが侍り、繍の帳の陰にはかならず美人が寄り添っていたのである。公子は歌をしたためた色紙を風流な美人に寄せたもので、彼らが良いと思ったものを選び、その歌の文句は麗しい錦のような煌びやかで、あでやかな詞を選び出す。洗練された美人は白玉のような細い指で、選ばれたその詞を拍子木で調子を取って歌う。その選ばれた清らかな歌の詞は、佳人の艶やかさによって、いやが上にも引き立てずられたのである。
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| 花間集 五百首 | | |||
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花 間 集
(1)
『花間集』詞人の一人である欧陽烱は、衛尉少卿の任にあった趙崇祚が大勢の文士を集めて討論をさせ、選んだ五百首の詞集を編纂し、題名を付けるよう請われ、序の形で、その経緯や『花間集』詞の特質や『花間集』詞が如何なる文学の流れを汲むものか、またそれがどんな環境のもとで歌われたかを明らかにした。
欧陽烱はまず冒頭で、『花間集』に収められた詞は、玉に彫刻を施しその美しきに一層の磨きをかけたようなものであり、天然の造化を模倣しながらも、それより造かに巧みであること、またそれは、あたかも春の花や葉を切り取って、春と鮮やかさを競い合ぅかのようであると断言する。
(2)
その歌は、昔、国中を探してもわずか数人の著しか歌えなかった高雅な白雲謡の歌にも似て、それを仙女のような女性が歌えば、それを聞きつつ酒を傾ける男たちほ陶然として酒に酔うと述べ、『花間集』の詞が歌姫の侍る宴席で歌われるものであったことを示唆する。「春の艶やかさを奪い」とは、『花間集』に詠われた季節に春が圧倒的に多いことによる。仙女のような歌姫が歌う『花間集』の詞は、その昔の一つ一つが自ずから鸞鳥の鳴き声に合致し、その響きは空を流れる雲をも留めるほどであり、その言葉の一つ一つは十二音階の音律にぴったりと合っていることを指摘する。
花間集序花間集序
作者:武徳郡節度判官歐陽炯 撰
鏤玉雕瓊,擬化工而回巧。裁花剪葉,奪春豔以爭鮮。是以唱雲謠則金母詞清,挹霞醴則穆王心醉。名高白雪,聲聲而自合鸞歌。響遏青雲,字字而偏諧鳳律。楊柳大堤之句,樂府相傳。芙蓉曲渚之篇,豪家自制。莫不爭高門下,三千玳瑁之簪。競富樽前,數十珊瑚之樹。則有綺筵公子,繡幌佳人,遞葉葉之花箋,文抽麗錦。舉纖纖之玉指,拍按香檀。不無清絕之辭,用助嬌嬈之態。自南朝之宮體,扇北裏之倡風,何止言之不文,所謂秀而不實。有唐已降,率土之濱,家家之香徑春風,寧尋越豔。處處之紅樓夜月,自鎖常娥。在明皇朝則有李太白應制《清平樂》詞四首,近代溫飛卿複有《金筌集》。邇來作者,無愧前人。今衛尉少卿趙崇祚,以拾翠洲邊,自得羽毛之異。織綃泉底,獨殊機杼之功。廣會眾賓,時延佳論。因集近來詩客曲子詞五百首,分為十卷,以炯粗預知音,辱請命題,仍為序引。昔郢人有歌《陽春》者,號為絕唱,乃命之為《花間集》。庶(以陽春之甲將)使西園英哲,用資羽蓋之歡。南國嬋娟,休唱蓮舟之引。時大蜀廣政三年夏四月日序。
花間集序-#1
(花間集序)
鏤玉雕瓊,擬化工而回巧。
『花間集』の詞は美玉をさらに彫刻を施したようだ、造化にならってそれよりも遙かに巧みである。
裁花剪葉,奪春豔以爭鮮。
そこにある詩の花や葉を裁ち、剪定してととのえ、男と女の春の艶めきを取り込んで鮮やかさを競い合うがごとく作った歌をあつめている。
是以唱雲謠則金母詞清,挹霞醴則穆王心醉。
それ故に穆王がために白雲の歌を唱えは、西王母の歌声は清らかに、仙酒を酌めば、穆王は心から酔いしれるものをとりあげる。
名高白雪,聲聲而自合鸞歌。
その歌は国中でわずか数人の者しか歌えなかったという白雪の歌よりも名が轟き、その昔の一つ一つは作られた歌詞が美しい音楽に自ずから鸞鳥の唱に合っているというものを選んでいる。
響遏青雲,字字而偏諧鳳律。
その響きは行く雲をも留めて感動的であるし、言葉の一つ一つは十二律の音律にみな唱和し、適合している。
(花間集の序)
玉を鏤り瓊を雕り,化工に擬【のぞら】えて回【はる】かに巧なり。
花を裁ち葉を剪り,春豔を奪いて以って鮮を爭う。
是を以て雲謠を唱えば則ち 金母の詞 清らかなり,霞醴を挹めば則ち 穆王の心 醉うなり。
名は白雪より高く,聲聲は而して自ら鸞歌に合す。
響は青雲を遏【とど】め,字字は而して偏に鳳律に諧【かな】う。
-#2
楊柳大堤之句,樂府相傳。
古楽府の名曲「折楊柳」「楊柳枝」、「大堤曲」「大堤行」の歌は、楽府詩、教坊の曲として長く伝えられているようなものを選んだのである。
芙蓉曲渚之篇,豪家自制。
漢の古詩で詠った「芙蓉」、六朝何遜の「曲渚」の篇は文豪大家が自ら作ったものであるものを選んだ。
莫不爭高門下,三千玳瑁之簪。
趙崇祚の贅の限りを尽くした邸宅の文芸サロンで、木陰に遊び、詩を論じ、道を論じ合ったが爭うことはなく、そこで、数知れぬ鼈甲の簪を飾った妓女を競わぬ者はなかったのだ。
競富樽前,數十珊瑚之樹。
盛大な宴席においては歌向ける大盃を呑み競うけれど、趙一族の邸宅に在る数多くの珊瑚の樹の豪華さを競い合える者はまったくいなかった。
則有綺筵公子,繡幌佳人,
かくて、きらびやかな宴席には公子たちが侍り、繍の帳の陰にはかならず美人が寄り添っていたのである。
遞葉葉之花箋,文抽麗錦。
公子は歌をしたためた色紙を風流な美人に寄せたもので、彼らが良いと思ったものを選び、その歌の文句は麗しい錦のような煌びやかで、あでやかな詞を選び出す。
舉纖纖之玉指,拍按香檀。
洗練された美人は白玉のような細い指で、選ばれたその詞を拍子木で調子を取って歌う。
不無清絕之辭,用助嬌嬈之態。
その選ばれた清らかな歌の詞は、佳人の艶やかさによって、いやが上にも引き立てずられたのである。
-#2
楊柳大堤の句、楽府 相い伝え、芙蓉曲渚の篇、豪家 自ら製す。
高門の下、三千の玳瑁の簪を争い、富罇の前、数十の珊瑚の樹を競わざるは莫し。
則ち綺延の公子、繍幌の佳人 有り、
葉葉の花牋を逓し、文は麗錦を抽き、
繊繊たる玉指を挙げて、柏は香檀を按ず。
清絶の辞、用て矯饒の態を助くること無くんはあらず。
『花間集序』 現代語訳と訳註解説
(本文) -#2
楊柳大堤之句,樂府相傳。
芙蓉曲渚之篇,豪家自制。
莫不爭高門下,三千玳瑁之簪。
競富樽前,數十珊瑚之樹。
則有綺筵公子,繡幌佳人,
遞葉葉之花箋,文抽麗錦。
舉纖纖之玉指,拍按香檀。
不無清絕之辭,用助嬌嬈之態。
(下し文)-#2
楊柳大堤の句、楽府 相い伝え、芙蓉曲渚の篇、豪家 自ら製す。
高門の下、三千の玳瑁の簪を争い、富罇の前、数十の珊瑚の樹を競わざるは莫し。
則ち綺延の公子、繍幌の佳人 有り、葉葉の花牋を逓し、文は麗錦を抽き、繊繊たる玉指を挙げて、柏は香檀を按ず。
清絶の辞、用て矯饒の態を助くること無くんはあらず。
(現代語訳)
古楽府の名曲「折楊柳」「楊柳枝」、「大堤曲」「大堤行」の歌は、楽府詩、教坊の曲として長く伝えられているようなものを選んだのである。
漢の古詩で詠った「芙蓉」、六朝何遜の「曲渚」の篇は文豪大家が自ら作ったものであるものを選んだ。
趙崇祚の贅の限りを尽くした邸宅の文芸サロンで、木陰に遊び、詩を論じ、道を論じ合ったが爭うことはなく、そこで、数知れぬ鼈甲の簪を飾った妓女を競わぬ者はなかったのだ。
盛大な宴席においては歌向ける大盃を呑み競うけれど、趙一族の邸宅に在る数多くの珊瑚の樹の豪華さを競い合える者はまったくいなかった。
かくて、きらびやかな宴席には公子たちが侍り、繍の帳の陰にはかならず美人が寄り添っていたのである。
公子は歌をしたためた色紙を風流な美人に寄せたもので、彼らが良いと思ったものを選び、その歌の文句は麗しい錦のような煌びやかで、あでやかな詞を選び出す。
洗練された美人は白玉のような細い指で、選ばれたその詞を拍子木で調子を取って歌う。
その選ばれた清らかな歌の詞は、佳人の艶やかさによって、いやが上にも引き立てずられたのである。
(訳注) -#2
花間集序
『花間集』詞人の一人である欧陽烱は、衛尉少卿の任にあった趙崇祚が大勢の文士を集めて討論をさせ、選んだ五百首の詞集を編纂し、題名を付けるよう請われ、序の形で、その経緯や『花間集』詞の特質や『花間集』詞が如何なる文学の流れを汲むものか、またそれがどんな環境のもとで歌われたかを明らかにした。
楊柳大堤之句,樂府相傳。
古楽府の名曲「折楊柳」「楊柳枝」、「大堤曲」「大堤行」の歌は、楽府詩、教坊の曲として長く伝えられているようなものを選んだのである。
○楊柳大堤 古楽府の名曲「折楊柳」「楊柳枝」、「大堤曲」「大堤行」等を指す。
芙蓉曲渚之篇,豪家自制。
漢の古詩で詠った「芙蓉」、六朝何遜の「曲渚」の篇は文豪大家が自ら作ったものであるものを選んだ。
○芙蓉曲渚之篇 ・芙蓉(蓮)を詠った「古詩十九首」第六首「涉江采芙蓉,蘭澤多芳草。采之欲遺誰,所思在遠道。還顧望舊鄉,長路漫浩浩。同心而離居,憂傷以終老。」 (江を捗【わた】りて芙蓉【ふよう】を采る、蘭澤【らんたく】芳草【ほうそう】多し。之を采りて誰にか遺【おく】らんと欲する、思ふ所は遠道【えんどう】に在り。還【めぐ】り顧【かえりみ】て 旧郷を望めば、長路漫として浩浩たらん。同心にして離屈【りきょ】せば、憂傷【ゆうしょう】して以て終に老いなん。)
・曲渚(入り江)を詠った南朝梁・何遜作《送韋司馬別詩》「送別臨曲渚,征人慕前侶。離言雖欲繁,離思終無緒。」(韋司馬の別れを送る)詩の「入り江に臨んで別れを見送れば、旅立つ君は友なる我を思う」を指す。いずれも古代の名詩。
莫不爭高門下,三千玳瑁之簪。
趙崇祚の贅の限りを尽くした邸宅の文芸サロンで、木陰に遊び、詩を論じ、道を論じ合ったが爭うことはなく、そこで、数知れぬ鼈甲の簪を飾った妓女を競わぬ者はなかったのだ。
〇高門下 趙崇祚の贅の限りを尽くした邸宅の文芸サロンで、木陰に遊び、詩を論じ、道を論じ合ったことをいう。このサロンの談論風発する中で五百首集めた。
○三千玳瑁之簪 三千もの鼈甲の簪。ここでは富豪が互いに贅を競い合うことを言う。
競富樽前,數十珊瑚之樹。
盛大な宴席においては歌向ける大盃を呑み競うけれど、趙一族の邸宅に在る数多くの珊瑚の樹の豪華さを競い合える者はまったくいなかった。
○数十珊瑚之樹 数十もの珊瑚の木。本句も前注同様、趙家と他の富豪の贅を互いに競い合う、の意だが、趙家は富豪たちの贅を凌駕しているからこそ、そこのサロンに権威があったのだ。
則有綺筵公子,繡幌佳人,
かくて、きらびやかな宴席には公子たちが侍り、繍の帳の陰にはかならず美人が寄り添っていたのである。
○繍幌 刺繍を施した垂れ幕。豪奢な閨をいう。蜀の地に長安・中原の雅な妓優、江南の風流な美人たちが逃げて、集まってきていたことを示す。
遞葉葉之花箋,文抽麗錦。
公子は歌をしたためた色紙を風流な美人に寄せたもので、彼らが良いと思ったものを選び、その歌の文句は麗しい錦のような煌びやかで、あでやかな詞を選び出す。
○逓 送り伝える。ここでは公子が佳人に送ることを言う。
○葉葉之花箋 歌を書きつけた一枚一枚の色紙。儀は詩文や手紙を書くための紙。この地には、中唐の薛濤の手による薛濤䇳が有名である。
