花間集 訳注解説 (162)回目薛昭蘊 十九首《巻三44女冠子二首其二》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8540

 162)回目薛昭蘊 十九首《巻三44女冠子二首其二》 

 

 

 

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  唐代人の妓女に対する評価

 

 唐代の世風は文学と風雅を尚び、妓女に対しても容姿を主要な評価基準にはせず、才能と学問、技芸、談論などをより重んじた。才色兼備の名妓は決してそう多くはなかった。容貌は平凡であっても大いに名声を博した妓女も多くいたが、それは完全に彼女たちの才智と技芸が抜群であるか、あるいは話に。Iモアがあり風流があったからである。当時は文学がもっとも尚ばれたので、蔀濤の名は天下に聞え、公卿、名士は争って彼女と交際したが、しかし彼女が美貌だったなどという記録はどこにもない。彼女が才女で詩人であったればこそである。唐代の妓女は字を識り本を読み、詩を吟じ詩を作るのがごくあたりまえなことだった。こうした才能が、彼女たちの価値を決める重要な基準だった。『旧唐書』の「白居易伝」に次のような記述がある。ある人が一人の娼妓を呼ぼうとしたところ、彼女は自慢げに「私は白学士の長恨歌を空で詠えます。ほかの人と一緒にしないで」と言った。こうして、彼女は自分の価値を高めたのである。こうした社会の気風が娼妓を唐代女性文学の主要な勢力に育て上げた。もちろん文学に長じたものは畢竟少数であったが。官妓とりわけ地方州府の官妓の大多数は歌舞や酒席での遊戯などの技芸に勝れており、それで専ら「歌妓」、「舞妓」、「楽妓」、あるいは「酒妓」、「飲妓」、「酒佐」などの呼称が生れたのである。比較的能力がある酒妓は常に宴席での遊戯をとりしきったので、彼女たちは「酒糾」「席糾」(糾はとりしまる意)、「録事」(幹事の意)などとよばれた。これらの呼称は唐代官妓の別称となった。

 

 その他、弁舌の才も唐代の人々が妓女を評価する重要な基準であった。唐代の世相はきわめて開放的であり、官僚や名士たちはみな談論や。Iモア、冗談等を尚んだので、妓女に対してもこの点を重視した。長安の妓女は多くが。Iモアのセンスに富んでいた。たとえば、『北里志』に出てくる何人かの名妓たちは、みな美貌ではなかったが話が上手で客に大いにもてた。「緯真は善く謔を言い歌遊びも上手だった。容姿は平凡であったが上晶で洗練されていたので、当代の賢人たちから尚ばれた」、「莱児は容貌はそれほど良くはなかったが、……一一一一豆栗はたくみで冗談もじつに妙を得ていた」、「鄭挙挙は広い学識を持っていたが容貌はよくなかった。しかし、人物評価にたけ、ユーモアが巧みだったので中央の士人たちにぴいきにされた」などの記録がある。これらの記載は、当時の賢人名士が妓女たちの才智や弁舌をどれほど称讃し重視したかをよく示している。

 

 妓女の生活の二面性

 妓女の生活は悲惨な辛いものであったが、それがすべてではなく別の一面もあった。生活は最下層に属していたが、いつも紅灯の巷で酒色にふけり、豪華に着飾っては美食を楽しんでいた。一年中あくせく働いても衣食にこと欠き、甚だしくは生死の境をさまよう、あの労働する女性たちに比べるとより幸福だったと思う。たとえば、宣城(安徽省宣城県)の名妓史鳳は家に迷香洞、神鶏枕などと呼ばれる、豪華でなまめかしい部屋や宝物をもっており、ある金持は三十万銭もの大金を出して、やっとのことで見せてもらった(『雲伯雑記』巻一)。こんな生活は下層の労働女性はもちろんのこと、普通の家庭の女性が望んでも、かなえられることではなかった。それで詩人は、「当窓にて却って羨む青楼の僣、十指勤かざるに衣は箱に盈つ」(王娃「当窓織」)と嘆いたのである。

 妓女の社会的地位はもっとも下賤な部類に属してはいたが、しかしまた他のいかなる階層の女性に比べても、文化や芸術を学び身につける時間と機会を多くもっていた。従って各階級の女性の中でもっとも才知ある優れた部分を形成し、その中の少なからざるものが、干古に名を残す文学者、芸術家になれたのである。

