花間集 訳注解説 (159)回目薛昭蘊 十九首《巻三41相見歡一首》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8522

 159)回目薛昭蘊 十九首《巻三41相見歡一首》

 

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Ⅰ李白詩

(李白集校注)

745年-集01【字解集】 a.上李邕 b..東海有勇婦 c.尋魯城北范居士失道落蒼耳中見范置酒摘蒼耳作 Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8453

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745年-集01【字解集】 a.上李邕 b..東海有勇婦 c.尋魯城北范居士失道落蒼耳中見范置酒摘蒼耳作 Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8454

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●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首 

Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注

806年-集12- 韓昌黎集 【字解集】 a.題張十一旅舍三詠 b.贈崔立之 c.同宿聯句 d. 有所思聯句 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8520

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・李商隠詩 (1) 136首の75

・李商隠詩 (2) 135首の61

韓愈1 ・孟郊・張籍と汴州乱41

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index-11 819年『論佛骨表』左遷 38

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韓愈 哲学・儒学「五原」

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●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"

Ⅲ 杜詩

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767年-集-10 【字解集】 ・a.別李祕書始興寺所居・b.送李八秘書赴杜相公幕・c,巫峽敝廬奉贈侍御四舅別之澧朗・d.孟氏・e吾宗 杜詩詳注()Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8533

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767年-集-10 【字解集】 ・a.別李祕書始興寺所居・b.送李八秘書赴杜相公幕・c,巫峽敝廬奉贈侍御四舅別之澧朗・d.孟氏・e吾宗 杜詩詳注()Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8534

杜甫詩(1)736~751年  53

杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73

杜甫詩(3)45歳 安史の乱に彷徨う 26

杜甫詩(4)757年、左拾遺 43

杜甫詩(5)758年47歳 左遷 53

杜甫詩(6)759年 三吏三別 44

杜甫詩(7)759年秦州詩 66

杜甫詩(8)759年同谷紀行、成都紀行36

杜甫詩(9)760年、49歳 成都 45

杜甫詩(10)761年、50歳 成都82

杜甫詩(11)762年蜀中転々43

杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49

(13)763年蜀中転々 96

 (14)764年 三月成都へ帰る 100

 (15)765年正月幕府を辞す 63

(16-1) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)80

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杜甫詩 (17-1)767年夔州・西閣・赤甲・瀼西132

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花間集 訳注解説 (159)回目薛昭蘊 十九首《巻三41相見歡一首》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8522 (04/13)

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155)回目薛昭蘊 十九首a.浣溪紗八首・b.喜遷鶯三首 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8498 (04/10)

 

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玉-巻二01#1 於清河見輓船士新婚與妻一首  #1〔魏文帝〕 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8523

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玉集-010 古詩 爲焦仲卿妻作 【字解集】    Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8518

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花間集 訳注解説 (159)回目薛昭蘊 十九首《巻三41相見歡一首》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8522

(相見歡:いつも一緒に、同じ軍装をきて、好きな小草原の広がる砂地に戒の駿馬に乗って狩をしたものだが、いまはもうそんなことはまったくなく、ただひたすら、待ち続けて歳を重ねるだけだと詠う。)

夜化粧に紅をさし、薄絹の上着の刺繍の袂に香しきのかおりをつけ、あのお方を待つ鳳凰の画かれた奥まった御殿の閨の中にいる。いつも一緒に、同じ軍装をきて、好きな小草原の広がる砂地に戒の駿馬に乗って狩をしたもので、寝牀の置く小さな屏風にも馬の画の物を飾る。薄絹の幃帳を巻きあげ、少し高い床の化粧の部屋の窓辺に寄りに気怠く眺める、あのお方のことをいくら思っても果てがない、でもそれしかすることがないのも事実だ。高唐の賦の「朝雲暮雨」様にいつも一緒だよと誓ってくれていたのに、妃嬪を思いやる気持ちは絶たれてしまった。待つだけが使命である妃嬪にとって、今や簾のかかる連子窓によって隔離されたようなものだ。

 

 

 

 

 

花間集 巻三

 

 

 

 

 

花間集巻三41   相見歡

羅襦繡袂香紅,畫堂中。細艸平沙蕃馬,小屏風。

卷羅幕,凭粧閣,思無窮。暮雨輕煙魂斷,隔簾櫳。

 

 

花間集 教坊曲《巻三40離別難一首》薛昭蘊

 

 

花間集 訳注解説

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8516

 

 

 

 

薛侍郎昭蘊 十九首:

花間集に薛昭蘊の詞は《小重山二首》《浣溪紗八首》《喜遷鶯三首》《離別難一首》《相見歡一首》《醉公子一首》《女冠子二首》《謁金門一首》の十九首所収。

薛昭蘊:五代、後蜀の官司至侍郎。(生卒年未詳)、字、出身地ともに未詳。詞風は温庭第に近い。『花間集』には十九首の詞が収められている。『花間集』には、薛侍郎昭蘊と記されている。

醇紹撃(生没年未詳)花間集に載せられている詞人。花聞集では薛侍即とあり、侍郎の官についた人であることがわかるだけで、詳しい伝記はわからない。唐書の薛廷老伝によると、廷老の子に保遜があり、保遜の子に紹緯がある。乾寧中に礼部侍郎となった。性質は軽率であり、車に坐して夔州刺史に貶せられたという。ところでその経歴をさらにくわしく見ると、紹緯ほ乾寧3年(896)九月に中書舎人から礼部侍郎にたり、ついで戸部侍郎となり、光化2年(899)六月戸部侍郎から兵郡侍郎に選っている(唐僕尚丞郎表に依る)。これによって唐末に侍郎の官にあった人であることは明らかである。紹緯のことはまた北夢瑣言にも見えている。紹緯は才を侍み物に倣り、亦父(保遜)の風があった、朝省に入る毎に、笏を弄んで歩行し、旁若無人であった。好んで浣渓沙詞を唱したという。

