花間集 訳注解説 (168)回目牛給事嶠五首《巻三49柳枝五首其四》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8576
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2017年4月22日 | の紀頌之5つの校注Blog | ||||
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Ⅳブログ詩集 | 漢・唐・宋詞 | 花間集 訳注解説 (168)回目牛給事嶠五首《巻三49柳枝五首其四》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8576 (04/22) | |||
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花間集 訳注解説 (168)回目牛給事嶠五首《巻三49柳枝五首其四》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8576
(春が来て春景色も移り変わるがそこで頽廃的なことを隠してくれるが、六朝斉の靈和殿の柳は、美男子であった張緒の故事を詠い、いまに柳絮のようにたくさんの宮女は新たに召されたが、そこにはまた、たくさんの嫉妬が生まれると詠う。)
柳絮が花をつけ、やがて飛び始めると吹雪のようになり、春の突風にしたがってとび、馬をたたいてそして飛びかう、やがて、鬱蒼としげると春霞に覆われ、雨靄におおわれるようになると春の景色も柳絮もその魅力わからない、これを「春欺におおわれる」というようになった。「此の楊柳は風流で愛しむべし,張緒が当年の時に似ているから。」といった靈和殿前の柳にさそわれて、六朝斉の宮殿にも春はやってくる、次々と後宮に若い女たちが召されていくけれどそれぞれが柳の枝のように交わってはいけないとされてきた、後宮には宮女三千人といわれ、またここには嫉妬の渦が柳の霞のようにおおわれている。
牛給事嶠(牛嶠)柳枝五首
5 牛嶠(生卒年未詳、)字は松脚、また二子虻峰という。院讐甘粛)の人。唐宰相牛僧指の子孫にあたるという。乾符五年(878)の進士。唐朝に仕えて、拾遺・補闕・校書即の官を歴任した。王建が節度使となって蜀(四川)を鎮めたとき、闢されて判官となった。
王建が蜀国を建ててから、蜀に仕えて給事中の官を拝した。よって牛給事とよばれている。博学で文学をよくし、詩歌においてはとくに名があらわれていた。ひそかに李賀(長吉)の歌詩を慕って、筆をとればただちにその詩風にならうことが多かったといぅ。詞はとくにその長ずるところで、女冠子詞の「繍帯芙蓉帳、金紋芍薬花」とか、菩薩蛮詞の「山月照山花、夢回鐙影斜」などはかれの佳句として知られていたといぅ。いわゆる花間沢とよばれる一派のなかで、況庭箔の詞風をうけてその辞句の美しきや情味の深いことでとくにすぐれた詞人である。集三十巻歌詩三巻があったというが今わずかに一部分が伝わるだけである。詞は花間集に三十二首を収めている。
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| 花間集 巻三 | |
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牛嶠 花間集 巻三 柳枝五首
柳枝五首其一
解凍風來末上青,解垂羅袖拜卿卿。無端裊娜臨官路,舞送行人過一生。
其二
吳王宮裡色偏深,一簇纖條萬縷金。不憤錢塘蘇小小,引郎松下結同心。
其三
橋北橋南千萬條,恨伊張緒不相饒。金羈白馬臨風望,認得楊家靜婉腰。
其四
狂雪隨風撲馬飛,惹煙無力被春欺。莫交移入靈和殿,宮女三千又妬伊。
