花間集 訳注解説 (166)回目牛給事嶠五首《巻三47柳枝五首其二》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8564

 166)回目牛給事嶠五首《巻三47柳枝五首其二》

 

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花間集 訳注解説 (166)回目牛給事嶠五首《巻三47柳枝五首其二》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8564

(館娃宮跡は春景色に変わってきた別れを意味する柳は、此処でも宮女の物語をみとどけている、錢塘の蘇小小の門前の柳のもとで「結同心」で別れたが、一途な思いは、「蘇小小の墓」の松の下にまちがいなく結ばれているだろうと詠う。)

呉王の夫差が西施のために築き遊宴を開いた館娃宮跡は春景色に変わってきて、そして春も盛り、木涜の塘隄の柳はますます色濃くなっている、そこには一叢と茂っているたくさんの柳枝にはシダレヤナギの新芽が金色に輝いて水面に映っているが、むかしから素足の美女を見届けた柳である。南斉の錢唐の妓女蘇小小の家の門前の柳で別れたが、死んでもなお想い人を待ち続けるから憤慨することなどないのだ、いまは、阮郎と連れ立って西陵の墓にある松の下で「結同心」の契りで結ばれていることだろう。

 

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 これら何百何千もの宮妓は、どのような生活をしていたのであろうか。宮妓は宮人と共通するところもあったが、しかし全く同じというわけでもなかったようだ。宮人の中から選抜されて宮妓にされたものの大半は、「宮婢」の身分のままであったが、それ以外の民間から選抜されたものの地位と身分は、一般の宮人に比べてやや高かったようである。各時代の記録はきわめて少ないが、ただ玄宗の時代についてだけは、『教坊記』という書物が彼女たちについて専門に書いている。その

記載によると、選ばれて宜春院に入った「内人」は身分が最も高かった。彼女たちが演舞する時には、雲詔院で訓練中の宮人とは衣服や装飾品に高低の区別があり、「内人」には佩魚(五品以上の貴人が身に着けることを許されていた魚形のバヴジ)が許されていたが、宮人には許されなかった。内人は比較的優遇されており、その家庭は「内人家」とよばれ、みな宮廷の外の外教坊に住み、季節ごとに宮廷から糧米が支給されていた。内人の中で皇帝から最も寵愛を受けていた「十家」と称される内人は邸宅を賜り、日常の賞賜もたいへん多かった。また、内人は家族と常時会うことができ、毎月の二目、十六日、あるいは自分の誕生日などに母親や姉妹が訪ねることができた。敬宗の時、皇帝は自ら内人の家族千二百人を招待し、教坊で宴席を設け、褒美として錦を下賜した(『旧唐書』敬宗紀)。

 

彼女たちの生活も比較的自由で、彼女たちに対する宮中の束縛も、それほど厳格ではなかった。年をとり容色が衰えると、宮中から出て家に帰りたいと申し出ることが許されており、宮人のように必ずしも深宮の中で朽ち果てねばならないというわけではなかった。『教坊記』に記されている竿木妓の芭漢女大娘子、許渾の「蕭煉師に贈る」という詩に出てくる内妓の蕭煉師、また『楽府雑録』に記されている宣徽院(宮中の一役所)の門弟楊氏などは、みな年老いて後、宮中から退出した内人であった。張結の「退宮の人」という詩に、「歌喉漸く退えて宮閲を出でんとし、泣いて伶官(宮中の楽官)に話せば 上 帰るを許す」とある。席融の「退宮妓」という詩に、「一且色衰えて故里に帰るも、月明 猶お夢に梁州(曲名)を按く」とあるが、これらはいずれも内人が年老いて後、宮中から退いたことを述べているのである。宮妓が宮中から出た後の境遇は、おしなぺてそれほど良いというわけでもなかったが、宮人に比べれば概して白由の身であったといえよう。以上によって、唐朝の宮廷は宮妓を芸人と見なして待遇し、宮人のような賤民身分とは区別していたこと、少なくとも玄宗の時代には、宮妓たちの待遇はまだ比較的良かったことが分かる。

