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花間集 巻三五首 牛嶠

花間集 訳注解説 (170)回目牛給事嶠五首《 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8588

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 170)回目牛給事嶠五首《 【字解集】》  

 

 

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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注

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花間集 訳注解説 (170)回目牛給事嶠五首《 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8588 (04/24)

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牛給事嶠 柳枝五首《【字解集】》 

 

 

 

 

 

 

花間集 巻三

 

 

 

 

 

牛嶠 花間集 巻三 柳枝五首

柳枝五首其一

解凍風來末上青,解垂羅袖拜卿卿。無端裊娜臨官路,舞送行人過一生。

 其二

王宮裡色偏深,一簇纖條萬縷金。不憤錢塘蘇小小,引郎松下結同心。

 其三

橋北橋南千萬條,恨伊張緒不相饒。金羈白馬臨風望,認得楊家靜婉腰。

 其四

狂雪隨風撲馬飛,惹煙無力被春欺。莫交移入靈和殿,宮女三千又妬伊。

 其五

裊翠籠煙拂暖波,舞裙新染麴塵羅。章華臺畔隋堤上,傍得春風爾許多。

花間集 巻四

女冠子四首 夢江南二首 感恩多二首

應天長二首 更漏子三首 望江怨一首

菩薩蠻七首 酒泉子一首 定西番一首

玉樓春一首 西溪子一首 江城子二首





紅葉002
 

5 牛嶠(生卒年未詳、)字は松脚、また二子虻峰という。院讐甘粛)の人。唐宰相牛僧指の子孫にあたるという。乾符五年(878)の進士。唐朝に仕えて、拾遺・補闕・校書即の官を歴任した。王建が節度使となって蜀(四川)を鎮めたとき、闢されて判官となった。

王建が蜀国を建ててから、蜀に仕えて給事中の官を拝した。よって牛給事とよばれている。博学で文学をよくし、詩歌においてはとくに名があらわれていた。ひそかに李賀(長吉)の歌詩を慕って、筆をとればただちにその詩風にならうことが多かったといぅ。詞はとくにその長ずるところで、女冠子詞の「繍帯芙蓉帳、金紋芍薬花」とか、菩薩蛮詞の「山月照山花、夢回鐙影斜」などはかれの佳句として知られていたといぅ。いわゆる花間沢とよばれる一派のなかで、況庭箔の詞風をうけてその辞句の美しきや情味の深いことでとくにすぐれた詞人である。集三十巻歌詩三巻があったというが今わずかに一部分が伝わるだけである。詞は花間集に三十二首を収めている。

柳枝五首其一

柳枝

1. (後宮の池塘の柳は、春に芽吹いてから行き交う人を誘ってくる、毎年行き交う人にそうしていて、行き交う宮人の生涯を見届けている。)

2.【解説】漢の鐃歌鼓吹曲で、唐の教坊曲。柳を詠い込んで、唐の長安・洛陽の民歌として作ったものからはじまり、後宮の池塘の柳を詠うことで、宮女の一生、女性の一生を詠うものと広げて行っている。。七言絶句の形式をした例外的な填詞。七言絶句形式や七言四句体をした填詞には他に『採蓮子』『陽関曲』『浪淘沙(二十八字体)』『八拍蠻』『江南春』『阿那曲』『欸乃曲』『水調歌』『清平調』などがあるが、それぞれ七言絶句体と平仄や押韻が異なることによって、曲調も当然ながら異なっている。

 

3.【構成】唐教坊の曲名。単調と双調がある。花間集には二十四首所収(異名の「柳枝」九首を含む)皇甫松の詩は二首で、単調二十八字四句三平韻で、⑦⑦7⑦の絶句詞形をとる。

柳枝五首其一

解凍風來末上,解垂羅袖拜卿

無端裊娜臨官路,舞送行人過一

 

4. 解凍 樹氷が溶けおちる。とける。古代にこの語を使っていない。落ちる。悟る。とおす。よくす。言い訳。解き明かし。悟り。楽章の一節。文体の名。・・・ゆるむ。明·王志堅《表異録》卷二「正月解凍水,二月白蘋水。・・・」

5. 末上青 柳の梢の先に芽吹き始めたことをいう。少女から大人になることを示唆する。末は木梢、上は梢のあたり、全体的に、青は芽吹いてきたこと。 歐陽脩 

宋玉在《風賦》中寫道: “夫風生於地,起於青萍之末,

6. 解垂 もう少しで解衣しそうなこと。もうそろそろ脱衣します。垂はまさに~しようとする。

7. 卿卿 妻が夫を呼ぶ称。閨褥での言葉。南朝宋·劉義慶《世新語·惑溺》:“親卿愛卿,是以卿卿,我不卿卿,誰當卿卿?”

 

8. 無端 末端がない。何処までも終わりがないほど続く。

9. 裊娜 嫋娜【じょうだ】 しなやかなさま。なよなよしたさま。

10. 官路 朝廷の御門に通づる大道。

11. 唐教坊の曲名。単調と双調がある。花間集には二十四首所収(異名の「楊柳枝」十五首を含む)単調二十八字四句三平韻で、⑦⑦7⑦の詞形をとる。

折楊柳が基本にあって、男の楊と女の柳を折り絡ませリーフを造り、出征する男の健康を願うものであるが、それが女の柳の枝だけであるというところに作者の意図を感じるものである。

柳枝五首其二

12. (館娃宮跡は春景色に変わってきた別れを意味する柳は、此処でも宮女の物語をみとどけている、錢塘の蘇小小の門前の柳のもとで「結同心」で別れたが、一途な思いは、「蘇小小の墓」の松の下にまちがいなく結ばれているだろうと詠う。)

13. 王宮 姑蘇台。呉王の夫差が西施のために築き遊宴を開いた台。中国江蘇省呉県(現、蘇州市)の南西、姑蘇山上にあった離宮。呉王夫差が越を破って得た美人西施らを住まわせた。・胥台【しょだい。】館娃宮 呉の宮殿の名。西施の居所。・古臺・館娃宮・木涜 姑蘇台と 館娃宮は木涜にある。これは、春秋時代、呉の王が越から貢がれた木材を使って西施のために霊岩山に「館娃宮」を建てさせ、紫石山に姑蘇台を建てさせた際、工事が非常に大規模になって材木を集めるのに3年かかり、水路が木で埋め尽くされたことから「木涜」という地名で呼ばれるようになったという。蘇州市から西に5キロ、太湖に隣接し、霊岩山のふもとに位置する。池が無数にあることから、堤防強化の植樹の柳の緑が目立ち、この詩の「裡色偏深」孫少監光憲、花間集巻八40の思越人二首 其一七句の「橫淥水」という表現につながる。