○文抽麗錦 歌の文句は麗しい錦のような煌びやかで、あでやかな詞を選び出す。
舉纖纖之玉指,拍按香檀。
洗練された美人は白玉のような細い指で、選ばれたその詞を拍子木で調子を取って歌う。
○拍按香檀 拍子木を打ってリズムを取る。香檀は拍子をとるための板状の楽器。香は修飾の語。
不無清絕之辭,用助嬌嬈之態。
その選ばれた清らかな歌の詞は、佳人の艶やかさによって、いやが上にも引き立てずられたのである。
○嬌嬈 艶めいてたおやかなさま、またそのような女性によってえらばれた500首はさらに良い詞となったということ。
【字解】花間集序
武徳郡節度判官 歐陽炯 撰
○武徳軍節度判官 官名。節度判官は節度使の属官。
○欧陽烱(896-971) 五代の詞人。益州華陽(今の四川省成都)の人。前蜀、後唐、後蜀、宋と四王朝に仕えた。笛に長じ、歌詞を多く作ったが、一流のものは少なかった。なお宋書』 では烱の字が迥になっている。『花間集』に十七首の詞が、『尊前集』に三十一首の詞が収められ、今日、計四十八首の詞が伝わる。欧陽桐の「花間集序」は、当時、詞がどのような環境のもと、何を目的にして作られたか、あるいは詞の由来がどのように認識されていたかについて言及しており、詞史の上で、貴重な文献になっている。
益州の華陽、今の四川省成郡の人。若くして前蜀の王衍に仕えて中書舎人となり、後唐に前蜀が滅ぼされると、王衍に従って洛陽に行った。その後、孟知祥が後蜀を建てたので、欧陽烱は蜀に移り、中書舎人、翰林学士、礼部侍郎、陵州の刺史、吏部侍郎等に任じられた。後蜀が宋によって亡ぼされると、宋朝に帰した。欧陽烱は笛に長じていたので、末の太祖超匡胤は常に彼を召し出し笛を演奏させたと伝えられる。欧陽烱は音楽に明るかったということで、『花間集』の編者、後蜀の趙崇祚に請われて『花間集』の序文を書いた。序文の日付は、後蜀の広政三年(940年)夏四月になっている。欧陽烱の詞は、『花間集』には十七首が収められている。
○鏤玉雕瓊 『花間集』の詞は美しい玉にさらに彫刻を施したようだ、ということ。鐘は彫り刻む。壇は赤玉。
○鏤玉雕瓊 この句も『花間集』の詞の素晴らしさを言う。擬はなぞらえる。化工は造化・造物主のたくみさ。回は迥、遙か。
○春豔以爭鮮 妃嬪、後宮宮女、教坊の曲、妓優、妓女の恋心、逢瀬、別離、棄てられた後の生活、を艶やかに詠う。
○是以 そういうわけで、それ故。
○唱雲謡則金母詞清 「雲謡」は白雲謡。「金母」は西王母。「穆天子伝」に中国の西の果て、西王母の住まう崑崙山の山頂にある池の名。『穆天子伝』に「(穆)天子 西王母を瑤池の上に觴し(酒を勧め)、西王母 天子の為に謡う」というように、西王母が穆天子と会した場。穆天子は周の穆王が伝説化された存在。仙界の女王である西王母と地上の帝王とが交歓する故事は、穆天子のほかに、漢の武帝の話もある。老子が西王母と一緒に碧桃(三千年に一度実が生るという仙界の桃)を食べたという話がある(『芸文類聚』巻八六などが引く『尹喜内伝』)。『漢武故事』には、西王母が七月七日に漢の武帝のもとを訪れ、持参した桃を食べさせた、武帝がその種を取っておこうとすると、西王母がこの桃は三千年に一度実を結ぶものだから地上で構えても無駄だと笑った。どうしてもほしいなら、と約束の訓戒を与えた。武帝は、訓戒を守らず侵略のための浪費と、宮殿を数多くたててまっていた 本句は、西王母と穆天子、老子の故事を借り、『花間集』の詞は、すべての詞が歌姫の侍る宴席で歌われるものであったことを示す。
○挹 酒を酌む。
○霞醴 仙酒。
○穆王 前注の穆天子。
○白雪 古代の高雅な名曲の名。国中でわずか数人の者しか歌えなかったという。○合鸞歌 作られた歌詞が美しい音楽に合っている。鸞は霊鳥の名。鳳凰の一種。神霊の精で、五色の色をそなえ鶏の形をし、鳴き声は五音に適い、ゆったりと厳かで、嬉しい時には舞い踊って楽しむという。
○響遏青雲 歌の響きが流れる雲さえも止めるほどに感動的である。
○鳳律 十二律の音階。十二律は十二音の楽律で、八度にわたる音列を十二音階で形成したもの。今日の音階のハ調と、へ調に当たる。
○楊柳大堤 古楽府の名曲「折楊柳」「楊柳枝」、「大堤曲」「大堤行」等を指す。
○芙蓉曲渚之篇 ・芙蓉(蓮)を詠った「古詩十九首」第六首「涉江采芙蓉,蘭澤多芳草。采之欲遺誰,所思在遠道。還顧望舊鄉,長路漫浩浩。同心而離居,憂傷以終老。」 (江を捗【わた】りて芙蓉【ふよう】を采る、蘭澤【らんたく】芳草【ほうそう】多し。之を采りて誰にか遺【おく】らんと欲する、思ふ所は遠道【えんどう】に在り。還【めぐ】り顧【かえりみ】て 旧郷を望めば、長路漫として浩浩たらん。同心にして離屈【りきょ】せば、憂傷【ゆうしょう】して以て終に老いなん。)
・曲渚(入り江)を詠った南朝梁・何遜作《送韋司馬別詩》「送別臨曲渚,征人慕前侶。離言雖欲繁,離思終無緒。」(韋司馬の別れを送る)詩の「入り江に臨んで別れを見送れば、旅立つ君は友なる我を思う」を指す。いずれも古代の名詩。
〇高門下 趙崇祚の贅の限りを尽くした邸宅の文芸サロンで、木陰に遊び、詩を論じ、道を論じ合ったことをいう。このサロンの談論風発する中で五百首集めた。
○三千玳瑁之簪 三千もの鼈甲の簪。ここでは富豪が互いに贅を競い合うことを言う。
○数十珊瑚之樹 数十もの珊瑚の木。本句も前注同様、趙家と他の富豪の贅を互いに競い合う、の意だが、趙家は富豪たちの贅を凌駕しているからこそ、そこのサロンに権威があったのだ。
○繍幌 刺繍を施した垂れ幕。豪奢な閨をいう。蜀の地に長安・中原の雅な妓優、江南の風流な美人たちが逃げて、集まってきていたことを示す。
○葉葉之花箋 歌を書きつけた一枚一枚の色紙。儀は詩文や手紙を書くための紙。この地には、中唐の薛濤の手による薛濤䇳が有名である。
○文抽麗錦 歌の文句は麗しい錦のような煌びやかで、あでやかな詞を選び出す。
○拍按香檀 拍子木を打ってリズムを取る。香檀は拍子をとるための板状の楽器。香は修飾の語。
○嬌嬈 艶めいてたおやかなさま、またそのような女性によってえらばれた500首はさらに良い詞となったということ。
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| 花間集 五百首 | | |||
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花間集序花間集序
作者:武徳郡節度判官歐陽炯 撰
鏤玉雕瓊,擬化工而回巧。裁花剪葉,奪春豔以爭鮮。是以唱雲謠則金母詞清,挹霞醴則穆王心醉。名高白雪,聲聲而自合鸞歌。響遏青雲,字字而偏諧鳳律。楊柳大堤之句,樂府相傳。芙蓉曲渚之篇,豪家自制。莫不爭高門下,三千玳瑁之簪。競富樽前,數十珊瑚之樹。則有綺筵公子,繡幌佳人,遞葉葉之花箋,文抽麗錦。舉纖纖之玉指,拍按香檀。不無清絕之辭,用助嬌嬈之態。自南朝之宮體,扇北裏之倡風,何止言之不文,所謂秀而不實。有唐已降,率土之濱,家家之香徑春風,寧尋越豔。處處之紅樓夜月,自鎖常娥。在明皇朝則有李太白應制《清平樂》詞四首,近代溫飛卿複有《金筌集》。邇來作者,無愧前人。今衛尉少卿趙崇祚,以拾翠洲邊,自得羽毛之異。織綃泉底,獨殊機杼之功。廣會眾賓,時延佳論。因集近來詩客曲子詞五百首,分為十卷,以炯粗預知音,辱請命題,仍為序引。昔郢人有歌《陽春》者,號為絕唱,乃命之為《花間集》。庶(以陽春之甲將)使西園英哲,用資羽蓋之歡。南國嬋娟,休唱蓮舟之引。時大蜀廣政三年夏四月日序。
花 間 集
(1)
『花間集』詞人の一人である欧陽烱は、衛尉少卿の任にあった趙崇祚が大勢の文士を集めて討論をさせ、選んだ五百首の詞集を編纂し、題名を付けるよう請われ、序の形で、その経緯や『花間集』詞の特質や『花間集』詞が如何なる文学の流れを汲むものか、またそれがどんな環境のもとで歌われたかを明らかにした。
欧陽烱はまず冒頭で、『花間集』に収められた詞は、玉に彫刻を施しその美しきに一層の磨きをかけたようなものであり、天然の造化を模倣しながらも、それより造かに巧みであること、またそれは、あたかも春の花や葉を切り取って、春と鮮やかさを競い合ぅかのようであると断言する。
(2)
その歌は、昔、国中を探してもわずか数人の著しか歌えなかった高雅な白雲謡の歌にも似て、それを仙女のような女性が歌えば、それを聞きつつ酒を傾ける男たちほ陶然として酒に酔うと述べ、『花間集』の詞が歌姫の侍る宴席で歌われるものであったことを示唆する。「春の艶やかさを奪い」とは、『花間集』に詠われた季節に春が圧倒的に多いことによる。仙女のような歌姫が歌う『花間集』の詞は、その昔の一つ一つが自ずから鸞鳥の鳴き声に合致し、その響きは空を流れる雲をも留めるほどであり、その言葉の一つ一つは十二音階の音律にぴったりと合っていることを指摘する。
(3)
続いて欧陽烱は、『花間集』 の詞が楽府詩に連なるものであり、贅沢を競い合うどんな富豪の家を凌駕する趙家の(趙崇祚)の豪華な宴席では、貴公子が詞を色紙にしたためて美女に手渡すと、それを受け取った美女が拍子木を手に取って、それを歌えば、美女の美しきは嫌が上にも勝ると言い、ここでも『花間集』の詞が宴席のためのものであることを言う。
花間集序-#1
(花間集序)
鏤玉雕瓊,擬化工而回巧。
『花間集』の詞は美玉をさらに彫刻を施したようだ、造化にならってそれよりも遙かに巧みである。
裁花剪葉,奪春豔以爭鮮。
そこにある詩の花や葉を裁ち、剪定してととのえ、男と女の春の艶めきを取り込んで鮮やかさを競い合うがごとく作った歌をあつめている。
是以唱雲謠則金母詞清,挹霞醴則穆王心醉。
それ故に穆王がために白雲の歌を唱えは、西王母の歌声は清らかに、仙酒を酌めば、穆王は心から酔いしれるものをとりあげる。
名高白雪,聲聲而自合鸞歌。
その歌は国中でわずか数人の者しか歌えなかったという白雪の歌よりも名が轟き、その昔の一つ一つは作られた歌詞が美しい音楽に自ずから鸞鳥の唱に合っているというものを選んでいる。
響遏青雲,字字而偏諧鳳律。
その響きは行く雲をも留めて感動的であるし、言葉の一つ一つは十二律の音律にみな唱和し、適合している。
(花間集の序)
玉を鏤り瓊を雕り,化工に擬【のぞら】えて回【はる】かに巧なり。
花を裁ち葉を剪り,春豔を奪いて以って鮮を爭う。
是を以て雲謠を唱えば則ち 金母の詞 清らかなり,霞醴を挹めば則ち 穆王の心 醉うなり。
名は白雪より高く,聲聲は而して自ら鸞歌に合す。
響は青雲を遏【とど】め,字字は而して偏に鳳律に諧【かな】う。
-#2
楊柳大堤之句,樂府相傳。
古楽府の名曲「折楊柳」「楊柳枝」、「大堤曲」「大堤行」の歌は、楽府詩、教坊の曲として長く伝えられているようなものを選んだのである。
芙蓉曲渚之篇,豪家自制。
漢の古詩で詠った「芙蓉」、六朝何遜の「曲渚」の篇は文豪大家が自ら作ったものであるものを選んだ。
莫不爭高門下,三千玳瑁之簪。
趙崇祚の贅の限りを尽くした邸宅の文芸サロンで、木陰に遊び、詩を論じ、道を論じ合ったが爭うことはなく、そこで、数知れぬ鼈甲の簪を飾った妓女を競わぬ者はなかったのだ。
競富樽前,數十珊瑚之樹。
盛大な宴席においては歌向ける大盃を呑み競うけれど、趙一族の邸宅に在る数多くの珊瑚の樹の豪華さを競い合える者はまったくいなかった。