 もちろんのこと、たとえ宮妓は芸術家であり、原則として芸は献じるが身は献じないということになっていたにせよ、そしてまた一般の宮人に比べれば高い礼遇を受けていたにせよ、所詮彼女たちも皇帝の慰み物にすぎず、その漁色の対象になるものも少なくなかった。玄宗の弟の申王は、冬になると宮妓たちに周囲をすき間なく囲ませて暖をとり、これを「妓囲」とよんだ。別の弟の岐王は寒い時妓女の懐に乎を入れて暖をとった(『開元天宝遺事』巻古。こうした事例からみると、宮妓たちは芸人ではあったが、結局のところ娼妓との区別は、彼女たちが皇室専用の慰み物であるというにすぎない。

 

 宮妓はまたしばしば皇帝の御下賜晶として大臣や貴族に与えられた。唐の各時代に、某人に「女楽」幾祖を下賜するといった記録があるが、この「女楽」とはよく訓練された宮中の楽妓のことである。宮妓たちはその半生を軽やかな音楽とあでやかな舞、笙・蕭などの笛や太鼓の中に費やし、そして少なからざる宮妓がその名を後世に残したのであるが、しかし生前の境遇はといえば、たいへん不幸なものであった。彼女たちはいったん年老いて容色が衰え、婚期を逸すると、宮中を退いてから嫁に行くのは容易でなく、また芸を売るのはさらに難しかった。それでぴじーっに多くの宮妓が尼か女道士となって、孤独と貧寒の中で残生のけりをつけなければならなかった。たとえば、先に述べた宮廷の名妓蕭煉師は寺観の中で一生を終えたし、有名な歌妓永新は当時皇帝から光栄ある寵愛をこうむっていたが、安史の乱の後、宮中を出て一人の読書人に付き従い、その読書人が死んだ後は母とともに長安に帰り、乱世の中で老いて死んだ(『楽府維録』「歌」)。

 長く宮中に住む宮妓の他に、玄宗の時代から長安と洛陽の宮殿にほど近い街区に、左右二つの芸妓養成のための外教坊が設けられた。ここでも多数の芸妓が養成されたが、この芸妓は宮廷の専用に充てられ、宦官によって管理された。彼女たちが宮妓と異なるのは、宮中には住まず、必要な時に呼び出され宮中の御用に供された点にある。記録によれば、右教坊の芸妓の多くは歌がうまく、左教坊のものは舞いが上乎だったという。彼女たちは宮妓と同じように民間から選抜された技芸練達の人々であった。玄宗は彼女たちをたいへん愛したが、しかし「侠遊(民間の遊里)の盛んなるを奪うを欲せず、未だ嘗て置きて宮禁(宮中)に在らしめず」元棋「連昌宮詞」注)と詩人に詠まれた名歌妓の念奴、「凌波曲」(玄宗が夢の中で龍宮の女に頼まれて作ったといわれる詩曲)をよく舞った新農の女芸人謝阿蛮(『明皇雑録に補遺』、『教坊記』に記載されている歌舞妓の顔大娘、鹿三娘、張四娘、裴大娘、それに竿木妓の王大娘、および、杜甫の「公孫大娘が弟子の剣器を舞うを観る行」という詩に出てくる、剣舞の名乎公孫大娘などは、みな長安の外教坊に所属する芸妓であったらしい。というのは、記録によると彼女たちは一般に長く宮中に留まることはなく、行勤は比較的自由だったからである元棋の「連昌宮詞」に、フ高〕力士 伝呼して念奴を見れど、念奴は潜に諸郎を伴って宿す」という句がある。また謝阿蛮も常日頃宮中に出入りしたり、楊国忠(楊貴妃の一族)の邸宅に遊びに行ったりしていた。こうしたことから、彼女たちの行勤や私生活について、宮廷はほとんど束縛しなかったことがわかる。また、彼女たちの中の少なからざる者が、夫、子供、家庭を持ち、家族仝員で教坊の中に住んでいた。宮中に在る内教坊の宮妓は宮中から自由に出人りしたり、男女が混って一緒に住むことは、ほとんど不可能であったから、彼女たちはいずれも外教坊に属す人々であったと思われる。

