花間集 訳注解説 巻一32 (40)回目温庭筠 《楊柳枝八首其三》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7802

 温庭筠 《楊柳枝八首其三》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

20161210

の紀頌之5つの校注Blog

 

 

●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注

 

 

Ⅰ李白詩

(李白集校注)

744年-020卷165_14 夷則格上白鳩拂舞辭(卷三(一)二六四) -#2Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集7799

 

 

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少年行・白馬篇・白雲歌など【字解集】Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集7799

 

 

孟浩然

李白詩

謝霊運

司馬相如 《子虛賦 上林賦》

揚雄 《甘泉賦》

諸葛亮 出師表

 

 

曹植詩65

兩都賦序・西都賦・東都賦

李白全詩

漁父辞(屈原

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《楚辞九辯》

 

 

 

 

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●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首 

 

 

Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注

806年-16-#7 巻二 17-#7答張徹【案:愈為四門博士時作。張徹,愈門下士,又愈之從子婿。】Ⅱ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集7800

 

 

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806年-16-#14 巻二 17-#14巻二 答張徹  【字解集】Ⅱ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集7842

 

 

・李商隠詩 (1) 136首の75

・李商隠詩 (2) 135首の61

韓愈1 ・孟郊・張籍と汴州乱41

index-2[800年~804年]27

index-3 805年陽山から江陵36

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index-5 806年39歳(2)25

index-6 807~809年 20

index-7[810年~811年 44歳] 34

index-8 [812年~814年47歳]46

index-9[815年~816年 49歳57

index-10[817年~818年 51歳]「平淮西碑」28

 

 

index-11 819年『論佛骨表』左遷 38

index-12 820 國子祭酒18

index-13 821年~822年 22

index-14 57歳・病気のため退職。没す14

韓愈 哲学・儒学「五原」

孟郊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"

 

 

Ⅲ 杜詩

詳注

757年-40 寄薛三郎中璩 -#7 【字解集】 杜詩詳注(卷一八(四)一六二○)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7801

 

 

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757年-40 寄薛三郎中璩 -#7 【字解集】 杜詩詳注(卷一八(四)一六二○)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7801

 

 

杜甫詩(1)736~751年  53

杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73

杜甫詩(3)45歳 安史の乱に彷徨う 26

杜甫詩(4)757年、左拾遺 43

杜甫詩(5)758年47歳 左遷 53

杜甫詩(6)759年 三吏三別 44

 

 

杜甫詩(7)759年秦州詩 66

杜甫詩(8)759年同谷紀行、成都紀行36

杜甫詩(9)760年、49歳 成都 45

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杜甫詩(11)762年蜀中転々43

杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49

 

 

(13)763年蜀中転々 96

 (14)764年 三月成都へ帰る 100

 (15)765年正月幕府を辞す 63

(16-1) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)80

(16-2) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)81

 

 

 

杜甫詩 (17-1)767年夔州・西閣・赤甲・瀼西132

杜甫詩 (17-2) 767年・瀼西・東屯 133

杜甫詩 (18)768年江陵・公安縣・岳州 78

杜甫詩 (19)769年・洞庭湖・潭州・衡州 78

杜甫詩 (20)770年・洞庭湖・潭州・衡州。27

杜甫詩 (21)洩れ分(未詳分)・散文

 

 

 

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花間集 巻一 (27)回目温庭筠 《更漏子六首 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7724 (11/27)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●花間集全詩●森鴎外の小説の”魚玄機”詩、芸妓”薛濤”詩。唐から五代詩詞。花間集。玉臺新詠連載開始

 

 

.唐五代詞詩・女性

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玉-012-#4 古樂府詩六首其三隴西行 -#4〈無名〉 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ 7803

 

 

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玉集-01 古詩八首 【字解集】  Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ 7731

 

 

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花間集 訳注解説 巻一32 (40)回目温庭筠 《楊柳枝八首其三》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ7802

(妃嬪は宮殿で天子に贈る錦を織っている。再び寵愛されることを思い丹念に機織るその庭先に鶯が啼く。前秦才女蘇蕙の《迴文璿璣圖》詩を錦に織り上げたように思いは伝わらないが、そうして生きていくよりほかの道はないと詠う。)