其五
裊翠籠煙拂暖波,舞裙新染麴塵羅。章華臺畔隋堤上,傍得春風爾許多。
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| 花間集 教坊曲《巻三48柳枝五首其三》薛昭蘊 | |
| 花間集 訳注解説 | |
| 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8570 | |
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柳枝五首其一
(後宮の池塘の柳は、春に芽吹いてから行き交う人を誘ってくる、毎年行き交う人にそうしていて、行き交う宮人の生涯を見届けている。)
解凍風來末上青,解垂羅袖拜卿卿。
正月の解凍水の時期も過ぎて、春風が優しく吹いてくると柳の梢にも青い目が噴出して、春は万物が目覚め成長する、そしてそこを通る人に、「もうそろそろ薄絹の上衣を脱衣しますわよ。早くいらして。」といっているようである。
無端裊娜臨官路,舞送行人過一生。
そして、その柳の並木道の柳の枝葉はしなやかな細い腰の女たちのように、後宮へ続く道にずっと揺れ動くのをやめないし、そして行き交う人の生涯を見続けているのである。
(柳枝五首 其の一)
解凍の 風來りて 末上 青くなり,羅袖を解かんと垂なんとす、「拜卿卿」。
無端 裊娜【じょうだ】にして 官路に臨み,行人を舞い送り 一生を過す。
柳枝五首其二
(館娃宮跡は春景色に変わってきた別れを意味する柳は、此処でも宮女の物語をみとどけている、錢塘の蘇小小の門前の柳のもとで「結同心」で別れたが、一途な思いは、「蘇小小の墓」の松の下にまちがいなく結ばれているだろうと詠う。)
吳王宮裡色偏深,一簇纖條萬縷金。
呉王の夫差が西施のために築き遊宴を開いた館娃宮跡は春景色に変わってきて、そして春も盛り、木涜の塘隄の柳はますます色濃くなっている、そこには一叢と茂っているたくさんの柳枝にはシダレヤナギの新芽が金色に輝いて水面に映っているが、むかしから素足の美女を見届けた柳である。
不憤錢塘蘇小小,引郎松下結同心。
南斉の錢唐の妓女蘇小小の家の門前の柳で別れたが、死んでもなお想い人を待ち続けるから憤慨することなどないのだ、いまは、阮郎と連れ立って西陵の墓にある松の下で「結同心」の契りで結ばれていることだろう。
(柳枝五首其の二)
吳王 宮裡 色偏に深し,一簇 纖條 萬縷の金。
憤せず 錢塘の蘇小小,郎を引いて 松の下の「結同心」。
(改訂版)牛嶠《巻三48 柳枝五首 其三》
柳枝五首其三
(旅立つ人に折楊柳で無事を祈るがかなえられない人からは恨みを持たれるが、細腰、柳腰の美女にはどんな英雄であっても、それだけでなく誰もがその前ではおとなしくなるものであると詠う)
橋北橋南千萬條,恨伊張緒不相饒。
長安㶚水は南北にぬけ、そこにかかる㶚橋から北に向かってずっと、そして橋から南に向かって、その塘陂には楊柳が植えられ、何千本何万本の枝を垂らしている。その枝は別れの時に“折楊柳”として旅立つ人の無事を祈るものだけれど、南朝宋の張緒のように平等にうまく、公平に無事を約束できるものではないので、折楊柳で見送られ、同じように出征して死んだ者からは恨まれるのである。
金羈白馬臨風望,認得楊家靜婉腰。
黄金の轡や手綱の白馬にまたがって威風堂々とした英雄である白馬将軍の龐德将軍、貴公子たちでさえも、柳のようにしずかに踊る細い腰の、妖艶な動きの女性が楊家の娘であることぐらいは、だれもが認識している。
(柳枝五首其の三)
橋の北かた 橋の南かた 千萬條たり,伊を恨む 張緒 相饒【あいゆる】さずを。
金羈 白馬 風望を臨み,楊家 靜なる婉腰を認得す。
《巻三49 柳枝五首 其四》
柳枝五首其四
