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巻7・巻8 孫光憲

花間集 訳注解説 (13)回目《孫光憲【字解集】-13・更漏子二首 ・女冠子二首 ・風流子三首》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10558

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 13)回目《孫光憲【字解集】-13・更漏子二首 ・女冠子二首 ・風流子三首》

 

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花間集 訳注解説 (13)回目《孫光憲【字解集】-13・更漏子二首 ・女冠子二首 ・風流子三首》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10558

 

 

 

 

 

花間集 巻八  孫光憲 (6

 

 

 

更漏子二首其一

聽寒更,聞遠鴈,半夜蕭娘深院。扃繡,下珠簾,滿庭噴玉蟾。

人語靜,香閨冷,紅幕半垂清影。雲雨態,蕙蘭

更漏子二首其二

今夜期,來日別,相對秖堪愁。隈粉面,撚瑤簪,無言淚滿襟。

銀箭落,霜華薄,牆外曉雞咿喔。聽付囑,惡情

女冠子二首其一

蕙風芝露,壇際殘香輕度。蘂珠宮,苔點分圓碧,桃花踐破紅。

品流巫峽外,名籍紫微中。真侶墉城會,夢魂通。

女冠子二首其二

澹花瘦玉,依約神仙粧束。佩瓊文,瑞露通宵貯,幽香盡日焚。

碧紗籠絳節,黃藕冠濃雲。勿以吹簫伴,不同羣。

風流子三首其一

茅舍槿籬溪曲,雞犬自南自北。菰葉長,水開,門外春波漲綠。

聽織,聲促,軋軋鳴梭穿屋。

風流子三首其二

樓倚長衢欲暮,瞥見神仙伴侶。微傅粉,攏梳頭,隱映畫簾開處。無語,無緒,慢曳羅裙歸去。

風流子三首其三

金絡玉銜嘶馬,繫向綠楊陰下。朱掩,繡簾垂,曲院水流花謝。歡罷,歸也,猶在九衢深夜 

 

 

 

花間集 【字解集】  孫光憲 (6

 

 

 

【字解集】-13・更漏子二首 

更漏子二首其一

1. (富貴の家の歌妓が今夜は歌っていない。漏刻の音がしっかり聞えるし、雁の啼くのも聞こえた。奥座敷で二人が交わっているからだと詠う。)

2. 『花間集』には孫光憲の作が二首収められている。双調四十六字、前段二十三字六句仄韻平韻、後段二十三字六句仄韻平韻で、3363533635の詞形をとる。

 

聽寒更,聞遠鴈,半夜蕭娘深院。

真夜中を過ぎて時を知らせる漏刻の音が聴こえてくると寒さが増してくる、遠くの方で雁が鳴いていくのが聞える。歌妓のあの娘も真夜中過ぎれば奥の閨にいる。

3. 寒更 夜更けの薄ら寒い様を言いう。五更: 1 一夜を初更(甲夜)・二更(乙夜(いつや))・三更(丙夜)・四更(丁夜)・五更(戊夜(ぼや))に五等分した称。2 五更の第五。およそ現在の午前3時から午前5時、または午前4時から午前6時ころにあたる。寅(とら)の刻。戊夜。

4 蕭娘 歌妓の名前。「唐娘」「謝娘」など六朝時代の女妓の一般呼称。民妓、家妓、美女や妓女、あるいは愛妾をいう。

沈満願『戯蕭娘』

明珠翠羽帳、金薄綠綃帷。

因風時蹔擧、想像見芳姿

凊晨插歩揺、向晩解羅衣。

託意風流子、佳情詎肯私。

(蕭娘を戯むる)

明珠【めいしゅ】翠羽【すいう】の帳【とばり】、金薄【きんぱく】綠綃【りょくしょう】の帷【い】。

風に因りて時に暫く擧がる、想像して芳姿を見る。

凊晨【せいしん】に歩揺を插【さしはさ】み、晩に向いて羅衣【らい】を解く。

意を託すは風流の子、佳情 詎【なん】ぞ肯えて私にせん。

戯蕭娘 范靖婦沈満願 宋詩<120>玉台新詠集巻四 女性詩 557 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1488

・謝家 民妓、家妓、美女や妓女、あるいは愛妾の棲む家。唐の李徳祐が豪邸を築いて謝秋娘を池のほとりの楼閣に住まわせたことによる。比喩する相手が特定される場合は、晋の謝安であったり、謝靈運、謝朓を示す場合もある。

 

扃繡,下珠簾,滿庭噴玉蟾。

中庭のあるその家の飾られた扉には閂で戸締まりをしている。庭には珠簾の草花を植えてあり、月の光があふれる様に照らしている。

5. 扃 (1) (外からの)かんぬき.(2) (を閉ざす)1 草が生い茂って道や入り口を閉ざすこと。「立ちとまり霧のまがきの過ぎうくは―にさはりしもせじ」〈源・若紫〉2 簡素な住まい。わび住まい。

6. 珠簾 1 玉で飾ったすだれ。また、すだれの美称。たまだれ。2 ヒガンバナ科の多年草。地下の鱗茎(りんけい)から細長い葉が群がって出る。夏、高さ約30センチの茎を出し、クロッカスに似た白い花をつける。

7. 噴 激しくふく。

8. 玉蟾 【ぎょくせん】《月の中に三つ足の蟾(ヒキガエル)がいるという伝説から》月の異称。

 

人語靜,香閨冷,紅幕半垂清影。

誰もいなくて人声などなく、唐なども焚かれず閨は冷え切ったままだ。蝋燭の火が赤く半ば垂らした戸帳を照らし、あの子が待っていたそこに清々しい影が映っている。

 

