花間集 訳注解説 (176)回目牛嶠二十六首《巻四06夢江南二首其二》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8624
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2017年4月30日 | の紀頌之5つの校注Blog | ||||
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花間集 訳注解説 (176)回目牛嶠二十六首《巻四06夢江南二首其二》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8624
(富貴の家に迎えられて、何不自由のない、愛された生活をしたが、いつしか、籠の鳥のような生活、何もせず、ただ寵愛を受けたいとおもうだけの生活をする毎日となったと詠う。)
やがて、江南から来た乙女だった女は頬を赤く染めるようになり、刺繍の肩掛けを被う、屏風の画に二つの鴛鴦がいて、寝牀にもふたつのおしどりが間をあけている。鴛鴦のような生活も過ぎて仕舞えばつかの間こと、もう、籠の中の鳥になって、ただ愛を待つだけになったが、それまでは、南側の渚や堤で静かに愛を育む、何の心配もいらないおしどりの小さな幸せをつかんだ。いま、何もする気になれず、すべてのことはあの情が薄い劉郎のことに堪えることだけだ。
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后 妃
彼女たちは皇帝の妻妾であり、錦衣を着て山海の珍味を食し、ひとたび呼ばわれば百人の下婢が答える、最も高貴にして最も権勢の高い人々であった。しかし、その運命は逆にまた最も不安定で
あり、いつでも天国から地獄に堕ち、甚だしい場合には「女禍」の罪名を負わされ犠牲の羊にされた。
* 女禍とは君主が女色に迷い、国事を誤ったため引き起された禍い。
1 内職、冊封
古来、宮中にはいわゆる「内職」という制度があった。『礼記』「昏義」に、「古、天子は、后に六宮、三夫人、九嬢、二十七世婦、八十一御妻を立て、以て天下の内治を聴く」とある。唐初の武徳年間(618年 - 626年)に、唐は隋の制度を参照して完璧で精密な「内官」制度をつくった。その規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬢(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人)、捷好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。上記のそれぞれの女性は官品をもち、合計で122人の多きに達した。皇后だけが正妻であり、その他は名義上はみな「妃嬪」-皇帝の妾とされた。
また、皇太子の東宮にも「内官」があり、太子妃一人、その下に良俤、良媛、承徽、昭訓、奉儀などの品級があった。諸親王の王妃の下にも儒人等の腰妾の身分があった。
唐代三百年間に封ぜられた后妃のうち、皇后と地位が比較的高いか、あるいは男子を生んだ妃蹟だけが史書にいささかの痰跡を残した。その他の女性は消え去って名も知れない。『新・旧唐書』
「后妃伝」には、全部で二十六人の皇后、十人の妃娘が記載されている。その他で史書に名を留めているものはおよそ五、六十人である。その内、高祖、玄宗両時代の人が最も多い。高祖には賓皇
后の他に、万貴妃、尹徳妃、宇文昭儀、莫嬢、孫嬢、崔嬢、楊嬢、小楊娘、張捷好、郭捷好、劉捷好、楊美人、張美人、王才人、魯才人、張宝林、柳宝林などがいた。玄宗には王皇后、楊皇后、武
恵妃、楊貴妃、趙麓妃、劉華妃、銭妃、皇甫徳儀、郭順儀、武賢儀、董芳儀、高捷好、柳捷好、鍾美人、盧美人、王美人、杜美人、劉才人、陳才人、鄭才人、閣才人、常才人などがいた。もちろん
史書に名を残せなかった人はさらに多い。史書の記載から見ると、高祖、玄宗両時代の妃嬢がたしかに最も多かったようである。