(春が来て春景色も移り変わるがそこで頽廃的なことを隠してくれるが、六朝斉の靈和殿の柳は、美男子であった張緒の故事を詠い、いまに柳絮のようにたくさんの宮女は新たに召されたが、そこにはまた、たくさんの嫉妬が生まれると詠う。)
狂雪隨風撲馬飛,惹煙無力被春欺。
柳絮が花をつけ、やがて飛び始めると吹雪のようになり、春の突風にしたがってとび、馬をたたいてそして飛びかう、やがて、鬱蒼としげると春霞に覆われ、雨靄におおわれるようになると春の景色も柳絮もその魅力わからない、これを「春欺におおわれる」というようになった。
莫交移入靈和殿,宮女三千又妬伊。
「此の楊柳は風流で愛しむべし,張緒が当年の時に似ているから。」といった靈和殿前の柳にさそわれて、六朝斉の宮殿にも春はやってくる、次々と後宮に若い女たちが召されていくけれどそれぞれが柳の枝のように交わってはいけないとされてきた、後宮には宮女三千人といわれ、またここには嫉妬の渦が柳の霞のようにおおわれている。
(柳枝五首 其の四)
狂雪 隨風 馬を撲し飛ぶ,煙に惹かれば無力にし「春欺」に被る。
靈和殿に移入 交わること莫れ,宮女三千 又た伊に妬む。
《巻三49 柳枝五首 其四》
《柳枝五首其四》 現代語訳と訳註
(本文)
柳枝五首其四
狂雪隨風撲馬飛,惹煙無力被春欺。
莫交移入靈和殿,宮女三千又妬伊。
(下し文)
(柳枝五首 其の四)
狂雪 隨風 馬を撲し飛ぶ,煙に惹かれば無力にし春欺に被る。
靈和殿に移入するを交わること莫れ,宮女三千 又た伊に妬む。
(現代語訳)
(春が来て春景色も移り変わるがそこで頽廃的なことを隠してくれるが、六朝斉の靈和殿の柳は、美男子であった張緒の故事を詠い、いまに柳絮のようにたくさんの宮女は新たに召されたが、そこにはまた、たくさんの嫉妬が生まれると詠う。)
柳絮が花をつけ、やがて飛び始めると吹雪のようになり、春の突風にしたがってとび、馬をたたいてそして飛びかう、やがて、鬱蒼としげると春霞に覆われ、雨靄におおわれるようになると春の景色も柳絮もその魅力わからない、これを「春欺におおわれる」というようになった。
「此の楊柳は風流で愛しむべし,張緒が当年の時に似ているから。」といった靈和殿前の柳にさそわれて、六朝斉の宮殿にも春はやってくる、次々と後宮に若い女たちが召されていくけれどそれぞれが柳の枝のように交わってはいけないとされてきた、後宮には宮女三千人といわれ、またここには嫉妬の渦が柳の霞のようにおおわれている。
(訳注)
牛嶠(改訂版)《巻三49 柳枝五首 其四》
柳枝五首其四
25.(春が来て春景色も移り変わるがそこで頽廃的なことを隠してくれるが、六朝斉の靈和殿の柳は、美男子であった張緒の故事を詠い、いまに柳絮のようにたくさんの宮女は新たに召されたが、そこにはまた、たくさんの嫉妬が生まれると詠う。)
折楊柳が基本にあって、男の楊と女の柳を折り絡ませリーフを造り、出征する男の健康・無事を願うものであるが、牛嶠は「別離」を見届けた柳の目線で、故事と楊について、からめてうたうものである。しかも「柳」とあることで、「別離」にたいして女性側がただ悲しいという目線ではないところがことなるてんである。
26. 【構成】唐教坊の曲名。単調と双調がある。花間集には二十四首所収(異名の「楊柳枝」十五首を含む)単調二十八字四句三平韻で、⑦⑦7⑦の詞形をとる。
橋北橋南千萬條、恨伊張緒不相饒。
金羈白馬臨風望、認得楊家靜婉腰。
○●○○○●○、●○△●△△△。
○○●●△△△、●●○○●●○。
狂雪隨風撲馬飛,惹煙無力被春欺。
莫交移入靈和殿,宮女三千又妬伊。
△●○△●●○、●○○●●○○。
●○○●○△●、○●△○●●○。
