花間集 訳注解説 巻一33 (41)回目温庭筠 《楊柳枝八首其四》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7808

巻一33 (41)回目温庭筠 《楊柳枝八首其四》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20161211

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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注

 

 

Ⅰ李白詩

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744年-020卷165_14 夷則格上白鳩拂舞辭(卷三(一)二六四) -#2Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集7799

 

 

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少年行・白馬篇・白雲歌など【字解集】Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集7799

 

 

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●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首 

 

 

Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注

806年-16-#8 巻二 17-#8答張徹【案:愈為四門博士時作。張徹,愈門下士,又愈之從子婿。】Ⅱ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集7806

 

 

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806年-16-#14 巻二 17-#14巻二 答張徹  【字解集】Ⅱ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集7842

 

 

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韓愈 哲学・儒学「五原」

孟郊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"

 

 

Ⅲ 杜詩

詳注

757年-41 送惠二歸故居(一作聞惠二過東溪)卷一八(四)一六二三) 杜詩詳注()Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7807

 

 

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757年-40 寄薛三郎中璩 -#7 【字解集】 杜詩詳注(卷一八(四)一六二○)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7801

 

 

杜甫詩(1)736~751年  53

杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73

杜甫詩(3)45歳 安史の乱に彷徨う 26

杜甫詩(4)757年、左拾遺 43

杜甫詩(5)758年47歳 左遷 53

杜甫詩(6)759年 三吏三別 44

 

 

杜甫詩(7)759年秦州詩 66

杜甫詩(8)759年同谷紀行、成都紀行36

杜甫詩(9)760年、49歳 成都 45

杜甫詩(10)761年、50歳 成都82

杜甫詩(11)762年蜀中転々43

杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49

 

 

(13)763年蜀中転々 96

 (14)764年 三月成都へ帰る 100

 (15)765年正月幕府を辞す 63

(16-1) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)80

(16-2) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)81

 

 

 

杜甫詩 (17-1)767年夔州・西閣・赤甲・瀼西132

杜甫詩 (17-2) 767年・瀼西・東屯 133

杜甫詩 (18)768年江陵・公安縣・岳州 78

杜甫詩 (19)769年・洞庭湖・潭州・衡州 78

杜甫詩 (20)770年・洞庭湖・潭州・衡州。27

杜甫詩 (21)洩れ分(未詳分)・散文

 

 

 

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花間集 巻一 (27)回目温庭筠 《更漏子六首 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7724 (11/27)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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玉-013-#1 古樂府詩六首其四艶歌行〈無名〉 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ 7809

 

 

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玉集-02 古樂府詩六首【字解集】 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ 7839(12/17

 

 

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花間集 訳注解説 巻一33 (41)回目温庭筠 《楊柳枝八首其四》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7808

(妃嬪は宮殿で天子に贈る錦を織っている。再び寵愛されることを思い丹念に機織るその庭先に鶯が啼く。前秦才女蘇蕙の《迴文璿璣圖》詩を錦に織り上げたように思いは伝わらないが、そうして生きていくよりほかの道はないと詠う。)

宮殿であのお方に思いを込めて錦を織っている機の傍まで鶯が来て春を告げる泣き声を繰り返している。またこの春も寵愛を受けることが無いのは、辺塞地に送り出した征人に帰りを待つ女より悲しい、機織りの梭を停めて涙を流し、そしてまた、あのおかたの事を思う。
関所塞の春の盛りを過ぎようとする三月といっても、なお春にはなっていないというのはこの妃嬪もおなじように寂しいものである。たとえ、垂れ柳の葉が芽吹いてきて風に揺られて腰を動かそうとも、妃嬪にとっては、春の喜びを感じることはできない。

 

唐の女性観 貴族、高官の家の婦女

(8) 外命婦制度

 

良人は玉の勒もて聴馬に乗リ、

侍女は金盤もて鯉魚を檜にす。

           王維

 

 この節では、豊かさと高貴さにおいて最高の位置にいた皇室貴戚、官僚貴族の婦人たちに加えて、その他の高貴とはいえない下層官僚の婦人も取り上げる。彼女たちの生活、地位の格差はきわめて大きかったが、官と民とが明確に区分されていた社会の中では、同じ「官」に属し、「民」の女性ではなかった。

 