宮殿であのお方に思いを込めて錦を織っている機の傍まで鶯が来て春を告げる泣き声を繰り返している。またこの春も寵愛を受けることが無いのは、辺塞地に送り出した征人に帰りを待つ女より悲しい、機織りの梭を停めて涙を流し、そしてまた、あのおかたの事を思う。関所塞の春の盛りを過ぎようとする三月といっても、なお春にはなっていないというのはこの妃嬪もおなじように寂しいものである。たとえ、垂れ柳の葉が芽吹いてきて風に揺られて腰を動かそうとも、妃嬪にとっては、春の喜びを感じることはできない。

 

 

唐の女性観 7和蕃公主 

 

 唐は常に周辺の異民族政権と平和的手段で友好関係を保とうとした。そこで、公主の中に特殊な「和蕃公主」なる者が現れた。彼女たちの大半は皇帝の実の娘ではなく、唐の皇室、外戚などの娘であった。皇帝は一般的に実の娘を遠方の蕃国に降嫁させたくはなかったからである。たとえば、高宗の時代、吐蕃が太平公主を嫁にほしいと要求したが、高宗と武則天は大急ぎで彼女のために道観(道教の寺院)を建立し、すでに出家しているという理由で申し出を拒絶した。しかし、皇族やそれに連なる貴戚は皇帝の権勢に迫られて、自分の娘を和親の役目に差し出さざるをえなかった。これらの女性は嫁入り前は特別な栄誉を与えられたが、実際は替え玉にされた名前だけの公主に過ぎなかった。吐谷渾に嫁した弘化公主、吐蕃に嫁した文成公主・金城公主、契丹に嫁した永楽公主・燕郡公主・静楽公主、契に嫁した固安公主・東光公主・宜芳公主、突騎施に嫁した交河公主、回柁に嫁した崇徽公主等々。彼女たちは宗室の娘、公主の娘、皇帝の姪、あるいはまた帰順した少数民族の指導者の娘などであった。唐の中期以後、国勢は衰退したのズ回屹など少数民族の脅威は唐朝にとってきわめて大きくなった。その上、国内に藩鎮が林立し、皇帝権力が不安定になったので、皇帝は和親という手段を重視せざるを得なくなり、それによって周辺の諸民族と平和共存し、同時に皇帝に対する彼らの支持を取りつけようとした。かくして皇帝は実の娘を和親のために乎放さざるを得なくなったのである。こうして、粛宗の幼い娘寧国公主、徳宗の娘咸安公主、憲宗の娘太和公主らが、先後して遥か遠くの回屹可汗のところへ嫁いで行った。

 

 唐が強盛で和親が成功し、両国関係が平穏で友好的であった時代には、公主たちは中華の故国や父母肉親と遠く離れていても、まだ家族と手紙を交換したり、また使節を派遣して皇帝に謁見したり、特産品を献上することなどができた。朝廷も常日頃、珍品、織物、衣服、書籍などを公主に贈った。彼女たちも異民族の中で常に礼遇され尊重されていたので、自分の地位、知慧、才能によって、少数民族の遅れた風俗習慣、生産、生活のあり方を改善したり、両民族の友好、交流を促進することができた。これは和蕃公主が民族関係に対して果した不滅の貢献である。これら公主の中でも文成公主は人々から最も称讃された人物であった。この聡明で教養のあった女性は、吐蕃の君臣たちの尊敬を受けたのみならず、チベット族の一般民衆からも末永く尊敬と敬愛を受けた。

 