孫少監光憲       花間集巻八40 思越人二首 其一

           古臺平,芳艸遠,館娃宮外春深。

           翠黛空留千載恨,教人何處相尋。

           綺羅無復當時事,露花點滴香淚。

           惆悵遙天橫淥水,鴛鴦對對飛起。

14. 一簇 一叢,一群。草木が群れて茂っていること。

15. 纖條 繊細な枝。溫庭筠の表現では、毵毵 毛や柳の枝が細長く垂れ下がるさま。毛の長いさま。毛の長くふさふさとしたさま。 

細々と連なる糸筋。「一縷」細く、途切れずに続くさま。こまごまとしたさま。「縷言・縷述・縷説・縷陳・縷縷」ぼろ。「襤縷(らんる)

・萬條金線 極めてたくさんの枝の本数。新芽が金色に輝いているシダレヤナギの枝のこと。 

16. 錢塘蘇小小 (479年-約502年)中国南北朝的南斉時期,銭塘の著名な歌妓であった,蘇小小には玉台新詠み「西陵歌」

妾乘油壁車,郞乘靑踪馬。
何處結同心、西陵松柏下。
わたしは、赤い色をした轎に乗り。貴男は、あし毛の馬に乗っている。
どこで、契りを交わしましょうか。西陵の松柏の下で(契りましょう)。
(西陵歌)
〔わたくし〕は 油壁の車に乘り,郞〔あなた〕は 靑の馬に 乘る。
何處【いづこ】にか 同心を 結ばん、西陵の 松柏の下【もと】
妾乘油壁車、郞乘靑馬。
わたしは、赤い色をした轎に乗り。貴男は、あし毛の馬に乗っている。 
・妾 わたし。わたしめ。女性の謙譲を表す一人称。 ・乘 のる。 ・油壁車 赤い色をした漆塗りの轎。駕籠。 ・郞 貴男。 ・靑馬 葦毛の馬。青、白の毛の混じった馬。
何處結同心、西陵松柏下。
どこで、契りを交わしましょうか。西陵の松柏の下で(契りましょう)。 
・何處 どこで。 ・結同心 男女が契りを交わす。・西陵:地名。現・杭州の銭塘江の東の蕭山市。 ・松柏下:松や柏(はく。コノテガシワ)の繁っている木の下。松柏は、常緑樹で、変わらぬ誓いともとれ、また、墓場の樹木でもあり、偕老同穴の誓いともとれる。
南斉(南齊)時代、謝朓と同時期、銭塘の名妓。才色兼備の誉れが高かった。現・浙江省杭州市、「銭塘」のこと。唐代に「唐」字を避けて「錢唐」を「銭塘」とした。白楽天、杜牧、羅隱も詩の中に詠う。
後世、蘇小小については、
白居易 『楊柳枝』其五
蘇州
楊柳任君誇,更有錢塘勝館娃。
若解多情尋
小小綠楊深處是蘇家。
白居易 『楊柳枝』其六
蘇家小女舊知名,楊柳風前別有情。
剥條盤作銀環樣,卷葉吹爲玉笛聲。
白居易 『餘杭形勝』
餘杭形勝四方無,州傍靑山縣枕湖。
遶郭荷花三十里,拂城松樹一千株。
夢兒亭古傳
名謝,敎妓樓新道姓蘇
獨有使君年太老,風光不稱白髭鬚。
杜牧 『自宣城赴官上京』
瀟灑江湖十過秋,酒杯無日不淹留。
謝公城畔溪驚夢,
蘇小門前柳拂頭。
千里雲山何處好,幾人襟韻一生休。
塵冠挂卻知閒事,終擬蹉訪舊遊。
溫庭筠 楊柳枝八首其三
蘇小門前柳萬條,金線拂平橋。
黄鶯不語東風起,深閉朱門伴細腰。
楊柳枝 (之一) 温庭筠  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-57-10-# 花間集 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1844


五代・梁・羅隱 『江南行』
江煙雨蛟軟,漠漠小山眉黛淺。
水國多愁又有情,夜槽壓酒銀船滿。
細絲搖柳凝曉空,呉王臺春夢中。
鴛鴦喚不起,平鋪綠水眠東風。
西陵路邊月悄悄,油碧輕車
蘇小小
牛嶠 『楊柳枝八首之一』
呉王宮裏色偏深,一簇纖條萬縷金。
不憤錢塘
蘇小小,引郎松下結同心。

李賀《蘇小小の墓》登場する蘇小小は、死んでもなお想い人を待ち続ける哀れな亡霊となって描き出されている。詩自体はあくまで美しく幻想的だが、昏く重い。この幻想と怪奇、耽美と死こそが李賀が昏い情熱を傾けたテーマであった。
と、多くの作品が作られている。
○引郎 貴男と一緒に行く。男を先導してゆく。

松下 蘇小小『西陵歌』「何處結同心、西陵松柏下。」にもとづく。
現在、杭州西湖畔(西北)に墳墓 がある。

○結同心 同心結を結うこと。連環回文様式の絶対にほどけない結び方。また、同心結は、(男女の)ちぎりを結ぶことと。錢唐 蘇小(蘇小小)『西陵歌』「妾乘油壁車,郞乘靑踪馬。何處結同心、西陵松柏下。」(妾(わたくし)は 油壁の車に乘り,郞(あなた)は 靑の馬に 乘る。何處(いづこ)にか 同心を 結ばん、西陵の 松柏の下(もと)。)とみえる。蘇小小『西陵歌』ここでは、タペストリーのように寝牀の垂れ幕の中心にぶら下げ飾るということである。男女が契りを交わす。花間集では以下の詩に見える。