一 外命婦制度

 唐朝の命婦制度では宮中の妃娘はすべて「内命婦」といい、公主、王妃以下の貴婦人を「外命

婦」と称した。外命婦の制度は、次のように規定する。親王の母と妻を「妃」とし、文武の一晶官と国公の母と妻を「国夫人」に封じ、三晶官以上の官僚の母と妻を「郡夫人」に封じ、四品官の官僚の母と妻を「郡君」に封じ、五晶官の官僚の母と妻を「県君」に封ず、と。以上の婦人はそれぞれ封号を与えられたが、母親の封号には別に「太」の宇が付け加えられた。もし、夫や子の身分によって封号を授与されたものでない人は、別に封号を加えて某晶夫人、某品郡君、某晶県君等と称した(『唐会要』巻二六「命婦朝皇后」)。封号は原則的にはただ正妻だけに与えられるものであり、側室には与えられなかった。

 

 唐朝の命婦の大半は、夫や子が高位高官であるが故に封号を授けられたか、あるいは夫や子が天子の寵愛を特に受けて授けられたかであり、「母は子を以て貴く、妻は夫を以て栄える」のであった。たとえば、宰相牛仙客の妻は那国夫人に封ぜられ、節度使安禄山の二人の妻は共に国夫人に封ぜられた。韓愈等二十九名の官僚たちの亡き母親は、同日にそれぞれ郡太央人∴国太夫人等々の封号を追贈された。一級下のもの、たとえば剌史の李遜の母などは県太君等に封ぜられた(いずれも『全唐文』にみえる)。その他に、皇親と国戚(外戚)であることによって、封号を与えられたものが少数いた。たとえば武則天の母は栄国夫人、姉は韓国夫人、姪は魏国夫人の封号を与えられた。楊貴妃の三人の姉妹は韓国夫人、貌国夫人、秦国夫人の封号を与えられた。また少数ではあるが、皇帝の乳母や上級の宮人で特に皇帝から寵愛を受けたもの、たとえば高宗、中宗、容宗の乳母は、それぞれ国夫人、郡夫人に封ぜられた。それ以外に、本人が功を立てたとか、あるいは別の事情で封号の授与にあずかったものもいた。たとえば、剌史の鄙保英の妻呉氏は契丹の侵人に抵抗して功を立て、誠節夫人に封ぜられ、県令の古玄応の妻高氏は突疲の侵人に抵抗して功を立て、狗忠県君に封ぜられた(『旧唐書』列女伝)。また、武則天のとき故郷の八十歳以上の女性が郡君に封ぜられた、といった例である。

 命婦に封ぜられたものに対しては、朝廷がおおむねその品級に応じて一定の俸料銭(給金)を支給した。『仝唐文』には玄宗の「乳母の賓氏に賜る俸料は三品(官)に準ずる詔」が収録されている。これは、乳母の燕国夫人(賓氏)に三品官を標準として俸給を授与せよと命じているのである。ただすべての命婦が俸給を授与されたかどうかは不明である。『容斎三筆』には、宋代の郡夫人、国夫人などの命婦には「みな月俸の銭米の支給と春と冬の絹布・生綿の支給があり、その数量はきわめて多いものだった」と記載されている。おそらく唐代にもほぼ類似の制度があったと思われる。そのほか、『太平広記』巻四九七には、顔呆卿の妻以降、湖南観察使には特別に夫人の脂粉銭(化粧料)の費目があり、柳州刺史の場合もそうだった、という。しかしこれは特定地域の現象に過ぎないだろうし、この『太平広記』の記載が歴史的事実でない可能性もある。

 命婦には皇后に朝見する儀式があった。武則天が皇后になった時から、この大礼が始まった。その後、各代の記念日や祝典には、いつも命婦が皇后、太后に朝見することが慣例となった。憲宗のとき詔を下して次のように命じたことがある。およそ外命婦で皇太后に朝見する儀式に休暇をとって出席しなかったものは、官がその夫や子の一ヵ月の官俸を罰として取り上げる、また儀式にしばしば出席しないものは皇帝に報告せよ、と(『旧唐書』憲宗紀古。どうやら欠席は罰を受けねばならなかったようである。朝廷の命婦はち太っとした公職とみなされていたことが分かる。元棋の妻はかつて郡君の身分で、興慶宮で命婦の班長となって太后に朝見したことがある。この際、元袱は妻に贈った詩の中で、あなたは「興慶にて干の命婦に首行し、……君はこの外に更に何をか求めん」(「初て浙東(観察使)に除せらる。妻に阻色あり、因りて四韻を以て之に暁す」)と述べている。人々の意識においては、官僚の婦人として命婦に封ぜられ、宮中において謁見を賜ることが生涯最大の栄誉であったことが分かる。