雲雨態,蕙蘭心,此情江海深。

二人は「高唐賦」の雨と雲とに化身し交わった。最高の蕙蘭のような心情であろうと思うし、この気持ちは長江を流れ、滄海のうみのふかさというべきかもしれない。

9. 雲雨 男女の交情をいう。楚の襄王が巫山で夢に神女と契ったことをいう。神女は朝は巫山の雲となり夕べには雨になるという故事からきている。漂いやがて消えてゆくガスのような雲なので、探しようがない。

宋玉『高唐賦』によると、楚の襄王と宋玉が雲夢の台に遊び、高唐の観を望んだところ、雲気(雲というよりも濃い水蒸気のガスに近いもの(か))があったので、宋玉は「朝雲」と言った。襄王がそのわけを尋ねると、宋玉は「昔者先王嘗游高唐,怠而晝寢,夢見一婦人…去而辭曰:妾在巫山之陽,高丘之阻,旦爲朝雲,暮爲行雨,朝朝暮暮,陽臺之下。」と答えた。「巫山之夢」。婉約の詩詞によく使われるが、千載不磨の契りといった感じのものではなく、もっと、気楽な契りをいう。

杜甫『水檻遣心二首』其の2 「蜀天常夜雨,江檻已朝晴。葉潤林塘密,衣幹枕席清。不堪支老病,何得尚浮名?淺把涓涓酒,深憑送此生。」楚の懐王が巫山の神女と夢のなかで交わった故事を連想させるが蜀では夜雨が降る。

李商隠『細 雨』「帷飄白玉堂、簟巻碧牙牀。楚女昔時意、蕭蕭髪彩涼。」(やわらかに風に翻るとばりは、白い玉の輝く堂を包んでいる。あるいは竹の敷物は、冷やかに碧く光る象牙の牀に拡げられている。巫山の神女はその身をささげたあの時の気持ちを秘めて今もいる、粛々と黒髪を一層色濃くし涼やかにしている。

淸平樂(一) 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-260-5-#14  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2682

10. 蕙蘭 広東省を主な原産地とするシンビジウム属の一部です。 わが国にやってきて100年以上になるため帰化植物と同じく作りやすい蘭になっています。 花は品種によって2月から4月ごろ開花して、中国蘭特有のよい香りが漂う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【字解集】-13・女冠子二首 

女冠子二首其一

1. (女冠となっても其の門閥により違うものだがであった女冠は特別な女であったと詠う。)

2. 唐の教坊の曲名。女冠は女黄冠”、女道士、道姑。唐代において女道士は皆、黄冠を戴いた。『花間集』 には牛嶠の作が四首収められている。双調四十一字、前段二十二字五句二灰韻二平韻、後段十八宇四句二平韻で、❹❻③5/55③の詞形をとる。

3. 女冠 『旧唐書』の「侍突伝」に、唐初「天下の僧尼の数は十万に満ちる」とあり、『新唐書』の「百官志」第9節 女尼,女冠,女巫には「天下の女冠は988人、女尼は50576人」とある。『唐会要』の「僧籍」によれば、唐後期の会昌年間(841846)、僧尼は26万人を超えていた。これらの記録から推測すると、尼僧は少ない時でも数万人、多い時には十余万人にも達していたと想像される。都から遥か遠方の敦煌地区でも、普通の寺の尼僧は常に一寺院に百人はいた(『敦煌資料』第一輯「敦塩寺院僧尼等名牒」)。道教寺院の女道士の数はやや少なめであった。これに各地で自由に活動している女巫(女占師)を加えて合計すると、無視できない階層を形成していたのである。

 

蕙風 芝露,壇際 殘香 輕度。

万物を成長させる、めぐみの春の風が吹き、草草に露が潤う。祭壇の両端に香が焚かれれば香の煙は軽やかに静かに広がりわたってゆく。

4. 蕙風 1 万物を成長させる、めぐみの風。春風。2 陰暦2月の異称。3 君主の恩恵が広く行きわたるのを風にたとえた語。

5. 壇際 古代中国で祭祀をはじめ朝会,盟誓,封拝などの大典を行うために,平たんな地上に設けられた土築の高い露台。古代以来,皇帝がとくに壇を築いて犠牲を供え,柴を燔(た)いて丁重を示し,みずから天神をまつる祭祀が行われた。《礼記(らいき)》祭法篇に〈柴を泰壇に燔き,天を祭る〉という()。古く殷・周時代においては,それはみずから遠祖の民族神信仰に連なるものであったとみられる。歴代の皇帝は,天命を受けて政をしく天子として,上帝をまつってその功徳に報ずる儀式を行うのがつねであった。

 

 

蘂珠宮,苔點 分 圓碧,桃花 踐 破紅。

道教の女冠宮には春の湿りが苔を転々と生えさせ、圓碧草が路を分けて伸びている、桃の花は散り始め路にし枯れた花弁を踏みしめていく。

6. 蘂珠宮 道教の傍にある女冠宮。・蘂珠 粉心黃蘂は額の中心に黄色い化粧をぬること。その中心の真珠を付ける。中国の東晋時代(三一七~四二〇)の道教経典。道教的身体構造論に基づいて、神仙となる法を説く。『黄庭内景経』『黄庭外景経』その他があり、世人ひとしく黄庭経と呼ぶ。黄庭とは脾臓のことで、自己の内面を見つめ,そこにあるものを探求することで、蘂珠をつける。

7. 圓碧 圓碧草

8. 踐 1 ふみ行う。「実践・履践」2 位につく。「践祚(せんそ)

 

品流 巫峽外,名籍 紫微 中。

ここでも家柄によってそのおかれるところが巫山の蘂珠宮の外におかれることになるのだし、良いものは紫微宮に名札を掛けられて宮女の巫女として使えるのだ。

9. 品流 家柄。門閥。

10. 名籍 戸籍。なのふだ。

11. 紫微 北極星は天帝太一神の居所であり,この星を中心とする星座は天上世界の宮廷に当てられて紫宮,紫微宮とよばれ,漢代には都の南東郊の太一祠においてしばしば太一神の祭祀が行われた。その後,讖緯(しんい)思想(讖緯説)の盛行につれて,後漢ころには北辰北斗信仰が星辰信仰の中核をなすようになり,北辰は耀魄宝(ようはくほう)と呼ばれ群霊を統御する最高神とされた

