花間集 訳注解説 (195)回目牛嶠二十六首《巻四23玉樓春一首》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8738

 195)回目牛嶠二十六首《巻四23玉樓春一首》

 

 

 

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 花間集 訳注解説 (195)回目牛嶠二十六首《巻四23玉樓春一首》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8738

 (後宮には寵愛を一手に受けていてもやがて失って、窓辺で涙を落とし、長い歴史でその床を穿つほど繰り返された、そして、杜秋娘のように誰も振り向いてくれずないのか、回文錦字詩を作っても意味がなくなって辞めてしまうものだと詠う。)

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王都の基準線01長安の妓女

 

 ここでは主に長安の平康里や、その他の街坊に集中して住んでいた一般の娼妓について述べたい。先に迷べた皇室専属の教坊妓はこの中には含まない。

 長安の官妓は、上に述べた地方の官妓とは多くの違いがあるように思う。唐後期の孫渠が長安の妓女について専門に記した『北里志』と、その他こまごまとした史料からみると、長安の妓女も官府に属し、官府の御用に応じなければならなかったが、しかし官奴婢としての色合いはそれほど強くはなかった。官府の彼女たちに対する支配は比較的ゆるやかで、彼女たちも自分がどの長官の管理下にあるかもよく知らず、身分の束縛もあまりなく、地位も少しばかり高かった。また、彼女たちは官府から衣食を支給されておらず、自分で商売を営んでおり、後世の娼妓とほとんど変りなかった。これはたぶん、長安などの大都市が各界の人士、とりわけ天下の才子である進士たちが遊ぶ有名な場所であり、朝廷の支持と容認の下、妓楼で遊ぶ風潮がたいそう盛んであったため、長安などの妓女たちを官府が独占的に支配することはもはやきわめて難しく、しだいに社会仝体に開放されていったからであろう。こうした情況は、およそ唐の中後期に向うに従って次第に発展していった。しかし、地方官妓は唐の後期になると藩鎮が巨大な権力を持ったため、なおいっそう地方官、とりわけ藩鎮の独占支配を受けることとなった。長安の妓女たちの生活情況は、唐代の官妓がしだいに自由業の娼妓に変化してゆく過程をよく反映している。

 長安の妓女は「楽営」には属さず、孫渠の『北里志』序の言葉をかりると、「京中の飲妓、籍は教坊に属す」というように、籍は教坊にあった。先に述べたように、玄宗時代に教坊が設立されたのは、もともと天下の芸人を集めて訓練を行い、専ら宮廷の御用に供するためであったが、『北里志』がいう「京中の飲妓」とは明らかに宮廷に奉什する芸人ではなく、民間で営業する娼妓であり、彼女たちも教坊には住まず、平康里やその他の里坊に住んでいたのである。これでは「京中の飲妓、籍は教坊に属す」という記述と矛盾する。いったいどうしたことだろうか。筆者が推測するに、これはたぶん教坊制度の変化と関係があるように思う。玄宗以後、教坊はしだいに衰退していったが、後の時代になっても教坊は依然としてたびたび芸妓を選抜して朝廷の御用に供していた。しかしふだんは彼女たち仝部を教坊の中に住まわせることができなくなり、ただ若干の名妓だけを選んで教坊籍に入れ、いつでも宮廷の御用に派遺できるようにしていた。大半の妓女は普通はもといた置家とか、自宅に住んで、前と同じく自由営業の娼妓生活を送っていた。白居易の「琵琶行」に、「自ら言う 本これ京城の女、家は蝦煥陵(長安の東部、常楽坊にあった街区名)下に在りて住む。十三にして琵琶を学び得て成り、名は教坊第一部に属す。……五陵(漢の五帝陵が並び長安の上流階級が多く住んでいた地城)の年少、争って纏頭し(祝儀を出す)、一曲に紅納数を知らず」とある。この教坊籍に名を列した琵琶妓は教坊に住んではおらず、一般社会で芸を売り身を売って生活していたのである。