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花間集 巻三

 

 

 

 

 

牛嶠 花間集 巻三 柳枝五首

柳枝五首其一

解凍風來末上青,解垂羅袖拜卿卿。無端裊娜臨官路,舞送行人過一生。

 其二

王宮裡色偏深,一簇纖條萬縷金。不憤錢塘蘇小小,引郎松下結同心。

 其三

橋北橋南千萬條,恨伊張緒不相饒。金羈白馬臨風望,認得楊家靜婉腰。

 其四

狂雪隨風撲馬飛,惹煙無力被春欺。莫交移入靈和殿,宮女三千又妬伊。

 其五

裊翠籠煙拂暖波,舞裙新染麴塵羅。章華臺畔隋堤上,傍得春風爾許多。

 

 

花間集 教坊曲《巻三47柳枝五首其二》薛昭蘊

 

 

花間集 訳注解説

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8564

 

 

 

 

柳枝五首其二

(館娃宮跡は春景色に変わってきた別れを意味する柳は、此処でも宮女の物語をみとどけている、錢塘の蘇小小の門前の柳のもとで「結同心」で別れたが、一途な思いは、「蘇小小の墓」の松の下にまちがいなく結ばれているだろうと詠う。)

王宮裡色偏深,一簇纖條萬縷金。

呉王の夫差が西施のために築き遊宴を開いた館娃宮跡は春景色に変わってきて、そして春も盛り、木涜の塘隄の柳はますます色濃くなっている、そこには一叢と茂っているたくさんの柳枝にはシダレヤナギの新芽が金色に輝いて水面に映っているが、むかしから素足の美女を見届けた柳である。

不憤錢塘蘇小小,引郎松下結同心。

南斉の錢唐の妓女蘇小小の家の門前の柳で別れたが、死んでもなお想い人を待ち続けるから憤慨することなどないのだ、いまは、阮郎と連れ立って西陵の墓にある松の下で「結同心」の契りで結ばれていることだろう。

 

(柳枝五首其の二)

王 宮裡 色偏に深し,一簇 纖條 萬縷の金。

憤せず 錢塘の蘇小小,郎を引いて 松の下の「結同心」。

 

 

《柳枝五首其二》 現代語訳と訳註

(本文)

柳枝五首其二

王宮裡色偏深,一簇纖條萬縷金。

不憤錢塘蘇小小,引郎松下結同心。

 

(下し文)

(柳枝五首其の二)

王 宮裡 色偏に深し,一簇 纖條 萬縷の金。

憤せず 錢塘の蘇小小,郎を引いて 松の下の「結同心」。

 

(現代語訳)

(館娃宮跡は春景色に変わってきた別れを意味する柳は、此処でも宮女の物語をみとどけている、錢塘の蘇小小の門前の柳のもとで「結同心」で別れたが、一途な思いは、「蘇小小の墓」の松の下にまちがいなく結ばれているだろうと詠う。)

呉王の夫差が西施のために築き遊宴を開いた館娃宮跡は春景色に変わってきて、そして春も盛り、木涜の塘隄の柳はますます色濃くなっている、そこには一叢と茂っているたくさんの柳枝にはシダレヤナギの新芽が金色に輝いて水面に映っているが、むかしから素足の美女を見届けた柳である。

南斉の錢唐の妓女蘇小小の家の門前の柳で別れたが、死んでもなお想い人を待ち続けるから憤慨することなどないのだ、いまは、阮郎と連れ立って西陵の墓にある松の下で「結同心」の契りで結ばれていることだろう。

 