 

真侶 墉城の會,夢魂 通。

こうした中の本当に仲の良いものと墉城集仙録に登場するものと出会ったものだが、それも夢で思ったことが通じたからだろう。

12. 墉城【ようじよう】集仙録は女仙の伝記集である。【道教神仙傳記。原爲十卷,共録女仙109人,現已佚。《道藏》本爲六卷。記經母元君、金母元君、上元夫人、昭霊李夫人等三十七位女仙事迹。

 

華山女

華山女 韓退之(韓愈)詩<113-1>Ⅱ中唐詩553 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1778

街東街西講佛經,撞鐘吹螺鬧宮庭。

廣張罪福資誘脅,聽眾狎恰排浮萍。

黃衣道士亦講,座下寥落如明星。』

#2

華山女兒家奉道,欲驅異教歸仙靈。

洗妝拭面著冠帔,白咽紅頰長眉青。

遂來升座演真訣,觀門不許人開扃。

不知誰人暗相報,訇然振動如雷霆。」

#3

掃除眾寺人跡,驊騮塞路連輜輧。

觀中人滿坐觀外,後至無地無由聽。

抽簪釧解環佩,堆金疊玉光青熒。

天門貴人傳詔召,六宮願識師顏形。

玉皇頷首許歸去,乘龍駕鶴來青冥。』

#4

豪家少年豈知道,來繞百匝不停。

雲窗霧閣事恍惚,重重翠幕深金屏。

仙梯難攀俗緣重,浪憑青鳥通丁寧。』

 

韓愈華山女

街東街西 仏経を講じ、鐘を撞き螺を吹いて宮庭を鬧【さわ】がす。

広く罪福【ざいふく】を張って誘脅【ゆうきょう】を資【たす】け、聴衆 狎恰【こうこう】して浮萍【ふひょう】を排す。

黃衣【こうい】の道士も亦講説すれど、座下は寥落【りょうらく】として明星の如し。

 

華山の女兒【じょじ】家道を奉じ,異教を驅って仙靈【せんれい】に歸せしめんと欲す。

妝を洗い面を拭って冠帔【かんぴ】を著け,白咽【はくいん】紅頰【こうきょう】長眉【ちょうび】青し。

遂に來って座に升りて真訣【しんけつ】を演【の】べ,觀門許さず人の扃【とびら】を開くことを。

知らず誰人か暗【ひそ】かに相い報ぜじ,訇然【こぜん】として振動して雷霆【らいてい】の如し。」

 

眾寺を掃除して人跡え,驊騮【かりゅう】路に塞りて輜輧【しへい】に連なる。

觀中人滿ちて觀外に坐し,後れて至るは地無く聽くに由無し。

簪を抽【ぬ】きて釧【せん】をし環佩【かんぽい】を解く,金を堆【つ】み玉を疊んで光り青熒【せいけい】たり。

天門の貴人 詔を傳えて召し,六宮 師の顏形を識らんことを願う。

玉皇 首を頷いて歸り去らんことを許し,龍に乘りて鶴に駕して青冥に來たる。』

#4

豪家の少年豈に道を知らんや,來たって繞ぐること百匝【ひゃくそう】して【あし】停どまらず。

雲窗【うんそう】霧閣【むかく】事恍惚たり,重重たる翠幕【すいばく】深き金屏【こんべい】。

仙梯【せんてい】攀【よ】じ難くして俗緣【ぞくえん】重く,浪【みだ】りに青鳥に憑【よ】って丁寧【ていねい】を通ず。』

 

鳳州(陝西省鳳翔)の秦岡山の懸崖の側、列壁の上にある祠。その神体は女性で上が赤く下が白く塗られているという。(85645歳のころ、東川の幕府からか、陝西省南鄭県)興元の方面から長安に帰る途中か、あるいは向かう折かの作と推定されている。

唐代の道教のやしろ、或いはそれに類するいわゆる淫祠の女冠は多分に売春、娼妓的性格をもっていた。

聖女詞

松篁臺殿蕙香幃、龍護瑤窗鳳掩扉。

無質易迷三里霧、不寒長著五銖衣。

人閒定有崔羅什、天上應無劉武威。

寄問釵頭雙白燕、毎朝珠館幾時歸。

松篁の台殿 蕙香の幃、龍は瑤窗を護り 鳳は扉を掩う。

質無くして迷い易し 三里の霧、寒からずして長に著る 五銖の衣。

人間 定めて有り 崔羅什、天上 応に無かるべし 劉武威。

問いを寄す 釵頭の双白燕、毎に珠館に朝して幾時か帰る。

聖女詞 李商隠 紀頌之の漢詩ブログ李商隠特集150- 99

松篁臺殿蕙香幃、龍護瑤窗鳳掩扉。

無質易迷三里霧、不寒長著五銖衣。

人閒定有崔羅什、天上應無劉武威。

寄問釵頭雙白燕、毎朝珠館幾時歸。

松篁の台殿 蕙香の幃、龍は瑤窗を護り 鳳は扉を掩う。

質無くして迷い易し 三里の霧、寒からずして長に著る 五銖の衣。

人間 定めて有り 崔羅什、天上 応に無かるべし 劉武威。

問いを寄す 釵頭の双白燕、毎に珠館に朝して幾時か帰る。

松と竹に囲まれた台殿のやしろが蕙香の香りと格調高いとばりにかこまれている。かがやく宝玉で飾った拝殿の窓には守護するように龍が彫られ、扉には鳳凰が一面に刻まれている。

どれほどのものが証というのか自分には差し出すものがないので連れ添ってくれないから迷ってしまう三里先が見えない霧の中にいるようだ、寒くはない、長い間肌をあらわにしたままで五銖の銭で服をぬいで交わった。

