花間集 訳注解説 (171)回目牛嶠二十六首《巻四01女冠子四首其一》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8594
(171)回目牛嶠二十六首《巻四01女冠子四首其一》
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2017年4月25日 | の紀頌之5つの校注Blog | ||||
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 | |||||
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●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集 不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。 | |||||
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●花間集全詩●森鴎外の小説の”魚玄機”詩、芸妓”薛濤”詩。唐から五代詩詞。花間集。玉臺新詠連載開始 | |||||
Ⅴ.唐五代詞詩・女性 | ・玉臺新詠 | ||||
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花間集 訳注解説 (171)回目牛嶠二十六首《巻四01女冠子四首其一》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8594
女冠子四首其の一(若くてアイドルのような女冠が初め恋をした有様を詠う)
黒髪が輝き両鬢の雲型に高くした髷のもとどり姿、翡翠が鏤められた髪飾り、若い人に流行の赤くきれいな頬紅の化粧をする、それに新月のような眉を書いている。
恥しがってすこし笑うと両の頬にえくぼができる、低い声で短冊に書き込んだ短篇詞譜をうたっている。鏡を見るとただ変わっていくのが恐ろしいし、落ち着かず蕩心であってもいい、連れ立って歩きたいと思っている。耀く歌を謡って庭をいっしょに歩いてまわればその声は余韻として広がり、また、逢瀬の期日約束をする。
唐代には仏教、道教の両宗教がきわめて盛んであり、寺院、道観は林立し、膨大な数の尼と女道士(女冠)の集団を生み出していた。『唐六典』(巻四)に、盛唐の時代、天下に女道士のいる五五〇の道観、二一二二の尼寺があったと記されている。尼や女道士の数はさらに相当なものである。『旧唐書』 の 「侍突伝」 に、唐初「天下の僧尼の数は十万に満ちる」とあり、『新唐書』 の 「百官志」には「天下の女冠は九八八人、女尼は五万五七六人」とある。『唐会要』の「僧籍」によれば、唐後期の会昌年間(八讐-八四六)、僧尼は二六万五百人に達した。これらの記録から推測すると、尼僧は少ない時でも数万人、多い時には十余万人にも達していたと想像される。都から遥か遠方の敦蝮地区でも、普通の寺の尼僧は常に一寺院に百人はいた(『敦蛙資料』第一輯「敦塩寺院僧尼等名牒」)。道教寺院の女道士の数はやや少なめであった。これに各地で自由に活動している女巫(女占師)を加えて合計すると、無視できない階層を形成していたのである。
この数万もの尼や女道士には、出家以前は高貴な身分であった妃嬢・公主や、衣食に何の心配もない貴婦人・令嬢もいたし、また貧と窮がこもごも重なった貧民の女性、身分の餞しい娼妓などもいた。彼女たちはどうして同じ道を歩んで出家するに至ったのだろうか。
【出家の動機】
およそ出家の動機は、次のようないくつかの情況に分けることができる。一部は、家族あるいは自分が仏教、道教を篤く信じて出家した人々である。たとえば、宋国公の斎璃は仏教にのめりこみ、娘を三歳にして寺に入れ尼にしてしまった(『唐文拾遺』巻六五「大唐済度寺の故比丘尼法楽法師の墓誌銘」)。