則有綺筵公子,繡幌佳人,
かくて、きらびやかな宴席には公子たちが侍り、繍の帳の陰にはかならず美人が寄り添っていたのである。
遞葉葉之花箋,文抽麗錦。
公子は歌をしたためた色紙を風流な美人に寄せたもので、彼らが良いと思ったものを選び、その歌の文句は麗しい錦のような煌びやかで、あでやかな詞を選び出す。
舉纖纖之玉指,拍按香檀。
洗練された美人は白玉のような細い指で、選ばれたその詞を拍子木で調子を取って歌う。
不無清絕之辭,用助嬌嬈之態。
その選ばれた清らかな歌の詞は、佳人の艶やかさによって、いやが上にも引き立てずられたのである。
-#2
楊柳大堤の句、楽府 相い伝え、芙蓉曲渚の篇、豪家 自ら製す。
高門の下、三千の玳瑁の簪を争い、富罇の前、数十の珊瑚の樹を競わざるは莫し。
則ち綺延の公子、繍幌の佳人 有り、
葉葉の花牋を逓し、文は麗錦を抽き、
繊繊たる玉指を挙げて、柏は香檀を按ず。
清絶の辞、用て矯饒の態を助くること無くんはあらず。
-#3
自南朝之宮體,扇北裏之倡風,
その歌の言葉は雅やかでないばかりか、文体も成り立たないものもあり、いわゆる「花咲いて実のならぬ」空虚なものであった。
何止言之不文,所謂秀而不實。
六朝南朝から続いた後宮の女性を題材とした艶麗な宮廷風の詩は、紅楼の少し色っぽい音曲歌舞(教坊の曲)の流行を勢いづけた。
有唐已降,率土之濱,
詩文が最高潮となった唐より後は、唐の滅亡、都の政情不安により、詩文、音曲歌舞は各地に分散し国の津々浦々に至るまで広がるということになった。
家家之香徑春風,寧尋越豔。
蜀の家々の庭先には花が咲きみだれ、花の香りが春風に乗って小道に吹きわたり、南国の美女を訪ねるまでもなく、文化は成長したのである。
處處之紅樓夜月,自鎖常娥。
したがって、至る所の紅楼に夜の月が照り輝き、言わずもがな、そこには嫦娥のような美しい女性があつまってきたのである。
-#3
南朝の宮体、北里の倡風を扇りてより、
何ぞ「之を言いて文ならず」、所謂「秀でて実らざる」に止まらんや。
有唐巳降【いこう】、率土の浜、
家家の香逕春風、寧くんぞ越艶を尋ねん。
処処の紅楼、夜月 自ら常娥を墳ざす。
-#4
在明皇朝則有李太白應制《清平樂》詞四首,近代溫飛卿複有《金筌集》。
邇來作者,無愧前人。
今衛尉少卿趙崇祚,以拾翠洲邊,自得羽毛之異。
織綃泉底,獨殊機杼之功。
廣會眾賓,時延佳論。
-#5
因集近來詩客曲子詞五百首,分為十卷,以炯粗預知音,辱請命題,仍為序引。
昔郢人有歌《陽春》者,號為絕唱,乃命之為《花間集》。
庶(以陽春之甲將)使西園英哲,用資羽蓋之歡。南國嬋娟,休唱蓮舟之引。
時大蜀廣政三年夏四月日序。
-#4
明皇の朝に在りては、則ち李太白の応制清平楽詞四首 有り、近代の温飛卿には復た『金筌集』有り。
邇来 作者 前人に塊ずること無し。今
衛尉少卿 字は弘基、翠を洲辺に拾い、自ら羽毛の異なれるを得て、綃を泉底に織り、独り機杼の功 殊なるを以て、広く衆賓を会し、時に佳論を延ぶ。
-#5
困りて近来の詩客の曲子詞五百首を集め、分けて十巻と為す。
烱 粗ぼ知音に預かるを以て、命題を請わるるを辱くし、仍りて序引を為る。
昔 郢人に陽春を歌う者有り、号して絶唱と為す。
乃ち之に命じて『花間集』と為す。
庶わくは西園の英哲をして用て羽蓋の歓びを資けしめ、南国の嬋娟をして蓮舟の引を唱うを休めしめんことを。時に大蜀広政三年夏四月日 序す。
『花間集序』 現代語訳と訳註解説
(本文) -#3
自南朝之宮體,扇北裏之倡風,
何止言之不文,所謂秀而不實。
有唐已降,率土之濱,
家家之香徑春風,寧尋越豔。
處處之紅樓夜月,自鎖常娥。
(下し文) -#3
南朝の宮体、北里の倡風を扇りてより、
何ぞ「之を言いて文ならず」、所謂「秀でて実らざる」に止まらんや。
有唐巳降【いこう】、率土の浜、
家家の香逕春風、寧くんぞ越艶を尋ねん。
処処の紅楼、夜月 自ら常娥を墳ざす。
(現代語訳) -#3
その歌の言葉は雅やかでないばかりか、文体も成り立たないものもあり、いわゆる「花咲いて実のならぬ」空虚なものであった。
六朝南朝から続いた後宮の女性を題材とした艶麗な宮廷風の詩は、紅楼の少し色っぽい音曲歌舞(教坊の曲)の流行を勢いづけた。
詩文が最高潮となった唐より後は、唐の滅亡、都の政情不安により、詩文、音曲歌舞は各地に分散し国の津々浦々に至るまで広がるということになった。
蜀の家々の庭先には花が咲きみだれ、花の香りが春風に乗って小道に吹きわたり、南国の美女を訪ねるまでもなく、文化は成長したのである。
したがって、至る所の紅楼に夜の月が照り輝き、言わずもがな、そこには嫦娥のような美しい女性があつまってきたのである。
(訳注) -#3
花間集序
『花間集』詞人の一人である欧陽烱は、衛尉少卿の任にあった趙崇祚が大勢の文士を集めて討論をさせ、選んだ五百首の詞集を編纂し、題名を付けるよう請われ、序の形で、その経緯や『花間集』詞の特質や『花間集』詞が如何なる文学の流れを汲むものか、またそれがどんな環境のもとで歌われたかを明らかにした。
自南朝之宮體,扇北裏之倡風,
六朝南朝から続いた後宮の女性を題材とした艶麗な宮廷風の詩は、紅楼の少し色っぽい音曲歌舞(教坊の曲)の流行を勢いづけた。
○南朝 東晋の後を受けて建康(今の南京)に都を置いた宋、斉、梁、陳の四王朝。
○宮体 南朝の斉、梁時代に流行した詩体。主として後宮の女性を題材とした艶麗な詩を指す。
○扇 煽る。
○倡風 少し色っぽい音曲歌舞(教坊の曲)の流行させて、俗っぽく頽廃してゆく。
何止言之不文,所謂秀而不實。
その歌の言葉は雅やかでないばかりか、文体も成り立たないものもあり、いわゆる「花咲いて実のならぬ」空虚なものであった。
有唐已降,率土之濱,
詩文が最高潮となった唐より後は、唐の滅亡、都の政情不安により、詩文、音曲歌舞は各地に分散し国の津々浦々に至るまで広がるということになった。
率土之濱 国の津々浦々に至るまで広がる。長安、洛陽中心の文学、特に、唐の教坊の詞曲が唐の滅亡、都の政情不安により各地に分散し、特に、各地の交通の要衝の地を中心に広がったことをいう。
家家之香徑春風,寧尋越豔。
蜀の家々の庭先には花が咲きみだれ、花の香りが春風に乗って小道に吹きわたり、南国の美女を訪ねるまでもなく、文化は成長したのである。
越豔 江南の美女、江南の文化。
處處之紅樓夜月,自鎖常娥。
したがって、至る所の紅楼に夜の月が照り輝き、言わずもがな、そこには嫦娥のような美しい女性があつまってきたのである。
常娥 誇蛾、恒蛾、嫦娥、娥娥 蛾娥など 神話中の女性。神話の英雄、羿(がい)が西方極遠の地に存在する理想国西王母の国の仙女にお願いしてもらった不死の霊薬を、その妻の嫦娥がぬすみ飲み、急に身軽くなって月世界まで飛びあがり月姫となった。漢の劉安の「淮南子」覧冥訓に登場する。なお、魯迅(1881-l936)にこの神話を小説化した「羿月」がいげつと題する小説がある。ここでは占いの雰囲気作りにはみょうれいな女性の神、巫女の登場というシチュエーションというところか。 ○涼蟾 秋の月をいう。月のなかには轄蛤(ひきがえる)がいると考えられたことから、「蟾」は月の別称に用いられる。○素蛾 月ひめ常蛾のこと。夫の努の留守中、霊薬をぬすみ飲んで月中にのがれ、月の楕となった神話中の人物。常蛾の詩1. 道教の影響 2. 芸妓について 3. 李商隠 12 嫦娥 神話中の女性。神話の英雄、羿(がい)が西方極遠の地に存在する理想国西王母の国の仙女にお願いしてもらった不死の霊薬を、その妻の嫦娥がぬすみ飲み、急に身軽くなって月世界まで飛びあがり月姫となった。漢の劉安の「淮南子」覧冥訓に登場する。○嬋娟 艶めかしく姿あでやかなるさま。顔や容姿があでやかで美しい。魏の阮籍(210-263年)の詠懐詩に「秋月復た嬋娟たり。」とブログ阮籍 詠懐詩、白眼視 嵆康 幽憤詩
1.花間集 全500首 訳注解説(4漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7586
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| 花間集 五百首 | | |||
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花間集序花間集序
作者:武徳郡節度判官歐陽炯 撰
鏤玉雕瓊,擬化工而回巧。裁花剪葉,奪春豔以爭鮮。是以唱雲謠則金母詞清,挹霞醴則穆王心醉。名高白雪,聲聲而自合鸞歌。響遏青雲,字字而偏諧鳳律。楊柳大堤之句,樂府相傳。芙蓉曲渚之篇,豪家自制。莫不爭高門下,三千玳瑁之簪。競富樽前,數十珊瑚之樹。則有綺筵公子,繡幌佳人,遞葉葉之花箋,文抽麗錦。舉纖纖之玉指,拍按香檀。不無清絕之辭,用助嬌嬈之態。自南朝之宮體,扇北裏之倡風,何止言之不文,所謂秀而不實。有唐已降,率土之濱,家家之香徑春風,寧尋越豔。處處之紅樓夜月,自鎖常娥。在明皇朝則有李太白應制《清平樂》詞四首,近代溫飛卿複有《金筌集》。邇來作者,無愧前人。今衛尉少卿趙崇祚,以拾翠洲邊,自得羽毛之異。織綃泉底,獨殊機杼之功。廣會眾賓,時延佳論。因集近來詩客曲子詞五百首,分為十卷,以炯粗預知音,辱請命題,仍為序引。昔郢人有歌《陽春》者,號為絕唱,乃命之為《花間集》。庶(以陽春之甲將)使西園英哲,用資羽蓋之歡。南國嬋娟,休唱蓮舟之引。時大蜀廣政三年夏四月日序。
花 間 集
(1)
『花間集』詞人の一人である欧陽烱は、衛尉少卿の任にあった趙崇祚が大勢の文士を集めて討論をさせ、選んだ五百首の詞集を編纂し、題名を付けるよう請われ、序の形で、その経緯や『花間集』詞の特質や『花間集』詞が如何なる文学の流れを汲むものか、またそれがどんな環境のもとで歌われたかを明らかにした。
欧陽烱はまず冒頭で、『花間集』に収められた詞は、玉に彫刻を施しその美しきに一層の磨きをかけたようなものであり、天然の造化を模倣しながらも、それより造かに巧みであること、またそれは、あたかも春の花や葉を切り取って、春と鮮やかさを競い合ぅかのようであると断言する。
(2)
その歌は、昔、国中を探してもわずか数人の著しか歌えなかった高雅な白雲謡の歌にも似て、それを仙女のような女性が歌えば、それを聞きつつ酒を傾ける男たちは陶然として酒に酔うと述べ、『花間集』の詞が歌姫の侍る宴席で歌われるものであったことを示唆する。「春の艶やかさを奪い」とは、『花間集』に詠われた季節に春が圧倒的に多いことによる。仙女のような歌姫が歌う『花間集』の詞は、その昔の一つ一つが自ずから鸞鳥の鳴き声に合致し、その響きは空を流れる雲をも留めるほどであり、その言葉の一つ一つは十二音階の音律にぴったりと合っていることを指摘する。
(3)
続いて欧陽烱は、『花間集』 の詞が楽府詩に連なるものであり、贅沢を競い合うどんな富豪の家を凌駕する趙家の(趙崇祚)の豪華な宴席では、貴公子が詞を色紙にしたためて美女に手渡すと、それを受け取った美女が拍子木を手に取って、それを歌えば、美女の美しきは嫌が上にも勝ると言い、ここでも『花間集』の詞が宴席のためのものであることを言う。
(4)