人の世には女性と楽しく過ごすことは当たり前のようにある、ましてや崔羅什のような体験もあるのだ。天上世界においては劉武威のような凛々しい武将であっても女性と楽しく過ごせることなどありはしないのだ。

 

李商隠 6 重過聖女詞

白石巌扉碧辞滋、上清淪謫得歸遅。

一春夢雨常飄瓦、盡日靈風不満旗。

萼緑華來無定所、杜蘭香去未移時。

玉郎会此通仙籍、憶向天階問紫芝。

重ねて聖女詞を過る

白石の巌扉(がんぴ) 碧辞(へきじ)滋(しげし)、上清より淪謫(りんたく)せられて帰り得る 遅(おそし)

一春 夢雨 常に瓦に飄、尽日 霊風 旗に満たず。

萼緑華(がくりょくか)の来る 定所無く、杜蘭香(とこうらん)去って未だ時を移さず。

玉郎 会えず此に仙籍を通ぜん、憶う天の階(きざはし)に向って紫芝(しし)、問いしことを。

東川より長安に帰る途中、ここ鳳州、秦岡山、懸崖の聖女を祭る祠に再び立ち寄ることとなった。祠の玄関は自然の峻しい巌石でできている。それが扉でもある白い石の門は時代の色に古び、青い蘚が、石の白さに対照して色鮮やかに繁っている。ここに祭られる女神は、過去に何か罪を犯すところあって至上天の楽土から流謫せられ落ちぶれたのだろうが、祠の扉が苔むしてまだ天上に帰ることができないでいるのだろう。

ここでは、ひと春のあいだ中、春めく愛を示すような夢のなごり雨が、祠の古びた瓦に飛び散り飄える。そしてまた、何か神秘な風が、かかげたのぼり旗を一杯脹らませることもなく、一日中、柔らかく吹いている。

もとは宮女、罪あって道観に出だされて、女道士となったと思われる女達の、妖しくもなまめかしい姿が、ここに見られたのだが、

「昔、気紛れに羊権の家に下って不思議な贈物を届けた仙女「萼緑華」のように、彼女らはどこからともしれず、ふと現われたものだった。そしてまた、湘江の岸に捨てられ、漁夫の家に育って成長すると、天上に帰ったという杜蘭香のように、ほんの少し前までは、ここにいたと思うのに、人の愛の心をその気にさせてから、ふと消えてゆく。」

仙界の官位で云えば、まだ「玉郎」に過ぎず、日頃不遇な私のこと、ここでは必ずや仙人世界の名簿に名をつらね、宮殿に自由に出入りできる身分になりたい。かつてここを訪れた時、美女の歓待を受け、夢幻の界なる天の宮殿のきざはしで、その世界にしかない、もしそれを食えば幸福のおとずれるという植物のことについて語り合った、その歓びを私はよく憶えている。

萼緑華 (がくりょくか) 南山の仙女の名。青い衣を着て容色絶麗。晋の升平三年(359年)の冬の夜、羊権の家に降下し、仙薬を権にあたえておいて消え去った。この話は梁の陶弘貴の「真誥」にある逸話である。○杜蘭香 (とらんこう) 中国のかぐや姫。昔、一人の漁夫が湘江の岸で泣声をきき、嬰児を拾いそれを養った。その少女「杜蘭香」は成長して天姿奇偉(天女のようで妖しく賢そう)。ある日青い衣の仙界の下僕が空より、その家に下り彼女をつれ去った。昇天の際に、漁夫に言った。「私はもと仙女でございました。あやまちを犯して人間の世界に貶められておりましたが、今、帰ります。」と。後に、洞庭包山(どうていほうざん)の張碩(ちょうせき)の家に下って彼と結婚したと、前蜀の杜光庭の「墉城集仙録」(ようじょうしゅうせんろく)にある。「杜蘭香」は、晋の干宝の「捜神記」や「晋書」曹毗伝(そうひでん)などに登場するが、我が国最初の小説「竹取物語」は恐らく「杜蘭香」伝説にヒントを得ていると思われる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【字解集】-13・風流子

風流子三首其一

(昔、寵愛を受け、後宮で暮らした妃嬪が、川辺の草堂の春を詠い、秋を詠う、隠遁者のように風流を詠う。)

1.    風流子唐教坊曲名。寵愛を失った妃賓、離宮か、墓陵に送られた妃嬪を思い浮かべる作品である。この時代に風流に自然を眺められるのは、何らかの安定した収入源がある女性が前提である。「男耕女織」の時代であるが、この詩には全く労働の気配が感じられない。犬が遠くで鳴き、鶏、鳥が鳴く声が、琴の曲とし、コオロギの声も、琴箏に聞こえる、昔は、春の行楽、秋の菊美、月見にことを演奏し、聞いていた人物であるから、宮中にいた女性、妃嬪という立場であったものが暇を取らされたということである。或は、後宮にいても、寵愛を受けない妃嬪たちは、することは全くないから、この詩の状況に置かれることもあるのである。

『唐六典』 の内官制度の規定によると、后妃たちにも職務が決められていた。妃嬪は皇后を補佐し、「坐して婦礼を論じ」、「内廷に在って万事を統御する」、六儀(後宮にある六つの官庁)は「九御(天子に奉侍する女官たち)に四徳(婦徳・婦言・婦容・婦功)を教え、傘下の婦人を率いて皇后の儀礼を讃え導く」、美人は「女官を率いて祭礼接客の事を修める」、才人は「宴会、寝所の世話を司り、糸枲のことを理め、その年の収穫を帝に献じる」等々。しかしながら、これらの仕事も大半は形式的なもので、なんら実際の労働ではなかった。形式的な「公職」以外で、彼女たちの生活の最も重要なことは、言うまでもなく皇帝の側に侍り、外出の御供をすることであった。彼女たち自身の私的な生活はと言えば、ただいろいろな娯楽、遊戯を思いついては日時をすごし、いかにして孤独と退屈をまざらわすかということに尽きる。「内庭の嬪妃は毎年春になると、宮中に三人、五人と集まり、戯れに金銭を投げ表裏を当てて遊んだ。これは孤独と苦悶の憂さを晴らすためであった」、「毎年秋になると、宮中の妃妾たちは、美しい金製の小龍に蟋蟀を捉えて閉じ込め、夜枕辺に置いて、その鳴き声を聴いた」(王仁裕『開元天宝遺事』巻上)。これらが彼女たちの優閑無聊の生活と娯楽や気晴らしのちょっとした描写である。