柳宗元の娘の和娘は、病気のため仏にすがり、治癒した後に仏稗と名を改め、自ら剃髪して尼となることを願った(『全唐文』巻五八二、柳宗元「下務の女子の墓碑記」)。こうした人々の大半は貴族、士大夫の家の女子であり、彼女たちの入信は多かれ少なかれ信仰の要素を内に持っていたようである。長安にあった成宜観の女道士は、大多数が士大夫の家の出身であった。しかし、こうした人は少数であり、圧倒的多数はやはり各種の境遇に迫られ、あるいは世の辛酸をなめ尽して浮世に見切りをつけ、寺院や通観に入って落ち着き先を求めた人々であった。その中には、夫の死後再婚を求めず入信して余生を送ろうとした寡婦もいる。たとえば、開元年間、輩県(河南省筆県)の李氏は夫の死後再婚を願わず、俗世を棄てて尼になった(侠名『宝応録』)。焼騎将軍桃李立が死んだ時、その妻は喪が明けると、出家して女道士になりたいと朝廷に願い出た(『全唐文』巻五三一、張貫「桃李立の妻、女道士に充らんとするを奏せる状」)。あるいはまた、家族が罪にふれて生きる道がなく、寺院や通観に人らざるをえなかった者もいる。越王李貞(太宗の子)の玄孫李玄真は、祖先(曾祖父李珍子)の武則天に対する反逆の罪によって父、祖父などがみな嶺南の僻遠の地で死んだ。彼女はそれら肉親を埋葬した後、成宜観に入り信仰の中で生涯を終えた(『旧唐書』列女伝)。睾参は罪にふれて左遷させられた。すると、その娘は榔州(湖南省榔県)で出家し尼になった(『新唐書』睾参伝)。
また妓女、姫妾が寺院や通観を最後の拠り所にすることもあった。有名な女道士魚玄機はもともとある家の侍妾であったが、正妻が容認しなかったので道観に入った(『太平広記』巻二二〇)。妓女は年をとり容色が衰えると出家するのが一般的だった。唐詩の中には「妓が出家するのを送る」 ことを題材とした作品がたいへん多い。宮人・宮妓が通観に入る例も少なからぬ割合を占める。彼女たちは年をとり宮中を出でも頼るべき場所とてなく、大多数が寺院・通観を最後の安住の地とした。
長安の政平坊にあった安国観の女這士の大半は上陽宮の宮人であった(『唐語林』巻七)。詩人たちはかつて、「斎素と白髪にて宮門を酢で、羽服・星冠に道意(修行心)存す」(戴叔倫「宮人の入道するを送る」)、「君看よ白髪にて経を詞する者を、半ばは走れ宮中にて歌舞せし人なり」(慮輪「玉真公主の影殿を過ぎる」)などと詠んで嘆いた。最後になったが、他に貧民の家の大量の少女たちがいる。彼女たちはただ家が貧しく親に養う力がないという理由だけで、衣食に迫られて寺院や道観に食を求めざるを得なかった人々である。総じて言えば、出家は女性たちが他に生きる道がない状況下における、最後の出路、最後の落ち着き先になったのである。
一般の女子の出家の状況はだいたい以上述べたようなものであったが、妃嬢・公主たちの出家の事情は比較的特殊である。妃嬢の中のある者は、皇帝が死ぬと集団で寺に送りこまれた。
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| 花間集 巻四 | |
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女冠子四首 其一
綠雲高髻,點翠勻紅時世。月如眉。淺笑含雙靨,低聲唱小詞。
眼看唯恐化,魂蕩欲相隨。玉趾迴嬌步,約佳期。
其二
錦江煙水,卓女燒春濃美。小檀霞。繡帶芙蓉帳,金釵芍藥花。
額黃侵膩髮,臂釧透紅紗。柳暗鶯啼處,認郎家。
其三
星冠霞帔,住在蘂珠宮裏。佩叮噹。明翠搖蟬翼,纖珪理宿粧。
醮壇春艸綠,藥院杏花香。青鳥傳心事,寄劉郎。
其四
雙飛雙舞,春晝後園鶯語。卷羅幃。錦字書封了,銀河鴈過遲。
鴛鴦排寶帳,荳蔻繡連枝。不語勻珠淚,落花時。
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| 花間集 教坊曲《巻四01女冠子四首其一》薛昭蘊 | |
| 花間集 訳注解説 | |
| 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8594 | |