『花間集』の詞に類似する歌は、既に南朝の時代に作られているが、それは言葉が雅やかでないばかりか、実体を伴わぬ空疎なものであったこと、そして、唐の玄宗皇帝の時代になって初めて外面内面ともにそなわった清平楽調が作られ、近年に至って温庭第の詞集『金茎集』が現れたことを指摘し、詞が名実ともに新しい時代の文学となったことを言う。しかし、この評価は巻末の晃謙之の欧文とは相反するものがある。この後、欧陽桐は筆を続けて、先に触れた『花間集』命名の謂われについて語り筆を結ぶ。欧陽胴は 『花間集』 にきわめて高い評価を与えているが、これは自身が 『花間集』 詞人の一員であったこと、また、編集者の趙崇祚との人間関係に起因するものといえよう。
花間集序-#1
(花間集序)
鏤玉雕瓊,擬化工而回巧。
『花間集』の詞は美玉をさらに彫刻を施したようだ、造化にならってそれよりも遙かに巧みである。
裁花剪葉,奪春豔以爭鮮。
そこにある詩の花や葉を裁ち、剪定してととのえ、男と女の春の艶めきを取り込んで鮮やかさを競い合うがごとく作った歌をあつめている。
是以唱雲謠則金母詞清,挹霞醴則穆王心醉。
それ故に穆王がために白雲の歌を唱えは、西王母の歌声は清らかに、仙酒を酌めば、穆王は心から酔いしれるものをとりあげる。
名高白雪,聲聲而自合鸞歌。
その歌は国中でわずか数人の者しか歌えなかったという白雪の歌よりも名が轟き、その昔の一つ一つは作られた歌詞が美しい音楽に自ずから鸞鳥の唱に合っているというものを選んでいる。
響遏青雲,字字而偏諧鳳律。
その響きは行く雲をも留めて感動的であるし、言葉の一つ一つは十二律の音律にみな唱和し、適合している。
(花間集の序)
玉を鏤り瓊を雕り,化工に擬【のぞら】えて回【はる】かに巧なり。
花を裁ち葉を剪り,春豔を奪いて以って鮮を爭う。
是を以て雲謠を唱えば則ち 金母の詞 清らかなり,霞醴を挹めば則ち 穆王の心 醉うなり。
名は白雪より高く,聲聲は而して自ら鸞歌に合す。
響は青雲を遏【とど】め,字字は而して偏に鳳律に諧【かな】う。
-#2
楊柳大堤之句,樂府相傳。
古楽府の名曲「折楊柳」「楊柳枝」、「大堤曲」「大堤行」の歌は、楽府詩、教坊の曲として長く伝えられているようなものを選んだのである。
芙蓉曲渚之篇,豪家自制。
漢の古詩で詠った「芙蓉」、六朝何遜の「曲渚」の篇は文豪大家が自ら作ったものであるものを選んだ。
莫不爭高門下,三千玳瑁之簪。
趙崇祚の贅の限りを尽くした邸宅の文芸サロンで、木陰に遊び、詩を論じ、道を論じ合ったが爭うことはなく、そこで、数知れぬ鼈甲の簪を飾った妓女を競わぬ者はなかったのだ。
競富樽前,數十珊瑚之樹。
盛大な宴席においては歌向ける大盃を呑み競うけれど、趙一族の邸宅に在る数多くの珊瑚の樹の豪華さを競い合える者はまったくいなかった。
則有綺筵公子,繡幌佳人,
かくて、きらびやかな宴席には公子たちが侍り、繍の帳の陰にはかならず美人が寄り添っていたのである。
遞葉葉之花箋,文抽麗錦。
公子は歌をしたためた色紙を風流な美人に寄せたもので、彼らが良いと思ったものを選び、その歌の文句は麗しい錦のような煌びやかで、あでやかな詞を選び出す。
舉纖纖之玉指,拍按香檀。
洗練された美人は白玉のような細い指で、選ばれたその詞を拍子木で調子を取って歌う。
不無清絕之辭,用助嬌嬈之態。
その選ばれた清らかな歌の詞は、佳人の艶やかさによって、いやが上にも引き立てずられたのである。
-#2
楊柳大堤の句、楽府 相い伝え、芙蓉曲渚の篇、豪家 自ら製す。
高門の下、三千の玳瑁の簪を争い、富罇の前、数十の珊瑚の樹を競わざるは莫し。
則ち綺延の公子、繍幌の佳人 有り、
葉葉の花牋を逓し、文は麗錦を抽き、
繊繊たる玉指を挙げて、柏は香檀を按ず。
清絶の辞、用て矯饒の態を助くること無くんはあらず。
-#3
自南朝之宮體,扇北裏之倡風,
その歌の言葉は雅やかでないばかりか、文体も成り立たないものもあり、いわゆる「花咲いて実のならぬ」空虚なものであった。
何止言之不文,所謂秀而不實。
六朝南朝から続いた後宮の女性を題材とした艶麗な宮廷風の詩は、紅楼の少し色っぽい音曲歌舞(教坊の曲)の流行を勢いづけた。
有唐已降,率土之濱,
詩文が最高潮となった唐より後は、唐の滅亡、都の政情不安により、詩文、音曲歌舞は各地に分散し国の津々浦々に至るまで広がるということになった。
家家之香徑春風,寧尋越豔。
蜀の家々の庭先には花が咲きみだれ、花の香りが春風に乗って小道に吹きわたり、南国の美女を訪ねるまでもなく、文化は成長したのである。
處處之紅樓夜月,自鎖常娥。
したがって、至る所の紅楼に夜の月が照り輝き、言わずもがな、そこには嫦娥のような美しい女性があつまってきたのである。
-#3
南朝の宮体、北里の倡風を扇りてより、
何ぞ「之を言いて文ならず」、所謂「秀でて実らざる」に止まらんや。
有唐巳降【いこう】、率土の浜、
家家の香逕春風、寧くんぞ越艶を尋ねん。
処処の紅楼、夜月 自ら常娥を墳ざす。
-#4
在明皇朝則有李太白應制《清平樂》詞四首,近代溫飛卿複有《金筌集》。
花間集が手本としたものに、玄宗の御代には、李太白が天子のお言葉に応えて作った清平楽詞四首があり、近頃になっては溫飛卿庭筠の『金筌集』があり、これらの影響を受けている。
邇來作者,無愧前人。
以後、詞人はみな前人に恥じない者ばかりを選んだ。
今衛尉少卿弘基(趙崇祚),以拾翠洲邊,自得羽毛之異。
ところで、当世の衛尉少卿弘基殿は翡翠の羽を洲のほとりに拾い、見事な羽を手に入れたのである。(趙家の奢侈なサロンで優雅な雰囲気の中に詞は集められた)
織綃泉底,獨殊機杼之功。
蛟人のように綺麗な水底に絹を織り、素晴らしい機織りの技を示すかのように、出来栄えの良い、順序秩序を間違えぬ良き歌を集められた。
廣會眾賓,時延佳論。
そしてそのサロンにおいて、幅広く大勢の客人を一堂に会して、議論を繰り広げさせたのである。
-#4
明皇の朝に在りては、則ち李太白の応制清平楽詞四首 有り、近代の温飛卿には復た『金筌集』有り。
邇来 作者 前人に塊ずること無し。今
衛尉少卿 字は弘基、翠を洲辺に拾い、自ら羽毛の異なれるを得て、綃を泉底に織り、独り機杼の功 殊なるを以て、広く衆賓を会し、時に佳論を延ぶ。
-#5
因集近來詩客曲子詞五百首,分為十卷,以炯粗預知音,辱請命題,仍為序引。
昔郢人有歌《陽春》者,號為絕唱,乃命之為《花間集》。
庶(以陽春之甲將)使西園英哲,用資羽蓋之歡。南國嬋娟,休唱蓮舟之引。
時大蜀廣政三年夏四月日序。
-#5
困りて近来の詩客の曲子詞五百首を集め、分けて十巻と為す。
烱 粗ぼ知音に預かるを以て、命題を請わるるを辱くし、仍りて序引を為る。
昔 郢人に陽春を歌う者有り、号して絶唱と為す。
乃ち之に命じて『花間集』と為す。
庶わくは西園の英哲をして用て羽蓋の歓びを資けしめ、南国の嬋娟をして蓮舟の引を唱うを休めしめんことを。時に大蜀広政三年夏四月日 序す。
『花間集序』 現代語訳と訳註解説
(本文) -#
在明皇朝則有李太白應制《清平樂》詞四首,近代溫飛卿複有《金筌集》。
邇來作者,無愧前人。
今衛尉少卿趙崇祚,以拾翠洲邊,自得羽毛之異。
織綃泉底,獨殊機杼之功。
廣會眾賓,時延佳論。
(下し文) -#4
明皇の朝に在りては、則ち李太白の応制清平楽詞四首 有り、近代の温飛卿には復た『金筌集』有り。
邇来 作者 前人に塊ずること無し。今
衛尉少卿 字は弘基、翠を洲辺に拾い、自ら羽毛の異なれるを得て、綃を泉底に織り、独り機杼の功 殊なるを以て、広く衆賓を会し、時に佳論を延ぶ。
(現代語訳)
花間集が手本としたものに、玄宗の御代には、李太白が天子のお言葉に応えて作った清平楽詞四首があり、近頃になっては溫飛卿庭筠の『金筌集』があり、これらの影響を受けている。
以後、詞人はみな前人に恥じない者ばかりを選んだ。
ところで、当世の衛尉少卿弘基殿は翡翠の羽を洲のほとりに拾い、見事な羽を手に入れたのである。(趙家の奢侈なサロンで優雅な雰囲気の中に詞は集められた)
蛟人のように綺麗な水底に絹を織り、素晴らしい機織りの技を示すかのように、出来栄えの良い、順序秩序を間違えぬ良き歌を集められた。
そしてそのサロンにおいて、幅広く大勢の客人を一堂に会して、議論を繰り広げさせたのである。
(訳注)
花間集序
『花間集』詞人の一人である欧陽烱は、衛尉少卿の任にあった趙崇祚が大勢の文士を集めて討論をさせ、選んだ五百首の詞集を編纂し、題名を付けるよう請われ、序の形で、その経緯や『花間集』詞の特質や『花間集』詞が如何なる文学の流れを汲むものか、またそれがどんな環境のもとで歌われたかを明らかにした。
在明皇朝則有李太白應制《清平樂》詞四首,近代溫飛卿複有《金筌集》。
花間集が手本としたものに、玄宗の御代には、李太白が天子のお言葉に応えて作った清平楽詞四首があり、近頃になっては溫飛卿庭筠の『金筌集』があり、これらの影響を受けている。
○明皇 唐の玄宗皇帝。
○李太白 盛唐の詩人、李白。太白は字。・李白《清平樂》詞四首 参考に末尾に李白詩清平楽五首、清平調三首を掲載した。
○応制 天子の詔に応えて詩を作ること、またその詩。
○清平楽 詞牌すなわち曲名。李白の清平楽の詞は、現在、『尊前集』に五首残るが、ここに言う清平楽と同じ作品かどうかは不明。なお玄宗の命で楊貴妃の美を称えて詠んだ、いわゆる七言絶句の清平調三首とは異なる。
○温飛卿 晩唐の溫庭筠。飛卿は字。後の作者解説参照。・溫飛卿複有《金筌集》
○金筌集 温庭第の詞集。詞集の囁矢をなすが、今は亡んで伝わらない。
1 温庭筠 おんていいん
(812頃―870以後)本名は岐、字は飛卿、幷州(山西省大原)の人。初唐の宰相温彦博の子孫にあたるといわれる。年少のころから詩をよくしたが、素行がわるく頽廃遊蕩生活に耽り、歌樓妓館のところに出入して、艶麗な歌曲ばかりつくっていた。進士の試験にも落第をつづけ、官途につくこともできなかった。徐商が裏陽(湖北)の地方長官をしていたとき、採用されて巡官となり、ついで徐商が中央の高官(成通のはじめ尚書省に入る)になったので、さらに任用されようとしたが成らなかった。859年頃に詩名によって特に召されて登用され、国子(大学)助教となった。たが、叙任前に微行中の宣宗に無礼があって罷免され、晩年は流落して終わった。そのため、生歿が未詳である。
集に撞蘭集三巻、金墨集十巻、漢南其稿十巻があったという。かれは晩唐の詩人として李商隠と相並び、「温李」として名を知られている。音楽に精しく、鼓琴吹笛などを善くし、当時流行しつつあった詞の作家としても韋荘と相並んで「温韋」の称があった。その詞の大部分は超崇祚の編した花間集に収載されている。洗練された綺麗な辞句をもちいた、桃李の花を見るような艶美な作風は花間集一派の詞人を代表するもので、「深美閎約」と批評されているその印象的なうつくしさにおいてほ花間集中、及ぶものがないといってよく、韋荘の綺麗さとよい対照をなしている。王国維が花間集に収載する六十六首のほか他書に散見するものを合せて輯した金荃詞一巻があり、七十首を伝えている。
邇來作者,無愧前人。
以後、詞人はみな前人に恥じない者ばかりを選んだ。
○邁来 以来。
今衛尉少卿弘基(趙崇祚),以拾翠洲邊,自得羽毛之異。