 しかしながら、公主による和親はすべて成功したわけではなく、悲劇に終ることもあった。なぜなら、和親は政治的な取り引きであって、成功するか否かは、両国間の国力、政治、軍事、外交等各方面の複雑な条件によって左右されるのであり、公主たちの力はきわめて微弱なものだったからである。唐朝は中期以後になると、国勢は衰退し、少数民族の政権との相対的関係も前期とは違ったものになったので、和蕃公主の社会的地位もまた一様ではなくなった。以前は公主の降嫁は唐朝が「天可汗」(諸王の王の意)として外藩の指導者に賜る恩寵であったから、彼らも公主をきわめて尊くあつかった。しかしいまや公主はほとんど人質か、あるいは貢物になり下がったので、礼遇を受けることはきわめて難しくなった。かつて貞観年間に吐蕃の王が文成公主を妻に迎えたとき、その婚礼の儀式はなんと荘重であったことか。ソンツェンガンポ(チベット初代の君主で名君として有名)は白ら数百里も迎えに出向き、また新しく城を築いて公主を住まわせた。しかし後に、回屹が寧国公主を迎えた時には、唐朝の使臣が花嫁を可汗の幕舎まで送って行ったのに、可汗は偉そうに寝椅子の上に坐ったままで、実に傲慢無礼であった。唐の使臣は可汗に、これまで和親のための公主はみな皇族の娘でしたが、この公主様は皇帝の実の姫君です、また有徳で才色兼備の御方でございます、と言ったところ、可汗は始めて喜んだ。文成、寧国の両公主を対比してみると、和蕃公主たちの境遇は政治情勢の変化に従って大いに異なるものであったことが分かる。もし両国の関係が悪くなったり、異民族の領域内で動乱が起ったりすれば、この孤立無援の公主たちはどこにも救いを求めるすべがなか’った。唐と吐蕃の関係が悪化すると、金城公主は隣国の箇失密国に逃げ出そうと考えざるを得なかった(『仝唐文』巻九九九、謝範国羅火抜「金城公主の事宜を陳ぶる奏」)。また、回屹が他民族との戦いに敗れた時、回屹に嫁していた太和公主は連れ去られ、両軍争奪の対象となった。彼女は軍に従って各地を流れ歩き、後幸運にも唐の将軍に出会ってやっとのことで故国に迎えられ帰ることができた。しかし、このような不幸な目にあったのに、彼女は、辺境の安寧を保つことができず、和親の務めを果たすことができなかったと厳しく責められた。それで彼女は帰国後、光順門外で祷と耳飾りを自ら取り去り、変服(衣服を改めること)して処罰を請わざるをえなかった。こうして始めて、甥にあたる武宗の赦しを得ることができたのである(『資治通鑑』巻二四七、武宗会昌三年)。帝国仝体の文武百官と辺境守備の将軍たちが挙げて出来なかったことが、どうしてか弱い一人の女性にできようか。

 

 少数民族の習俗も和蕃公主たちの生活の一大難題であった。生臭い肉を割いて食べ、野宿をしながら移動するのはもちろんのこと、ある公主などは野蛮な習俗によって、もう少しで殺されるところだった。回屹の可汗が死んだ時、大臣たちは寧国公主を殉葬しようとした。公主は次のように道理を説いて争った。「中国の礼法では夫が死去すると三年間喪に服し、朝晩泣いて冥福を祈らねばなりません。回屹が中国人の妻を迎えた以上、中国の礼法に従って事を行うべきです。そうしなければ、どうして万里もの遠国との和親が保てましーっか」と。その聡明さと勇気によって、彼女はどうにか一死は免れたものの、やはり回屹の礼法に従わないわけにはゆかず、刀で顔を切り裂いて大声で泣き、最後は故国に送り返されたのであった(『旧唐書』回屹伝)。

「仙峨 今 下嫁し、鵜子(呼韓邪単于)自ら同和す。剣戟 田に帰り尽くし、牛羊 塞を饒りて多し」(張仲素「王昭君」)

「漢道(漢の道統)方に全盛にして、朝廷には武臣足る。何ぞ須いん薄命の妾、辛苦して和親を事 とす」(東方糾「昭君怨」)

 この二つの唐詩は共に和蕃公主について迷べたものであるが、前者は公主がもたらした平和な様千を讃え、後者は逆に公主が遠方に嫁し薄命に終ったことを嘆き悲しんだものである。これは確かに矛盾であるが、われわれは唐代の女性の中で、このような特殊な貢献をし特殊な運命に遭遇した人をどのように評価したらよいのだろうか。周辺民族との和親は唐朝の外交政策の成功であったと言ってもよく、それは辺境の平和を維持し、各民族間の交流を促進した。この点からすれば和蕃公主たちは歴史に大きな貢献をしたのである。しかし、個人の運命からすれば、彼女たちは政治の犠牲者と言わざるをえない。よく言えば、彼女たちは国家と民族のために巨大な犠牲をはらった人々といえよう。彼女たちは永遠に肉親と別れて異国他郷に嫁し、個人の幸福を犠牲にし、甚だしい場合には生命をも抵当に入れたのであった。しかもなお、彼女たちのか細い肩で二つの国の関係という重大な任務を担ったのである。これは彼女たちにとって、おそらく気楽で楽しいことであったとはとても言えないであろう。あの喜びに満ちて嫁していった王昭君というのは、たぶん文学者の想像でしかなく、唐朝の和蕃公主の大半は、目に涙を浮かべ恐れと不安におののきながら故郷に別れを告げて行ったのである。年若い寧国公主は唐朝に脅威を与えていた回屹に遠く嫁して行ったが、行く時泣いて父の粛宗に「国事は重大なことですから、死んでも決して恨みません」(『旧唐書』回屹伝)と言った。この献身的な精神には感嘆させられもするが、一方またこんなか弱い少女が犠牲になったことに対しては、やり切れなさとともに同情を禁じえないのである。