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女冠子四首其一
女冠子四首其の一(若くてアイドルのような女冠が初め恋をした有様を詠う)
綠雲高髻,點翠勻紅時世。月如眉。
黒髪が輝き両鬢の雲型に高くした髷のもとどり姿、翡翠が鏤められた髪飾り、若い人に流行の赤くきれいな頬紅の化粧をする、それに新月のような眉を書いている。
淺笑含雙靨,低聲唱小詞。
恥しがってすこし笑うと両の頬にえくぼができる、低い声で短冊に書き込んだ短篇詞譜をうたっている。
眼看唯恐化,魂蕩欲相隨。
鏡を見るとただ変わっていくのが恐ろしいし、落ち着かず蕩心であってもいい、連れ立って歩きたいと思っている。
玉趾迴嬌步,約佳期。
耀く歌を謡って庭をいっしょに歩いてまわればその声は余韻として広がり、また、逢瀬の期日約束をする。
(女冠子四首 其の一)
綠雲の高髻,點翠 勻紅しく 時世なり。月 眉の如し。
淺笑 雙靨を含み,低聲 小詞を唱う。
眼看 唯だ化を恐れ,魂蕩 相い隨わんと欲す。
玉趾して嬌步迴り,佳期を約す。
(改訂版Ver.2.1)
《女冠子四首》 現代語訳と訳註
(本文) 女冠子四首 其一
綠雲高髻,點翠勻紅時世。月如眉。
淺笑含雙靨,低聲唱小詞。
眼看唯恐化,魂蕩欲相隨。
玉趾迴嬌步,約佳期。
(下し文)
(女冠子四首 其の一)
綠雲の高髻,點翠 勻紅しく 時世なり。月 眉の如し。
淺笑 雙靨を含み,低聲 小詞を唱う。
眼看 唯だ化を恐れ,魂蕩 相い隨わんと欲す。
玉趾して嬌步迴り,佳期を約す。
(現代語訳)
女冠子四首其の一(若くてアイドルのような女冠が初め恋をした有様を詠う)
黒髪が輝き両鬢の雲型に高くした髷のもとどり姿、翡翠が鏤められた髪飾り、若い人に流行の赤くきれいな頬紅の化粧をする、それに新月のような眉を書いている。
恥しがってすこし笑うと両の頬にえくぼができる、低い声で短冊に書き込んだ短篇詞譜をうたっている。
鏡を見るとただ変わっていくのが恐ろしいし、落ち着かず蕩心であってもいい、連れ立って歩きたいと思っている。
耀く歌を謡って庭をいっしょに歩いてまわればその声は余韻として広がり、また、逢瀬の期日約束をする。
(訳注)
女冠子四首其一
1. 女冠子四首其の一(若くてアイドルのような女冠が初め恋をした有様を詠う)
温庭筠、韋荘、女冠子参照。
『花間集』全詩訳注解説(改訂)-1溫庭筠48《巻1-48 女冠子二首 其一》溫庭筠66首巻一48-〈48〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5437
『花間集』全詩訳注解説(改訂)-1溫庭筠49《巻1-49 女冠子二首 其二》溫庭筠66首巻一49-〈49〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5442
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-43韋荘121《巻3-21 女冠子二首 其一》三巻21-〈121〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5807
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-44韋荘122《巻3-22 女冠子二首 其二》三巻22-〈122〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5812
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-4.薛昭蘊144《巻三43女冠子二首其一》巻三4344-〈144〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5922