 長安の娼妓は、名儀上でも決してすべてが教坊に属していたのではない。『北里志』の「楊妙児」なる一節に記載されている妓女の王福娘は、人に身請けされることを願い、「私は幸いに教坊籍に入っていません。あなたにもし結婚の意志があるなら一、二百金のみですみます」といった。どうやら、教坊籍に入っていれば「官身」となり勝乎に請け出されることはできないが、教坊籍に入っていないものは金を出し身請けする人がいればいつでも落籍できたようである。しかし、教坊籍に入っていない妓女も、やはり完全に官妓身分から脱していたというわけではなかった。「楊妙児」の一節によると、妓女たちがたとえ客から「買断」(特定の客が囲い独占すること)されても、いぜんとして彼女は「官使を免れず」、つまりこれまで通り官府への奉什を免れることができなかったようである。また同書には、「およそ中央官僚の集まりや宴会には、役所から妓女を借り出す許可状をもらわねばならず、そうやって始めて彼女たちは他処に出ることができた」(『北里志』序)とある。官僚が妓女を宴遊に呼ぶには官府の許可が必要だったということは、妓女が官妓の身分であったことを証明している。その他、平康里の妓女たちの中には「都知」と呼ばれるものがいて、妓女たちを分担管理しており、古株のものがその任に就いた。妓女にも一定の組織があり、完全に独立し自由というわけでなかったことが分かる。教坊籍に入っていない妓女は、当然長安の妓女の大多数を占めていたはずだが、彼女たちは一体どこの管轄下に属していたのだろうか。地方州府の制度に照らせば、京兆府の管轄下に属すのが当然と思われるが、いまだそうした記録を見出せないので、みだりに結論を出さないでおきたい。

 

 長安の妓女の人多数は平康里に住んでいた。「長安に平康坊という所があって、妓女の居住地である。京都の侠少(遊侠の若者)は此に草集る。……当時の人々はこの坊を風流藪沢(歓楽街)と呼んだ」(『開元天宝遺事』巻上)。『北里志』の記載によると、平康里の街区は三曲に分れ、名妓は多く南曲、あるいは中曲に住み、北曲に住むものの大多数は無名の「卑屑」(醜くて卑しい)の小妓であった。この三曲に住む妓女の生活にも高低貧窟の差があった。漸飴、中油はおおむね駄院汁こムく浄似で、完内には花が植えられ池もあり、室内の設備は快適で、華美にすぎるものさえあったが、下層の妓女の住まいは粗末なものであった。劉泰娘は北曲の小さな家の娘であったから、他の妓女たちと宴席に向う時、あなたは何処にお住まいですかと聞かれると、言葉をにごして、門前に一本の木がありますわ、などと言うだけであった。どの曲内に住んでいるかが、その妓女の身価に大きな関係があったようである。それ以外にも平康里に住まない妓女がおり、その他の街坊にそれぞれ分散して住んでいた。

 

 妓女たちは皆それぞれ一派を立て、家を単位に独一丑して営業していた。彼女たちのあるものは家族と一緒に住んでいたが、多くは家の暮らしが立たないので、妓女として生きざるをえなかったのである。たとえば、唐代の小説『崔小玉伝』(蒋防作)の主人公宦小玉は、もともと崔王の娘であったが、母親が崔王の婢女であったから、後に母娘ともども追い出されてしまった。やむなく小玉は妓女となり母と一緒にくらした。また、「琵琶行」に出てくる琵琶妓は、「弟は走って軍に従い阿銕は死す」といっているので、家族と一緒に住んでいたことがわかる。これらの妓女の大半は慮待を受けず、境遇はいくらかマシだった。しかし、その他多くの妓女は家族はおらず、「仮母」に買わ