 

 

 

 

 

楊柳枝 八首

 

 

 

 

 

楊柳枝 八首其一
(昔、南斉錢唐の蘇小小の家の前の柳が生い茂るある春の日に、阮籍と出会いやっと春が訪れたと詠う。)

蘇小門前柳萬條,毵毵金線拂平橋。
南斉の錢唐の蘇小小の家の門前の土手の柳は、春の訪れに万条の枝がゆれる、細く長く垂れ下がる黄金色に輝く新芽のめぶいた柳の枝は、平橋を撫で払うように、また、風にゆれる。
黄鶯不語東風起,深閉朱門伴細腰。
高麗鶯が春風も吹きはじめたというのに、春の訪れを告げてはくれない、あのお方が来なければ春が来たことにならないのだろう、と思っていたら、そのひとはおとずれていて、正面の立派な朱塗りの南門を閉ざし、腰の細い嫋やかな女性を伴って、その家宅の奥深い所に入っていった。 
楊柳枝 (その一)
蘇小【そしょう】の門前 柳は萬條,
毵毵【さんさん】たる金線 平橋を拂ふ。
黄鶯【こうおう】語らず東風の起きるを,深く朱門に 閉ざして細腰を伴ふ。

 

楊柳枝 八首其二
(後宮の六宮にはそれぞれ妃嬪が毎夜の準備をして待つが、柳と楊が揺れあう季節には、それぞれ愁いに思う。同じように、興慶宮で待つ妃嬪は龍池に降る雨の音に胸を焦がして待っていると妃嬪たちのことを詠う。)

金縷毵毵碧瓦溝,六宮眉黛惹香愁。
柳の芽が芽吹き春がたけなわになろうとしている、細長い柳の枝に黄金色に輝く新芽がふさふさとして垂れ下がる、池溝の向うの宮殿の屋根瓦を楊の御殿の部屋それぞれに妃嬪たちは緑が蔽うように見える。柳と楊がゆれうごくが後宮の六宮の部屋には柳葉のまゆにまゆずみをきれいして香を焚いてそれぞれに待つのであるが、それぞれに愁いに思う。
晚來更帶龍池雨,半拂欄杆半入樓。
ここ興慶宮にも夕方になれば夜の化粧をしている妃嬪がいて、夜寝牀のための帯に着替えて待ち続け、竜池に雨が降るように涙をこぼしている。池に降る雨音に着物のすそを少しかかげて欄干をとおって庭に出たり入ったりして待っている。
(楊柳枝 その二)

金縷 毵毵として碧の瓦溝あり,六宮 眉黛 惹香して愁う。

晚來 更帶するも 龍池の雨,半拂い 欄杆 半ば樓に入る。

 

 

楊柳枝 八首之三
(大明宮には大池に水を導く渠溝、運河が張り巡らされていてその両岸に柳が植えられる。その枝葉が王滋池端の宮殿、朝方の鐘がなるころまで寵愛されている。妃嬪は朝、風に乗せて、送り出せば、風に乗せて復寵愛を受けることになる。妃嬪たちのことを詠う。)

禦柳如絲映九重,鳳凰窗映繡芙蓉。
大明宮には渠溝が幾重にもあり、その土手には柳が芽吹いている。柳の枝はまるで糸を操るようにもてあそび、金色に輝く若芽を九重に続く御門、春も盛り、柳は幾重にもかさねって映える。宮殿の梁に彫られた鳳凰が芙蓉の刺繍を差し込んだうす絹の窓辺に影を映している。
景陽樓畔千條路,一面新妝待曉風。
寵愛を受けた夜も、いつしか夜明けをつげる景陽楼の鐘がなりはじめる、宮殿の楼閣の側の幾筋もある川岸に柳並木の道の枝も揺れる、鏡に向い朝の化粧にととのえていると、暁の風はあのお方をおくり、また迎える待つ風がなる。(妃嬪はこの風邪だけを頼りに生きていく。)
(楊柳枝 八首の三)
絲の如く柳を禦して九重を映し,鳳凰 繡の芙蓉を窗に映す。
景陽 樓の畔 千條の路,新妝するに一たび面し曉の風するを待つ。

 