『花間集』全詩訳注解説(改訂版)-4.薛昭蘊145《巻三44女冠子二首其二》巻三4445-〈145〉漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-5927
牛嶠《巻四42女冠子四首 其一》『花間集』193全詩訳注解説(改訂版Ver.2.1)-漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ-6237
14-377《女冠子二首其一》孫光憲(37)Ⅻ唐五代詞・『花間集』全詩訳注解説Gs-560-14-(377) 花間集 巻第八 (四十八首)漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4347
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16-459《女冠子二首,其一》九巻 鹿虔扆Ⅻ唐五代詞・『花間集』全詩訳注解説Gs-642-16-(459) 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4757
16-460《女冠子二首,其二》九巻 鹿虔扆Ⅻ唐五代詞・『花間集』全詩訳注解説Gs-643-16-(460) 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4762
19-488《女冠子二首其一》巻九 毛熙震Ⅻ唐五代詞・『花間集』全詩訳注解説Gs-671-19-(488) 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4902
19-489《女冠子二首其二》巻九 毛熙震Ⅻ唐五代詞・『花間集』全詩訳注解説Gs-672-19-(489) 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4907
20-528《女冠子二首,其一》十巻 李珣Ⅻ唐五代詞・『花間集』全詩訳注解説Gs-711-20-(528) 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5102
20-529《女冠子二首,其二》十巻 李珣Ⅻ唐五代詞・『花間集』全詩訳注解説Gs-712-20-(529) 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5107
2.【構成】唐の教坊の曲名。女冠は女道士の意。『花間集』 には牛嶠の作が四首収められている。双調四十一字、前段二十三字五句二仄韻二平韻、後段十八宇四句二平韻一仄韻で、❹❻③5⑤/❺⑤❺③の詞形をとる。
女冠子四首 其一
綠雲高髻,點翠勻紅時世。月如眉。
淺笑含雙靨,低聲唱小詞。
眼看唯恐化,魂蕩欲相隨。
玉趾迴嬌步,約佳期。
●○○● ●●○○○△ ●△○
△●○○● ○○●●○
●△△●● ○●●△○
●●△△● ●○○
綠雲高髻,點翠勻紅時世。月如眉。
黒髪が輝き両鬢の雲型に高くした髷のもとどり姿、翡翠が鏤められた髪飾り、若い人に流行の赤くきれいな頬紅の化粧をする、それに新月のような眉を書いている。
3. この三句は、女冠がうら若き乙女であることをいう。
4. ・綠雲高髻 若い女の黒髪が輝き両鬢の雲型に高くした髷のもとどり姿。
5. ・點翠 宝飾の翡翠がちりばめられた簪。
6. ・勻紅 頬紅を付けて化粧する。
7. ・時世 時とともに移り変わる、世の中。時代。ときよ。
8. ・月如眉 眉が新月のようである;眉月(指新月). 眉黛.のことで、古代女子が眉を黛畫するのに用いる。黛,青黑色的顏料である。
淺笑含雙靨,低聲唱小詞。
恥しがってすこし笑うと両の頬にえくぼができる、低い声で短冊に書き込んだ短篇詞譜をうたっている。
9.・靨 笑(え)窪(くぼ) (1)笑うと、頬にできる小さなくぼみ。 (2)ほくろ。
10.・低聲 恥しがって小声を出す。