溫庭筠《巻一18       更漏子六首其四》「垂翠幕,結同心,待郎燻繡衾。」

韋莊《巻二47清平樂四首》「羅帶悔結同心,獨凭朱欄思深。」

牛嶠《巻三47 柳枝五首 其二》「不憤錢塘蘇小小,引郎松下結同心。」

牛嶠《巻四20菩薩蠻七首》「寒天欲曙,猶結同心苣。」

毛文錫《巻五11中興樂》「豆花繁煙豔深,丁香軟結同心。」

 

蘇小小の先祖は、かつて東晋の官吏であり、後に、蘇家は落ちぶれて銭塘に移った。

先祖から受け緒いだ財産で商売し、そこの裕福な商人となった。蘇家には女の子蘇小小ひとりしかおらず、両親から非常に可愛がられていた。体が弱々しくて小さいので、小小という名前を付けられた。蘇小小が十五歳の時、両親が亡くなった。仕方なく財産を換金して、乳母賈氏と一緒に城の西にある西冷橋のほとりに引越した。

彼女たちは松柏の林の中にある小さな別荘に住み、貯金で生活を維持し、美しい自然の中で楽しく日々を送っていた。少年たちは彼女の美しさに心を惹かれ、いつも彼女の馬車の周りにたむろしていた。両親からの束縛もなく、蘇小小は文人たちとの付き合いを楽しみ、自宅ではいつも詩の会を開いたりしていた。家の前は、いつも馬車や人で賑わい、蘇小小は銭塘の名妓になった。

ある日、蘇小小が外で遊んでいた時、一人のハンサムな青年・阮籍と出会った。二人は一目惚れとなり、阮籍は蘇小小の家を訪ね、その夜、彼女と一夜を明かした。その後二人は、一刻も離れることがなかった。毎日、景勝地に遊ぶというふうであった。しかし阮籍の父は、息子が銭塘の名妓といい加減に過ごしているという話を聞いて大いに腹立ち、彼を無理に巡業に帰らせた。蘇小小は、毎日愛人の帰りを待ったが、阮籍が戻ってくることはなかった。結局、蘇小小は病気で倒れてしまった。幸い蘇小小は、かたくなな性格の人ではなかった。また他の魅力的な若者が訪ねて来たこともあって、だんだん元のにぎやかな生活に戻った。

ある晴れた秋の日、湖のほとりで、彼女は阮籍と大変よく似た男性に出会った。身なりが質素で、表情はと見れば、すっかり気落ちしている。名を尋ねてみると鮑仁という。科挙の試験を受けるため都に赴こうとしたが、旅費が足りなくなったらしい。蘇小小は、この人が気位の高い人であり、必ず受かると思って鮑仁に旅費を与えた。鮑仁は大いに感動し再び大望雄志を胸に都に向かった。

当時、上江観察使の孟浪は、公用で銭塘に来ていた。官吏である身分で蘇小小の家を訪ねるのは不便なので、自宅に蘇小小を招待しようと何度も誘った結果、やっと彼女を迎えることができた。孟浪は意地悪をしようとして、庭の一本の梅を指し彼女に詩を吟じさせた。蘇小小はゆっくりと「梅花虫傲骨、怎敢敵春寒?若更分紅白、環須青眼看!」と吟じた。孟浪は敬服した。

ところが、美人には薄命が多い。蘇小小はその次の春、病気で亡くなった。ちょうどその時、鮑仁はすでに殿試に合格しており、滑州の長官に任命された。赴任の途中、蘇小小の所に立ち寄ったが、彼女の葬式には間に合った。鮑仁は、棺おけのわきで大声で位いた。そして彼女の墓の前に「銭塘蘇小小の墓」という碑を立てた。

 

 

 

 

 

 

 

花間集 教坊曲 『楊柳枝』二十四首

 

 

溫助教庭筠(温庭筠)

巻一

楊柳枝八首之一

館娃宮外鄴城西,

 

 

巻一

楊柳枝八首之二

宜春苑外最長條,

 

 

巻一

楊柳枝八首之三

金縷毿毿碧瓦溝,

 

 

巻一

楊柳枝八首之四

御柳如絲映九重,

 

 

巻一

楊柳枝八首之五

織錦機邊鶯語頻,

 

 

巻一

楊柳枝八首之六

蘇小門前柳萬條,

 

 

巻一

楊柳枝八首之七

牆東御路傍,

 

 

巻一

楊柳枝八首之八

兩兩黃鸝色似金,

 

 

皇甫先輩松(皇甫松)

巻二

柳枝二首其一

春入行宮映翠微

 

 

巻二

楊柳枝二首其二

爛熳春歸水國時

 

 

牛給事嶠(牛嶠)

巻三

柳枝五首其一

解凍風來末上青,

 

 

巻三

柳枝五首其二

橋北橋南千萬條,

 

 

巻三

柳枝五首其三

狂雪隨風撲馬飛,

 

 

巻三

柳枝五首其四

王宮裡色偏深,

 

 

巻三

柳枝五首其五

裊翠籠煙拂暖波,

 

 

張舍人泌(張泌)

巻四

柳枝一首

膩粉瓊粧透碧紗,

 

 

和學士凝(和凝)

巻六

柳枝三首  其一

軟碧瑤煙似送人,

 

 

巻六

柳枝三首  其二

瑟瑟羅裙金縷腰,

 

 

巻六

柳枝三首 其三

鵲橋初就咽銀河,

 

 

顧太尉(顧

巻七

楊柳枝一首 顧夐

秋夜香閨思寂寥,

 

 

孫少監光憲(孫光憲)

巻八

陽柳枝四首 其一

閶門風暖落花乾

 

 

巻八

陽柳枝四首 其二

有池有榭即濛濛,

 

 

巻八

楊柳枝四首其三

根柢雖然傍濁河,

 

 

巻八

楊柳枝四首其四

萬株枯槁怨亡隋,

 

 

 

 

 

 

 

17.(旅立つ人に折楊柳で無事を祈るがかなえられない人からは恨みを持たれるが、細腰、柳腰の美女にはどんな英雄であっても、それだけでなく誰もがその前ではおとなしくなるものであると詠う)

 