ところで、当世の衛尉少卿弘基殿は翡翠の羽を洲のほとりに拾い、見事な羽を手に入れたのである。(趙家野奢侈なサロンで優雅な雰囲気の中に詞は集められた)
○衛尉少卿 官名。兵使、甲胃、武器などを管掌。
○弘基 趙崇祚の字。『花間集』の編者であり、蜀の孟昶に仕えて衛尉少卿になった。編者の趙崇祚は、祖籍は開祖父の趙廷隠が後蜀の大祖・孟知祥に従って蜀に入り、親軍を統括すること十数年。趙崇祚は衛尉少卿となり、弟の崇韜は都知領殿直となって、ともに親軍の指揮に参与した。趙氏一門は要職を占め、その暮らしぶりは贅を尽くしたものであった。
『太平廣記』巻四〇九引孫光憲《北夢瑣言》「趙廷除起南宅北宅、千梁萬供、其諸奢麗、莫之與儔。後枕江瀆、池中有二島嶼、遂甃石循池、四岸皆種垂楊、或間雜木芙蓉、池中種藕。毎至秋夏、花開魚躍、柳陰之下、有士子執巻者、垂綸者、執如意者、執塵尾奢、譚詩論道者。」
邸宅は並ぶものがないほど豪奢で、庭の池に二つの島を造り、岸辺に楊柳を、池の端に水芙蓉を、池の中に蓮を植えていた。毎年、夏や秋になれば、花は咲き魚は躍り、柳の木陰で人々が思い思いに巻物を持ち、釣糸を垂れ、如意やら大
鹿の尾で作った払子やらを揮い、詩を語り、道を論じたりしていた。
趙崇祚はこのサロンで、「広く賓客に会い、時に談論風発する中で、近来の詩客の曲子詞五百首を集め、十巻に分けた」という。
○拾翠 翡翠の羽を拾う。翡翠は雄と雌で色が違い、高貴な閨に飾られるものであることから、閨情詞、艶詞のたぐいをさすので、ここでは詞を捜し集めること。
○羽毛之異 美しい羽毛。ここでは優れた詞の意。
織綃泉底,獨殊機杼之功。
蛟人のように綺麗な水底に絹を織り、素晴らしい機織りの技を示すかのように、出来栄えの良い、順序秩序を間違えぬ良き歌を集められた。
○織綃泉底 『博物志』に、「蛟人は魚のように水中で暮らしており、常に紡いだり織ったりしていて、時たま海中から出て人家に綃を売りさばく」とまた『述異記』に「南海から鮫綃紗を産出する。またの名を亀紗と言う。その値段は百金余り」と。ここは優れた詞集を編纂することの喩え。
○独殊 特に優れている。
〇機杼之功 機織り仕事の出来はえ。ここでは『花間集』編纂の出来ばえのこと。機杼は織りの横糸を通す杼。
廣會眾賓,時延佳論。
そしてそのサロンにおいて、幅広く大勢の客人を一堂に会して、議論を繰り広げさせたのである。
○延佳論 優れた議論を展開する。
李白詩 尊前集 清平楽五首、清平調三首
李太白集 《巻二十五補遺》清平楽令二首、清平楽三首、《巻四》清平調三首
清平樂 一(一)
禁庭春畫。鶯羽披新繡。百草巧求花下鬥。祗賭珠璣滿鬥。
日晚卻理殘妝。禦前閑舞霓裳。誰道腰肢窈窕,折旋笑得君王。
清平樂 二(二)
禁闈清夜。月探金窗罅。玉帳鴛鴦噴蘭麝。時落銀燈香ㄠ。
女伴莫話孤眠。六宮羅綺三千。一笑皆生百媚,宸衷教在誰邊。
清平樂 三(一)
煙深水闊。音信無由達。惟有碧天雲外月。偏照懸懸離別。
盡日感事傷懷。愁眉似鎖難開。夜夜長留半被,待君魂夢歸來。
清平樂 四(二)
鸞衾鳳褥。夜夜常孤宿。更被銀臺紅蠟燭。學妾淚珠相續。
花貌些子時光。拋人遠泛瀟湘。欹枕悔聽寒漏,聲聲滴斷愁腸。
清平樂 五(三)
畫堂晨起。來報雪花墜。高卷簾櫳看佳瑞。皓色遠迷庭砌。
盛氣光引爐煙,素草寒生玉佩。應是天仙狂醉。亂把白雲揉碎。
清平調 三首其一
雲想衣裳花想容。春風拂檻露華濃。若非群玉山頭見,會向瑤臺月下逢。
清平調 三首其二
一枝紅艷露凝香。雲雨巫山枉斷腸。借問漢宮誰得似,可憐飛燕倚新妝。
清平調 三首其三
名花傾國兩相歡。常得君王帶笑看。解得春風無限恨。沈香亭北倚闌幹。
1.花間集 全500首 訳注解説(5漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7592
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| 花間集 五百首 | | |||
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花間集序花間集序
作者:武徳郡節度判官歐陽炯 撰
鏤玉雕瓊,擬化工而回巧。裁花剪葉,奪春豔以爭鮮。是以唱雲謠則金母詞清,挹霞醴則穆王心醉。名高白雪,聲聲而自合鸞歌。響遏青雲,字字而偏諧鳳律。楊柳大堤之句,樂府相傳。芙蓉曲渚之篇,豪家自制。莫不爭高門下,三千玳瑁之簪。競富樽前,數十珊瑚之樹。則有綺筵公子,繡幌佳人,遞葉葉之花箋,文抽麗錦。舉纖纖之玉指,拍按香檀。不無清絕之辭,用助嬌嬈之態。自南朝之宮體,扇北裏之倡風,何止言之不文,所謂秀而不實。有唐已降,率土之濱,家家之香徑春風,寧尋越豔。處處之紅樓夜月,自鎖常娥。在明皇朝則有李太白應制《清平樂》詞四首,近代溫飛卿複有《金筌集》。邇來作者,無愧前人。今衛尉少卿趙崇祚,以拾翠洲邊,自得羽毛之異。織綃泉底,獨殊機杼之功。廣會眾賓,時延佳論。因集近來詩客曲子詞五百首,分為十卷,以炯粗預知音,辱請命題,仍為序引。昔郢人有歌《陽春》者,號為絕唱,乃命之為《花間集》。庶(以陽春之甲將)使西園英哲,用資羽蓋之歡。南國嬋娟,休唱蓮舟之引。時大蜀廣政三年夏四月日序。
花 間 集
(1)
『花間集』詞人の一人である欧陽烱は、衛尉少卿の任にあった趙崇祚が大勢の文士を集めて討論をさせ、選んだ五百首の詞集を編纂し、題名を付けるよう請われ、序の形で、その経緯や『花間集』詞の特質や『花間集』詞が如何なる文学の流れを汲むものか、またそれがどんな環境のもとで歌われたかを明らかにした。
欧陽烱はまず冒頭で、『花間集』に収められた詞は、玉に彫刻を施しその美しきに一層の磨きをかけたようなものであり、天然の造化を模倣しながらも、それより造かに巧みであること、またそれは、あたかも春の花や葉を切り取って、春と鮮やかさを競い合ぅかのようであると断言する。
(2)
その歌は、昔、国中を探してもわずか数人の著しか歌えなかった高雅な白雲謡の歌にも似て、それを仙女のような女性が歌えば、それを聞きつつ酒を傾ける男たちは陶然として酒に酔うと述べ、『花間集』の詞が歌姫の侍る宴席で歌われるものであったことを示唆する。「春の艶やかさを奪い」とは、『花間集』に詠われた季節に春が圧倒的に多いことによる。仙女のような歌姫が歌う『花間集』の詞は、その昔の一つ一つが自ずから鸞鳥の鳴き声に合致し、その響きは空を流れる雲をも留めるほどであり、その言葉の一つ一つは十二音階の音律にぴったりと合っていることを指摘する。
(3)
続いて欧陽烱は、『花間集』 の詞が楽府詩に連なるものであり、贅沢を競い合うどんな富豪の家を凌駕する趙家の(趙崇祚)の豪華な宴席では、貴公子が詞を色紙にしたためて美女に手渡すと、それを受け取った美女が拍子木を手に取って、それを歌えば、美女の美しきは嫌が上にも勝ると言い、ここでも『花間集』の詞が宴席のためのものであることを言う。
(4)
『花間集』の詞に類似する歌は、既に南朝の時代に作られているが、それは言葉が雅やかでないばかりか、実体を伴わぬ空疎なものであったこと、そして、唐の玄宗皇帝の時代になって初めて外面内面ともにそなわった清平楽調が作られ、近年に至って温庭第の詞集『金茎集』が現れたことを指摘し、詞が名実ともに新しい時代の文学となったことを言う。しかし、この評価は巻末の晃謙之の欧文とは相反するものがある。この後、欧陽桐は筆を続けて、先に触れた『花間集』命名の謂われについて語り筆を結ぶ。欧陽胴は 『花間集』 にきわめて高い評価を与えているが、これは自身が 『花間集』 詞人の一員であったこと、また、編集者の趙崇祚との人間関係に起因するものといえよう。
(5)
(5)-1
唐が滅亡して、中原では五つの王朝が長江流域では十数もの地方政権が興亡を繰り返したが、四川盆地を拠とする前・後の蜀は豊かな経済力を基盤に安定した地域となっていた。前・後の蜀は君臣共に一時の安逸をむさぼり、享楽に耽ることで、ここに前・後の蜀の頽廃文化が形成された。それの中核を担ったのは、中原、江南から、文化人のみならず、妓優、楽工、各種職人が戦火を避けて、蜀の地に終結したことが大きな原因である。
(5)-2
編者の趙崇祚は、祖籍は開祖父の趙廷隠が後蜀の大祖・孟知祥に従って蜀に入り、親軍を統括すること十数年。趙崇祚は衛尉少卿となり、弟の崇韜は都知領殿直となって、ともに親軍の指揮に参与した。趙氏一門は要職を占め、その暮らしぶりは贅を尽くしたものであった。
『太平廣記』巻四〇九引孫光憲《北夢瑣言》「趙廷除起南宅北宅、千梁萬供、其諸奢麗、莫之與儔。後枕江瀆、池中有二島嶼、遂甃石循池、四岸皆種垂楊、或間雜木芙蓉、池中種藕。毎至秋夏、花開魚躍、柳陰之下、有士子執巻者、垂綸者、執如意者、執塵尾奢、譚詩論道者。」
邸宅は並ぶものがないほど豪奢で、庭の池に二つの島を造り、岸辺に楊柳を、池の端に水芙蓉を、池の中に蓮を植えていた。毎年、夏や秋になれば、花は咲き魚は躍り、柳の木陰で人々が思い思いに巻物を持ち、釣糸を垂れ、如意やら大
鹿の尾で作った払子やらを揮い、詩を語り、道を論じたりしていた。
趙崇祚はこのすべての芸の優れたもの、風流あるものを集めたサロンで、「広く賓客に会い、時に談論風発する中で、近来の詩客の曲子詞五百首を集め、十巻に分けた」という。
花間集序-#1
(花間集序)
鏤玉雕瓊,擬化工而回巧。
『花間集』の詞は美玉をさらに彫刻を施したようだ、造化にならってそれよりも遙かに巧みである。
裁花剪葉,奪春豔以爭鮮。
そこにある詩の花や葉を裁ち、剪定してととのえ、男と女の春の艶めきを取り込んで鮮やかさを競い合うがごとく作った歌をあつめている。
是以唱雲謠則金母詞清,挹霞醴則穆王心醉。
それ故に穆王がために白雲の歌を唱えは、西王母の歌声は清らかに、仙酒を酌めば、穆王は心から酔いしれるものをとりあげる。
名高白雪,聲聲而自合鸞歌。
その歌は国中でわずか数人の者しか歌えなかったという白雪の歌よりも名が轟き、その昔の一つ一つは作られた歌詞が美しい音楽に自ずから鸞鳥の唱に合っているというものを選んでいる。
響遏青雲,字字而偏諧鳳律。
その響きは行く雲をも留めて感動的であるし、言葉の一つ一つは十二律の音律にみな唱和し、適合している。
(花間集の序)
玉を鏤り瓊を雕り,化工に擬【のぞら】えて回【はる】かに巧なり。
花を裁ち葉を剪り,春豔を奪いて以って鮮を爭う。
是を以て雲謠を唱えば則ち 金母の詞 清らかなり,霞醴を挹めば則ち 穆王の心 醉うなり。
名は白雪より高く,聲聲は而して自ら鸞歌に合す。
響は青雲を遏【とど】め,字字は而して偏に鳳律に諧【かな】う。
-#2
楊柳大堤之句,樂府相傳。
古楽府の名曲「折楊柳」「楊柳枝」、「大堤曲」「大堤行」の歌は、楽府詩、教坊の曲として長く伝えられているようなものを選んだのである。
芙蓉曲渚之篇,豪家自制。
漢の古詩で詠った「芙蓉」、六朝何遜の「曲渚」の篇は文豪大家が自ら作ったものであるものを選んだ。
莫不爭高門下,三千玳瑁之簪。
趙崇祚の贅の限りを尽くした邸宅の文芸サロンで、木陰に遊び、詩を論じ、道を論じ合ったが爭うことはなく、そこで、数知れぬ鼈甲の簪を飾った妓女を競わぬ者はなかったのだ。
競富樽前,數十珊瑚之樹。
盛大な宴席においては歌向ける大盃を呑み競うけれど、趙一族の邸宅に在る数多くの珊瑚の樹の豪華さを競い合える者はまったくいなかった。