11. ・小詞 1.短冊などの書き込んだ短篇歌詞。填寫:(表・伝票などに)記入する,書き込む.2.民間歌謠或は曲藝をいう。 猶小調。
眼看唯恐化,魂蕩欲相隨。
鏡を見るとただ変わっていくのが恐ろしいし、落ち着かず蕩心であってもいい、連れ立って歩きたいと思っている。
12. ・恐化 変化して行くのが怖い
13. ・魂蕩 蕩:1.落ち着かないで、ゆれうごく。ゆらぐ。うごかす。 「蕩心・漂蕩」2.しまりがなく、わがまま。ほしいまま。特に、酒色におぼれる。 「放蕩・遊蕩・蕩児」
玉趾迴嬌步,約佳期。
耀く歌を謡って庭をいっしょに歩いてまわればその声は余韻として広がり、また、逢瀬の期日約束をする。
14. ・玉趾 足跡が輝いている。ここでは歌声が余韻として残るというほどの意味である。
15. ・佳期 逢瀬の約束の期日。
16.【参考】 文宗の時代、宮人の沈阿翹は歌と舞いが上手な上、また作曲と演奏もできた。彼女が「何満子」(宮廷妓の何満子が作った作品)という舞曲を演じた時には、音の調べ、舞う姿ともやわらかくしなやかで流れるように素晴らしかった。「涼州曲」という一曲を演奏した時なぞは、音が清らかで哀調を帯び、文宗はこれぞ天上の音楽であると称讃した。そして最も優れた才能をもつ宮人を選んで彼女から芸を学ばせた。後に、この女性は宮中を出て秦という姓の男に嫁した。夫が出張していた時、『翹制曲』「憶秦郎」(秦郎を憶う」という一曲を作って、遥かに思慕の情を寄せた(『古今図書集成』「閏媛典閏藻部」、『杜陽雄編』巻中)。
泰娘は貴族の家の家妓であった。多芸多才で、歌舞弾奏なんでも窮めないものはなく、当時、都の貴顕の子弟は争って泰娘の名を伝えた。劉南錫は「泰娘の歌」を作ってその経歴を記している。
武則天の時代に、もう一人よく歌曲を作る無名の宮人がいた。その夫は菟罪で獄に陥ち、自分も籍没されて宮中の婦女にされた。彼女は日頃、篳篥を上手に吹き、また音律にもよく通じていた。
そして、「離別難」(別れの苦しみ)という曲を作って、自分の悲しみと恨みの気特を托した(『楽府雑録』「離別難」)。
楽器に精通している女性などは、数えきれぬほどたくさんいた。宰相宋璟の娘の宋氏は獦鼓(インドから中央アジアを経て伝わった太鼓の一種)を専門に習い、その技量はかなり高度な水準に達していた(南卓『掲鼓録』)。楊志の父方の叔母は、もともと宮妓であり、琵琶の演奏で一世を風廃した女性であった(『楽府雑録』「琵琶」)。ひじょうに多くの唐詩の諸篇に、楽器を演奏する高度な技術と妙なる音声を持つ女性たちのことが描かれている。白居易の有名な詩「琵琶行」には、次のように琵琶妓の絶妙な技術と芸術的な影響力とが生々と描かれている。
【琵琶行】
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轉軸撥絃三兩聲,未成曲調先有情。
絃絃掩抑聲聲思,似訴平生不得志。
低眉信手續續彈,説盡心中無限事。
輕慢撚抹復挑,初爲霓裳後綠腰。
大絃如急雨,小絃切切如私語,
切切錯雜彈,大珠小珠落玉盤。
間關鶯語花底滑,幽咽泉流氷下難。
氷泉冷澀絃凝絶,凝絶不通聲暫歇。
別有幽愁暗恨生,此時無聲勝有聲。
銀瓶乍破水漿迸,鐵騎突出刀槍鳴。
曲終收撥當心畫,四絃一聲如裂帛。
東船西舫悄無言,唯見江心秋月白。
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(琵琶行 二)
軸を 轉(し)め 絃を 撥ひて 三兩聲,未だ 曲調を 成さざるに 先ず 情 有り。
絃絃 掩抑して 聲聲に 思ひ,平生 志を 得ざるを 訴ふるに 似たり。
眉を低れ 手に信せて 續續と 彈き,説き盡くす 心中 無限の事。
輕く(し)め 慢く撚りて 抹み 復た 挑ひ,初めは 霓裳を 爲し 後は 綠腰。
大絃は として 急雨の如く,小絃は 切切として 私語の如し,
と 切切と 錯雜して 彈き,大珠 小珠 玉盤に 落つ。
間關たる 鶯語 花底に 滑かに,幽咽せる 泉流は 氷下に難む。
氷泉 冷澀して 絃 凝絶し,凝絶 通ぜず 聲 暫し 歇(や)む。