18.【構成】唐教坊の曲名。単調と双調がある。花間集には二十四首所収(異名の「楊柳枝」十五首を含む)単調二十八字四句三平韻で、⑦⑦7⑦の詞形をとる。

橋北橋南千萬  恨伊張緒不相
金羈白馬臨風望  認得楊家靜婉

  
  

 

19. 柳枝五首

折楊柳が基本にあって、男の楊と女の柳を折り絡ませリーフを造り、出征する男の健康・無事を願うものであるが、牛嶠は「別離」を身と溶けた柳の目線で客観的に史実・故事について、しかも「柳」とあることで、「別離」にたいして女性側からのの目線ということになる。

楊柳枝:これは其五。白居易が始めた歌曲様式。本来は漢の鐃歌鼓吹曲で、唐の教坊曲。白居易は古い曲名を借りて新たな曲を作った、そのことを宣言した詞。詩の形式は七言絶句体であるが、白居易が新たな曲調を附けたもの。柳を詠い込む唐の都・洛陽の民歌として作っている。やがて、詞牌として数えられる。七言絶句の形式をした例外的な填詞。七言絶句形式や七言四句体をした填詞には他に『採蓮子』『陽関曲』『浪淘沙(二十八字体)』『八拍蠻』『江南春』『阿那曲』『欸乃曲』『水調歌』『清平調』などがある。それぞれ七言絶句体と平仄や押韻が異なる。また、曲調も当然ながら異なりあっている。これら『採蓮子』『陽関曲』『浪淘沙(二十八字体)』『八拍蠻』『江南春』『阿那曲』『欸乃曲』『水調歌』『清平調』の平仄上の差異についてはこちら。七言絶句体で、七言絶句とされないものに『竹枝詞』があるが、それも特別にページを設けている。本サイトでは、基本的に填詞(宋詞)を採りあげている。七言絶句体の填詞は、填詞の発展といった系統樹でみれば幾つかある根の一になる。填詞についての詳しい説明はこちら。

  『楊柳枝』と前出『竹枝詞』との違いを強調してみれば、前者『楊柳枝』は、都・洛陽の民歌となるだけに優雅である。それに対して『竹枝詞』は、表現が直截である。巴渝(現・四川東部)の人情、風土を歌ったもので、鄙びた風情とともに露骨な情愛を謡っていることである。相似点は、どちらも典故や格調を気にせず、近体七言絶句よりも気楽に作られていることである。

楊柳枝 其五  白居易

蘇州楊柳任君  更有錢塘勝館
若解多情尋小小  綠楊深處是蘇

  
  

20. 張 緒 (ちょう しょ、422 - 489年)は、南朝宋から斉にかけての官僚・学者。字は思曼。本貫は呉郡呉県。太子中舎人の張寅の子として生まれた。若くして名を知られ、つつましく欲が少なく、叔父の張鏡は「この子は今の楽広である」(南齊書三十三)と評した。揚州に召されて議曹従事となり、秀才に挙げられた。建平王護軍主簿・右軍法曹行参軍・司空主簿・撫軍南中郎二府功曹・尚書倉部郎を歴任した。都令史が郡県に米の上納について訊ねると、張緒はもの寂しい様子で見つめて、包み隠すことがなかった。巴陵王文学・太子洗馬・北中郎参軍・太子中舎人・呉郡中正・車騎従事中郎・中書郎・揚州治中・黄門郎をつとめた。宋の明帝は張緒と会うたびに、そのさっぱりした人柄に感心していたことで出世した。

《晉書、楽広伝》晉(265316)に楽広という人がいた。この人にはいろいろな話がある。まだ八つのころ、道で遊んでいるときに魏の将軍夏候玄にあった。

夏候玄はこの子の人となりが清らかで、怜悧なのを愛して、学問をすすめたという。家が貧しいので、ひとりで書を読んで学んでいた。つつましやかで、でしゃばらず、人の話によく耳をかたむけるたちであった。のちに見出されて秀才にあげられ、官についたが、やはりつつましやかだった。だが、あるとき彼の語るのを聞いた多くの名士たちは、彼の言を評して、「水鏡のごとくあきらかであり、雲ひらけて青空をのぞむようだ」と嘆じたという。この楽広が、河南の長官であった。壁に掛けてある角弓の蛇の画が酒杯の中に映り込み、それを酒杯の中に蛇が居ると勘違いして心を病んだという「杯中の蛇影」という故事。 真実を告げられるとその憂いは忽ち消え去ったという。疑いをもてば、なんでもないことも神経をなやますということに、この語はつかわれるようになった。「杯中の蛇影のみ」といえば、気にやむほどのことはありませんよ、ということになる。 楽広はもの静かで、目の澄んだ人だったらしい。河南省の役所にあらわれるばけものを、狸と見やぶった話などもある。のちには左僕射(左大臣)にまでなったが、事に座して陥れられ、憂いながら死んだ。

21. 不相饒 互いにゆたか有り余るほど多いというわけではない。昼と夜の長さが同じになることをいう。夏、昼が長いと時間の経過が遅いといわれ、冬、夜の時間が長くなると日の進み方が光陰矢の如しになるという。 

杜甫《立秋後題》

日月不相饒、節序昨夜隔。

玄蝉無停号、秋燕已如客。

平生独往願、惆悵年半百。

罷官亦由人、何事拘形役。

(立秋の後に題す)

日月【じつげつ】相饒【あいゆる】さず、節序【せつじょ】   昨夜隔【へだ】たる。

玄蝉【げんせん】 号【さけ】ぶこと停【とど】むる無きも、秋燕【しゅうえん】 已【すで】に客の如し。

平生【へいぜい】 独往【どくおう】の願い、惆悵【ちゅうちょう】す年【とし】半百【はんぴゃく】。

官を罷【や】むるも亦た人に由【よ】る、何事ぞ形役【けいえき】に拘【こう】せられむ。

 日月不相饒、節序昨夜隔。
月と太陽はどちらも豊かでない昼と夜の長さが同じになる立秋になったと思えば、時節は夜が長くなる序章となってきた。

昨夜隔 夜が長くなる。

 