 

唐の教坊の曲名。またの名を内家嬌、驪山石と言う。『花間集』には孫光憲の三首のみ所収。単調三十四字、八句六仄韻で、❻❻33❻❷❷❻の詞形をとる。

風流子三首其一

茅舍槿籬溪,雞犬自南自

菰葉長,水開,門外春波漲

,聲,軋軋鳴梭穿

△●●○○●  ○●●○●●

○●△  ●○○ ○●○○△● 

△● ○●  ●●○○△●

 

茅舍槿籬溪曲,雞犬自南自北。

草ぶきの四阿にはムクゲの生垣に囲まれていて琴の「前溪曲」が聞えてくる、近くで鶏や犬の鳴き声が南から、北の方からも聞こえてくる。

2. 茅舍 草ぶきの家,あばら家,茅屋,拙宅.

3. 槿籬 槿(ムクゲ)のいけがき。「槿籬竹屋江村路。槿籬竹屋江村の路」〔王安石・鍾山晩歩〕.

4. 溪曲 前溪曲のこと。古楽府吴声舞曲。

5. 雞犬 『老子、獨立第八十』「鄰國相望、雞犬之聲相聞」(鄰國相い望み、雞犬の聲相い聞ゆる)

6. 動物の飼育

「年は二八(十六歳)、久しく香閏に鎖こめられ、禍児(狩)と鶴鵡を相手に戯ぶのが愛き」(『敦煙変文社会風俗事物考』より引用)とあるように、家庭の少女や婦人、それに宮中の女性たちは常に鶴鵡や犬などの小動物を友として飼い、寂しさをまざらわせていた。楊貴妃が飼っていた鶴鵡は雪衣女といい、犬は康国(中央アジアのサマルカンド)から献上されたもので、どちらも高貴な品種であった。宮女や妃妾もまた常に小さな金の龍に蟻蜂を捉えて飼い、夜枕辺に置いて鳴き声を聞き、孤独の苦しみをまざらわせた。後に、この風習を民間が争ってまねるようになり、蟻蜂を飼うのを娯楽とした(『開元天宝遺事』巻上)。

 

菰葉長,水開,門外春波漲綠。

春は、離宮の前の川に生えている菰の葉は長く伸びているし、水草の花が開いている。南の門の向うに春の増水でと手の若草に水嵩が上がり漲り、波が立っている。

7. 菰 ① マコモやわらで織った筵(むしろ)。  マコモの古名。 「三島江の入江の-をかりにこそ/万葉集 2766  「薦被(こもかぶ)り②」の略。

8. 水 1.亦作"" 2.水草名。一年生草本。

 

聽織,聲促,軋軋鳴梭穿屋。

秋には、蟋蟀の鳴き声を耳を澄ましていいていたら、今度はどこからでも聞こえてくる。車のキシミ音のように聞こえてくるけど、琴絃を弓で弾く音か「穿屋巷」に響き渡る。

9. 聽織,聲促 「聽促織,聲促織」ということ。

杜甫『促織』

促織甚微細、哀音何動人。

草根吟不穏、牀下意相親。

久客得無涙、故妻難及晨。

悲糸与急管、感激異天真。

(促 織)

促織【そくしょく】は  甚【はなは】だ微細なるに、哀音【あいおん】  何ぞ人を動かすや。

草根【そうこん】に 吟ずること 穏かならず、牀下【しょうか】に 意相【あい】親しむ。

久客【きゅうかく】 涙 無きを得んや、故妻【こさい】  晨【あした】に及び難し。

悲糸【ひし】と急管【きゅうかん】と、感激は天真【てんしん】に異なり。

秦州抒情詩(11)   促織 杜甫 <296> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1355 杜甫詩 700- 416

10 軋軋 清楽は12弦箏を用いたが,他は13弦箏を普通とした。 奏法には指で奏する搊(しゆう),骨製の爪(義甲)で奏する弾,弦を擦って鳴らす軋(あつ)があったというが,搊と弾の意味はかならずしも明確ではない。車にキシミ音のような音。

11. 鳴梭 横糸とする糸を巻いた管を、舟形の胴部の空所に収めたもの。端から糸を引き出しながら縦糸の間を左右にくぐらせる。シャトル。

12. 穿屋 「穿屋巷」細い細い路地のこと。

 

 

宮中の主な年中行事

年中行事は、唐代では史料も増え、政府の儀礼だけでなく、都市における行事の詳細も分かるようになっている。行事の中でも、立春から冬至までの八節(二十四節気参照)と重日が重要視された。唐代の年中行事は、国家の安泰や農作物の豊穣や無病息災、神々や祖先との交流し、社会的共同性を更新する機会であり、宗教的呪術の場でもあった。

元会は、元旦に都である長安太極宮もしくは大明宮で皇帝が行う朝賀である。元会には各国の使者や百官が集まり、式典を行った。百官は元旦と前後3日間合計7日間休み、元会の儀式が終わると、残る3日新春の訪れを家族と祝った。正月には竹を燃やし、爆竹が鳴らされ、悪霊を追い払った。また、屠蘇酒を飲み、健康を祝い、膠牙糖という水飴を舐めた。