別に 幽愁の 暗恨 生ずる 有り,此の時 聲 無きは 聲 有るに 勝る。
銀瓶 乍ち 破れ 水漿 迸(ほとばし)り,鐵騎 突出して 刀槍 鳴る。
曲 終らんとして 撥(ばち)を收め 當心を 畫き,四絃 一聲 裂帛の如し。
東船 西舫 悄として 言(ことば) 無く,唯だ見る 江心に 秋月の 白きを。
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詩人の描写の素晴らしさに感謝したいと思う。古代の女性演奏家の技芸と人を感動させる琵琶曲を、わずかながらも知ることができたのであるから。
唐代は音楽が発達したばかりではない。舞踊もまた黄金時代を現出した。宮中では常時、大規模な歌舞の催しが開かれていた。たとえば、「上元楽」、「聖寿楽」、「孫武順聖楽」等であり、これらには常に宮妓数百人が出演し、舞台は誠に壮観であった。宮廷でも民間でも、舞妓は常に当時の人々から最も歓迎される漬物を演じた。たとえば、霓裳羽衣舞(虹色の絹と五色の羽毛で飾った衣裳を着て踊る大女の舞)、剣器舞(西域から伝来した剣の舞)、胡旋舞(西域から伝来した飛旋急転する舞)、柘枝舞(中央アジアから伝来した柘枝詞の歌に合わせて行う舞)、何満子(宮妓の何満子が作曲し、白居易が作詩し、沈阿翹が振り付けした歌舞)、凌波曲(美人がなよなよと歩く舞)、白貯舞(白絹を手にした舞)等々が白居易は「霓裳羽衣舞」を舞う妓女たちの、軽く柔かくそして優美な舞姿を描写している。
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案前舞者顏如玉,不著人家俗衣服。
虹裳霞帔步搖冠,鈿瓔累累佩珊珊。
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飄然轉旋迴雪輕,嫣然縱送游龍驚。
小垂手后柳無力,斜曳裾時雲欲生。
煙蛾斂略不勝態,風袖低昂如有情。
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「案前 舞う者 顔は玉の如く、人家の俗なる衣服を著けず。虹の裳 霞の帔(内掛け」 歩揺の冠、細瓔は累累として珊珊を佩ぶ。.……諷然と転旋すれば廻る雪より軽く、嫣然と縦送すれば游る龍も驚く。小しく手を垂れし後 柳は力無く、斜めに裾を曳く時 雲 生ぜんと欲す。煙き蛾は斂略めて態に勝えず、風はらむ袖は低く昂く 情有るが如し」(白居易「霓裳羽衣歌」)
白居易の《胡旋女》
胡旋女,胡旋女,心應弦,手應鼓。
弦鼓一聲雙袖舉,回雪飄搖轉蓬舞。
左旋右轉不知疲,千匝萬周無已時。
人間物類無可比,奔車輪緩旋風遲。
曲終再拜謝天子,天子為之微啟齒。
胡旋女,出康居,徒勞東來萬里余。
中原自有胡旋者,斗妙爭能爾不如。
天寶季年時欲變,臣妾人人學圜轉。
中有太真外祿山,二人最道能胡旋。
梨花園中冊作妃,金雞障下養為兒。
祿山胡旋迷君眼,兵過黃河疑未反。
貴妃胡旋惑君心,死棄馬嵬念更深。
從茲地軸天維轉,五十年來制不禁。
胡旋女,莫空舞,數唱此歌悟明主。
胡旋の女 胡旋の女、心は弦に應じ 手は鼓に應ず。
弦鼓一聲 雙袖舉がり、回雪飄搖し 轉蓬舞ふ。
左に旋り右に轉じて疲れを知らず、千匝 萬周 已む時無し。
人間物類 比すべき無く。奔車 輪緩 旋風 遲し。
曲終り再拜して天子に謝す、天子之が為に微かし齒を啟(ひら)く。
胡旋の女 康居に出ず、勞して東來すること萬里余。
中原に自ずから有胡旋の者有り、斗妙 爭能 爾如かず。
天寶の季年 時に變はらんと欲し、臣妾人人 圜轉を學ぶ。
中に太真有り 外には祿山、二人最も道ふ 能く胡旋すと。
梨花園中 冊して妃と作し、金雞障下 養ひて兒と為す。
祿山の胡旋 君は眼を迷はし、兵黃河を過ぐるも未だ反せずと疑ふ。
貴妃の胡旋 君が心を惑はし、死して馬嵬に棄つるも 念ひ更に深し。
茲(これ)より地軸天維轉じ、五十年來 制せど禁ぜず。
胡旋舞は別の風格がある。これら舞妓のなかから、何人かの出色の舞踊家が出現した。