楊柳枝  八首其四
(妃嬪は宮殿で天子に贈る錦を織っている。再び寵愛されることを思い丹念に機織るその庭先に鶯が啼く。前秦才女蘇蕙の《迴文璿璣圖》詩を錦に織り上げたように思いは伝わらないが、そうして生きていくよりほかの道はないと詠う。)

織錦機邊鶯語頻,停梭垂淚憶征人。
宮殿であのお方に思いを込めて錦を織っている機の傍まで鶯が来て春を告げる泣き声を繰り返している。またこの春も寵愛を受けることが無いのは、辺塞地に送り出した征人に帰りを待つ女より悲しい、機織りの梭を停めて涙を流し、そしてまた、あのおかたの事を思う。
塞門三月猶蕭索,縱有垂楊未覺春。
あの人が行っている関所塞の春の三ケ月はこちらとは違って今なおはるはこなくてもの寂しい。たとえ、垂れ柳が葉が芽吹いてきて風に揺られても私にとっては、春の喜びを感じることはできない。

楊柳枝 (之四)
錦を織るは機邊 鶯語【おうご】頻【ひん】なり,梭【さ】を停めて淚を垂す 征人を憶う。
塞門 三月 猶お蕭索し,縱【たと】い楊が垂れようとも 未だ春をえ覺ざる有り。

 


『楊柳枝』 八首其四 現代語訳と訳註
(
本文)
 楊柳枝 八首其四
織錦機邊鶯語頻,停梭垂淚憶征人。
塞門三月猶蕭索,縱有垂楊未覺春。


(下し文)
(楊柳枝 八首その四)
錦を織るは機の邊り 鶯語【おうご】頻【ひん】なり,梭【さ】を停めて淚を垂す 征人を憶う。
塞門 三月 猶お蕭索たり,縱【たと】い楊が垂れる有るも 未だ春を覺ざる。


(現代語訳)
(妃嬪は宮殿で天子に贈る錦を織っている。再び寵愛されることを思い丹念に機織るその庭先に鶯が啼く。前秦才女蘇蕙の《迴文璿璣圖》詩を錦に織り上げたように思いは伝わらないが、そうして生きていくよりほかの道はないと詠う。)

宮殿であのお方に思いを込めて錦を織っている機の傍まで鶯が来て春を告げる泣き声を繰り返している。またこの春も寵愛を受けることが無いのは、辺塞地に送り出した征人に帰りを待つ女より悲しい、機織りの梭を停めて涙を流し、そしてまた、あのおかたの事を思う。
関所塞の春の盛りを過ぎようとする三月といっても、なお春にはなっていないというのはこの妃嬪もおなじように寂しいものである。たとえ、垂れ柳の葉が芽吹いてきて風に揺られて腰を動かそうとも、妃嬪にとっては、春の喜びを感じることはできない。

(訳注)
楊柳枝  八首其四
柳を詠う。連作八首のうち第四首。(妃嬪は宮殿で天子に贈る錦を織っている。再び寵愛されることを思い丹念に機織るその庭先に鶯が啼く。前秦才女蘇蕙の《迴文璿璣圖》詩を錦に織り上げたように思いは伝わらないが、そうして生きていくよりほかの道はないと詠う。)

 

楊柳枝  八首其四
柳を詠う。連作八首のうち第四首。(妃嬪は宮殿で天子に贈る錦を織っている。再び寵愛されることを思い丹念に機織るその庭先に鶯が啼く。前秦才女蘇蕙の《迴文璿璣圖》詩を錦に織り上げたように思いは伝わらないが、そうして生きていくよりほかの道はないと詠う。)

 

42. 【解説】

唐時代に流行した辺塞詩は、現地に赴いた実際を詠ったものではなく、宴席や、歌会、サロンのような場所で、想像を広げて詠われたもので、辺塞地に送り出した女性たちの状況を安に何が言いたいのかを想像するものなのである。楊柳の詩は、柳だから単純に別れというのではなく、柳腰、女性であれば細身の女の古詩の動きを言い、男性の表現であれば、相撲などの粘り腰を言い、性交渉を連想させるものである。

唐の教坊の曲名。単調と双調とがある。『花間集』 には二十四首所収(同調異名の「柳枝」九首を含む)。温庭第の作は八首収められている。単調二十八字、四句三平韻で、⑦⑦7⑦の詞形をとる。

織錦機邊鶯語頻 停梭垂淚憶征
塞門三月猶蕭索 縱有垂楊未覺

 
 