唐代の皇帝たちは、後宮の女性を選抜したり寵愛したりするのに、あまり尊卑貴賤を気にかけなかったが、彼女たちに地位・晶級を賜る時には家柄をたいへん重視した。とりわけ皇后に立てる時には絶対に家柄が高貴でなければならず、「天下の名族を厳選」しなければならなかった(『資治通鑑』巻一九九、高宗永徽六年)。漢代に歌妓の衛子夫(武帝の皇后。もと武帝の姉の歌妓)や舞妓の趙飛燕(成帝の皇后。もと身なし児で歌妓)が皇后になったようなことは、唐代には完仝に跡を絶った。后妃に封ずる時は、まず「地冑清華」(家柄の高貴)、「軒尼之族」(貴顕なる名族)等々の出身であることが強調され、その次にやっと徳行が問われた。
唐代の記録にある二十六人の皇后の内、死後追贈された人、あるいは息子の即位によって尊ばれて太后に封ぜられた人、こうした若干の例外を除く他の大多数の皇后は、その時代の高官か名門の家柄の出であり、そのうちのハ人はやはり皇族の出身であった。時に皇帝が家柄などにそう拘泥しないこともあったが、しかし大臣たちが家柄を最も有力な理由にして反対したので、皇帝でさえどうすることもできなかった。武則天の父は若い頃商人であったが、娃国後に高い地位に上り、格の低い名もなき家柄とはいえなかったけれども、武則天を皇后に立てることに反対した大臣たちはやはり、彼女の「門地は、実に微賤である」と攻撃した(『資治通鑑』巻二〇三、則天后光宅元年)。一方、高宗が努めて衆議を排して披女を皇后にしようと議した時にも、また懸命になって「家門は勲庸(勲功)著しい」とか、「地位は綴敵(冠帯と印綬)ともに華である」(『資治通鑑』巻二〇〇、永徽六年)などと強調した。武宗の王賢妃はたいへんな寵愛を受け、また武宗が即位する際に大きな功績もあったので、武宗は彼女を皇后にしようとした。しかし、大臣たちは「子が無く、また家柄も高貴ではない。恐らく天下の議を胎すことになろう」といって反対したので、ついに出身が下賤ということで皇后にできなかった。皇帝でさえ名門の女性を皇后に立てるという原則に逆らえなかったことが分かる。
名門出身という、この資本がなかったならば、たとえ皇帝の寵愛をほしいままにしたり、皇子を早く生んだとしても、ただ死後に称号を追贈されるか、子が即位して始めて正式に太后になることが許されたのである。唐代の皇后の内、四、五人は低い家柄の出身であった。たとえば、粛宗の呉后は、罪人の家族として宮中の下婢にされた人であり、憲宗の鄭后、穆宗の蕭后はともに侍女の出であり、両者とも生んだ子が即位して始めて尊ばれて太后になることができた。
皇后を立てることに比べて、妃嬢を立てることはわりあい簡単であり、家柄はそれほど厳格に間題にされることはなかった。彼女たちの大半は皇子を生むか、あるいは寵愛を受けたために妃娘の晶階を賜った者であったから、その中には身分の低い者もいくらか含まれていた。たとえば、玄宗の趙麓妃は歌妓の出身であった。そうした例もあるが、しかし妃娘でも出身、家柄はやはり大切であった。太宗の楊妃は隋の場帝の娘であったから、「地位と名望が高く、内外の人々が皆注目した」(『新唐書』太宗諸子伝)。玄宗の柳捷好は名門大族の娘であり、玄宗は「その名家を重んじて」(『新唐書』十一宗諸子伝)特別な礼遇を与えた。
美人が雲のごとく集まっている後宮において、家柄は一頭地を抜くために必要な第一の跳躍台であった。
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| 花間集 巻四 | |
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王建が蜀国を建ててから、蜀に仕えて給事中の官を拝した。よって牛給事とよばれている。博学で文学をよくし、詩歌においてはとくに名があらわれていた。ひそかに李賀(長吉)の歌詩を慕って、筆をとればただちにその詩風にならうことが多かったといぅ。詞はとくにその長ずるところで、女冠子詞の「繍帯芙蓉帳、金紋芍薬花」とか、菩薩蛮詞の「山月照山花、夢回鐙影斜」などはかれの佳句として知られていたといぅ。いわゆる花間沢とよばれる一派のなかで、況庭箔の詞風をうけてその辞句の美しきや情味の深いことでとくにすぐれた詞人である。集三十巻歌詩三巻があったというが今わずかに一部分が伝わるだけである。詞は花間集に三十二首を収めている。
●花間集に《夢江南》は六首、旅の一夜を思い出して詠うもの。
花間集 教坊曲『夢江南』五首(改訂版)Ver.2.1 | | | |||
作者 | 巻 | 題 | 初句7字 | | |
溫助教庭筠 | 巻2-07 | 蘭燼落,屏上暗紅蕉。 | | ||
巻2-08 | 樓上寢,殘月下簾旌。 | | |||