れ養女にされたものであった。仮母とは後世いうところの「鴇母」(やりて婆)と同じであり、みな年増の妓女がなった。仮母に夫や家族はなく、しかし容色はまだ全く衰えたというわけではなかったので、大半が王侯貴族の邸宅を警護する武官の囲われ者であった。また、ある者はこっそりと夜伽をする男を囲っていたが、夫と言えるような代物ではなかった。平康里の置屋の大部分は仮母が何人かの妓女をかかえて営業していた。たとえば楊妙児の置屋を例にとれば、彼女はもともと名妓であったが、のちに仮母となり、莱児、永児、迎児、桂児の四人の養女をひきとって育てた。その他の置屋もほぼ同じようなものであった。これらの妓女はみな生活はたいへん苦しく、大部分が「田舎の貧家」から買われてきた幼女であり、仮母の姓を名のった。ある者は自分の実の父母さえ全く知らなかった。またある者は、人に編されて売られて、この世界に堕ちたのであった。「ある良家の娘は、自分の家の嫁にするといって連れて行かれたが、他に多額の謝礼で転売され、誤ってこの苦界に堕ち、脱出することができなかった」(『北里志』「海論三曲中事」)。たとえば、王福娘は解梁(山西省臨晋県)の人であったが、嫁にやると喘されて都に連れて行かれ、色町に売られてしまった。しかし彼女は何も真相を知らないでいた。後に置屋は披女に歌を習わせ客を取らせた。一人のか弱い女が行き場を失えば、他人の言いなりになるしかなかった。この間、家の兄弟が捜し出して奪い返そうとした。しかし彼女は、白分はすでに操を失った身であり、また兄弟には何の力もないことを考えると、望みを絶って兄弟に手を引かせるしか方法がなく、家族と泣き泣き永別したのであった。唐代の社会は良民と賤民の区別が明確であり、いったん娼妓の世界に転落すれば、身を脱することが困難であったばかりか、肉親と行き来して顔を合わせることさえきわめて錐しかった。

 

 妓女は買われてくると、歌舞や酒席での遊戯などを習い、少しでも怠けると仮母に激しく鞭打たれたり殴られたりし、成人に達すると客を取り銭を稼がされた。彼女たちは行勤の自由がなく、平生は勝手に門を出ることもできなかった。平康里の妓女は僧が道でお経を講ずるのを最も待ち望んだ。僧が来ると、仮母に千文納めて機を見て外出し、半日間自由の空気を吸うことができたからである。

 

 大明宮の圖003

 

 

 

 

花間集 巻四

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

花間集 教坊曲『玉樓春』七首

 

 

作者

初句7字

 

 

牛嶠(牛給事嶠)

巻四

玉樓春一首

春入橫塘搖淺浪,

 

 

顧太尉

巻七

玉樓春四首其一

月照玉樓春漏促,

 

 

巻七

玉樓春四首其二

柳映玉樓春日晚,

 

 

巻七

玉樓春四首其三

月皎露華影細,

 

 

巻七

玉樓春四首其四

拂水雙飛來去鷰,

 

 

魏太尉承班

巻九

玉樓春二首其一

寂寂畫堂梁上鷰,

 

 

巻九

玉樓春二首其二

輕斂翠蛾呈皓齒,

 

 

 

 

 

 

 

 顧夐《玉樓春 四首》

玉樓春 四首 其一

月照玉樓春漏促,颯颯風搖庭砌竹。

夢驚鴛被覺來時,何處管絃聲斷續。

惆悵少年游冶去,枕上兩蛾攢細綠。

曉鶯簾外語花枝,背帳猶殘紅燭。

(玉樓春四首 其の一)

月 玉樓を照し 春 漏促し,颯颯として風 庭の砌の竹を搖す。

夢 鴛被に驚き 覺めて來たる時こそ,何處なるか 管絃 聲 斷續するを。

惆悵するは 少年 游冶に去るなり,枕上 兩蛾 細綠を攢【ひそ】む。

曉鶯 簾外に 花枝に語り,帳を背にして 猶お 紅の燭を殘す。

 

玉樓春四首 其二

柳映玉樓春日晚,雨細風輕煙草軟。

畫堂鸚鵡語雕籠,金粉小屏猶半掩。

香滅繡幃人寂寂,倚檻無言愁思遠。

恨郎何處縱疎狂,長使含啼眉不展。

(玉樓春四首其の二)

柳 玉樓を映し 春の日の晚,雨 細く 風 輕く 煙草 軟かなり。

畫堂 鸚鵡 雕籠に語り,金粉 小屏 猶お半ば掩う。

香 滅し 繡幃 人 寂寂たり,檻に倚り 言無く 愁思 遠くなる。

郎も恨み 何處にか 疎しく狂するを縱【ほいままに】し,長く含啼【がんてい】せしめて 眉 展びず。

 