楊玉環(楊貴妃)、彼女は以千年後百年にもわたって絶世の美人として、また「女禍」として史上有名になった。しかし、人は往々この女性が天才的な舞踊家、音楽芸術家であったことを軽視する。彼女は多方面の芸術的才能を持っており、特に舞踊に長じ、「霓裳羽衣舞」の類いまれな踊り手として、千古の後までその名が伝えられている。彼女はまた胡旋舞等の舞いも踊ることができた。同時にまた音律にも長じ、多種多様な楽器にもよく通じていた。特に撃磐(石製の打楽器の演奏)が最も得意であり、その音声は冷たく清らかであり、またオリジナリティに富んでいて、宮廷の名楽師でも及ばなかった。また琵琶もたいへんL手で、梨園で演奏した時、音色は張りつめ澄みきって、雲外にただよう如くであった。それで、親王、公主、貴婦人たちは争って彼女の琵琶の弟子になろうとした。笛豊た上手であった。ある華、彼女は玄宗の兄賢の玉笛をこっそり借りて吹いたため、玄宗皇帝の不興をかった。しかし、風流文士たちは「梨花の静院に人の見ゆる無く、閑ろに寧王の玉笛を把りて吹く」(『楊太真外伝』に引く張詰の詩句)などといって、きわめで風流なことと褒めそやした。
楊貴妃の侍女張雲容も「霓裳羽衣舞」が上手だったので、楊貴妃は詩をつくって彼女の舞姿を誉めそやした。「羅袖 香を動かし 香己まず、紅蕖は嫋嫋 秋煙の裏。軽き雲は嶺上にて乍ち風に揺らぎ、嫩き柳は池塘にて初めて水を払う」(楊貴妃「阿那曲」)。
これと同じ時期、新豊(陝西省臨潼)の女俳優謝阿蛮は凌波曲を上手に踊った。常時、宮廷に出入りし、玄宗と楊貴妃からたいへん愛された。ある時、彼女が舞い、玄宗と楊貴妃が親しく自ら伴奏した。楊貴妃は特別に金を散りばめた腕輪を褒美として贈った(『楊太真外伝』、『明皇雑録』補遺)。
当時、公孫大娘の「剣器の舞」も非常に有名で、その演舞は雄壮で人々の魂まで揺り動かした。
杜甫は次のように詠っている。
杜甫《2099觀公孫大娘弟子舞劍器行》767年大曆二年56歲
昔有佳人公孫氏,一舞劍氣動四方。
觀者如山色沮喪,天地為之久低昂。
爀如羿射九日落,矯如群帝驂龍翔。
來如雷霆收震怒,罷如江海凝清光。
絳脣朱袖兩寂寞,況有弟子傳芬芳。
臨潁美人在白帝,妙舞此曲神揚揚。
與余問答既有以,感時撫事增惋傷。
先帝侍女八千人,公孫劍器初第一。
五十年間似反掌,風塵傾動昏王室。
梨園子弟散如煙,女樂餘姿映寒日。
金粟堆南木已拱,瞿唐石城草蕭瑟。
玳筵急管曲復終,樂極哀來月東出。
老夫不知其所往,足繭荒山轉愁疾。
【爀は火+霍であるが字書にないため代用する】
公孫大娘が弟子の剣器を舞うを観る行杜甫
昔 佳人の公孫氏有り、一たび剣幕を舞えば四方を動かす。
観る者は山の如くして色は沮喪し、天地も之が為に久しく低昂す。
爀として羿(伝説の弓の名人)の九日(九つの太陽)を射て落すが如く、矯として群帝(五帝)の龍を驂(二頭だての車)として翔るが如し。
来たるは雷霆の震怒を収むるが如く、罷むるは江海の清光を凝らすが如し。
緯唇 珠袖 両つながら寂寞、晩(晩年)に弟子有り、芬芳を伝う。
臨頴の美人(李十二娘)、はく帝に在り、妙みに此の曲を舞いて神揚揚たり。
余と問答す 既に以有り、時に感じ事を撫して惋傷を増す。
先帝の侍女 八千人、公孫の剣器 初めより第一。
五十年間 掌を反すに似て、風塵は傾動として王室に昏し。
梨園の子弟 散ずること煙の如く、女楽(歌妓)の余姿 寒日に映ず。
金粟堆(玄宗の御陵の名)の南 木己に拱きく、笹唐の石城(白帝城) 草蕭瑟たり。
玳筵(豪華な宴席) 急管(せわしげな笛の音) 曲復た終り、楽しみ極まりて哀しみ来たり 月は東に出づ。
老夫は其の往く所を知らず、足は荒山に繭して(足にたこができて)転た愁疾たり。
唐の後期、宝暦二年(826)、浙江東部の地から、飛燕、軽鳳という二人の舞妓が着物として朝廷に献上された。彼女たちの舞姿はあでやかで、歌舞がひと度始まるとあらゆる鳥が台上に集まったといわれる。歌舞が終ると、皇帝は彼女たちが風に吹かれ日にさらされることを心配して宝帳(豪華な天幕)の中に入れた。官女たちは、「宝帳 香は重重、一双 紅き芙蓉」と歌った(『杜陽雑編』巻中)。その他にも、宮妓の粛煉師という女性がおり、柘枝舞が大変上手であり、この舞いで彼女にかなう人はいなかった。また教坊妓の顔大娘、鹿三娘、張四娘等も、みな歌、舞ともに優れていた。