22. 白馬 魏の龐徳将軍をいう。常に白馬に乗っていたことからいう。《魏志龐德傳》「徳常乘白馬、関羽軍謂之白馬将軍、皆憚之。」とある。

23. 楊家 徐陵 《玉臺新詠序》「傳鼓瑟于楊家,得吹簫于秦女。至若寵聞長樂,陳后知而不平」鼓瑟は漢の名門楊()家より伝授され、吹簫は名人秦女(奔玉)よりえとくしたもの。・陳後主(陳叔寶) 《聽箏詩》「秦聲本自楊家解,吳歈那知謝傅憐。」・白居易《長恨歌》「楊家有女初長成,養在深閨人未識。」楊家にむすめがいて、今し方、成長した。奥深い閨内だけで育てられたので、人々は見知らなかった。

24. 靜婉腰 静かにしてうつくしい、しずかに踊る細い腰の妓優。静婉,亦称“静琬、琬”,即古代舞女張琬。

 

 

 

 

 

 

 

 

花間集 尊前集 『竹枝詞』二十四首

 

 

作者

花間集/尊前集

 

初句7字

 

 

劉禹錫

尊前集

竹枝詞十一首其一

白帝城頭春草生

 

 

劉禹錫

尊前集

竹枝詞十一首其二

山桃紅花滿上頭

 

 

劉禹錫

尊前集

竹枝詞十一首其三

江上春來新雨晴

 

 

劉禹錫

尊前集

竹枝詞十一首其四

日出三竿春霧消

 

 

劉禹錫

尊前集

竹枝詞十一首其五

兩岸山花似雪開

 

 

劉禹錫

尊前集

竹枝詞十一首其六

瞿塘嘈嘈十二灘

 

 

劉禹錫

尊前集

竹枝詞十一首其七

巫峽蒼蒼煙雨時

 

 

劉禹錫

尊前集

竹枝詞十一首其八

城西門前艶預堆

 

 

劉禹錫

尊前集

竹枝詞十一首其九

楊柳靑靑江水平

 

 

劉禹錫

尊前集

竹枝詞十一首其十

楚水巴山江雨多

 

 

劉禹錫

尊前集

竹枝詞十一首其十一

山上層層桃李花

 

 

白居易

尊前集

竹枝詞四首其一

瞿塘峽口水煙低

 

 

白居易

尊前集

竹枝詞四首其二

竹枝苦怨怨何人

 

 

白居易

尊前集

竹枝詞四首其三

巴東船舫上巴西

 

 

白居易

尊前集

竹枝詞四首其四

江畔誰家唱竹枝

 

 

皇甫松

尊前集

竹枝詞六首其一

檳榔花發竹枝鷓

 

 

皇甫松

尊前集

竹枝詞六首其二

木棉花盡竹枝茘

 

 

皇甫松

尊前集

竹枝詞六首其三

芙蓉並蔕竹枝一

 

 

皇甫松

尊前集

竹枝詞六首其四

筵中蝋燭竹枝涙

 

 

皇甫松

尊前集

竹枝詞六首其五

斜江風起竹枝動

 

 

皇甫松

尊前集

竹枝詞六首其六

山頭桃花竹枝谷

 

 

孫光憲

巻八

竹枝二首其一

門前春水竹枝白

 

 

孫光憲

巻八

竹枝二首其二

亂繩千結竹枝絆

 

 

 

 

 

 

 

 白馬 楊家

○楊家「楊家将」は、宋の建国期に敵国・遼を相手に勇猛果敢に戦い、宋に一筋の光明を与えてきた将軍・楊業率いる楊一族の物語だ。宋のため、命を惜しまず戦った楊業と七人の息子たちの英雄伝説は中国全土で長く敬愛されている。

楊業の時代

物語は、宋が北漢を攻めるところから始まる。このとき、北漢の武将であった何継業(楊業)・佘賽花らは太祖(趙匡胤)らをさんざん苦戦させる。しかし、結局は、北漢は宋に敗北する。何継業も宋に降るが、このとき太宗により「楊」の姓を賜るとともに、英武帝・劉継元とつながる「継」の字を削除し、以後は「楊業」と名乗ることになる。北漢の武将として宋将をさんざ苦しめたことがのちのちまで尾を引くことになり、楊家軍はいまひとつ宋将らの信頼を得ることができない。ことに潘仁美などは佘賽花に矢傷を負わせられたことで、楊家軍を恨み、たびたび対立する。

宋に降った後、楊業は息子らとともに遼と戦うことになる。激戦の末、息子の大郎、二郎、三郎は戦死、四郎は遼の捕虜となり、五郎は行方不明になる。それでも楊業は戦い続けるが、楊家軍を恨む宋将・潘仁美らの姦計により、勝算のない死地に追い込まれる。そして、援軍を求めてきた七郎は潘仁美により殺害される。ついに力尽きた楊業は自決し、楊家軍も敗北する。

柳枝五首其四

25.(春が来て春景色も移り変わるがそこで頽廃的なことを隠してくれるが、六朝斉の靈和殿の柳は、美男子であった張緒の故事を詠い、いまに柳絮のようにたくさんの宮女は新たに召されたが、そこにはまた、たくさんの嫉妬が生まれると詠う。)

折楊柳が基本にあって、男の楊と女の柳を折り絡ませリーフを造り、出征する男の健康・無事を願うものであるが、牛嶠は「別離」を見届けた柳の目線で、故事と楊について、からめてうたうものである。しかも「柳」とあることで、「別離」にたいして女性側がただ悲しいという目線ではないところがことなるてんである。

 

26. 【構成】唐教坊の曲名。単調と双調がある。花間集には二十四首所収(異名の「楊柳枝」十五首を含む)単調二十八字四句三平韻で、⑦⑦7⑦の詞形をとる。

橋北橋南千萬、恨伊張緒不相饒。
金羈白馬臨風望、認得楊家靜婉腰。


狂雪隨風撲馬,惹煙無力被春

莫交移入靈和殿,宮女三千又妬


 