玉樓春四首 其三

月皎露華影細,風送菊香粘繡袂。

博山爐冷水沉微,惆悵金閨終日閉。

懶展羅衾垂玉淚,羞對菱花篸寶髻。

良宵好事枉教休,無計那他狂耍壻。

(其の三)

月皎 露華 影細く,風 菊香を粘繡の袂に送る。

博山 爐冷え 水に微かに沉み,惆悵して 金の閨 終日閉【とざ】。す

羅衾 懶展し 玉淚 垂れるを,菱花に羞對す 篸寶の髻を。

良宵 好事 枉げて休ま教【し】め,計ること無し 那んぞ 壻を耍【からか】うを他狂せんや

 

玉樓春四首 其四

拂水雙飛來去鷰,曲檻小屏山六扇。

春愁凝思結眉心,綠綺懶調紅錦薦。

話別情多聲欲戰,玉筋痕留紅粉面。

鎮長獨立到黃昏,卻怕良宵頻夢見。

(玉樓春四首其の四)

水を拂い雙飛し來りて鷰去り,曲檻 小屏 山 六扇あり。

春愁 思うに凝【わだかま】り 眉心を結び,綠綺 紅錦 薦するを懶調【らんちょう】す。

別るを話し 情多くして 聲 戰わんと欲し,玉筋 紅粉の面に痕留す。

鎮のごとく長く 獨り黃昏に到るを立つれば,卻て 良宵 頻りに夢見むことを怕る。

 

魏承班 《玉樓春二首》

玉樓春二首 其一

寂寂畫堂梁上鷰,高卷翠簾橫數扇。

一庭春色惱人來,滿地落花紅幾片。

愁倚錦屏低雪面,淚滴繡羅金縷線。

好天涼月盡傷心,為是玉郎長不見。

(玉樓春二首 其一)

寂寂たる畫堂 梁上の鷰,高く翠簾を卷き數扇を橫たう。

一庭の春色 人を惱せ來る,滿地の落花 紅 幾片なる。

愁いて錦屏に倚り 雪の面を低れ,淚 繡羅の金縷の線に滴る。

好天 涼月も 盡く傷心し,是れ 玉郎 長く見ざる為めなり。

 

玉樓春二首 其二

輕斂翠蛾呈皓齒,鶯囀一枝花影裏。

聲聲清迥遏行雲,寂寂畫梁塵暗起。

玉斝滿斟情未已,促坐王孫公子醉。

春風筵上貫珠勻,豔色韶顏嬌旖旎。

玉樓春二首 其二

輕く翠蛾を斂め 皓齒を呈し,鶯 一枝に囀いて 花影の裏。

聲聲 清迥たりて 行雲を遏む,寂寂として 畫梁 塵 暗起す。

玉斝 滿斟っするも 情 未だ已むなし,王孫と促坐し 公子醉う。

春風 筵上 珠勻を貫し,豔色 韶顏にして 嬌 旖旎たり。

 

 

 

 

花間集 教坊曲《巻四23玉樓春一首》牛嶠

 

 

花間集 訳注解説

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8738

 

 

 

牛嶠《玉樓春》

(後宮には寵愛を一手に受けていてもやがて失って、窓辺で涙を落とし、長い歴史でその床を穿つほど繰り返された、そして、杜秋娘のように誰も振り向いてくれずないのか、回文錦字詩を作っても意味がなくなって辞めてしまうものだと詠う。)

春入橫塘搖淺浪,花落小園空惆悵。

春になれば、若草や柳の緑が色付いた大堤がよこたわり、水面には、小波がゆらめく、やがてその花も落ちて高楼の庭にも空しい寂しさに覆われる。

此情誰信為狂夫,恨翠愁紅流枕上。

この寂寞とした思いは誰がしたのか、それはあのお方に決まっている。それは、あのお方の贈った翡翠の飾りを怨むこと、紅白粉をしても愁うこと、枕にどれだけの涙を流したことになったことである。

小玉前嗔語,紅淚滴穿金線縷。

ここには妃嬪が窓の前で、仲睦まじく「鷰語」で語っていいたところであり、長い後宮の歴史で、そのおなじところで、頬紅をつたって堕ちる涙が床を穿ち、寵愛を失った妃嬪は「金縷曲」の杜秋娘のように憐れに暮らしてゆくだけなのだ。