唐代にはまた一種の芝居化された歌舞があり、専門家はこれを「歌舞戯」とよんだ。これには少なからざる女芸人が出演した。則天武后はかつて高宗に、「天下の婦女が俳優の戯を行うことを禁ずる」勅令を出すよう願った(『旧唐書』高宗妃上)。当時女性を中心とする演劇がすでに盛んであったことがわかる。女俳優の劉来春は、「陸参軍」という劇を演じるのが最も上手だった(『雲渓友議』巻九)。「踏謡娘」という劇はそれ以上に流行した。これはもともと北斉の時代には男が女に扮していたが、唐代には男女共演となった。この歌劇では主役をやる女性―〔いじめに合う蘇郎中の妻〕―は歌いかつ舞い、それに多くの人々が唱和した。この歌劇は教坊妓の張四娘が最も上手だった。ある唐詩は、女芸人が街頭でこの劇を演じている様子を、「手を挙げて花鈿を整え、身を翻して錦延に舞う。馬は囲みて行処に匝り、人は蔟がり 場を看て円し」(常非月「談容娘を詠ず」)と描写している。
また当時、民間には町の横丁で「変文」を語り唱う女性たちもいた。変文とは今日の「評書(講談)」や「大鼓(鼓を打って唱う演芸)」などのように、語り唱う民間芸だった。吉師老は「萄女が昭君に転じ変ずるを看る」という詩一首を書いて、萄女が変文を語り唱う有様を次のように描写している。「妖姫は未だ石梢の裾を著けず、自ら遣う 家は錦水の溝に連なると。檀口(美人のロ)は解き知る 千載の事、清詞は嘆ずるに堪えたり 九秋の文。翠眉聾むる処 楚辺の月、画巻(王昭君出塞234
の絵巻)開く時 塞外の雲」。惜しいことに、これら民間の芸術家たちの姓名は、みな埋没してしまって分からない。
音楽と歌舞
古来から儀礼として重視されていた音楽と舞踊であったが、外来音楽と楽器の流入により、相当な発展をとげた。唐代には娯楽性も向上し、楽器の種類も大幅に増加した。合奏も行われ、宮廷では大規模な楽団による演奏が度々行われた。
初唐では九寺の一つである太常寺が舞楽を司る中心となり、宮廷舞楽のうちの雅楽を取り扱った。714年に「梨園」が設置され、300人の楽工が梨園弟子になり、後に宮女も加えられた。教坊は内教坊か初唐から置かれていた。この上、玄宗期に雅楽と区分された俗楽や胡楽、散楽を扱うことを目的とした左右教坊が増設された。胡楽は西域を中心とした外来音楽で、唐代の宮廷舞楽の中心であった十部楽のうちの大半を占めた。
宮廷音楽で歌われる歌の歌詞は唐詩が採用された。民間にも唐詩を歌詞にし、音楽にあわせて歌うものが現れ、晩唐には音楽にあわせるために書かれた詞を作られた。また、「闘歌」という歌の上手を競わせる遊びも存在していた。
舞踊は宮廷や貴族の酒宴ばかりでなく、民間の酒場や行事でも頻繁に行われた。外国から様々な舞踊が伝えられ、その種類も大きく増加した。様々な階層のものが舞踊を好み、楊貴妃や安禄山は胡旋舞の名手であったと伝えられる。
舞踊は、ゆったりした動きの踊りを「軟舞」、テンポが速い激しい踊りを「健舞」と分けられた。「胡旋舞」や「胡騰舞」は健舞に含まれた。伝統舞踊に外国からの舞踏が加わっていき発展していった。
唐代の宮廷では、楽団の演奏にあわせて大勢が舞踊を行うことで多かった。また、「字舞」と呼ばれる音楽とともに踊り、身体を翻す瞬間に衣の色を換え、その後に地に伏して全員で字の形を描くという集団舞踏も存在し、多い時は百人単位で行われた。
唐代の皇帝の中でも、玄宗が特に音楽がすぐれており、外国の音楽を取り入れた「霓裳羽衣の曲」を作曲したとされる。この曲とともに、楊貴妃が得意とした「霓裳羽衣の舞」が行われ、宮人が数百人で舞うこともあった。
安史の乱以後は、戦乱や、梨園の廃止、教坊の縮小とともに、楽工や妓女は地方に流れ、音楽や舞踊の普及は進んでいくことになった