楊柳枝:これは其五。白居易が始めた歌曲様式。本来は漢の鐃歌鼓吹曲で、唐の教坊曲。白居易は古い曲名を借りて新たな曲を作った、そのことを宣言した詞。詩の形式は七言絶句体であるが、白居易が新たな曲調を附けたもの。柳を詠い込む唐の都・洛陽の民歌として作っている。やがて、詞牌として数えられる。七言絶句の形式をした例外的な填詞。七言絶句形式や七言四句体をした填詞には他に『採蓮子』『陽関曲』『浪淘沙(二十八字体)』『八拍蠻』『江南春』『阿那曲』『欸乃曲』『水調歌』『清平調』などがある。それぞれ七言絶句体と平仄や押韻が異なる。また、曲調も当然ながら異なりあっている。これら『採蓮子』『陽関曲』『浪淘沙(二十八字体)』『八拍蠻』『江南春』『阿那曲』『欸乃曲』『水調歌』『清平調』の平仄上の差異についてはこちら。七言絶句体で、七言絶句とされないものに『竹枝詞』があるが、それも特別にページを設けている。本サイトでは、基本的に填詞(宋詞)を採りあげている。七言絶句体の填詞は、填詞の発展といった系統樹でみれば幾つかある根の一になる。

  『楊柳枝』と前出『竹枝詞』との違いを強調してみれば、前者『楊柳枝』は、都・洛陽の民歌となるだけに優雅である。それに対して『竹枝詞』は、表現が直截である。巴渝(現・四川東部)の人情、風土を歌ったもので、鄙びた風情とともに露骨な情愛を謡っていることである。相似点は、どちらも典故や格調を気にせず、近体七言絶句よりも気楽に作られていることである。

楊柳枝 其五  白居易

蘇州楊柳任君  更有錢塘勝館
若解多情尋小小  綠楊深處是蘇

  
  

27. 狂雪 柳絮が飛ぶのを吹雪のようと比したもの。

28. 撲 うつなぐる打ちたたく。なぐる。

29. 春欺 意思是柳枝纏繞着烟,顯得柔無力,被春風吹得曳不定。被春欺:春風吹柳,柳随風擺,所以説“被春欺”。

30. 莫交移入靈和殿——《南斉書·張緒傳》「緒美風姿,清寡欲,口不言利,但吐納風流,听者忘倦。益州献柳数株于武帝,時芳林苑始成,帝以之植于靈和殿前,崇玩咨嗟曰:“此楊柳風流可愛,似張緒当年時。」(張緒は美風の姿であり,清で寡欲であった,口に利にかんすること言わなかった,但し風流を納めることだけは口にした,だから多くの者に忘れられ飽きられた。益州は柳数株を武帝に献じた,時は芳林苑の建設は始まったころ,武帝箱の柳を靈和殿前にうえた,崇は玩賞し嘆息して曰う「此の楊柳は風流で愛しむ可し,張緒が当年の時に似ている。」ということだった。)

31.靈和殿 靈和殿の柳をいう。南朝斉武帝時 所建殿の名。南斉の文化的な中心は、武帝の第2子である竟陵王蕭子良(460 - 494年)のサロンであった。彼の邸宅である西邸には当時の第一級の文人が集い、その代表的な8名を「竟陵の八友」と呼んでいる。蕭衍もその一人に数えられていた。

32. 宮女三千 唐太宗位之初后の時の女は実に三千人,であった。百年後玄宗のときには侍女は八千人になった。『新唐書』「宦者傳」、「開元、宮嬪はおおよそ四万に至る。」と、玄宗の時の宮女の数を示している。杜甫は、「先帝侍女八千人」といい、白居易も「後宮の佳麗三千人」李百薬は「無用の宮人は数万に達する」といっている。女たちは皇帝の妻妾であり、錦衣を着て山海の珍味を食し、ひとたび呼ばわれば百人の下稗が答える、最も高貴にして最も権勢の高い人々であった。しかし、その運命は逆にまた最も不安定であり、いつでも天国から地獄に堕ち、甚だしい場合には「女禍」(皇帝を色香によ惑わせた罪)の罪名を負わされ犠牲の羊にされた。あるいは、皇帝がひとたび崩御すると、后妃たちの財産、生命、地位はたちまち何の保障もなく、天下の母の鏡と尊ばれながら、じつは常に他人に運命を翻弄され、吉凶も保障し難い境遇にあったのである。宮人は、身を九重(天子の宮殿)に置き、はなはだ高貴であるように見えるが、じつはただの皇帝家の家碑に過ぎず、衣食の心配がなくたいへん幸福のように見えるが、じつは人間性を最も残酷に破壊された人々であった。宮廷においては、少数の地位の高い后妃の他は、万単位で数えられる普通の宮人であり、唐代では「官女」「宮城」「宮脾」などとも呼ばれていた。彼女たちは長安にあった三大皇宮(太極宮、大明宮、興慶宮)と東都洛陽にあった大内(天子の宮殿)と上陽の両宮殿、及び各地の離宮、別館、諸親王府、皇帝陵にそれぞれ配属されていた。

○南朝 439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。建康(江蘇省南京市)に都を置いた東晋・宋・南斉・梁・陳の王朝。西晋末の五胡十六国の乱から隋が統一するまで三百年近く、中国は漢民族による南朝と北方民族による北朝とに分裂した時期が続いた。北朝の質実剛健、南朝の繊細華美という対比で捉えられる。

北魏が華北を統一し、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。同じく建康(建業)に都をおいた三国時代の呉、東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代を六朝時代とも呼ぶ。この時期、江南の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。

 また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、北方遊牧民の部族制を解体し、貴族制に基づく中国的国家に脱皮しつつあった。

李商隠にはほかにも「南朝(地険悠悠天険長)」と題する七言絶句がある。

〇一笑 笑みは美女の蠱惑(こわく)的な表情。周の幽王は寵愛する褒姐が笑ったことがないので、危急を知らせる煙火を燃やして諸侯を集めた。馳せ参じた人々が何事もないのにきょとんとしているのを見て褒姐が初めて「大笑」した。それを喜んでたびたび怪火を焚いたがもはや誰も集まらなくなって滅亡を招いたという話がある(『史記』周本紀)。白居易「長恨歌」にも楊貴妃について「陣を廻らせて一笑すれば百媚生ず」。