楊柳枝:これは其五。白居易が始めた歌曲様式。本来は漢の鐃歌鼓吹曲で、唐の教坊曲。白居易は古い曲名を借りて新たな曲を作った、そのことを宣言した詞。詩の形式は七言絶句体であるが、白居易が新たな曲調を附けたもの。柳を詠い込む唐の都・洛陽の民歌として作っている。やがて、詞牌として数えられる。七言絶句の形式をした例外的な填詞。七言絶句形式や七言四句体をした填詞には他に『採蓮子』『陽関曲』『浪淘沙(二十八字体)』『八拍蠻』『江南春』『阿那曲』『欸乃曲』『水調歌』『清平調』などがある。それぞれ七言絶句体と平仄や押韻が異なる。また、曲調も当然ながら異なりあっている。これら『採蓮子』『陽関曲』『浪淘沙(二十八字体)』『八拍蠻』『江南春』『阿那曲』『欸乃曲』『水調歌』『清平調』の平仄上の差異についてはこちら。七言絶句体で、七言絶句とされないものに『竹枝詞』があるが、それも特別にページを設けている。本サイトでは、基本的に填詞(宋詞)を採りあげている。七言絶句体の填詞は、填詞の発展といった系統樹でみれば幾つかある根の一になる。
『楊柳枝』と前出『竹枝詞』との違いを強調してみれば、前者『楊柳枝』は、都・洛陽の民歌となるだけに優雅である。それに対して『竹枝詞』は、表現が直截である。巴渝(現・四川東部)の人情、風土を歌ったもので、鄙びた風情とともに露骨な情愛を謡っていることである。相似点は、どちらも典故や格調を気にせず、近体七言絶句よりも気楽に作られていることである。
楊柳枝 其五 白居易
蘇州楊柳任君誇 更有錢塘勝館娃
若解多情尋小小 綠楊深處是蘇家
○○○●△○○ △●△○△●○
△●○○○●● ●○△●●○○
狂雪隨風撲馬飛,惹煙無力被春欺。
柳絮が花をつけ、やがて飛び始めると吹雪のようになり、春の突風にしたがってとび、馬をたたいてそして飛びかう、やがて、鬱蒼としげると春霞に覆われ、雨靄におおわれるようになると春の景色も柳絮もその魅力わからない、これを「春欺におおわれる」というようになった。
27. 狂雪 柳絮が飛ぶのを吹雪のようと比喻したもの。
28. 撲 うつなぐる打ちたたく。なぐる。
29. 春欺 意思是柳枝纏繞着烟雾,顯得娇柔無力,被春風吹得摇曳不定。被春欺:春風吹柳,柳随風擺,所以説“被春欺”。
莫交移入靈和殿,宮女三千又妬伊。
「此の楊柳は風流で愛しむべし,張緒が当年の時に似ているから。」といった靈和殿前の柳にさそわれて、六朝斉の宮殿にも春はやってくる、次々と後宮に若い女たちが召されていくけれどそれぞれが柳の枝のように交わってはいけないとされてきた、後宮には宮女三千人といわれ、またここには嫉妬の渦が柳の霞のようにおおわれている。
30. 莫交移入靈和殿——《南斉書·張緒傳》「緒美風姿,清简寡欲,口不言利,但吐納風流,听者忘倦。益州献柳数株于武帝,時芳林苑始成,帝以之植于靈和殿前,崇玩赏咨嗟曰:“此楊柳風流可愛,似張緒当年時。」(張緒は美風の姿であり,清简で寡欲であった,口に利にかんすること言わなかった,但し風流を納めることだけは口にした,だから多くの者に忘れられ飽きられた。益州は柳数株を武帝に献じた,時は芳林苑の建設は始まったころ,武帝箱の柳を靈和殿前にうえた,崇は玩賞し嘆息して曰う「此の楊柳は風流で愛しむ可し,張緒が当年の時に似ている。」ということだった。)
31.・靈和殿 靈和殿の柳をいう。南朝斉武帝時 所建殿の名。南斉の文化的な中心は、武帝の第2子である竟陵王蕭子良(460年 - 494年)のサロンであった。彼の邸宅である西邸には当時の第一級の文人が集い、その代表的な8名を「竟陵の八友」と呼んでいる。蕭衍もその一人に数えられていた。