人日節正月7日に行われた行事である。祝宴が宮廷で行われ、百官に魔よけの人形の切り絵である「人勝」が配られる。この日、7種の野草を使う羮が作られた。

上元節は正月15日の前後3日間続く灯籠祭りであり、元宵節とも呼ばれ、仏教の影響もあって、最も盛んとなった祭りである。上元節の期間中は、夜行の禁が解かれ、都市、田舎を問わず、家ごとに灯籠を掛け連ね、着飾った大勢の見物人が夜通し活動する。大都市では、灯籠を無数に連ねた灯樹、灯輪、山棚などというものが飾られ、都市内各地で見物することができた。上元節の灯籠は、玄宗期に隆盛を迎え、その盛大さは多くの唐詩に唱われている。長安では、皇帝も元宵節を楽しみ、雑踏は非常に激しいもので、落とし物も朝には市中にあちこちに転がったと伝えられる。また、昼間は抜河(綱引き)が行われた。長安以外では、洛陽揚州涼州でも大規模な祭りが開かれた。玄宗期の一時期は2月に開かれていた。

探春の宴は早春の野に春の風景を探す行事である。送窮日は、1月最終日で、貧乏神を送り出す行事である。

寒食節は、2月末に、一日中冷たいものを食べる。前後3日間、火を焚くこと、夜間に灯りをつけることを禁じられた。清明節は、31日に寒食節が終わると、一続きで行われる、家で新火をおこし始める行事である。

寒食の用語解説 - 古代中国で、冬至から105日目に、火気を用いないで冷たい食事をしたこと。そのころは風雨が激しいので火災予防のためとも、また、一度火を断って新しい火で春を促すためともいう。

上巳節は、33日に行われる河や池の水で身体を洗う行事である「祓禊」が行われる。長安付近では、曲江池や渭水で行った。全体的に行楽のような意味合いを持った行事で、景色を楽しんだり、宴会が開かれたりした。

春の行事:探春の宴、送窮日、寒食節、清明節、上巳節

秋の行事:七夕、天長節、中秋節、重陽節

端午節は、55日に、悪鬼を防ぐため、艾(よもぎ)人形を戸口にかけ、艾のを頭にかぶる行事である。粽子(ちまき)を食べ、竜船競渡(ボートレース)を行うこともあった。宮廷でも、衣服やチマキが下賜された。部屋に飾る鍾馗の絵は唐代からはじまっている。

夏至には、百官は3日間の休みが与えられる。

七夕は、77日に、年に一度、織女星と牽牛星が会う日である。爆衣・爆書という衣類書籍の虫干しが行われ、夜にや瓜を食べ、を立てて二つの星を祭る。針穴に色糸を通して織物の上達を祈る「乞巧節」でもある。

天長節は、85日の玄宗の誕生日を国慶節としたことによる。宮廷では宴席を行い、興慶宮の広場で、玄宗のもとで宮廷楽団の音楽や大規模な舞踊、出し物や曲芸軽業手品などの百戯が行われた。全国の寺観でも盛大な儀式が行われ、農民も天神を祭るという行事に組み入れられた。

「中秋節は、815日に、中秋の名月を眺める日であり、この日の満月が最も美しい月とされた。果物などを食べながら、月見を行った。唐代の半ばにはじまり、晩唐には定着した。

重陽節は、99日に、人々が高い丘や高楼の高所に登高し、茱萸(かわはじかみ)の枝や菊の花を髪に挿し、その実を入れた袋を肘に下げ、菊酒を飲み邪気を祓う行事である。翌日の910日が小重陽で酒宴が開かれた。

冬至節は、1115日に、皇帝が朝賀を行う前に天に祭り、天下太平・五穀豊穣を祈り、式典が催される。元旦とともに重視され、官僚は7日間の休日を与えられた。民間でも「拝冬」として祝い、ご馳走をする。この前夜は、「至除夜」と言われ、徹夜して夜明けを迎える。

臘日は成道日の128日に、酒宴などを行って祝う行事。宮中でも宴会が開かれる。

徐夕は、1229日か30日の1年の最終日。夜の「除夜」に、新しい年を迎えるため、酒を飲んで、徹夜する。宮廷では「大儺」の儀式が行われた。

 

 

 

風流子三首其二

1.(神仙境といわれる後宮での今宵の佳き伴侶として過ごす妃嬪が選ばれる、まだ幼さを残した妃嬪は、まだあどけない素振りをくりかえす)

 

2. 唐の教坊の曲名。またの名を内家嬌、驪山石と言う。『花間集』には孫光憲の三首のみ所収。単調三十四字、八句六仄韻で、❻❻33❻❷❷❻の詞形をとる。

風流子三首其一

茅舍槿籬溪,雞犬自南自

菰葉長,水開,門外春波漲

,聲,軋軋鳴梭穿

△●●○○●  ○●●○●●

○●△  ●○○ ○●○○△● 

△● ○●  ●●○○△●

風流子三首其二

唐の教坊の曲名。またの名を内家嬌、驪山石と言う。『花間集』には孫光憲の三首のみ所収。単調三十四字、八句六仄韻で、❻❻33❻❷❷❻の詞形をとる。

樓倚長衢欲,瞥見神仙伴

微傅粉,攏梳頭,隱映畫簾開

,無,慢曳羅裙歸

○△△○●●  ●●○○●●

○△●  ●○○ ●●●○○●

○● ○●  ●●○○○●

 

3. 孫光憲900年-968年)、字を孟文と言い、自ら葆光子と号した。陵州の貴平(今の四川省仁壽縣東北)の人。唐の末に陵州の判官となったが、後唐の明宗の926年天成初年、戦乱を避けて江陵(今の湖北省の江陵)に住んだ時、南平王の高従義の知遇を得て、彼の幕下となった。963年建隆四年、当時南平王であった高継沖に末に帰服することを勧め、高継沖は、彼の勧めに従って宋に下った。宋の太祖はその功績を嘉して孫光憲を黄州刺史に任じたが、赴任前に亡くなった。詞風は淡麗清疏、水郷の風光描写に優れるが、反面、脂粉の香りにはやや欠ける。多くの著作のあったことは分かっているが、そのほとんどが末代に既に失われた。唐五代の詞人中、今日に伝わる詞は最も多く、『花間集』には六十一首の詞が収められている