○相傾 前漢・李延年は「北方に佳人有り、絶世にして独立す。ひとたび顧みれば人の城を傾け、再び顧みれば人の国を傾く」とうたって、自分の妹を漢の武帝に薦め、妹は李夫人となって寵愛を受けた(『漢書』孝武李夫人伝)。「傾城」「傾国」の語は、歌の本来の意味は、美しい人を見ようとして町中、国中の人が一箇所に集中し、そのために町や国が文字通り傾いてしまうこと。

○荊棘 「荊」も「棘」もとげのある雑木。二字合わせると子音が重なる双声の語となる。呉の忠臣伍子背が呉王夫差に向かって諌めた言葉に、姦臣に囲まれていたら「城郭は丘墟となり、殿には荊棘生ぜん」(『呉越春秋』夫差内伝)とある。都城の荒廃をいうことと、荊は牛李闘争を示し、棘は宦官による宮廷内の執務の横暴、讒言による貶め、数々の暗殺、などを示す。

柳枝五首其五

33.(昔楚王が細腰を好んで、宮殿で柳腰で女たちが躍った、隋堤の柳の新芽は麴塵蜀染められ、揺れる枝はうす絹の裳裾のようであり、そこには女たちがたくさんあつめられたと詠う。)

柳枝五首

折楊柳が基本にあって、男の楊と女の柳を折り絡ませリーフを造り、出征する男の健康・無事を願うものであるが、牛嶠は「別離」を見届けた柳の目線で、故事と楊について、からめてうたうものである。しかも「柳」とあることで、「別離」にたいして女性側がただ悲しいという目線ではないところがことなるてんである。

 

34.【構成】唐教坊の曲名。単調と双調がある。花間集には二十四首所収(異名の「楊柳枝」十五首を含む)単調二十八字四句三平韻で、⑦⑦7⑦の詞形をとる。

柳枝五首其一

解凍風來末上,解垂羅袖拜卿

無端裊娜臨官路,舞送行人過一

柳枝五首其二

王宮裡色偏  一簇纖條萬縷
不憤錢塘蘇小小  引郎松下結同

  
  

柳枝五首其三

橋北橋南千萬、恨伊張緒不相饒。
金羈白馬臨風望、認得楊家靜婉腰。


 

柳枝五首其四

狂雪隨風撲馬,惹煙無力被春

莫交移入靈和殿,宮女三千又妬


 

柳枝五首其五

裊翠籠煙拂暖  舞裙新染麴塵
章華臺畔隋堤上  傍得春風爾許

  
  

 

楊柳枝:これは其五。白居易が始めた歌曲様式。本来は漢の鐃歌鼓吹曲で、唐の教坊曲。白居易は古い曲名を借りて新たな曲を作った、そのことを宣言した詞。詩の形式は七言絶句体であるが、白居易が新たな曲調を附けたもの。柳を詠い込む唐の都・洛陽の民歌として作っている。やがて、詞牌として数えられる。七言絶句の形式をした例外的な填詞。七言絶句形式や七言四句体をした填詞には他に『採蓮子』『陽関曲』『浪淘沙(二十八字体)』『八拍蠻』『江南春』『阿那曲』『欸乃曲』『水調歌』『清平調』などがある。それぞれ七言絶句体と平仄や押韻が異なる。また、曲調も当然ながら異なりあっている。これら『採蓮子』『陽関曲』『浪淘沙(二十八字体)』『八拍蠻』『江南春』『阿那曲』『欸乃曲』『水調歌』『清平調』の平仄上の差異についてはこちら。七言絶句体で、七言絶句とされないものに『竹枝詞』があるが、それも特別にページを設けている。本サイトでは、基本的に填詞(宋詞)を採りあげている。七言絶句体の填詞は、填詞の発展といった系統樹でみれば幾つかある根の一になる。

  『楊柳枝』と前出『竹枝詞』との違いを強調してみれば、前者『楊柳枝』は、都・洛陽の民歌となるだけに優雅である。それに対して『竹枝詞』は、表現が直截である。巴渝(現・四川東部)の人情、風土を歌ったもので、鄙びた風情とともに露骨な情愛を謡っていることである。相似点は、どちらも典故や格調を気にせず、近体七言絶句よりも気楽に作られていることである。

楊柳枝 其五  白居易

蘇州楊柳任君  更有錢塘勝館
若解多情尋小小  綠楊深處是蘇

  
  

 

35. 裊翠 翡翠の髪飾りが妖艶に揺れている。裊:しなやか。衣;柔軟美好。「裊娜」「裊裊婷婷」。漢の王延壽《王孫賦》「緣百仞之高木,攀窈裊之長枝。」

牛嶠《巻四22酒泉子》「鳳釵低裊翠鬟,落梅粧。」その若い宮妓のみどりの黒髪のもとどりの上には、簪が低くしなやかに揺らめいていた。宋武帝の壽陽公主が梅花の散る時 五出の花となった事のように、行楽で梅の下の筵の上で情を交わした時に宮女は梅の花で化粧をし、飾っていたことを思い出した。

魏承班《巻八50 菩薩蠻二首 其二》「聲戰覷人嬌,雲鬟裊翠翹。」おおらかに声を震わせて独唱して、艶めかしき眼差し投げかける、翡翠の髪飾りに黄金の簪が黒髪に揺れる。

裊裊:①風が気を揺るがすさま。②声が続いて絶えないさま。③しなやかに纏いつくさま。④曲折するさま。孫光憲《巻七19 應天長》「垂交帶,盤鸚鵡,裊裊翠翹移玉步。」

36. 籠煙 香炉竹かごで組んだところで籠って一筋の煙が出て途切れないようにするため煙をいったんこもらせるさま。牛嶠《巻四17 菩薩蠻七首其三》「玉釵風動春幡急,交枝紅杏籠煙泣。」奇麗に輝く簪が蚊座に揺れていて、春の季節の旗が大きくなびく。杏の花がいっぱいの木の枝が交差していて、これからもっと草木が生繁し、匂いがひろがり、春の緑の煙霞に包まれた風景の中で涙するのです。

・籠煙 後宮の宮殿の閨房で香を焚き続け、寵愛を待つだけの生活。歓楽街の周囲に柳が植えてあり、冬の間に枝の実のようすを籠と表現する。それが、これから草木が生繁る頃がすなわち匂うがごとき春の緑の煙霞に包まれた風景なのだろう。そこには陰陽判じがたい中に宿る生命の気配を感じることができる。*春になってもちょうあいをうしなったまま、簪を揺らした風が春の旗を揺らし、杏の花籠