 

楊柳枝003

 

 

楊柳枝 八首其一
(昔、南斉錢唐の蘇小小の家の前の柳が生い茂るある春の日に、阮籍と出会いやっと春が訪れたと詠う。)

蘇小門前柳萬條,毵毵金線拂平橋。
南斉の錢唐の蘇小小の家の門前の土手の柳は、春の訪れに万条の枝がゆれる、細く長く垂れ下がる黄金色に輝く新芽のめぶいた柳の枝は、平橋を撫で払うように、また、風にゆれる。
黄鶯不語東風起,深閉朱門伴細腰。
高麗鶯が春風も吹きはじめたというのに、春の訪れを告げてはくれない、あのお方が来なければ春が来たことにならないのだろう、と思っていたら、そのひとはおとずれていて、正面の立派な朱塗りの南門を閉ざし、腰の細い嫋やかな女性を伴って、その家宅の奥深い所に入っていった。 
楊柳枝 (その一)
蘇小【そしょう】の門前 柳は萬條,
毵毵【さんさん】たる金線 平橋を拂ふ。
黄鶯【こうおう】語らず東風の起きるを,深く朱門に 閉ざして細腰を伴ふ。

 

楊柳枝 八首其二
(後宮の六宮にはそれぞれ妃嬪が毎夜の準備をして待つが、柳と楊が揺れあう季節には、それぞれ愁いに思う。同じように、興慶宮で待つ妃嬪は龍池に降る雨の音に胸を焦がして待っていると妃嬪たちのことを詠う。)

金縷毵毵碧瓦溝,六宮眉黛惹香愁。
柳の芽が芽吹き春がたけなわになろうとしている、細長い柳の枝に黄金色に輝く新芽がふさふさとして垂れ下がる、池溝の向うの宮殿の屋根瓦を楊の御殿の部屋それぞれに妃嬪たちは緑が蔽うように見える。柳と楊がゆれうごくが後宮の六宮の部屋には柳葉のまゆにまゆずみをきれいして香を焚いてそれぞれに待つのであるが、それぞれに愁いに思う。
晚來更帶龍池雨,半拂欄杆半入樓。
ここ興慶宮にも夕方になれば夜の化粧をしている妃嬪がいて、夜寝牀のための帯に着替えて待ち続け、竜池に雨が降るように涙をこぼしている。池に降る雨音に着物のすそを少しかかげて欄干をとおって庭に出たり入ったりして待っている。
(楊柳枝 その二)

金縷 毵毵として碧の瓦溝あり,六宮 眉黛 惹香して愁う。

晚來 更帶するも 龍池の雨,半拂い 欄杆 半ば樓に入る。

 

 

楊柳枝 八首之三
(大明宮には大池に水を導く渠溝、運河が張り巡らされていてその両岸に柳が植えられる。その枝葉が王滋池端の宮殿、朝方の鐘がなるころまで寵愛されている。妃嬪は朝、風に乗せて、送り出せば、風に乗せて復寵愛を受けることになる。妃嬪たちのことを詠う。)

禦柳如絲映九重,鳳凰窗映繡芙蓉。
大明宮には渠溝が幾重にもあり、その土手には柳が芽吹いている。柳の枝はまるで糸を操るようにもてあそび、金色に輝く若芽を九重に続く御門、春も盛り、柳は幾重にもかさねって映える。宮殿の梁に彫られた鳳凰が芙蓉の刺繍を差し込んだうす絹の窓辺に影を映している。
景陽樓畔千條路,一面新妝待曉風。
寵愛を受けた夜も、いつしか夜明けをつげる景陽楼の鐘がなりはじめる、宮殿の楼閣の側の幾筋もある川岸に柳並木の道の枝も揺れる、鏡に向い朝の化粧にととのえていると、暁の風はあのお方をおくり、また迎える待つ風がなる。(妃嬪はこの風邪だけを頼りに生きていく。)
(楊柳枝 八首の三)
絲の如く柳を禦して九重を映し,鳳凰 繡の芙蓉を窗に映す。
景陽 樓の畔 千條の路,新妝するに一たび面し曉の風するを待つ。