 

 

樓倚長衢欲暮,瞥見神仙伴侶。

日が堕ち、高殿欄干に寄りかかると、大通りに日は落ち、都には夕闇がせまる、神仙郷、後宮の寝殿において、よき伴侶として良く勤めてくれる妃賓を、ざっと目を通し選ばれる。

13. 長衛 街の中心の大通り、交通の要衝の地。長安の承天門―朱雀門―明徳門の朱雀門街を示すことで長安城に夕闇が訪れたことを言う。

14. 欲暮 暮れようとしている。欲は今にも〜しそうだ、の意。

15. 神仙伴侶 神仙のともがら、仙女。花街で、風流な日を過ごすなかで女性が男にとってよき伴侶でいてくれること、文字通り、痒い所に手が届くおもてなしをしてくれていることを風流に表現する。女道士で後宮に入った妃嬪と思われる。

16. 瞥見 ちらりと見ること。ざっと目を通すこと。一瞥。

 

微傅粉,攏梳頭,隱映畫簾開處。

薄化粧でも充分美しいし、髪を梳く姿に魅了される、きれいな絵簾を開けようとしてそこまで行くと、美しい姿を隠れん坊をして、見え隠れする。

17. 徴博 粉薄く白粉を塗る。

18. 攏梳頭 髪をさっと梳かす。攏は櫛などで筋目をっけること。

19. 隠映 隠れん坊をして、見え隠れする。

 

無語,無緒,慢曳羅裙歸去。

黙って寄り添い、離れるのは厭だというような顔をする。そして、はにかんで、ゆるゆると薄絹のスカートを引いて奥に去る。

20. 無緒 楽しい思いがしない、心楽しまない。ここでは女性が浮かぬ顔をしていることを言う。

 

 

(風流子三首其の二)

楼は長衢【ちょうく】に倚りて 暮れんと欲し、神仙の伴侶を瞥見す。

微かに粉を傳き、頭を攏し梳く、隠映す 画簾の開く処。

語ること 無く、緒 無し、慢に羅裙を曳きて 帰り去る。

 

孫光憲  風流子三首 其一其二 【字解】

 

1.        風流子唐教坊曲名。寵愛を失った妃賓、離宮か、墓陵に送られた妃嬪を思い浮かべる作品である。この時代に風流に自然を眺められるのは、何らかの安定した収入源がある女性が前提である。「男耕女織」の時代であるが、この詩には全く労働の気配が感じられない。犬が遠くで鳴き、鶏、鳥が鳴く声が、琴の曲とし、コオロギの声も、琴箏に聞こえる、昔は、春の行楽、秋の菊美、月見にことを演奏し、聞いていた人物であるから、宮中にいた女性、妃嬪という立場であったものが暇を取らされたということである。或は、後宮にいても、寵愛を受けない妃嬪たちは、することは全くないから、この詩の状況に置かれることもあるのである。

『唐六典』 の内官制度の規定によると、后妃たちにも職務が決められていた。妃嬪は皇后を補佐し、「坐して婦礼を論じ」、「内廷に在って万事を統御する」、六儀(後宮にある六つの官庁)は「九御(天子に奉侍する女官たち)に四徳(婦徳・婦言・婦容・婦功)を教え、傘下の婦人を率いて皇后の儀礼を讃え導く」、美人は「女官を率いて祭礼接客の事を修める」、才人は「宴会、寝所の世話を司り、糸枲のことを理め、その年の収穫を帝に献じる」等々。しかしながら、これらの仕事も大半は形式的なもので、なんら実際の労働ではなかった。形式的な「公職」以外で、彼女たちの生活の最も重要なことは、言うまでもなく皇帝の側に侍り、外出の御供をすることであった。彼女たち自身の私的な生活はと言えば、ただいろいろな娯楽、遊戯を思いついては日時をすごし、いかにして孤独と退屈をまざらわすかということに尽きる。「内庭の嬪妃は毎年春になると、宮中に三人、五人と集まり、戯れに金銭を投げ表裏を当てて遊んだ。これは孤独と苦悶の憂さを晴らすためであった」、「毎年秋になると、宮中の妃妾たちは、美しい金製の小龍に蟋蟀を捉えて閉じ込め、夜枕辺に置いて、その鳴き声を聴いた」(王仁裕『開元天宝遺事』巻上)。これらが彼女たちの優閑無聊の生活と娯楽や気晴らしのちょっとした描写である。

2. 茅舍 草ぶきの家,あばら家,茅屋,拙宅.

3. 槿籬 槿(ムクゲ)のいけがき。「槿籬竹屋江村路。槿籬竹屋江村の路」〔王安石・鍾山晩歩〕.