皇甫先輩松 | 巻2-25 | 千萬恨,恨極在天涯。 | | ||
巻2-25 | 梳洗罷,獨倚望江樓。 | | |||
牛嶠(牛給事嶠) | 巻4-05 | 含泥燕,飛到畫堂前。 | 比興 | | |
巻4-06 | 紅繡被,兩兩間鴛鴦。 | 比興 | | ||
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夢江南二首其一
㘅泥鷰,飛到畫堂前。
占得杏梁安穩處,體輕唯有主人憐,堪羨好因緣。
其二
紅繡被,兩兩間鴛鴦。
不是鳥中偏愛爾,為緣交頸睡南塘,全勝薄情郎。
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| 花間集 教坊曲《巻四05夢江南二首其一》薛昭蘊 | |
| 花間集 訳注解説 | |
| 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8618 | |
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夢江南二首 其一(改訂版Ver.2.1)
(春の盛りツバメの巣作りの時期に、この家の主は、江南の若い女を迎え入れた、人々から、杏の梁で作った邸宅のことを「馬鹿御殿」と呼ばれている。此れを縁起がいいことというのだろうかと詠う)
㘅泥鷰,飛到畫堂前。
幸せを運んでくるつばめが今年も、泥くわえ巣をつくっている。絵塗りの表座敷の先に飛んで来る。(きっといいことがある前兆だというが、誰にとって縁良というのか)
占得杏梁安穩處,體輕唯有主人憐,堪羨好因緣。
杏の花、杏の実を彫刻した杏の香木の奢侈な梁の邸宅は安らかな住処であろう、これほどまでの奢侈のこの家の主は、江南の若い女性を迎えた柳の様な細腰で、ツバメのように細く、若く身軽い間のときだけを愛でる。これほどの良き因縁の結ばれるのは羨やましいとおもうことにたえねばならない。本当はうらやむことではないのである。
(夢江南【ぼうこうなん】二首其の一)
泥を㘅【ふく】む鷰【つばめ】,飛びて畫堂の前に到る。
占め得たり 杏梁【きょうりょう】の安穩【あんのん】の處,體 輕くして 唯だ 主人の憐れむ有り,羨やむに堪えたり 好き因緣を。
夢江南二首其二
(富貴の家に迎えられて、何不自由のない、愛された生活をしたが、いつしか、籠の鳥のような生活、何もせず、ただ寵愛を受けたいとおもうだけの生活をする毎日となったと詠う。)
紅繡被,兩兩間鴛鴦。
やがて、江南から来た乙女だった女は頬を赤く染めるようになり、刺繍の肩掛けを被う、屏風の画に二つの鴛鴦がいて、寝牀にもふたつのおしどりが間をあけている。
不是鳥中偏愛爾,為緣交頸睡南塘,全勝薄情郎。
鴛鴦のような生活も過ぎて仕舞えばつかの間こと、もう、籠の中の鳥になって、ただ愛を待つだけになったが、それまでは、南側の渚や堤で静かに愛を育む、何の心配もいらないおしどりの小さな幸せをつかんだ。いま、何もする気になれず、すべてのことはあの情が薄い劉郎のことに堪えることだけだ。
《夢江南二首》 現代語訳と訳註
(本文)
夢江南二首 其二
紅繡被,兩兩間鴛鴦。
不是鳥中偏愛爾,為緣交頸睡南塘,全勝薄情郎。
(下し文)
夢江南【ぼうこうなん】二首
其の二
紅 繡 被い,兩兩にして 鴛鴦を間にす。
鳥 中【あた】る是れならず 爾を偏愛し,交頸するを緣と為し 南塘に睡り,全ては薄き情郎に勝【たえ】ることなり。
(現代語訳)
(富貴の家に迎えられて、何不自由のない、愛された生活をしたが、いつしか、籠の鳥のような生活、何もせず、ただ寵愛を受けたいとおもうだけの生活をする毎日となったと詠う。)
やがて、江南から来た乙女だった女は頬を赤く染めるようになり、刺繍の肩掛けを被う、屏風の画に二つの鴛鴦がいて、寝牀にもふたつのおしどりが間をあけている。
鴛鴦のような生活も過ぎて仕舞えばつかの間こと、もう、籠の中の鳥になって、ただ愛を待つだけになったが、それまでは、南側の渚や堤で静かに愛を育む、何の心配もいらないおしどりの小さな幸せをつかんだ。いま、何もする気になれず、すべてのことはあの情が薄い劉郎のことに堪えることだけだ。
(訳注)
夢江南二首其二
9. (富貴の家に迎えられて、何不自由のない、愛された生活をしたが、いつしか、籠の鳥のような生活、何もせず、ただ寵愛を受けたいとおもうだけの生活をする毎日となったと詠う。)