柳枝五首

11. 唐教坊の曲名。単調と双調がある。花間集には二十四首所収(異名の「楊柳枝」十五首を含む)単調二十八字四句三平韻で、⑦⑦7⑦の詞形をとる。

折楊柳が基本にあって、男の楊と女の柳を折り絡ませリーフを造り、出征する男の健康を願うものであるが、それが女の柳の枝だけであるというところに作者の意図を感じるものである。

柳枝五首其二

12. (館娃宮跡は春景色に変わってきた別れを意味する柳は、此処でも宮女の物語をみとどけている、錢塘の蘇小小の門前の柳のもとで「結同心」で別れたが、一途な思いは、「蘇小小の墓」の松の下にまちがいなく結ばれているだろうと詠う。)

 

王宮裡色偏深,一簇纖條萬縷金。

呉王の夫差が西施のために築き遊宴を開いた館娃宮跡は春景色に変わってきて、そして春も盛り、木涜の塘隄の柳はますます色濃くなっている、そこには一叢と茂っているたくさんの柳枝にはシダレヤナギの新芽が金色に輝いて水面に映っているが、むかしから素足の美女を見届けた柳である。

13. 王宮 姑蘇台。呉王の夫差が西施のために築き遊宴を開いた台。中国江蘇省呉県(現、蘇州市)の南西、姑蘇山上にあった離宮。呉王夫差が越を破って得た美人西施らを住まわせた。・胥台【しょだい。】館娃宮 呉の宮殿の名。西施の居所。・古臺・館娃宮・木涜 姑蘇台と 館娃宮は木涜にある。これは、春秋時代、呉の王が越から貢がれた木材を使って西施のために霊岩山に「館娃宮」を建てさせ、紫石山に姑蘇台を建てさせた際、工事が非常に大規模になって材木を集めるのに3年かかり、水路が木で埋め尽くされたことから「木涜」という地名で呼ばれるようになったという。蘇州市から西に5キロ、太湖に隣接し、霊岩山のふもとに位置する。池が無数にあることから、堤防強化の植樹の柳の緑が目立ち、この詩の「裡色偏深」孫少監光憲、花間集巻八40の思越人二首 其一七句の「橫淥水」という表現につながる。

孫少監光憲       花間集巻八40 思越人二首 其一

           古臺平,芳艸遠,館娃宮外春深。

           翠黛空留千載恨,教人何處相尋。

           綺羅無復當時事,露花點滴香淚。

           惆悵遙天橫淥水,鴛鴦對對飛起。

14. 一簇 一叢,一群。草木が群れて茂っていること。

15. 纖條 繊細な枝。溫庭筠の表現では、毵毵 毛や柳の枝が細長く垂れ下がるさま。毛の長いさま。毛の長くふさふさとしたさま。 

細々と連なる糸筋。「一縷」細く、途切れずに続くさま。こまごまとしたさま。「縷言・縷述・縷説・縷陳・縷縷」ぼろ。「襤縷(らんる)

・萬條金線 極めてたくさんの枝の本数。新芽が金色に輝いているシダレヤナギの枝のこと。 

 

不憤錢塘蘇小小,引郎松下結同心。

南斉の錢唐の妓女蘇小小の家の門前の柳で別れたが、死んでもなお想い人を待ち続けるから憤慨することなどないのだ、いまは、阮郎と連れ立って西陵の墓にある松の下で「結同心」の契りで結ばれていることだろう。