 

楊柳枝  八首其四
(妃嬪は宮殿で天子に贈る錦を織っている。再び寵愛されることを思い丹念に機織るその庭先に鶯が啼く。前秦才女蘇蕙の《迴文璿璣圖》詩を錦に織り上げたように思いは伝わらないが、そうして生きていくよりほかの道はないと詠う。)

織錦機邊鶯語頻,停梭垂淚憶征人。
宮殿であのお方に思いを込めて錦を織っている機の傍まで鶯が来て春を告げる泣き声を繰り返している。またこの春も寵愛を受けることが無いのは、辺塞地に送り出した征人に帰りを待つ女より悲しい、機織りの梭を停めて涙を流し、そしてまた、あのおかたの事を思う。
塞門三月猶蕭索,縱有垂楊未覺春。
あの人が行っている関所塞の春の三ケ月はこちらとは違って今なおはるはこなくてもの寂しい。たとえ、垂れ柳が葉が芽吹いてきて風に揺られても私にとっては、春の喜びを感じることはできない。

楊柳枝 (之四)
錦を織るは機邊 鶯語【おうご】頻【ひん】なり,梭【さ】を停めて淚を垂す 征人を憶う。
塞門 三月 猶お蕭索し,縱【たと】い楊が垂れようとも 未だ春をえ覺ざる有り。

 

景陽楼001


『楊柳枝』 八首其四 現代語訳と訳註
(
本文)
 楊柳枝 八首其四
織錦機邊鶯語頻,停梭垂淚憶征人。
塞門三月猶蕭索,縱有垂楊未覺春。


(下し文)
(楊柳枝 八首その四)
錦を織るは機の邊り 鶯語【おうご】頻【ひん】なり,梭【さ】を停めて淚を垂す 征人を憶う。
塞門 三月 猶お蕭索たり,縱【たと】い楊が垂れる有るも 未だ春を覺ざる。


(現代語訳)
(妃嬪は宮殿で天子に贈る錦を織っている。再び寵愛されることを思い丹念に機織るその庭先に鶯が啼く。前秦才女蘇蕙の《迴文璿璣圖》詩を錦に織り上げたように思いは伝わらないが、そうして生きていくよりほかの道はないと詠う。)

宮殿であのお方に思いを込めて錦を織っている機の傍まで鶯が来て春を告げる泣き声を繰り返している。またこの春も寵愛を受けることが無いのは、辺塞地に送り出した征人に帰りを待つ女より悲しい、機織りの梭を停めて涙を流し、そしてまた、あのおかたの事を思う。
関所塞の春の盛りを過ぎようとする三月といっても、なお春にはなっていないというのはこの妃嬪もおなじように寂しいものである。たとえ、垂れ柳の葉が芽吹いてきて風に揺られて腰を動かそうとも、妃嬪にとっては、春の喜びを感じることはできない。

(訳注)
31.楊柳枝  八首其四
柳を詠う。連作八首のうち第四首。(妃嬪は宮殿で天子に贈る錦を織っている。再び寵愛されることを思い丹念に機織るその庭先に鶯が啼く。前秦才女蘇蕙の《迴文璿璣圖》詩を錦に織り上げたように思いは伝わらないが、そうして生きていくよりほかの道はないと詠う。)

 

32. 【解説】

唐時代に流行した辺塞詩は、現地に赴いた実際を詠ったものではなく、宴席や、歌会、サロンのような場所で、想像を広げて詠われたもので、辺塞地に送り出した女性たちの状況を安に何が言いたいのかを想像するものなのである。楊柳の詩は、柳だから単純に別れというのではなく、柳腰、女性であれば細身の女の古詩の動きを言い、男性の表現であれば、相撲などの粘り腰を言い、性交渉を連想させるものである。

唐の教坊の曲名。単調と双調とがある。『花間集』 には二十四首所収(同調異名の「柳枝」九首を含む)。温庭第の作は八首収められている。単調二十八字、四句三平韻で、⑦⑦7⑦の詞形をとる。

織錦機邊鶯語頻 停梭垂淚憶征
塞門三月猶蕭索 縱有垂楊未覺

 
 