10. 【解説】この詩は、その一の続編というべきものであるが、意味、語句についても新しいものはないし、おもしろさもない、具民歌的なものである。
<家妓>高官や貴族、商人の家に置かれ、家長の妾姫となった。主人だけではなく、客を歓待する席でも技芸により、これをもてなす役目があった。官妓から、臣下に下賜されて家妓になるものもいた。始皇帝の母にあたる呂不韋の愛人や、西晋の石崇の愛妾である緑珠が有名。
(鴛鴦の仲睦まじくしているのを見て、自分の気持ちは今も変わらずあの人を愛し続けていることを詠う。)
一夫多妻制のころの男女の心の持ち方は理解するのがむつかしい。
10.【構成】『花間集』には牛嶠の作が二首収められている。単調二十七字、五句三平韻で、3⑤7⑦⑤の詞形をとる。
紅繡被 兩兩間鴛鴦
不是鳥中偏愛爾 為緣交頸睡南塘、全勝薄情郎
○●● ●●△○○
△●●△△●● ○△○△●○○ ○△●○○
紅繡被,兩兩間鴛鴦。
やがて、江南から来た乙女だった女は頬を赤く染めるようになり、刺繍の肩掛けを被う、屏風の画に二つの鴛鴦がいて、寝牀にもふたつのおしどりが間をあけている。
11. 紅繡被 ・紅 女盛りの女妓をいう。
不是鳥中偏愛爾,為緣交頸睡南塘,全勝薄情郎。
鴛鴦のような生活も過ぎて仕舞えばつかの間こと、もう、籠の中の鳥になって、ただ愛を待つだけになったが、それまでは、南側の渚や堤で静かに愛を育む、何の心配もいらないおしどりの小さな幸せをつかんだ。いま、何もする気になれず、すべてのことはあの情が薄い劉郎のことに堪えることだけだ。
12. 不是 前の句を否定する、鴛鴦のような生活も過ぎて仕舞えばつかの間こと、というほどの意。
13. 鳥中偏愛爾 籠の中の鳥になって、ただ愛を待つだけになったことをいう。‣偏愛 ある物や人だけをかたよって愛すること。また、その愛情。
14. 為緣交頸睡南塘 鴛鴦が南側の渚や堤で静かに愛を育む、何の心配もいらない、小さな幸せを表現するもの。
15. 全勝薄情郎 全勝:全ては堪えること。心変わりをした情けの薄い情郎のこと。
‣薄情郎 夢のような付き合いをしたのにもう心変わりをした情けの薄い男を云う。この時代の情けの強い男を「潘郎」といい、劉郞、阮郎、檀郎、安仁など色町の女が男をそう呼んだ。
‣劉郞 仙桃を味わった浦島太郎のような人物である劉晨=劉郎である夢心地の状態にある男、何年も訪れてくれなくなっているのでこのようにいう。12年もたっていることと、全く景色が変わって、ここにいる女を含めみんなが全く変わっていたというものだ。
‣阮郎 別れ去って久しく帰らぬ愛しい男。後漢の劉展、阮肇は天台山に薬草を採りに入り、道に迷って仙女に出合い、しばらくともに暮らした。しかし家のことが思い起こされ、帰ってみると、既に数世が過ぎ、見知った人は誰もいなかった。そこで再び山に尋ね入ったが、仙女を探し当てられなかったと言う。以来、阮郎、劉部は、別れ去る男や別れ去って久しく帰らぬ愛しい男を指すようになった。・檀郎/安仁/潘郎 晋の潘岳のあざな。彼は美男子であり、詩人であったが、妻の死にあい「悼亡」の詩三首を作った。後世、妻の死をなげいた模擬作が多く作られた。潘岳の幼名が檀奴だったので、「檀郎」は夫や恋い慕う男を意味する。
‣潘岳:安仁。滎陽(けいよう)中牟(河南省)の人。陸機と並ぶ美文の文学の大家で,錦を敷きのべたような絢爛(けんらん)たる趣をたたえられた。ことに人の死を悼む哀傷の詩文を得意とし,亡妻への尽きぬ思いをうたった〈悼亡詩(とうぼうし)〉3首はよく知られる。絶世の美男として,また権門の間を巧みに泳ぎまわる軽薄才子として,とかく話題にこと欠かなかった。八王の乱の渦中で悲劇的な刑死を遂げた。
作者 |
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劉禹錫
| 憶江南其一「春去也,多謝洛城人。弱柳從風疑擧袂,叢蘭裛露似沾巾。獨坐亦含嚬。」 |
憶江南其二「春去也。共惜豔陽年。猶有桃花流水上,無辭竹葉醉尊前。惟待見青天。」 | |
白居易 | 憶江南其一「江南好,風景舊曾諳。日出江花紅勝火,春來江水綠如藍。能不憶江南!」 |
憶江南其二「江南憶,最憶是杭州。山寺月中尋桂子,郡亭枕上看潮頭。何日更重游。」 | |
憶江南其三「江南憶,其次憶呉宮。呉酒一杯春竹葉,呉娃雙舞醉芙蓉。早晩復相逢。」 |