 時代とともに自由職業の娼妓に変っていった長安の妓女の身の上から、私たちは次のようなさらに重要なことを知るのである。つまり、妓女は人から玩ばれ、売買される存在ではあったが、しかし封建道徳によって人間性を抑圧され、人格の独立を奪われ、男性の付属晶になった家庭の主婦に比べると、束縛は少なく、相対的ではあるが言論、行動の自由を持ち、比較的独立した存在であったと。『北里志』の序に、「諸妓の多くは弁舌さわやかで、書物を知り議諭ができる者も結構いる。彼女たちは公卿以下誰でもあざ名を呼びすてにする。彼らの身分、地位をよく弁別し、人物を評定し、自由自在に応対する彼女たちの手ぎわの良さは、誠に人の及ぶところではない。それで彼女たちは叔孫通の朝儀をも罷めさせ、また楊秉をも惑わすことができる」と記されている。どんな階層の女性が彼女たちと同じように、男と同席して酒を飲み、大いに談笑し、直接公卿の名を呼びすてにし、自由に公卿士大夫を晶定めするなどということができたであろうか。これがつまり彼女たちの別の一面であった。筆者は「淫売はこれらの女性ができる最も面白い職業の一つであり、普通の娼婦はたいていこの什事を好んだ」(周作人『看雲集』「娼女礼賛」)という意見に決して同意しない。ただ唐代の妓女の生活を観察するに際して、往々無視される別の一面にも注意を払うことを望むのである。

 

* 叔孫通は古礼に則って漢の朝儀を定めた人物。楊秉は後漢の人で、「我に三つの不惑あり。酒、色、財なり」 と言った(『後漢書』楊秉伝)

 

 

 

 

 

 

花間集 巻三

 

 

 

 

 

女冠子二首其一

求仙去也,翠鈿金篦盡捨,入嵒巒。霧捲黃羅帔,雲彫白玉冠。

野煙溪洞冷,林月石橋寒。靜夜松風下,禮天壇。

女冠子二首其二

雲羅霧縠,新授明威法籙,降真函。髻綰青絲髮,冠抽碧玉篸。

往來雲過五,去往島經三。正遇劉郎使,瑤緘。

 

 

 

花間集 教坊曲《巻三44女冠子二首其二》薛昭蘊

 

 

花間集 訳注解説

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8540

 

 

 

女冠子二首其一

求仙去也,翠鈿金篦盡捨,入嵒巒。

寵愛を失って神仙をもとめて俗世を去るのである、これまでの翡翠の飾り、花鈿、黄金の櫛、簪、なにもかもすべて投げ捨て、自然に同化できる岩山の洞窟に入ったのだ。

霧捲黃羅帔,雲彫白玉冠。

薄い透明感の黄色の羽衣を軽くたるませて上半身、片に巻き付ける。頭には雲の彫刻の白玉の冠を付けている。

野煙溪洞冷,林月石橋寒。

野に靄が漂うのは、修業している渓谷の洞窟の冷気が靄は生むのである、そして、ここに繁る木々に月光はあまねく照らし、清川な流れにかかる石橋をも一体化して寒気がひろがる。

靜夜松風下,禮天壇。

清廉で静かな夜に、小高い丘の松をぬけた風が遠くやさしく吹いてくるところで、王屋山の頂の様に天壇をつくって礼拝する。

(改訂版)(女冠子 二首其の一)

仙を求めて去るなり,翠鈿【すいでん】金篦【きんべい】盡く捨て,嵒巒【がんらん】に入る。

霧捲 黃羅の帔【かたかけ】,雲彫 白玉の冠。

野煙 溪洞に冷やかなり,林月 石橋に寒し。

靜夜 松風の下,天壇に禮す。

 

.薛昭蘊145《巻三44女冠子二首其二》

(改訂版)女冠子二首其二

(女冠子二首其の二:清廉な礼拝の修行の成果、神女となって昇天し、雲に乗って五岳、神仙三山を廻ったが、劉郎の使者が訪れ寵愛を受けると詠う。)

雲羅霧縠,新授明威法籙,降真函。

その日、ここ仙郷に雲の薄絹に覆われ、霧は谷を被う、新たに恩賞刑罰としての法籙を授かった。そうして、真の「道」を修得したということで天上より降臨してゆく。

髻綰青絲髮,冠抽碧玉

若さある髪をかき上げて束ね、そしてその位階の冠を選んで、仙女の碧玉の簪を付ける。

往來雲過五,去往島經三。

神女になれば、雲に乗って五岳を通り過ぎ、果ては東海の神仙三山に去りゆくのである。

正遇劉郎使,瑤緘。

そんなふうに、神女として充実していると、寵愛を失っていたはずが、また、劉郎の使いのものに遭遇するのである、そうすれば、しばらくは、道教の経典の「啓瑤壇」を封印していることだろう。