鴈歸不見報郎歸,織成錦字封過與。

書簡をつたえる雁が帰ってきても、あのお方が帰ってきて姿を見る事もない。しかし、ひひんは、自分の思いを手ずから錦にその字句を織り込んで、一本を夫のもとに送り、一本を役人に献上した「回文錦字詩」の故事のように機織りをしたが、それも過ぎ去った事である。

 

《玉樓春》

春入り 塘に橫たうて 淺浪を搖らし,花落ち 小園 空しく惆悵す。

此の情 誰をか信じん 狂夫と為すを,翠を恨み 紅を愁い 枕上に流す。

小玉 前 語に嗔り,紅淚は 滴穿し 金線の縷。

鴈歸るも 郎歸るを報らせるを 見ず,織成の錦字 過ぎるとともに封ず。

 

 

 

牛嶠《玉樓春》 現代語訳と訳註

(本文)

《玉樓春》

春入橫塘搖淺浪,花落小園空惆悵。

此情誰信為狂夫,恨翠愁紅流枕上。

小玉前嗔鷰語,紅淚滴穿金線縷。

鴈歸不見報郎歸,織成錦字封過與。

 

(下し文)

《玉樓春》

春入り 塘に橫たうて 淺浪を搖らし,花落ち 小園 空しく惆悵す。

此の情 誰をか信じん 狂夫と為すを,翠を恨み 紅を愁い 枕上に流す。

小玉 前 鷰語に嗔り,紅淚は 滴穿し 金線の縷。

鴈歸るも 郎歸るを報らせるを 見ず,織成の錦字 過ぎるとともに封ず。

 

(現代語訳)

(後宮には寵愛を一手に受けていてもやがて失って、窓辺で涙を落とし、長い歴史でその床を穿つほど繰り返された、そして、杜秋娘のように誰も振り向いてくれずないのか、回文錦字詩を作っても意味がなくなって辞めてしまうものだと詠う。)

春になれば、若草や柳の緑が色付いた大堤がよこたわり、水面には、小波がゆらめく、やがてその花も落ちて高楼の庭にも空しい寂しさに覆われる。

この寂寞とした思いは誰がしたのか、それはあのお方に決まっている。それは、あのお方の贈った翡翠の飾りを怨むこと、紅白粉をしても愁うこと、枕にどれだけの涙を流したことになったことである。

ここには妃嬪が窓の前で、仲睦まじく「鷰語」で語っていいたところであり、長い後宮の歴史で、そのおなじところで、頬紅をつたって堕ちる涙が床を穿ち、寵愛を失った妃嬪は「金縷曲」の杜秋娘のように憐れに暮らしてゆくだけなのだ。

書簡をつたえる雁が帰ってきても、あのお方が帰ってきて姿を見る事もない。しかし、ひひんは、自分の思いを手ずから錦にその字句を織り込んで、一本を夫のもとに送り、一本を役人に献上した「回文錦字詩」の故事のように機織りをしたが、それも過ぎ去った事である。

 

(訳注)

玉樓春一首

1. (後宮には寵愛を一手に受けていてもやがて失って、窓辺で涙を落とし、長い歴史でその床を穿つほど繰り返された、そして、杜秋娘のように誰も振り向いてくれずないのか、回文錦字詩を作っても意味がなくなって辞めてしまうものだと詠う。)

2. 【構成】『花間集』には七首所収。顧夏の作は四首収められている。双調五十六字、前段二十八字四句三仄韻、後段二十八字四句二仄韻で、❼❼7❼/7❼7❼の詞形をとる。

《玉樓春》

春入橫塘搖淺,花落小園空惆

此情誰信為狂夫,恨翠愁紅流枕

小玉前嗔鷰語,紅淚滴穿金線

鴈歸不見報郎歸,織成錦字封過

○●△○○△△  ○●●○△○●

●○○△○△○  ●●○○○△●

●●?○○●●  ○●●△○●●

●○△●●○○  ●○●●△△△

 