32. 宮女三千 唐太宗继位之初后宫の時の宫女は実に三千人,であった。百年後玄宗のときには侍女は八千人になった。『新唐書』「宦者傳」、「開元、宮嬪はおおよそ四万に至る。」と、玄宗の時の宮女の数を示している。杜甫は、「先帝侍女八千人」といい、白居易も「後宮の佳麗三千人」李百薬は「無用の宮人は数万に達する」といっている。女たちは皇帝の妻妾であり、錦衣を着て山海の珍味を食し、ひとたび呼ばわれば百人の下稗が答える、最も高貴にして最も権勢の高い人々であった。しかし、その運命は逆にまた最も不安定であり、いつでも天国から地獄に堕ち、甚だしい場合には「女禍」(皇帝を色香によ惑わせた罪)の罪名を負わされ犠牲の羊にされた。あるいは、皇帝がひとたび崩御すると、后妃たちの財産、生命、地位はたちまち何の保障もなく、天下の母の鏡と尊ばれながら、じつは常に他人に運命を翻弄され、吉凶も保障し難い境遇にあったのである。宮人は、身を九重(天子の宮殿)に置き、はなはだ高貴であるように見えるが、じつはただの皇帝家の家碑に過ぎず、衣食の心配がなくたいへん幸福のように見えるが、じつは人間性を最も残酷に破壊された人々であった。宮廷においては、少数の地位の高い后妃の他は、万単位で数えられる普通の宮人であり、唐代では「官女」「宮城」「宮脾」などとも呼ばれていた。彼女たちは長安にあった三大皇宮(太極宮、大明宮、興慶宮)と東都洛陽にあった大内(天子の宮殿)と上陽の両宮殿、及び各地の離宮、別館、諸親王府、皇帝陵にそれぞれ配属されていた。
○南朝 439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。建康(江蘇省南京市)に都を置いた東晋・宋・南斉・梁・陳の王朝。西晋末の五胡十六国の乱から隋が統一するまで三百年近く、中国は漢民族による南朝と北方民族による北朝とに分裂した時期が続いた。北朝の質実剛健、南朝の繊細華美という対比で捉えられる。
北魏が華北を統一し、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。同じく建康(建業)に都をおいた三国時代の呉、東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代を六朝時代とも呼ぶ。この時期、江南の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。
また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、北方遊牧民の部族制を解体し、貴族制に基づく中国的国家に脱皮しつつあった。
李商隠にはほかにも「南朝(地険悠悠天険長)」と題する七言絶句がある。
〇一笑 笑みは美女の蠱惑(こわく)的な表情。周の幽王は寵愛する褒姐が笑ったことがないので、危急を知らせる煙火を燃やして諸侯を集めた。馳せ参じた人々が何事もないのにきょとんとしているのを見て褒姐が初めて「大笑」した。それを喜んでたびたび怪火を焚いたがもはや誰も集まらなくなって滅亡を招いたという話がある(『史記』周本紀)。白居易「長恨歌」にも楊貴妃について「陣を廻らせて一笑すれば百媚生ず」。
○相傾 前漢・李延年は「北方に佳人有り、絶世にして独立す。ひとたび顧みれば人の城を傾け、再び顧みれば人の国を傾く」とうたって、自分の妹を漢の武帝に薦め、妹は李夫人となって寵愛を受けた(『漢書』孝武李夫人伝)。「傾城」「傾国」の語は、歌の本来の意味は、美しい人を見ようとして町中、国中の人が一箇所に集中し、そのために町や国が文字通り傾いてしまうこと。
○荊棘 「荊」も「棘」もとげのある雑木。二字合わせると子音が重なる双声の語となる。呉の忠臣伍子背が呉王夫差に向かって諌めた言葉に、姦臣に囲まれていたら「城郭は丘墟となり、殿には荊棘生ぜん」(『呉越春秋』夫差内伝)とある。都城の荒廃をいうことと、荊は牛李闘争を示し、棘は宦官による宮廷内の執務の横暴、讒言による貶め、数々の暗殺、などを示す。