(女冠子二首其の二)

雲は羅 霧は縠,新らたに明威、法籙を授り,真函に降る。

髻綰 青絲の髮,冠抽 碧玉の

往き來りて 雲 五を過り,去り往きて 島 三を經る。

正に劉郎の使に遇い,瑤 緘ず。

 

 

薛昭蘊145《巻三44女冠子二首其二》

『女冠子二首其二』現代語訳と訳註

(本文)

女冠子二首其二

雲羅霧縠,新授明威法籙,降真函。

髻綰青絲髮,冠抽碧玉篸。

往來雲過五,去往島經三。

正遇劉郎使,瑤緘。

 

(下し文)

女冠子二首其の二

雲は羅 霧は縠,新らたに明威、法籙を授り,真函に降る。

髻綰 青絲の髮,冠抽 碧玉の篸。

往き來りて 雲 五を過り,去り往きて 島 三を經る。

正に劉郎の使に遇い,瑤 緘ず。

 

(現代語訳)

(女冠子二首其の二:清廉な礼拝の修行の成果、神女となって昇天し、雲に乗って五岳、神仙三山を廻ったが、劉郎の使者が訪れ寵愛を受けると詠う。)

その日、ここ仙郷に雲の薄絹に覆われ、霧は谷を被う、新たに恩賞刑罰としての法籙を授かった。そうして、真の「道」を修得したということで天上より降臨してゆく。

若さある髪をかき上げて束ね、そしてその位階の冠を選んで、仙女の碧玉の簪を付ける。

神女になれば、雲に乗って五岳を通り過ぎ、果ては東海の神仙三山に去りゆくのである。

そんなふうに、神女として充実していると、寵愛を失っていたはずが、また、劉郎の使いのものに遭遇するのである、そうすれば、しばらくは、道教の経典の「啓瑤壇」を封印していることだろう。

 

(訳注) 女冠子二首其二

女冠子二首其二

12.(女冠子二首其の二:清廉な礼拝の修行の成果、神女となって昇天し、雲に乗って五岳、神仙三山を廻ったが、劉郎の使者が訪れ寵愛を受けると詠う。)

13. 【解説】其一で天壇に礼拝し修行をするということから続く、前段は、神女となるために、山に入り、修行をし、白玉の冠を授かり、神仙となる。雲に乗って五岳を通り過ぎ、果ては東海の神仙三山に去りゆくけれど、後段は、月時は流れ、劉郎であり、穆天子がせいおうぼとであったように、出会って、ちょっとの間、經典を封印する。

15. 【構成】『花間集』には薛昭蘊の作が二首収められている。双調四十一字、前段二十三字五句、二仄韻二平韻、後段十八字四句二平韻で、❹❻③5⑤/5⑤5③の詞形をとる。

女冠子二首其一

求仙去、翠鈿金篦盡、入嵒

霧捲黃羅帔、雲彫白玉

野煙溪洞冷、林月石橋

靜夜松風下禮天

○○●●、●△○○●●、●○○。

△△○○△、○○●●△。

●○○△△、○●●○○。

●●○△●、●○○。

女冠子二首其二

雲羅霧,新授明威法,降真

髻綰青絲髮,冠抽碧玉

往來雲過五,去往島經

正遇劉郎使,

○○△●、○●○○●●、△○○。

●●○○●、△○●●△。

●△○△●、●●●△△。

△●○○●、●○○。

 

雲羅霧縠,新授明威法籙,降真函。

その日、ここ仙郷に雲の薄絹に覆われ、霧は谷を被う、新たに恩賞刑罰としての法籙を授かった。そうして、真の「道」を修得したということで天上より降臨してゆく。

16. 明威 恩賞刑罰。

17. 法籙 道術の書。道教の経典、戒律、法籙、符契、科儀とあり、道士の位階が確立してくると、法籙〔道籙〕の伝授が行われるようになった。玄宗は、自ら司馬承禎から法籙を受け道士皇帝となり、 『道徳経』の 注釈書をつくり、 崇玄学(道教の学校)を設置した。

18. 真函 「函」とは、女を正良にするために作る器のことで、真は道士として認められたことで、真函というものになったら寺観を降りて隠遁したり、民間に戻ることもできる。《詩経,周頌、載芟》「播厥百穀,實函斯活。」(厥の百穀を播す,實に斯の活を函む。)

 