春入橫塘搖淺浪,花落小園空惆悵。

春になれば、若草や柳の緑が色付いた大堤がよこたわり、水面には、小波がゆらめく、やがてその花も落ちて高楼の庭にも空しい寂しさに覆われる。

3.・橫塘 池の堤がよこたえる。

4.・小園 小さい花園。庾信《小園賦》「桐閒露落、柳下風来」

5.・惆悵 恨み嘆くこと。恨み嘆くさま。

 

此情誰信為狂夫,恨翠愁紅流枕上。

この寂寞とした思いは誰がしたのか、それはあのお方に決まっている。それは、あのお方の贈った翡翠の飾りを怨むこと、紅白粉をしても愁うこと、枕にどれだけの涙を流したことになったことである。

6.・狂夫 ①気の狂った男。②夫人が自分の夫を指して言う。③流星の夜ばい星。④風雅に徹した人。

 

小玉前嗔鷰語,紅淚滴穿金線縷。

ここには妃嬪が窓の前で、仲睦まじく「鷰語」で語っていいたところであり、長い後宮の歴史で、そのおなじところで、頬紅をつたって堕ちる涙が床を穿ち、寵愛を失った妃嬪は「金縷曲」の杜秋娘のように憐れに暮らしてゆくだけなのだ。

7.・瞋【いかる】怒って目をかっと見はる。相手をにらみつける。【瞋恚】しんい自分の心に反するものを怒り恨むこと。仏教の三毒・十悪の一つ。怒り・憎しみ・怨みなどの憎悪の感情。怒り恨むこと。腹立ち。怒り。

8.・金線縷 ・金線:①金絲をいう。②花の名。③柳の枝の形容。 楽府としている。の扱いであるが、絶句に近い。正格の絶句ではない。平仄を参照。この作品は、詞の扱いで金縷曲、金縷衣というものの、詞牌の「金縷曲」「金縷衣」とは違う。

杜秋娘『金縷衣』「勧君莫惜金縷衣、勧君須惜少年時。花開堪折直須折、莫待無花空折枝。」

(君に勧む 惜しむ莫れ 金縷の衣、君に勧む 須らく惜しむべし 少年の時。花開いて折るに堪えなば 直ちに須らく折るべし、花無きを待って 空しく枝を折る 莫れ。)

杜秋娘については、杜牧に『杜秋娘の詩』という長い詩がある。宮人の杜秋は穆宗の時、皇子の保母であった。この皇子が讒言によって罪に落されたので、彼女も巻き添えになって故郷に追い返された。年を取って飢えと寒さがこもごも加わり、また孤独で頼るところがなかった。杜牧などの名士が気の毒に思い、有名な「杜秋娘の詩」を作って彼女の哀れな運命を悼んだ。

     

鴈歸不見報郎歸,織成錦字封過與。

書簡をつたえる雁が帰ってきても、あのお方が帰ってきて姿を見る事もない。しかし、ひひんは、自分の思いを手ずから錦にその字句を織り込んで、一本を夫のもとに送り、一本を役人に献上した「回文錦字詩」の故事のように機織りをしたが、それも過ぎ去った事である。

9. 織成錦字 錦にその字句を織り込んで、一本を夫のもとに送り、一本を役人に献上した「回文錦字詩」の故事のように織りこんだもの。李白《秋浦寄詩》「有客自梁苑、手攜五色魚。開魚得錦字、歸問我何如?」(客あり梁苑よりし、手に五色の魚を携(たづさふ。魚を開きて錦字を得るに、帰ってわがいかん を問う。)“梁園の方から訪ねてくれた客があった、手に携えてきてくれた錦織の五色の短冊があった。短冊の封を切ると錦織の文字が現われたのだ、いかがですか、いつお帰りになるのですかとわたしへの労わりの問いがあったのだ。”

 

「回文錦字詩」の故事

匈奴の侵略に対し、辺地に兵士を送って、北辺を守った。長年帰って来ない夫に故郷に残る妻は、その夫に対する情を一章の詩に作り、手ずから錦にその字句を織り込んで、一本を夫のもとに送り、一本を役人に献上した。この話は時の帝の耳に入り、夫は無事帰されたという。帝を感激させたこの故事は、織錦回文詩や回文錦時詩などと呼ばれて、後世の詩人たちにも詠まれるようになった。 

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