則有綺筵公子,繡幌佳人,
かくて、きらびやかな宴席には公子たちが侍り、繍の帳の陰にはかならず美人が寄り添っていたのである。
遞葉葉之花箋,文抽麗錦。
公子は歌をしたためた色紙を風流な美人に寄せたもので、彼らが良いと思ったものを選び、その歌の文句は麗しい錦のような煌びやかで、あでやかな詞を選び出す。
舉纖纖之玉指,拍按香檀。
洗練された美人は白玉のような細い指で、選ばれたその詞を拍子木で調子を取って歌う。
不無清絕之辭,用助嬌嬈之態。
その選ばれた清らかな歌の詞は、佳人の艶やかさによって、いやが上にも引き立てずられたのである。
-#2
楊柳大堤の句、楽府 相い伝え、芙蓉曲渚の篇、豪家 自ら製す。
高門の下、三千の玳瑁の簪を争い、富罇の前、数十の珊瑚の樹を競わざるは莫し。
則ち綺延の公子、繍幌の佳人 有り、
葉葉の花牋を逓し、文は麗錦を抽き、
繊繊たる玉指を挙げて、柏は香檀を按ず。
清絶の辞、用て矯饒の態を助くること無くんはあらず。
-#3
自南朝之宮體,扇北裏之倡風,
その歌の言葉は雅やかでないばかりか、文体も成り立たないものもあり、いわゆる「花咲いて実のならぬ」空虚なものであった。
何止言之不文,所謂秀而不實。
六朝南朝から続いた後宮の女性を題材とした艶麗な宮廷風の詩は、紅楼の少し色っぽい音曲歌舞(教坊の曲)の流行を勢いづけた。
有唐已降,率土之濱,
詩文が最高潮となった唐より後は、唐の滅亡、都の政情不安により、詩文、音曲歌舞は各地に分散し国の津々浦々に至るまで広がるということになった。
家家之香徑春風,寧尋越豔。
蜀の家々の庭先には花が咲きみだれ、花の香りが春風に乗って小道に吹きわたり、南国の美女を訪ねるまでもなく、文化は成長したのである。
處處之紅樓夜月,自鎖常娥。
したがって、至る所の紅楼に夜の月が照り輝き、言わずもがな、そこには嫦娥のような美しい女性があつまってきたのである。
-#3
南朝の宮体、北里の倡風を扇りてより、
何ぞ「之を言いて文ならず」、所謂「秀でて実らざる」に止まらんや。
有唐巳降【いこう】、率土の浜、
家家の香逕春風、寧くんぞ越艶を尋ねん。
処処の紅楼、夜月 自ら常娥を墳ざす。
-#4
在明皇朝則有李太白應制《清平樂》詞四首,近代溫飛卿複有《金筌集》。
花間集が手本としたものに、玄宗の御代には、李太白が天子のお言葉に応えて作った清平楽詞四首があり、近頃になっては溫飛卿庭筠の『金筌集』があり、これらの影響を受けている。
邇來作者,無愧前人。
以後、詞人はみな前人に恥じない者ばかりを選んだ。
今衛尉少卿弘基(趙崇祚),以拾翠洲邊,自得羽毛之異。
ところで、当世の衛尉少卿弘基殿は翡翠の羽を洲のほとりに拾い、見事な羽を手に入れたのである。(趙家の奢侈なサロンで優雅な雰囲気の中に詞は集められた)
織綃泉底,獨殊機杼之功。
蛟人のように綺麗な水底に絹を織り、素晴らしい機織りの技を示すかのように、出来栄えの良い、順序秩序を間違えぬ良き歌を集められた。
廣會眾賓,時延佳論。
そしてそのサロンにおいて、幅広く大勢の客人を一堂に会して、議論を繰り広げさせたのである。
-#4
明皇の朝に在りては、則ち李太白の応制清平楽詞四首 有り、近代の温飛卿には復た『金筌集』有り。
邇来 作者 前人に塊ずること無し。今
衛尉少卿 字は弘基、翠を洲辺に拾い、自ら羽毛の異なれるを得て、綃を泉底に織り、独り機杼の功 殊なるを以て、広く衆賓を会し、時に佳論を延ぶ。
-#5
因集近來詩客曲子詞五百首,分為十卷,
かくて、近来の各地からここに集まった詩人たちの中から十七人の歌詞五百首を議論の上選り集め、分けて十巻とした。
以炯粗預知音,辱請命題,仍為序引。
私、欧陽烱は、いささか音楽に通じ、詩人、楽工と旧知であることでとりまとめ、かたじけなくもこの詩集の題名をつけるよう依頼されたので、よって序文をしたためた。
昔郢人有歌《陽春》者,號為絕唱,乃命之為《花間集》。
昔、楚の都、郢に《陽春白雪の歌》を歌う者がいて、絶唱と称された。そこでこれを『花間集』と名付けることにした。
庶(以陽春之甲將)使西園英哲,用資羽蓋之歡。
願わくは、(《陽春白雪の歌》を歌う者たちによって)この集が漢の西苑に比す趙家のサロンの才人、文人が集結した、その集い議論によって高められることの喜びにあふれた。
南國嬋娟,休唱蓮舟之引。
こうして、古くからの女子の詞と云えば「採蓮曲」舟歌であった、これに代わって、南国の雅な美しき女らを嬋娟に唱いあげたものがこの詩集なのである。
時大蜀廣政三年夏四月日序。
編纂時は大蜀、広政三年(940年)夏四月吉日に記す。
-#5
困りて近来の詩客の曲子詞五百首を集め、分けて十巻と為す。
烱 粗ぼ知音に預かるを以て、命題を請わるるを辱くし、仍りて序引を為る。
昔 郢人に陽春を歌う者有り、号して絶唱と為し、乃ち之に命じて『花間集』と為す。
庶わくは西園の英哲をして用て羽蓋の歓びを資けしめ、南国の嬋娟をして蓮舟の引を唱うを休めしめんことを。時に大蜀広政三年夏四月日 序す。
『花間集序』 現代語訳と訳註解説
(本文) -#5
因集近來詩客曲子詞五百首,分為十卷,
以炯粗預知音,辱請命題,仍為序引。
昔郢人有歌《陽春》者,號為絕唱,乃命之為《花間集》。
庶(以陽春之甲將)使西園英哲,用資羽蓋之歡。
南國嬋娟,休唱蓮舟之引。
時大蜀廣政三年夏四月日序。
(下し文)
-#5
困りて近来の詩客の曲子詞五百首を集め、分けて十巻と為す。
烱 粗ぼ知音に預かるを以て、命題を請わるるを辱くし、仍りて序引を為る。
昔 郢人に陽春を歌う者有り、号して絶唱と為し、乃ち之に命じて『花間集』と為す。
庶わくは西園の英哲をして用て羽蓋の歓びを資けしめ、南国の嬋娟をして蓮舟の引を唱うを休めしめんことを。時に大蜀広政三年夏四月日 序す。
(現代語訳)
かくて、近来の各地からここに集まった詩人たちの中から十七人の歌詞五百首を議論の上選り集め、分けて十巻とした。
私、欧陽烱は、いささか音楽に通じ、詩人、楽工と旧知であることでとりまとめ、かたじけなくもこの詩集の題名をつけるよう依頼されたので、よって序文をしたためた。
昔、楚の都、郢に《陽春白雪の歌》を歌う者がいて、絶唱と称された。そこでこれを『花間集』と名付けることにした。
願わくは、(《陽春白雪の歌》を歌う者たちによって)この集が漢の西苑に比す趙家のサロンの才人、文人が集結した、その集い議論によって高められることの喜びにあふれた。
こうして、古くからの女子の詞と云えば「採蓮曲」舟歌であった、これに代わって、南国の雅な美しき女らを嬋娟に唱いあげたものがこの詩集なのである。
編纂時は大蜀、広政三年(940年)夏四月吉日に記す。
(訳注) -#5
花間集序
『花間集』詞人の一人である欧陽烱は、衛尉少卿の任にあった趙崇祚が大勢の文士を集めて討論をさせ、選んだ五百首の詞集を編纂し、題名を付けるよう請われ、序の形で、その経緯や『花間集』詞の特質や『花間集』詞が如何なる文学の流れを汲むものか、またそれがどんな環境のもとで歌われたかを明らかにした。
因集近來詩客曲子詞五百首,分為十卷,
かくて、近来の各地からここに集まった詩人たちの中から十七人の歌詞五百首を議論の上選り集め、分けて十巻とした。
○詩客曲子詞 詩人の歌詞。曲子詞は曲につけられた歌詞の意。曲子の子は接尾辞。この一句は『花間集』の詞が民間の卑俗な歌と違って、詩人の手に成る洗練された作品であることを言ったもの。
以炯粗預知音,辱請命題,仍為序引。
私、欧陽烱は、いささか音楽に通じ、詩人、楽工と旧知であることでとりまとめ、かたじけなくもこの詩集の題名をつけるよう依頼されたので、よって序文をしたためた。
○爛 欧陽胴の自称。
○粗預知音 少しばかり音楽に詳しい。教坊の曲に合わせた詩という意味で音楽のことを承知しているということであるが、此処の意味は、この十七名の詩人たちと旧知の間で、これらに詩人たちを取りまとめていく力があるということを認められたという意味である。
○序引 序言。
昔郢人有歌《陽春》者,號為絕唱,乃命之為《花間集》。
昔、楚の都、郢に《陽春白雪の歌》を歌う者がいて、絶唱と称された。そこでこれを『花間集』と名付けることにした。
○郢 戦国時代の楚の国の都。今の湖北省の江陵の北部。
○陽春 陽春白雪の曲。先の「白雪」の注参照。
庶(以陽春之甲將)使西園英哲,用資羽蓋之歡。
願わくは、(《陽春白雪の歌》を歌う者たちによって)この集が漢の西苑に比す趙家のサロンの才人、文人が集結した、その集い議論によって高められることの喜びにあふれた。
○庶 願望を表す言葉。
○西園 漢代の御苑の名。ここでは趙崇祚の豪邸の文芸サロンを言う。
○英哲 俊才。
○用資 それによって助ける。用は以に同じ。
○羽蓋之歓 儀式、行事などにおける楽しみ、集いの喜び。
南國嬋娟,休唱蓮舟之引。
こうして、古くからの女子の詞と云えば「採蓮曲」舟歌であった、これに代わって、南国の雅な美しき女らを嬋娟に唱いあげたものがこの詩集なのである。
○南国嬋娟 南国の美女の「浣溪沙」56首、「菩薩蠻」41首、「酒泉子」26首「臨江仙」「竹枝」「楊柳」の各24首「女冠子」「更漏」などの嬋娟詞で過半数を超える。
○蓮舟之引 楽府詩の採蓮曲。南朝の梁代に多く作られた。もともと民間の蓮取り歌に由来するもの。蓮の実を取るには湖面に船を浮かべねばならぬので蓮舟と言った。引は曲の意。
時大蜀廣政三年夏四月日序。
編纂時は大蜀、広政三年(940年)夏四月吉日に記す。
○大蜀 蜀。大は美称。
○広政三年夏四月日 広政は後苛の孟乗の時の年号。広政三年は西暦九四〇年。旧暦では四月、五月、六月が夏。夏四月日と記して、具体的な日付の数字が入っていないのは、序を書きおえて、彫師に渡す時に後から正式に日付を入れるため。
唐朝滅亡後、宋朝が興るまでの間、中原では五代に亘って王朝が交替し、江南を始めとする各地では、小国が分立した。の間の小国分立時代を五代または、五代十国と呼ぶ。この時代は、唐最後の皇帝の譲位から宋建国までの五十余年間と、短い。この中原と江南の政情不安は、才人、技能の優秀なもの、優れた楽工、優秀な妓優らを蜀に集めることとなり、やはり、中原から来た趙一族により、趙家の文芸サロンに集められたことが、花間集というものが、その歴史的背景なのである。
【字解】花間集序
武徳郡節度判官 歐陽炯 撰
○武徳軍節度判官 官名。節度判官は節度使の属官。
○欧陽烱(896-971) 五代の詞人。益州華陽(今の四川省成都)の人。前蜀、後唐、後蜀、宋と四王朝に仕えた。笛に長じ、歌詞を多く作ったが、一流のものは少なかった。なお宋書』 では烱の字が迥になっている。『花間集』に十七首の詞が、『尊前集』に三十一首の詞が収められ、今日、計四十八首の詞が伝わる。欧陽桐の「花間集序」は、当時、詞がどのような環境のもと、何を目的にして作られたか、あるいは詞の由来がどのように認識されていたかについて言及しており、詞史の上で、貴重な文献になっている。