髻綰青絲髮,冠抽碧玉篸。

若さある髪をかき上げて束ね、そしてその位階の冠を選んで、仙女の碧玉の簪を付ける。

19. 髻【もとどり】とは。《「本取り」の意》髪を頭の上に集めて束ねた所。また、その髪。たぶさ。髻放つ冠や烏帽子(えぼし)をかぶらず、髻をあらわにする。礼儀に反する行為とされる。

20. 綰  髪をかき上げて束ねる。「人皆は今は長しと―・けと言へど」〈万・一二四〉2 舟をあやつる。「大舟を荒海(あるみ)に漕ぎ出で八()舟―・け我が見し児らがまみは著(しる)しも」〈万・一二六六〉3 《「だく」とも》手綱をあやつる。

21. 青絲髮 黒髪をいう。

22. 抽 ぬきんでる ぬく引き出す。抜き出す。

23. 玉篸 宝玉の簪。本体部分は竹で作られているもの。

 

往來雲過五,去往島經三。

神女になれば、雲に乗って五岳を通り過ぎ、果ては東海の神仙三山に去りゆくのである。

24. 島經三 神仙三島をすぎる。

25. 雲過五 雲は五山をすぎ。

過五・經三 五更、一晩が過ぎること。一年の上元、中元、下元をけいかすること。この両句は、時の経過を云うものである。ただ、道教上の用語を使って時の経過とその身の変化を云う。

儒教では、五常(仁、義、礼、智、信)の徳性を拡充することにより、父子、君臣、夫婦、長幼、朋友の五倫の道をまっとうすることを説いている。五行思想(ごぎょうしそう)または五行説(ごぎょうせつ)とは、古代中国に端を発する自然哲学の思想。万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという説である。また、5種類の元素は「互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する」という考えが根底に存在する。

道教の「三元神」は次のとおり。上元115賜福大帝・天官大帝 上元一品天官 堯 賜福(福を与える)中元715赦罪大帝・地官大帝 中元二品地官  舜 赦罪(罪を赦す)

下元1015日 解厄大帝・水官大帝           下元三品水官 禹解厄(厄を祓う)

三元を司る3神を三官大帝(zh:三官大帝)という。三官大帝は龍王の3人の娘と人間の陳子椿とのあいだに生まれた、龍王の孫である。彼らの誕生日が、三元として祝われるようになった。

三元は1年を3等分ではなく、2:1:16ヶ月・3ヶ月・3ヶ月)に分けている。いずれの日も15日、つまりほぼ満月である。

往來:去往 ゆききたる:さりゆく

  

正遇劉郎使,瑤緘。

そんなふうに、神女として充実していると、寵愛を失っていたはずが、また、劉郎の使いのものに遭遇するのである、そうすれば、しばらくは、道教の経典の「啓瑤壇」を封印していることだろう。

26. 劉郎 別れ去る愛しい男。仙桃を味わった浦島太郎のような人物である劉晨=劉郎である夢心地の状態にある男、何年も訪れてくれなくなっているのでこのようにいう。12年もたっていることと、全く景色が変わって、ここにいる女を含めみんなが全く変わっていたというものだ。 

劉禹錫『再遊玄都觀』

百畝庭中半是苔,桃花淨盡菜花開。

種桃道士今何歸,前度劉郞今又來。

再遊玄都觀 本文 劉禹錫 薛濤関連 唐五代詞・宋詩 薛濤-239--#95 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2742

白居易『贈薛濤』

蛾眉山勢接雲霓,欲逐劉郎北路迷。

若似剡中容易到,春風猶隔武陵溪。

贈薛濤 白居易 全唐詩 巻462  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-131--#  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2202

牛嶠『女冠子 其三』

星冠霞帔,住在蘂珠宮裏。佩叮

明翠搖蟬翼,纖珪理宿粧。

醮壇春艸綠,藥院杏花香。

青鳥傳心事,寄劉郎

女冠子四首 其三 牛嶠  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-316-5-#57-7  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3127

牛嶠『夢江南二首 其二』

紅繡被,兩兩間鴛鴦。

不是鳥中偏愛爾,為緣交頸睡南塘,全勝薄情郎

夢江南二首 其一 牛嶠【ぎゅうきょう】 ⅩⅫ唐五代詞、「花間集」 Gs-319-6-#6  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3142 