37. 舞裙 牛嶠《巻四15 菩薩蠻七首其一》「舞裙香暖金泥鳳,畫梁語鷰驚殘夢。」舞いに着るのスカートは香しく金泥の鳳模様がきれい、塗りの梁の上の燕が鳴き交わすと名残りの夢は破られる思いになってしまう。    

38. 新染 後宮では妃嬪は季節ごとに新しく染めた羅衣を身につける。

39. 麴塵【きくじん】① 色の名。ほとんど灰色みを帯びた黄緑色。古くは刈安(かりやす)と紫根による染め色,近世は黄と青の糸による織り色をいう。天皇の略式の袍(ほう)の色で禁色(きんじき)の一。青色。山鳩。きじん。  「麴塵の袍」天皇が略儀に着用した麴塵色の袍。桐・竹・鳳凰(ほうおう)・麒麟(きりん)を組み合わせて一単位とした文様が用いられた。六位の蔵人(くろうど)が拝領して着用することもあった。青色の袍。

40. 章華臺 後漢書「章華台,又稱章華宮,是楚靈王六年(公元前535年)修建的離宮。」(章華台 又た、章華宮と稱す。是の宮は楚の靈王六年(前535年)修建された離宮をいう。)「楚靈王特喜歡細腰女子在宮内輕歌曼舞,不少宮女爲求媚於王,少食忍餓,以求細腰,章華宮又有“細腰宮”之稱。後章華宮於兵亂。」(楚の靈王は特に喜歡するための細腰、女子が宮内に輕歌曼舞する在り,少なからず宮女は王に於て求媚を爲,食を少くし餓を忍ぶ,以て細腰を求めらる,章華宮 又た “細腰宮”と之れを稱す有り。後に章華宮 兵亂をす。)

41. 隋堤 隋の煬帝が、黄河と長江を結ぶために開いた運河の堤。煬帝はこの堤に柳を植えさせた。煬帝は暴君として描写され、その業績は否定的に評価される傾向にある。大運河に関しては女性までも動員した急工事でこれを開鑿し、開通のデモンストレーションとして自ら龍船に乗って行幸し、若い宮女に舟をひかせたたために、「自らの奢侈のために多数の人民を徴発した」などと後世に評されることになる。

韋莊『河傳三首』河傳其一

何處?煙雨,隋堤春暮,柳色蔥籠。

畫橈金縷,翠旗高颭香風,水光融。

青娥殿春妝媚,輕雲裏,綽約司花妓。

江都宮闕,清淮月映迷樓,古今愁。

42. 爾許多 阿弥陀様のような女妓をいう。菩薩蠻とか、女冠子、河瀆神、河傳という語と同じように使う。

今時の同生知識等、爾許多の人、恐畏らくは命は石火に同じ、久しく照らすこと期し難し。識性は無常なり、逝くこと風燭に踰えたり。故に人人同じく願じて共に往生の業を結ぶ。各々『彌陀經』を誦すること爾許萬徧、彌陀の名を念ずること爾許萬徧。又某の功德等を造ること、普く皆周備す。故に某月日に於て、院宇を莊嚴し、道場を瑩飾し、僧尼を奉請して、宿宵行道す。又廚皇の百味の種種の甘香を以て、佛及以び僧徒に奉りて、同心に慶喜す。又願はくは持戒・誦經・念佛・行道し、及び諸の功德等を造らん。

 

毛文錫《巻五19 柳含煙四首其一》

隋堤柳,汴河旁。

夾岸綠陰千里,龍舟鳳舸木蘭香,錦帆張。

因夢江南春景好,一路流蘇羽葆。

笙歌未盡起橫流,鏁春愁。

(柳含煙四首 其の一)

隋堤の柳,汴河の旁。

夾岸の綠陰千里なり,龍舟 鳳舸 木蘭の香,錦帆 張る。

夢に因って江南 春景好なり,一路 流蘇して 羽葆す。

笙歌 未だ盡く起きて橫流し,春愁を鏁す。

(運河を利用した春の行楽の船が行き交う。春景色に色を添えて妓女たちが演奏し、歌い進む。)

煬帝が作った運河の堤に柳がある、そこから続く汴河通済渠の運河の側にも柳がつづく。

それは両岸に緑の影を成して、千里先まで続く。またそこには竜のフナ飾りの糞絵が行き交い、鳳凰の絵が描かれた舟が、蘭の木で作られ香りを遺してすすむ。そして、その船には錦の帆を張っている。

長安や洛陽から、夢を抱いて、江南地方の春の景色を楽しみになる。一筋の水路の流れこの地域を結ぶことでそれぞれの地域を守り、蘇らせる。

笙の笛に歌声を乗せた船は進み、未だにこの流れに横から入り込む、ことごとく波を起こしたりすることはない。この中においては春の愁いのこころを蓋をして、隠してくれる

隋堤 隋を建国した楊堅(文帝)は、この問題を解決するために587年に淮水と長江を結ぶ邗溝(かんこう)を開鑿し、589年に陳を滅ぼして、南北を統一した。

 

604年に二代皇帝煬帝が即位し、翌年より再び大運河の工事が始まる。

 

まず初めに黄河と淮水を結ぶ通済渠(つうせいきょ)が作られ、続いて黄河と天津を結ぶ永済渠(えいせいきょ)、そして長江から杭州へと至る江南河が作られ、河北から浙江へとつながる大運河が完成した。完成は610年のことで、その総延長は2500キロメートルを越える。

 

通済渠の工事には100万人の民衆が動員され、女性までも徴発されて5か月で完成した。これによって、後の人から暴政と非難され、更にこの運河を煬帝自身が竜船(皇帝が乗る船)に乗って遊覧し、煬帝が好んだ江南へと行幸するのに使ったことから、「自らの好みのために民衆を徴発した」などとも言われるようになる。

 

大運河は一から全てを開削したわけではなく、既存の小運河を連結した部分がかなりある。また大運河の建造は南北の統一を確かなものとし、江南の物産を河北にもたらした。永済渠建設の目的は高句麗遠征であった。

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