益州の華陽、今の四川省成郡の人。若くして前蜀の王衍に仕えて中書舎人となり、後唐に前蜀が滅ぼされると、王衍に従って洛陽に行った。その後、孟知祥が後蜀を建てたので、欧陽烱は蜀に移り、中書舎人、翰林学士、礼部侍郎、陵州の刺史、吏部侍郎等に任じられた。後蜀が宋によって亡ぼされると、宋朝に帰した。欧陽烱は笛に長じていたので、末の太祖超匡胤は常に彼を召し出し笛を演奏させたと伝えられる。欧陽烱は音楽に明るかったということで、『花間集』の編者、後蜀の趙崇祚に請われて『花間集』の序文を書いた。序文の日付は、後蜀の広政三年(940年)夏四月になっている。欧陽烱の詞は、『花間集』には十七首が収められている。
○鏤玉雕瓊 『花間集』の詞は美しい玉にさらに彫刻を施したようだ、ということ。鐘は彫り刻む。壇は赤玉。
○鏤玉雕瓊 この句も『花間集』の詞の素晴らしさを言う。擬はなぞらえる。化工は造化・造物主のたくみさ。回は迥、遙か。
○春豔以爭鮮 妃嬪、後宮宮女、教坊の曲、妓優、妓女の恋心、逢瀬、別離、棄てられた後の生活、を艶やかに詠う。
○是以 そういうわけで、それ故。
○唱雲謡則金母詞清 「雲謡」は白雲謡。「金母」は西王母。「穆天子伝」に中国の西の果て、西王母の住まう崑崙山の山頂にある池の名。『穆天子伝』に「(穆)天子 西王母を瑤池の上に觴し(酒を勧め)、西王母 天子の為に謡う」というように、西王母が穆天子と会した場。穆天子は周の穆王が伝説化された存在。仙界の女王である西王母と地上の帝王とが交歓する故事は、穆天子のほかに、漢の武帝の話もある。老子が西王母と一緒に碧桃(三千年に一度実が生るという仙界の桃)を食べたという話がある(『芸文類聚』巻八六などが引く『尹喜内伝』)。『漢武故事』には、西王母が七月七日に漢の武帝のもとを訪れ、持参した桃を食べさせた、武帝がその種を取っておこうとすると、西王母がこの桃は三千年に一度実を結ぶものだから地上で構えても無駄だと笑った。どうしてもほしいなら、と約束の訓戒を与えた。武帝は、訓戒を守らず侵略のための浪費と、宮殿を数多くたててまっていた 本句は、西王母と穆天子、老子の故事を借り、『花間集』の詞は、すべての詞が歌姫の侍る宴席で歌われるものであったことを示す。
○挹 酒を酌む。
○霞醴 仙酒。
○穆王 前注の穆天子。
○白雪 古代の高雅な名曲の名。国中でわずか数人の者しか歌えなかったという。○合鸞歌 作られた歌詞が美しい音楽に合っている。鸞は霊鳥の名。鳳凰の一種。神霊の精で、五色の色をそなえ鶏の形をし、鳴き声は五音に適い、ゆったりと厳かで、嬉しい時には舞い踊って楽しむという。
○響遏青雲 歌の響きが流れる雲さえも止めるほどに感動的である。
○鳳律 十二律の音階。十二律は十二音の楽律で、八度にわたる音列を十二音階で形成したもの。今日の音階のハ調と、へ調に当たる。
○楊柳大堤 古楽府の名曲「折楊柳」「楊柳枝」、「大堤曲」「大堤行」等を指す。
○芙蓉曲渚之篇 ・芙蓉(蓮)を詠った「古詩十九首」第六首「涉江采芙蓉,蘭澤多芳草。采之欲遺誰,所思在遠道。還顧望舊鄉,長路漫浩浩。同心而離居,憂傷以終老。」 (江を捗【わた】りて芙蓉【ふよう】を采る、蘭澤【らんたく】芳草【ほうそう】多し。之を采りて誰にか遺【おく】らんと欲する、思ふ所は遠道【えんどう】に在り。還【めぐ】り顧【かえりみ】て 旧郷を望めば、長路漫として浩浩たらん。同心にして離屈【りきょ】せば、憂傷【ゆうしょう】して以て終に老いなん。)
・曲渚(入り江)を詠った南朝梁・何遜作《送韋司馬別詩》「送別臨曲渚,征人慕前侶。離言雖欲繁,離思終無緒。」(韋司馬の別れを送る)詩の「入り江に臨んで別れを見送れば、旅立つ君は友なる我を思う」を指す。いずれも古代の名詩。
〇高門下 趙崇祚の贅の限りを尽くした邸宅の文芸サロンで、木陰に遊び、詩を論じ、道を論じ合ったことをいう。このサロンの談論風発する中で五百首集めた。
○三千玳瑁之簪 三千もの鼈甲の簪。ここでは富豪が互いに贅を競い合うことを言う。
○数十珊瑚之樹 数十もの珊瑚の木。本句も前注同様、趙家と他の富豪の贅を互いに競い合う、の意だが、趙家は富豪たちの贅を凌駕しているからこそ、そこのサロンに権威があったのだ。
○繍幌 刺繍を施した垂れ幕。豪奢な閨をいう。蜀の地に長安・中原の雅な妓優、江南の風流な美人たちが逃げて、集まってきていたことを示す。
○葉葉之花箋 歌を書きつけた一枚一枚の色紙。儀は詩文や手紙を書くための紙。この地には、中唐の薛濤の手による薛濤䇳が有名である。
○文抽麗錦 歌の文句は麗しい錦のような煌びやかで、あでやかな詞を選び出す。
○拍按香檀 拍子木を打ってリズムを取る。香檀は拍子をとるための板状の楽器。香は修飾の語。
○嬌嬈 艶めいてたおやかなさま、またそのような女性によってえらばれた500首はさらに良い詞となったということ。
○南朝 東晋の後を受けて建康(今の南京)に都を置いた宋、斉、梁、陳の四王朝。
○宮体 南朝の斉、梁時代に流行した詩体。主として後宮の女性を題材とした艶麗な詩を指す。
○扇 煽る。
○倡風 少し色っぽい音曲歌舞(教坊の曲)の流行させて、俗っぽく頽廃してゆく。
○率土之濱 国の津々浦々に至るまで広がる。長安、洛陽中心の文学、特に、唐の教坊の詞曲が唐の滅亡、都の政情不安により各地に分散し、特に、各地の交通の要衝の地を中心に広がったことをいう。
○越豔 江南の美女、江南の文化。
○常娥 誇蛾、恒蛾、嫦娥、娥娥 蛾娥など 神話中の女性。神話の英雄、羿(がい)が西方極遠の地に存在する理想国西王母の国の仙女にお願いしてもらった不死の霊薬を、その妻の嫦娥がぬすみ飲み、急に身軽くなって月世界まで飛びあがり月姫となった。漢の劉安の「淮南子」覧冥訓に登場する。なお、魯迅(1881-l936)にこの神話を小説化した「羿月」がいげつと題する小説がある。ここでは占いの雰囲気作りにはみょうれいな女性の神、巫女の登場というシチュエーションというところか。 ○涼蟾 秋の月をいう。月のなかには轄蛤(ひきがえる)がいると考えられたことから、「蟾」は月の別称に用いられる。○素蛾 月ひめ常蛾のこと。夫の努の留守中、霊薬をぬすみ飲んで月中にのがれ、月の楕となった神話中の人物。常蛾の詩1. 道教の影響 2. 芸妓について 3. 李商隠 12 嫦娥 神話中の女性。神話の英雄、羿(がい)が西方極遠の地に存在する理想国西王母の国の仙女にお願いしてもらった不死の霊薬を、その妻の嫦娥がぬすみ飲み、急に身軽くなって月世界まで飛びあがり月姫となった。漢の劉安の「淮南子」覧冥訓に登場する。○嬋娟 艶めかしく姿あでやかなるさま。顔や容姿があでやかで美しい。魏の阮籍(210-263年)の詠懐詩に「秋月復た嬋娟たり。」とブログ阮籍 詠懐詩、白眼視 嵆康 幽憤詩
○明皇 唐の玄宗皇帝。
○李太白 盛唐の詩人、李白。太白は字。・李白《清平樂》詞四首 参考に末尾に李白詩清平楽五首、清平調三首を掲載した。
○応制 天子の詔に応えて詩を作ること、またその詩。
○清平楽 詞牌すなわち曲名。李白の清平楽の詞は、現在、『尊前集』に五首残るが、ここに言う清平楽と同じ作品かどうかは不明。なお玄宗の命で楊貴妃の美を称えて詠んだ、いわゆる七言絶句の清平調三首とは異なる。
○温飛卿 晩唐の溫庭筠。飛卿は字。後の作者解説参照。・溫飛卿複有《金筌集》
○金筌集 温庭第の詞集。詞集の囁矢をなすが、今は亡んで伝わらない。
1 温庭筠 おんていいん
(812頃―870以後)本名は岐、字は飛卿、幷州(山西省大原)の人。初唐の宰相温彦博の子孫にあたるといわれる。年少のころから詩をよくしたが、素行がわるく頽廃遊蕩生活に耽り、歌樓妓館のところに出入して、艶麗な歌曲ばかりつくっていた。進士の試験にも落第をつづけ、官途につくこともできなかった。徐商が裏陽(湖北)の地方長官をしていたとき、採用されて巡官となり、ついで徐商が中央の高官(成通のはじめ尚書省に入る)になったので、さらに任用されようとしたが成らなかった。859年頃に詩名によって特に召されて登用され、国子(大学)助教となった。たが、叙任前に微行中の宣宗に無礼があって罷免され、晩年は流落して終わった。そのため、生歿が未詳である。
集に撞蘭集三巻、金墨集十巻、漢南其稿十巻があったという。かれは晩唐の詩人として李商隠と相並び、「温李」として名を知られている。音楽に精しく、鼓琴吹笛などを善くし、当時流行しつつあった詞の作家としても韋荘と相並んで「温韋」の称があった。その詞の大部分は超崇祚の編した花間集に収載されている。洗練された綺麗な辞句をもちいた、桃李の花を見るような艶美な作風は花間集一派の詞人を代表するもので、「深美閎約」と批評されているその印象的なうつくしさにおいてほ花間集中、及ぶものがないといってよく、韋荘の綺麗さとよい対照をなしている。王国維が花間集に収載する六十六首のほか他書に散見するものを合せて輯した金荃詞一巻があり、七十首を伝えている。
○邁来 以来。
○衛尉少卿 官名。兵使、甲胃、武器などを管掌。
○弘基 趙崇祚の字。『花間集』の編者であり、蜀の孟昶に仕えて衛尉少卿になった。編者の趙崇祚は、祖籍は開祖父の趙廷隠が後蜀の大祖・孟知祥に従って蜀に入り、親軍を統括すること十数年。趙崇祚は衛尉少卿となり、弟の崇韜は都知領殿直となって、ともに親軍の指揮に参与した。趙氏一門は要職を占め、その暮らしぶりは贅を尽くしたものであった。
『太平廣記』巻四〇九引孫光憲《北夢瑣言》「趙廷除起南宅北宅、千梁萬供、其諸奢麗、莫之與儔。後枕江瀆、池中有二島嶼、遂甃石循池、四岸皆種垂楊、或間雜木芙蓉、池中種藕。毎至秋夏、花開魚躍、柳陰之下、有士子執巻者、垂綸者、執如意者、執塵尾奢、譚詩論道者。」
邸宅は並ぶものがないほど豪奢で、庭の池に二つの島を造り、岸辺に楊柳を、池の端に水芙蓉を、池の中に蓮を植えていた。毎年、夏や秋になれば、花は咲き魚は躍り、柳の木陰で人々が思い思いに巻物を持ち、釣糸を垂れ、如意やら大
鹿の尾で作った払子やらを揮い、詩を語り、道を論じたりしていた。
趙崇祚はこのサロンで、「広く賓客に会い、時に談論風発する中で、近来の詩客の曲子詞五百首を集め、十巻に分けた」という。
○拾翠 翡翠の羽を拾う。翡翠は雄と雌で色が違い、高貴な閨に飾られるものであることから、閨情詞、艶詞のたぐいをさすので、ここでは詞を捜し集めること。
○羽毛之異 美しい羽毛。ここでは優れた詞の意。
○織綃泉底 『博物志』に、「蛟人は魚のように水中で暮らしており、常に紡いだり織ったりしていて、時たま海中から出て人家に綃を売りさばく」とまた『述異記』に「南海から鮫綃紗を産出する。またの名を亀紗と言う。その値段は百金余り」と。ここは優れた詞集を編纂することの喩え。
○独殊 特に優れている。
〇機杼之功 機織り仕事の出来はえ。ここでは『花間集』編纂の出来ばえのこと。機杼は織りの横糸を通す杼。
○延佳論 優れた議論を展開する。
李白詩 尊前集 清平楽五首、清平調三首
李太白集 《巻二十五補遺》清平楽令二首、清平楽三首、《巻四》清平調三首
清平樂 一(一)
禁庭春畫。鶯羽披新繡。百草巧求花下鬥。祗賭珠璣滿鬥。
日晚卻理殘妝。禦前閑舞霓裳。誰道腰肢窈窕,折旋笑得君王。
清平樂 二(二)
禁闈清夜。月探金窗罅。玉帳鴛鴦噴蘭麝。時落銀燈香ㄠ。
女伴莫話孤眠。六宮羅綺三千。一笑皆生百媚,宸衷教在誰邊。
清平樂 三(一)
煙深水闊。音信無由達。惟有碧天雲外月。偏照懸懸離別。
盡日感事傷懷。愁眉似鎖難開。夜夜長留半被,待君魂夢歸來。