16. 錢塘蘇小小 (479年-約502年)中国南北朝的南斉時期,銭塘の著名な歌妓であった,蘇小小には玉台新詠み「西陵歌」

妾乘油壁車,郞乘靑踪馬。
何處結同心、西陵松柏下。
わたしは、赤い色をした轎に乗り。貴男は、あし毛の馬に乗っている。
どこで、契りを交わしましょうか。西陵の松柏の下で(契りましょう)。
(西陵歌)
〔わたくし〕は 油壁の車に乘り,郞〔あなた〕は 靑の馬に 乘る。
何處【いづこ】にか 同心を 結ばん、西陵の 松柏の下【もと】
妾乘油壁車、郞乘靑馬。
わたしは、赤い色をした轎に乗り。貴男は、あし毛の馬に乗っている。 
・妾 わたし。わたしめ。女性の謙譲を表す一人称。 ・乘 のる。 ・油壁車 赤い色をした漆塗りの轎。駕籠。 ・郞 貴男。 ・靑馬 葦毛の馬。青、白の毛の混じった馬。
何處結同心、西陵松柏下。
どこで、契りを交わしましょうか。西陵の松柏の下で(契りましょう)。 
・何處 どこで。 ・結同心 男女が契りを交わす。・西陵:地名。現・杭州の銭塘江の東の蕭山市。 ・松柏下:松や柏(はく。コノテガシワ)の繁っている木の下。松柏は、常緑樹で、変わらぬ誓いともとれ、また、墓場の樹木でもあり、偕老同穴の誓いともとれる。
南斉(南齊)時代、謝朓と同時期、銭塘の名妓。才色兼備の誉れが高かった。現・浙江省杭州市、「銭塘」のこと。唐代に「唐」字を避けて「錢唐」を「銭塘」とした。白楽天、杜牧、羅隱も詩の中に詠う。
後世、蘇小小については、
白居易 『楊柳枝』其五
蘇州
楊柳任君誇,更有錢塘勝館娃。
若解多情尋
小小綠楊深處是蘇家。
白居易 『楊柳枝』其六
蘇家小女舊知名,楊柳風前別有情。
剥條盤作銀環樣,卷葉吹爲玉笛聲。
白居易 『餘杭形勝』
餘杭形勝四方無,州傍靑山縣枕湖。
遶郭荷花三十里,拂城松樹一千株。
夢兒亭古傳
名謝,敎妓樓新道姓蘇
獨有使君年太老,風光不稱白髭鬚。
杜牧 『自宣城赴官上京』
瀟灑江湖十過秋,酒杯無日不淹留。
謝公城畔溪驚夢,
蘇小門前柳拂頭。
千里雲山何處好,幾人襟韻一生休。
塵冠挂卻知閒事,終擬蹉訪舊遊。
溫庭筠 楊柳枝八首其三
蘇小門前柳萬條,金線拂平橋。
黄鶯不語東風起,深閉朱門伴細腰。
楊柳枝 (之一) 温庭筠  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-57-10-# 花間集 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1844


五代・梁・羅隱 『江南行』
江煙雨蛟軟,漠漠小山眉黛淺。
水國多愁又有情,夜槽壓酒銀船滿。
細絲搖柳凝曉空,呉王臺春夢中。
鴛鴦喚不起,平鋪綠水眠東風。
西陵路邊月悄悄,油碧輕車
蘇小小
牛嶠 『楊柳枝八首之一』
呉王宮裏色偏深,一簇纖條萬縷金。
不憤錢塘
蘇小小,引郎松下結同心。

李賀《蘇小小の墓》登場する蘇小小は、死んでもなお想い人を待ち続ける哀れな亡霊となって描き出されている。詩自体はあくまで美しく幻想的だが、昏く重い。この幻想と怪奇、耽美と死こそが李賀が昏い情熱を傾けたテーマであった。
と、多くの作品が作られている。
○引郎 貴男と一緒に行く。男を先導してゆく。

松下 蘇小小『西陵歌』「何處結同心、西陵松柏下。」にもとづく。
現在、杭州西湖畔(西北)に墳墓 がある。

○結同心 同心結を結うこと。連環回文様式の絶対にほどけない結び方。また、同心結は、(男女の)ちぎりを結ぶことと。錢唐 蘇小(蘇小小)『西陵歌』「妾乘油壁車,郞乘靑踪馬。何處結同心、西陵松柏下。」(妾(わたくし)は 油壁の車に乘り,郞(あなた)は 靑の馬に 乘る。何處(いづこ)にか 同心を 結ばん、西陵の 松柏の下(もと)。)とみえる。蘇小小『西陵歌』ここでは、タペストリーのように寝牀の垂れ幕の中心にぶら下げ飾るということである。男女が契りを交わす。花間集では以下の詩に見える。