基本的に填詞(宋詞)を採りあげている。七言絶句体の填詞は、填詞の発展といった系統樹でみれば幾つかある根の一になる。漢の鐃歌鼓吹曲で、唐の教坊曲。白居易は古い曲名を借りて新たな曲を作った、そのことを宣言した詞。詩の形式は七言絶句体であるが、白居易が新たな曲調を附けたもの。柳を詠い込む唐の都・洛陽の民歌として作っている。やがて、詞牌として数えられる。七言絶句の形式をした例外的な填詞。

 

七言絶句形式や七言四句体をした填詞には他に『採蓮子』『陽関曲』『浪淘沙(二十八字体)』『八拍蠻』『江南春』『阿那曲』『欸乃曲』『水調歌』『清平調』などがある。それぞれ七言絶句体と平仄や押韻が異なる。また、曲調も当然ながら異なりあっている。これら『採蓮子』『陽関曲』『浪淘沙(二十八字体)』『八拍蠻』『江南春』『阿那曲』『欸乃曲』『水調歌』『清平調』の平仄上の差異についてはこちら。七言絶句体で、七言絶句とされないものに『竹枝詞』がある。

『楊柳枝』と前出『竹枝詞』との違いを強調してみれば、前者『楊柳枝』は、都・洛陽の民歌となるだけに優雅である。それに対して『竹枝詞』は、表現が直截である。巴渝(現・四川東部)の人情、風土を歌ったもので、鄙びた風情とともに露骨な情愛を謡っていることである。相似点は、どちらも典故や格調を気にせず、近体七言絶句よりも気楽に作られていることである。


織錦機邊鶯語頻,停梭垂淚憶征人。
宮殿であのお方に思いを込めて錦を織っている機の傍まで鶯が来て春を告げる泣き声を繰り返している。またこの春も寵愛を受けることが無いのは、辺塞地に送り出した征人に帰りを待つ女より悲しい、機織りの梭を停めて涙を流し、そしてまた、あのおかたの事を思う。
33. 織錦機邊 錦を扱うのは妃嬪が指示をして天子に贈るもので、寵愛を得るための必須事項である。

34. 鶯語 鶯が鳴き春を告げる。後宮の場合、妃嬪たちは春の訪れに寵愛を待ち望み、宮女は行楽での楽しみを夢見ることを語り合う。高楼の女儀の場合もある。季語としては早春、春を告げるということ。
35.
 頻 くりかえす。

36. 征人 たびびと。遊子。旅客。命令で旅立つ人、征客をいういくさびと。出陣した人。天子が後宮を出て離宮などに行くことを征伐になぞらえて云う。

37. 織錦機邊鶯語頻,停梭垂淚憶征人 李白の「烏夜啼」詩に「黄雲城辺烏欲棲、帰飛唖亜枝上啼。機中織錦秦川女、碧紗如煙隔窓語。停梭悵然憶遠人、独宿弧房涙如雨。」(黄雲(こううん)  城辺  烏棲まんと欲し。帰り飛び  唖唖として枝上に啼く。機中  錦を織る  秦川【しんせん】の女。碧紗【へきさ】  煙の如く  窓を隔てて語る。梭【ひ】を停め  悵然【ちょうぜん】として遠人を憶う。独り弧房に宿して  涙  雨の如し。) 李白41 烏夜啼”とあるのを踏まえる。また織錦は、東晉十六國の時、前秦才女蘇蕙、及び其の《迴文璿璣圖》詩を錦に織り上げて送った故事に基づく


塞門三月猶蕭索,縱有垂楊未覺春。
関所塞の春の盛りを過ぎようとする三月といっても、なお春にはなっていないというのはこの妃嬪もおなじように寂しいものである。たとえ、垂れ柳の葉が芽吹いてきて風に揺られて腰を動かそうとも、妃嬪にとっては、春の喜びを感じることはできない。
38. 塞門 西域の塞、玉門関。
39.
 三月 春の三か月(早春、盛春、晩春)
40.
 蕭索 もの寂しいさま。うらぶれた感じのするさま。蕭条。
41. 塞門三月猶蕭索,縱有垂楊未覺春 王之渙の「涼州詞」の「羌笛 何ぞ須いん楊柳を怨むを、春風 渡らず 玉門関」の句を踏まえる。塞門は陽関や玉門關などの国境の関門をいうが、特定されたところではなく、後宮において、存在感がなくなっていることを感じさせる表現である。

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