清平樂 四(二)
鸞衾鳳褥。夜夜常孤宿。更被銀臺紅蠟燭。學妾淚珠相續。
花貌些子時光。拋人遠泛瀟湘。欹枕悔聽寒漏,聲聲滴斷愁腸。
清平樂 五(三)
畫堂晨起。來報雪花墜。高卷簾櫳看佳瑞。皓色遠迷庭砌。
盛氣光引爐煙,素草寒生玉佩。應是天仙狂醉。亂把白雲揉碎。
清平調 三首其一
雲想衣裳花想容。春風拂檻露華濃。若非群玉山頭見,會向瑤臺月下逢。
清平調 三首其二
一枝紅艷露凝香。雲雨巫山枉斷腸。借問漢宮誰得似,可憐飛燕倚新妝。
清平調 三首其三
名花傾國兩相歡。常得君王帶笑看。解得春風無限恨。沈香亭北倚闌幹。
○詩客曲子詞 詩人の歌詞。曲子詞は曲につけられた歌詞の意。曲子の子は接尾辞。この一句は『花間集』の詞が民間の卑俗な歌と違って、詩人の手に成る洗練された作品であることを言ったもの。
○爛 欧陽胴の自称。
○粗預知音 少しばかり音楽に詳しい。教坊の曲に合わせた詩という意味で音楽のことを承知しているということであるが、此処の意味は、この十七名の詩人たちと旧知の間で、これらに詩人たちを取りまとめていく力があるということを認められたという意味である。
○序引 序言。
○郢 戦国時代の楚の国の都。今の湖北省の江陵の北部。
○陽春 陽春白雪の曲。先の「白雪」の注参照。
○庶 願望を表す言葉。
○西園 漢代の御苑の名。ここでは趙崇祚の豪邸の文芸サロンを言う。
○英哲 俊才。
○用資 それによって助ける。用は以に同じ。
○羽蓋之歓 儀式、行事などにおける楽しみ、集いの喜び。
○南国嬋娟 南国の美女の「浣溪沙」56首、「菩薩蠻」41首、「酒泉子」26首「臨江仙」「竹枝」「楊柳」の各24首「女冠子」「更漏」などの嬋娟詞で過半数を超える。
○蓮舟之引 楽府詩の採蓮曲。南朝の梁代に多く作られた。もともと民間の蓮取り歌に由来するもの。蓮の実を取るには湖面に船を浮かべねばならぬので蓮舟と言った。引は曲の意。
○大蜀 蜀。大は美称。
○広政三年夏四月日 広政は後苛の孟乗の時の年号。広政三年は西暦九四〇年。旧暦では四月、五月、六月が夏。夏四月日と記して、具体的な日付の数字が入っていないのは、序を書きおえて、彫師に渡す時に後から正式に日付を入れるため。
3.温庭筠 菩薩蠻
蕊黃無限當山額,宿妝隱笑紗窗隔。
ひたいにお化粧した蕊黄はこのうえもなくうつくしいものだ、うすぎぬの窓をへだてて、昨夜から待ち侘びて崩れかけた化粧の宮女が、諦めの隠し笑いをしている。
相見牡丹時,暫來還別離。
あのお方と互い見合ったのは、牡丹の花のさく春であったが、しばらくのあいだやってきてくれたが、帰ったら別れてしまったままなのだ。
翠钗金作股,钗上蝶雙舞。
宮女がさしているのは、金の柄のついた翡翠のかんざしである。皮肉にもカンザシのうえには一つがいの蝶がむつまじく舞っている。
心事竟誰知?月明花滿枝。
宮女のさびしいこころのうちにあるのは、けっきょくだれにもわかりはしないのだ。月明りのなかに枝いっぱいに咲いている花だけがそれを知っているのだ。
蕊黃【ずいおう】すれど當に山額に限り無く,宿妝【しゅくしょう】紗窗の隔を隱笑す。
相見 牡丹の時,暫來 還って別離す。
翠钗【すいさ】金作の股,钗上 雙にす蝶の舞。
心事 竟に誰か知る?月明 花 枝に滿つ。
『菩薩蠻 三』現代語訳と訳註
(本文)
蕊黃無限當山額,宿妝隱笑紗窗隔。
相見牡丹時,暫來還別離。
翠钗金作股,钗上蝶雙舞。
心事竟誰知?月明花滿枝。
(下し文)
蕊黃【ずいおう】すれど當に山額に限り無く,宿妝【しゅくしょう】紗窗の隔を隱笑す。
相見 牡丹の時,暫來 還って別離す。
翠钗【すいさ】金作の股,钗上 雙にす蝶の舞。
心事 竟に誰か知る?月明 花 枝に滿つ。
(現代語訳)
ひたいにお化粧した蕊黄はこのうえもなくうつくしいものだ、うすぎぬの窓をへだてて、昨夜から待ち侘びて崩れかけた化粧の宮女が、諦めの隠し笑いをしている。
あのお方と互い見合ったのは、牡丹の花のさく春であったが、しばらくのあいだやってきてくれたが、帰ったら別れてしまったままなのだ。
宮女がさしているのは、金の柄のついた翡翠のかんざしである。皮肉にもカンザシのうえには一つがいの蝶がむつまじく舞っている。
宮女のさびしいこころのうちにあるのは、けっきょくだれにもわかりはしないのだ。月明りのなかに枝いっぱいに咲いている花だけがそれを知っているのだ。
(訳注)
蕊黃無限當山額,宿妝隱笑紗窗隔。
ひたいにお化粧した蕊黄はこのうえもなくうつくしいものだ、うすぎぬの窓をへだてて、昨夜から待ち侘びて崩れかけた化粧の宮女が、諦めの隠し笑いをしている。
・蕊黃無限當山額 蕊黃は女の額にほどこす黄色の化粧法。額黄ともいい、古く漢代からあったといい、六朝時代をへて唐代までずっと行なわれていた。温庭筠漢皇迎春詞(溫庭筠 唐詩)
春草芊芊晴掃煙,宮城大錦紅殷鮮。
海日初融照仙掌,淮王小隊纓鈴響。
獵獵東風焰赤旗,畫神金甲蔥龍網。
钜公步輦迎句芒,複道掃塵燕彗長。
豹尾竿前趙飛燕,柳風吹盡眉間黄。
碧草含情杏花喜,上林鶯囀游絲起。
寶馬搖環萬騎歸,恩光暗入簾櫳里。
とあり、宋 王安石《與微之同賦梅花得香字》之一「漢宮嬌額半塗黃,粉色凌寒透薄裝。」とある。額に花葵などの化粧をするので蕊黄という。また、温庭筠の帰国遙詞に「粉心黄蕊花靨、眉黛山両点」とある。高昌の壁画などでその実例が見られる。
温庭筠『偶遊詩』
曲巷斜臨一水間,小門終日不開關。
紅珠斗帳櫻桃熟,金尾屏風孔雀閑。
雲髻幾迷芳草蝶,額黃無限夕陽山。
與君便是鴛鴦侶,休嚮人間覓往還。
とあるのはちようどこの句と同様の例で、無限というのは山に見たてた額の景色に無限の情がある意であろう。山額は額の形を山に見たてて言った言葉。わが国で見る富士額というごとし。当はちょうど額の正面のところに蕊黄が施されている意。
・宿粧 宵越しの化粧で多くはいつ来るのかと待ちわびて憂愁のためにくずれているものをいう。
相見牡丹時,暫來還別離。
あのお方と互い見合ったのは、牡丹の花のさく春であったが、しばらくのあいだやってきてくれたが、帰ったら別れてしまったままなのだ。
・牡丹 春三月の花。牡丹は後宮か、貴族の庭に咲かせてあるものである。ここから、女性は、宮女か、貴族の家妓と思われる。
翠钗金作股,钗上蝶雙舞。
宮女がさしているのは、金の柄のついた翡翠のかんざしである。皮肉にもカンザシのうえには一つがいの蝶がむつまじく舞っている。
・翠钗金作股 翠釵は翠の羽で飾ったかんざし。翠はかわせみ(翡翠)、またはみどりの色の羽をいう。股はかんざしの股形になった柄。
・蝶雙舞 釵の上に雌雄の蝶が舞うような形をしてついていること。嬰蝶というのは女の独居の寂寥に対していう。一に蝶雙舞に作る。
心事竟誰知?月明花滿枝。
宮女のさびしいこころのうちにあるのは、けっきょくだれにもわかりはしないのだ。月明りのなかに枝いっぱいに咲いている花だけがそれを知っているのだ。
・心事 心中のこと。ここでは女が夫または情人と別離している寂しい心の中をいう。
2. 温庭筠 菩薩蠻
水精簾裏頗黎枕,暖香惹夢鴛鴦錦。
もう晩秋になろうというのに水晶のすだれの内側に、あの人ための玻璃の枕を用意している、あたたかくする香を焚いて、夢にしか現れない鴛鴦の錦のふすまに横になり、あの人のことを思う。
江上柳如煙,雁飛殘月天。
春になり大江のほとりには、煙と見まごうばかりに柳絮が飛ぶ、雁が有明けの月が残る空をわたってゆく。
藕絲秋色淺,人勝參差剪。
おんなは、秋には藕絲のうすいた秋の色の衣服をきていて、人日には髪かざりの人勝をふそろいに飾ってまっていた。
雙鬂隔香紅,玉钗頭上風。
左右の鬢にはうつくしい花のかんざしをへだて挿している。玉のかんざしは風に吹かれてゆらゆらゆれている。
水精の簾の裏 頗黎【はり】の枕,香を暖め夢に惹れ鴛鴦【えんおう】の錦。
江上 柳如の煙,雁飛 月天に殘る。
藕絲【ぐうし】秋色淺く,人勝【じんしょう】參差【さんさ】の剪。
雙鬂【そうびん】香紅を隔ち,玉钗【ぎょくさ】頭上の風。
『菩薩蠻十四』 現代語訳と訳註
(本文)菩薩蠻
水精簾裏頗黎枕,暖香惹夢鴛鴦錦。
江上柳如煙,雁飛殘月天。
藕絲秋色淺,人勝參差剪。
雙鬂隔香紅,玉钗頭上風。
(下し文)
水精の簾の裏 頗黎【はり】の枕,香を暖め夢に惹れ鴛鴦【えんおう】の錦。
江上 柳如の煙,雁飛 月天に殘る。
藕絲【ぐうし】秋色淺く,人勝【じんしょう】參差【さんさ】の剪。
雙鬂【そうびん】香紅を隔ち,玉钗【ぎょくさ】頭上の風。
(現代語訳)
もう晩秋になろうというのに水晶のすだれの内側に、あの人ための玻璃の枕を用意している、あたたかくする香を焚いて、夢にしか現れない鴛鴦の錦のふすまに横になり、あの人のことを思う。
春になり大江のほとりには、煙と見まごうばかりに柳絮が飛ぶ、雁が有明けの月が残る空をわたってゆく。
おんなは、秋には藕絲のうすいた秋の色の衣服をきていて、人日には髪かざりの人勝をふそろいに飾ってまっていた。
左右の鬢にはうつくしい花のかんざしをへだて挿している。玉のかんざしは風に吹かれてゆらゆらゆれている。
(訳注)
水精簾裏頗黎枕,暖香惹夢鴛鴦錦。
もう晩秋になろうというのに水晶のすだれの内側に、あの人ための玻璃の枕を用意している、あたたかくする香を焚いて、夢にしか現れない鴛鴦の錦のふすまに横になり、あの人のことを思う。
・水精簾 水精は水晶。李白の『玉階怨』「玉階生白露、 夜久侵羅襪。却下水晶簾、 玲瓏望秋月。」(白玉の階きざはしに白い露が珠のように結露し、 夜は更けて羅(うすぎぬ)の襪(くつした)につめたさが侵みてくる。露に潤った水晶の簾をさっとおろした、透き通った水精の簾を通り抜けてきた秋の澄んだ月光が玉の光り輝くのを眺めているだけ。)李白39玉階怨 満たされぬ思いの詩。
・頗黎枕 頗黎は玻璃/頗梨【はり】1 仏教で、七宝の一。水晶のこと。2 ガラスの異称。3 火山岩中に含まれる非結晶質の物質。
・暖香 それをたくと部屋のあたたかくなるたきもの。香名に暖香というのもあるがここは一般的なことばであろう。
・惹夢 夢をさそうこと。
・鴛鴦錦 鴛駕の紋様のある錦の被(懸けふとん)。
江上柳如煙,雁飛殘月天。
春になり大江のほとりには、煙と見まごうばかりに柳絮が飛ぶ、雁が有明けの月が残る空をわたってゆく。
・柳如 柳絮が飛び交うのはカスミではなく煙のようなじょうたいせある。
藕絲秋色淺,人勝參差剪。
おんなは、秋には藕絲のうすいた秋の色の衣服をきていて、人日には髪かざりの人勝をふそろいに飾ってまっていた。
・藕絲秋色淺 藕絲は蓮根からとれる糸。そのよぅな細くて軽い繊維の衣服をいう。体の線がよく出て、宮女が閨に着る。
・人勝 正月七日「人勝節」という。正月7日の人日に用いられた飾り。人や動植物の形に切り抜いて彩色したあしぎぬ、金箔の縁飾り等の残片を一枚に貼り込んでいる。
・参差は大小ふそろいのさま。
雙鬂隔香紅,玉钗頭上風。
左右の鬢にはうつくしい花のかんざしをへだて挿している。玉のかんざしは風に吹かれてゆらゆらゆれている。
・香紅 花をいう言葉であるが、ここは花のかんざしを意味するとおもう。
・玉钗頭上風 王叙頭は玉のかんざし。男と交わって揺れるのではなく、風に揺れるのである。憐れに感じさせるほどせつない女の状況を詠うのである。