溫庭筠《巻一18       更漏子六首其四》「垂翠幕,結同心,待郎燻繡衾。」

韋莊《巻二47清平樂四首》「羅帶悔結同心,獨凭朱欄思深。」

牛嶠《巻三47 柳枝五首 其二》「不憤錢塘蘇小小,引郎松下結同心。」

牛嶠《巻四20菩薩蠻七首》「寒天欲曙,猶結同心苣。」

毛文錫《巻五11中興樂》「豆花繁煙豔深,丁香軟結同心。」

 

蘇小小の先祖は、かつて東晋の官吏であり、後に、蘇家は落ちぶれて銭塘に移った。

先祖から受け緒いだ財産で商売し、そこの裕福な商人となった。蘇家には女の子蘇小小ひとりしかおらず、両親から非常に可愛がられていた。体が弱々しくて小さいので、小小という名前を付けられた。蘇小小が十五歳の時、両親が亡くなった。仕方なく財産を換金して、乳母賈氏と一緒に城の西にある西冷橋のほとりに引越した。

彼女たちは松柏の林の中にある小さな別荘に住み、貯金で生活を維持し、美しい自然の中で楽しく日々を送っていた。少年たちは彼女の美しさに心を惹かれ、いつも彼女の馬車の周りにたむろしていた。両親からの束縛もなく、蘇小小は文人たちとの付き合いを楽しみ、自宅ではいつも詩の会を開いたりしていた。家の前は、いつも馬車や人で賑わい、蘇小小は銭塘の名妓になった。

ある日、蘇小小が外で遊んでいた時、一人のハンサムな青年・阮籍と出会った。二人は一目惚れとなり、阮籍は蘇小小の家を訪ね、その夜、彼女と一夜を明かした。その後二人は、一刻も離れることがなかった。毎日、景勝地に遊ぶというふうであった。しかし阮籍の父は、息子が銭塘の名妓といい加減に過ごしているという話を聞いて大いに腹立ち、彼を無理に巡業に帰らせた。蘇小小は、毎日愛人の帰りを待ったが、阮籍が戻ってくることはなかった。結局、蘇小小は病気で倒れてしまった。幸い蘇小小は、かたくなな性格の人ではなかった。また他の魅力的な若者が訪ねて来たこともあって、だんだん元のにぎやかな生活に戻った。

ある晴れた秋の日、湖のほとりで、彼女は阮籍と大変よく似た男性に出会った。身なりが質素で、表情はと見れば、すっかり気落ちしている。名を尋ねてみると鮑仁という。科挙の試験を受けるため都に赴こうとしたが、旅費が足りなくなったらしい。蘇小小は、この人が気位の高い人であり、必ず受かると思って鮑仁に旅費を与えた。鮑仁は大いに感動し再び大望雄志を胸に都に向かった。

当時、上江観察使の孟浪は、公用で銭塘に来ていた。官吏である身分で蘇小小の家を訪ねるのは不便なので、自宅に蘇小小を招待しようと何度も誘った結果、やっと彼女を迎えることができた。孟浪は意地悪をしようとして、庭の一本の梅を指し彼女に詩を吟じさせた。蘇小小はゆっくりと「梅花虫傲骨、怎敢敵春寒?若更分紅白、環須青眼看!」と吟じた。孟浪は敬服した。

ところが、美人には薄命が多い。蘇小小はその次の春、病気で亡くなった。ちょうどその時、鮑仁はすでに殿試に合格しており、滑州の長官に任命された。赴任の途中、蘇小小の所に立ち寄ったが、彼女の葬式には間に合った。鮑仁は、棺おけのわきで大声で位いた。そして彼女の墓の前に「銭塘蘇小小の墓」という碑を立てた。

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