4. 溪曲 前溪曲のこと。古楽府吴声舞曲。

5. 雞犬 『老子、獨立第八十』「鄰國相望、雞犬之聲相聞」(鄰國相い望み、雞犬の聲相い聞ゆる)

6. 動物の飼育

「年は二八(十六歳)、久しく香閏に鎖こめられ、禍児(狩)と鶴鵡を相手に戯ぶのが愛き」(『敦煙変文社会風俗事物考』より引用)とあるように、家庭の少女や婦人、それに宮中の女性たちは常に鶴鵡や犬などの小動物を友として飼い、寂しさをまざらわせていた。楊貴妃が飼っていた鶴鵡は雪衣女といい、犬は康国(中央アジアのサマルカンド)から献上されたもので、どちらも高貴な品種であった。宮女や妃妾もまた常に小さな金の龍に蟻蜂を捉えて飼い、夜枕辺に置いて鳴き声を聞き、孤独の苦しみをまざらわせた。後に、この風習を民間が争ってまねるようになり、蟻蜂を飼うのを娯楽とした(『開元天宝遺事』巻上)。

7. 菰 ① マコモやわらで織った筵(むしろ)。  マコモの古名。 「三島江の入江の-をかりにこそ/万葉集 2766  「薦被(こもかぶ)り②」の略。

8. 水 1.亦作"" 2.水草名。一年生草本。

9. 聽織,聲促 「聽促織,聲促織」ということ。

杜甫『促織』

促織甚微細、哀音何動人。

草根吟不穏、牀下意相親。

久客得無涙、故妻難及晨。

悲糸与急管、感激異天真。

(促 織)

促織【そくしょく】は  甚【はなは】だ微細なるに、哀音【あいおん】  何ぞ人を動かすや。

草根【そうこん】に 吟ずること 穏かならず、牀下【しょうか】に 意 相【あい】親しむ。

久客【きゅうかく】 涙 無きを得んや、故妻【こさい】  晨【あした】に及び難し。

悲糸【ひし】と急管【きゅうかん】と、感激は天真【てんしん】に異なり。

秦州抒情詩(11)   促織 杜甫 <296> kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1355 杜甫詩 700- 416

10 軋軋 清楽は12弦箏を用いたが,他は13弦箏を普通とした。 奏法には指で奏する搊(しゆう),骨製の爪(義甲)で奏する弾,弦を擦って鳴らす軋(あつ)があったというが,搊と弾の意味はかならずしも明確ではない。車にキシミ音のような音。

11. 鳴梭 横糸とする糸を巻いた管を、舟形の胴部の空所に収めたもの。端から糸を引き出しながら縦糸の間を左右にくぐらせる。シャトル。

12. 穿屋 「穿屋巷」細い細い路地のこと。

 

 

 

 

風流子三首其三

(馬で遠出をしての帰りに妃嬪のところに来る、いつものように柳の木に馬を繋いで入ってゆく、帰るのはいつも深夜頃である。)

 

唐の教坊の曲名。またの名を内家嬌、驪山石と言う。『花間集』には孫光憲の三首のみ所収。単調三十四字、八句六仄韻で、❻❻33❻❷❷❻の詞形をとる。

風流子三首其一

茅舍槿籬溪,雞犬自南自

菰葉長,水開,門外春波漲

,聲,軋軋鳴梭穿

△●●○○●  ○●●○●●

○●△  ●○○ ○●○○△● 

△● ○●  ●●○○△●

風流子三首其二

唐の教坊の曲名。またの名を内家嬌、驪山石と言う。『花間集』には孫光憲の三首のみ所収。単調三十四字、八句六仄韻で、❻❻33❻❷❷❻の詞形をとる。

樓倚長衢欲,瞥見神仙伴

微傅粉,攏梳頭,隱映畫簾開

,無,慢曳羅裙歸

○△△○●●  ●●○○●●

○△●  ●○○ ●●●○○●

○● ○●  ●●○○○●

唐の教坊の曲名。またの名を内家嬌、驪山石と言う。『花間集』には孫光憲の三首のみ所収。単調三十四字、八句六仄韻で、❻❻33❻❷❷❻の詞形をとる。

風流子三首其三

金絡玉銜嘶,繫向綠楊陰

掩,繡簾垂,曲院水流花

,歸,猶在九衢深

○●●○○●  ●●●○○●

○●●  ●○○ ●△●○○●

○△ ○●  △●△○△●

 

 

金絡玉銜嘶馬,繫向綠楊陰下。

黄金でつくった覊に、宝飾で輝くクツワを付いてきたこと知らせる様に馬を嘶かせている。鬱蒼と緑に茂った楊の樹のもとに馬をつなぐ。

21. 金絡 黄金でつくったおもがい(馬の頭の上からくつわにかけて飾りにするひも)

22. 玉銜 宝飾で輝くクツワ。

23. 繫向綠楊 白居易《売炭翁》「半匹紅綃一丈綾、繋向牛頭充炭直。」(半匹の紅綃 一丈の綾、牛頭に繋けて炭の直【あたひ】に充つ)一車の炭の重さは千餘斤ある、宮使がそれを持ち去るのはいかんともしがたい、半匹の紅綃と一丈の綾を、牛の首にかけて代金とした。

  

掩,繡簾垂,曲院水流花謝。

南の正面の扉は閉められたままであり、刺繍が入った簾も垂らしている。奥まった中庭の国向って小川が流れているあれほど咲き誇った花も落ちてしまっている。

24. 掩 おおう。上からおおい隠す。おさえる。 かくす。かばう。目立たないようにかくす。 不意に襲う。

25. 曲院 宮廷酒を造るところで、きれいな水を酒蔵処へ引き入れている。奥まったところにあることを想定できる。蓮の花の香りが風に乗って漂うことから、「曲院風荷」という名前がつけられたとされています。

 

歡罷,歸也,猶在九衢深夜。

誰もがやがて歓談するのもやめて帰るとことになる。外に出ると深夜の九衢の大通りがある皇城も夜が更けてゆく。

26. 九衢 枝の多く別れたもの。山海経「宣山の上に桑有り。その枝を衢という也。枝交互に四出るなり。」衢:ちまた。四方に通じる大通り。分かれ道。横交叉の大道;繁的街市。『楚辞·天』:「靡蓱九衢,枲安居。」(靡蓱【びへい】は九衢【きゅうく】,枲【しょか】安くにか居る。)靡蓱は九つの枝に別れているとのことである。枲はどこにあるのだろうか。

長安の南北の大通りは九の交差点が東西に並んでいた。三門に三道の周禮に基づきつくられた皇都である。東、西、南面にそれぞれ三門有り、九通り、九筋ある

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