○阮郎 別れ去って久しく帰らぬ愛しい男。後漢の劉展、阮肇は天台山に薬草を採りに入り、道に迷って仙女に出合い、しばらくともに暮らした。しかし家のことが思い起こされ、帰ってみると、既に数世が過ぎ、見知った人は誰もいなかった。そこで再び山に尋ね入ったが、仙女を探し当てられなかったと言う。以来、阮郎、劉部は、別れ去る男や別れ去って久しく帰らぬ愛しい男を指すようになった。・檀郎/安仁/潘郎 晋の潘岳のあざな。彼は美男子であり、詩人であったが、妻の死にあい「悼亡」の詩三首を作った。後世、妻の死をなげいた模擬作が多く作られた。潘岳の幼名が檀奴だったので、「檀郎」は夫や恋い慕う男を意味する。・潘岳:安仁。滎陽(けいよう)中牟(河南省)の人。陸機と並ぶ美文の文学の大家で,錦を敷きのべたような絢爛(けんらん)たる趣をたたえられた。ことに人の死を悼む哀傷の詩文を得意とし,亡妻への尽きぬ思いをうたった〈悼亡詩(とうぼうし)〉3首はよく知られる。絶世の美男として,また権門の間を巧みに泳ぎまわる軽薄才子として,とかく話題にこと欠かなかった。八王の乱の渦中で悲劇的な刑死を遂げた。

江南二首 其一 牛嶠【ぎゅうきょう】 ⅩⅫ唐五代詞、「花間集」 Gs-319-6-#6  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3142

 

27.  道教経典:瑤壇讚本、

「啓瑤壇(けいようだん) 礼誦経(らいしょうきょう) 天地日月三光(てんちじつげつさんこう) 大衆神明(たいしゅうしんめい) 一斎降鑑(いっさいこうかん)28. 瑤壇:仙人の住むところ。瑤池:崑崙山にあり、穆天子がここで西王母と出遭ったところ。

29.  封をする。封じ目。「封緘」口を閉じる。

○三洞四輔

「三洞」とは、洞真経・洞玄経・洞神経の3つであり、元々はそれぞれ上清経・霊宝経・三皇経(三皇文)と言い、別々の集団によって伝えられた。

三洞最上位の上清経を伝えた一派の開祖は、山東省任城の女性・魏華存である。彼女は2人の息子と戦乱を避けて江南に移住し、そこで天師道の祭酒(指導者)になったという。その後仙道を極めて仙女となり、紫虚元君・南岳夫人を名乗った。東晋の役人・許謐は霊媒の助けを借りて紫虚元君らを仙界から降臨させ、教示を書き残した。これが時代を得て上清経になったという。これは、精神を研ぎ澄ます瞑想法の存思法などの修練を通して汚れた人間界を脱し、神仙界へ至ることを説く。後に活躍した道士の陶弘景は、この上清経をとりわけ重視した。

霊宝経の起源は禹の時代に遡り、邪鬼を排し昇仙を成すという神人から賜った「霊宝五符」とその呪術にある。これは江南の葛氏道と呼ばれる一族が伝え、経典として整備されたという。その内容は仏教特に大乗仏教の影響を受け、輪廻転生や元始天尊が衆生を救済するという思想を持つ。また儀礼を詳しく定めている点も特徴である。

三皇経という名は天皇・地皇・人皇から来ているという。出自には2つの説があり、西城山の石室の壁に刻まれた文言を帛和という人物が学び取ったとも、嵩山で鮑靚という人物が石室から発見したとも言う。既にほとんどが散逸し現在には全く伝わらないが、悪鬼魍魎の退散法や鬼神の使役法などが書かれていたという。

「四輔」は「三洞」を補足するもので、4部に纏められた。太玄部は『老子道徳経』および関係する経典類、太平部は残存した『太平経』、太清部は金丹術に関係した文献類、正一部は五斗米道・天師道関係の経典である。

 

(別解)

女冠子二首其二

雲羅霧縠,新授明威法籙,降真函。

髻綰青絲髮,冠抽碧玉篸。

往來雲過五,去往島經三。

正遇劉郎使,瑤緘。

(家を出て山間に入り道士となった女を詠う。)

その日、ここ仙郷に雲の薄絹に覆われ、霧は谷を被う、新たに晴れやかに道女としての法籙を授かった。そうして、真の女道士の教授として里に下りてゆく。

髪を書き上げ髻をしっかりし、若さある髪を整え、そして冠を選んで、碧玉の簪を付けた。

行き過ぎるの雲が過ぎる様に今宵を過した、行きつ戻りつして中州、島々、一年を過していった。

まさに、遊び人のあの劉郎の使いのものと出会った、そしてもう、道教の経典の「啓瑤壇」を封印してしまった。

女冠子二首其の二

雲は羅に 霧は縠に,新らたに明威なる法籙を授り,真函に降ろ。

髻綰 青絲の髮,冠抽 碧玉の篸。

往來して雲 五を過り,去往して島 三を經る。

正に劉郎の使に遇い,瑤 緘ず。

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