基本的に填詞(宋詞)を採りあげている。七言絶句体の填詞は、填詞の発展といった系統樹でみれば幾つかある根の一になる。漢の鐃歌鼓吹曲で、唐の教坊曲。白居易は古い曲名を借りて新たな曲を作った、そのことを宣言した詞。詩の形式は七言絶句体であるが、白居易が新たな曲調を附けたもの。柳を詠い込む唐の都・洛陽の民歌として作っている。やがて、詞牌として数えられる。七言絶句の形式をした例外的な填詞。

 

七言絶句形式や七言四句体をした填詞には他に『採蓮子』『陽関曲』『浪淘沙(二十八字体)』『八拍蠻』『江南春』『阿那曲』『欸乃曲』『水調歌』『清平調』などがある。それぞれ七言絶句体と平仄や押韻が異なる。また、曲調も当然ながら異なりあっている。これら『採蓮子』『陽関曲』『浪淘沙(二十八字体)』『八拍蠻』『江南春』『阿那曲』『欸乃曲』『水調歌』『清平調』の平仄上の差異についてはこちら。七言絶句体で、七言絶句とされないものに『竹枝詞』がある。

『楊柳枝』と前出『竹枝詞』との違いを強調してみれば、前者『楊柳枝』は、都・洛陽の民歌となるだけに優雅である。それに対して『竹枝詞』は、表現が直截である。巴渝(現・四川東部)の人情、風土を歌ったもので、鄙びた風情とともに露骨な情愛を謡っていることである。相似点は、どちらも典故や格調を気にせず、近体七言絶句よりも気楽に作られていることである。


織錦機邊鶯語頻,停梭垂淚憶征人。
宮殿であのお方に思いを込めて錦を織っている機の傍まで鶯が来て春を告げる泣き声を繰り返している。またこの春も寵愛を受けることが無いのは、辺塞地に送り出した征人に帰りを待つ女より悲しい、機織りの梭を停めて涙を流し、そしてまた、あのおかたの事を思う。
43. 織錦機邊 錦を扱うのは妃嬪が指示をして天子に贈るもので、寵愛を得るための必須事項である。

44. 鶯語 鶯が鳴き春を告げる。後宮の場合、妃嬪たちは春の訪れに寵愛を待ち望み、宮女は行楽での楽しみを夢見ることを語り合う。高楼の女儀の場合もある。季語としては早春、春を告げるということ。
45.
 頻 くりかえす。

46. 征人 たびびと。遊子。旅客。命令で旅立つ人、征客をいういくさびと。出陣した人。天子が後宮を出て離宮などに行くことを征伐になぞらえて云う。

47. 織錦機邊鶯語頻,停梭垂淚憶征人 李白の「烏夜啼」詩に「黄雲城辺烏欲棲、帰飛唖亜枝上啼。機中織錦秦川女、碧紗如煙隔窓語。停梭悵然憶遠人、独宿弧房涙如雨。」(黄雲(こううん)  城辺  烏棲まんと欲し。帰り飛び  唖唖として枝上に啼く。機中  錦を織る  秦川【しんせん】の女。碧紗【へきさ】  煙の如く  窓を隔てて語る。梭【ひ】を停め  悵然【ちょうぜん】として遠人を憶う。独り弧房に宿して  涙  雨の如し。) 李白41 烏夜啼”とあるのを踏まえる。また織錦は、東晉十六國の時、前秦才女蘇蕙、及び其の《迴文璿璣圖》詩を錦に織り上げて送った故事に基づく


塞門三月猶蕭索,縱有垂楊未覺春。
関所塞の春の盛りを過ぎようとする三月といっても、なお春にはなっていないというのはこの妃嬪もおなじように寂しいものである。たとえ、垂れ柳の葉が芽吹いてきて風に揺られて腰を動かそうとも、妃嬪にとっては、春の喜びを感じることはできない。
48. 塞門 西域の塞、玉門関。
49.
 三月 春の三か月(早春、盛春、晩春)
50.
 蕭索 もの寂しいさま。うらぶれた感じのするさま。蕭条。
塞門三月猶蕭索,縱有垂楊未覺春 王之渙の「涼州詞」の「羌笛 何ぞ須いん楊柳を怨むを、春風 渡らず 玉門関」の句を踏まえる。塞門は陽関や玉門關などの国境の関門をいうが、特定されたところではなく、後宮において、存在感がなくなっていることを感じさせる表現である。

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