 

(相見歡【そうけんかん】)

羅襦【らじゅ】繡袂【しゅうべい】紅に香り,畫堂の中。

細艸 平沙の蕃馬【ばんば】,小屏風にあり。

羅幕を卷き,粧閣に凭【よ】れば,思 窮り無し。

暮の雨 輕き煙 魂は斷たれ,簾櫳を隔つるに。

 

唐宋代の絵画、彫像に出てくる女性の姿を見ると、彼女たちはみな確かに顔は満月のようにふくよかであり、からだは豊満でまるまるとしている。そして、胡や、国軍服を着て馬に乗って弓を引く女性は、特に堂々とした勇敢な姿を示しており、痩せて弱々しい姿はほとんど見られない。これはまさに唐宋代の人々の審美観と現実の生活そのものの反映であった。唐宋代第一の美人楊玉環(楊貴妃)は豊満型の美人であり、漢代の痩身型の美人趨飛燕と並んで、「燕は痩せ、環は肥え」といわれ、美人の二つの典型と称された。

 

このような美意識は、唐代の社会生活と社会の気風から生れた。というのは、唐宋代の物質生活は比較的豊かであったから、身体がふっくらとした女性が多くいたのである。また社会の気風は開放的であり、北朝の尚武の遺風を受け継ぎ、女性は家から出て活動することもわりに多く、また常に馬に乗って矢を射る活動にも加わっていた。それで、往々女性は健康的で颯爽たる姿をしていたのである。こうした現実が人々の審美観に影響し、そしてこの審美観と時代の好みとが、逆に女性たちにこの種の美しさを極力追求させたのである。少なくとも「楚王、細き腰を好む*」ために、食を減らすといったことはなかった。これによって、女性は健康で雄々しくかつ豊満であるといった傾向が助長されたのである。審美観と密接な関係がある服装と化粧は、女性の生活の重要な一部分であった。

 『筍子』等に、昔、楚の霊王は腰の細い美人を好んだ。それで宮中の女性は食を減らし餓死したという故事がある。

 

唐宋代の女性の服装は、貴賤上下の区別なく、だいたいにおいで衫(一重の上着)、裙(スカート)、帔(肩かけ)の三つからなっていた。上着の衫の裾は腰のあたりで裙でとめる。裙はたいていだぶだぶとして大きく、長くて地面をひきずるほどであり、普通六幅(一幅は二尺二寸)の布で作られた。肩に布をかけるが、これを「帔服」といい、腰のあたりまでゆったりと垂れている。また、常に衫の上に「半臂」(袖の短い上着)をはおったが、これはかなり質のよい布で作り、主に装飾のためのものであった。足には靴か草履をはいたが、これらは綿布、麻、錦帛、蒲などで作られていた。


胡装

胡服を着て胡帽を被る 「女が胡の婦と為り胡妝を学ぶ」(元稹「法曲」)、これは唐代女性の特別の好みの一つであった。唐代の前期には、女性が馬に乗って外出する際に被った「冪蘺」(頭から全身をおおうスカーフ)は、「戎夷」(周辺の蛮族)から伝わった服装であった。また、彼女たちは袖が細く身体にぴったりした、左襟を折り返した胡服を好んで着た。盛唐時代(開元〜大暦の間)には、馬に乗る時に胡帽をかぶるのが一時流行した。胡服・胡帽の姿は絵画や彫刻、塑像の中で、随所に見ることができる。

彼女たちは、また胡人の化粧をも学んだ。

 

「新楽府」「其三十五 時世妝」 白居易

時世妝,時世妝,出自城中傳四方。

時世流行無遠近,腮不施朱面無粉。

烏膏注唇唇似泥,雙眉畫作八字低。

妍媸黑白失本態,妝成盡似含悲啼。

圓鬟無鬢堆髻樣,斜紅不暈赭面狀。

昔聞被發伊川中,辛有見之知有戎。

元和妝梳君記取,髻堆面赭非華風。

 

時世の妝 時世の妝、城中より出でて四方に傳はる。

時世の流行 遠近無し、腮に朱を施さず面に粉無し。

烏膏唇に注(つ)けて唇泥に似たり、雙眉畫きて八字の低を作す。

妍媸 黑白 本態を失し、妝成って盡く悲啼を含めるに似たり。

圓鬟(かん)鬢無く堆髻の樣、斜紅暈せず赭面の狀。

昔聞く 被髪伊川の中、辛有之を見て戎有るを知る。

元和(806820年)の妝琉(顔の化粧、髪型) 君 記取よ、髻椎、面赭は華風に非ざるを。

 

流行の化粧は、都会から出て四方に伝わる、時勢の流行には近在も遠方もない、頬紅をささず顔に白粉を塗らぬ、黒い油を口に塗って泥を見るようだ、眉を書けば八の字に垂れ下がって見苦しい(時世妝:流行の化粧法、腮:顎から頬にかけて)

美醜と黒白がひっくり返って、化粧した顔は泣きべそ顔だ、丸髷にはふくらみがなくさいづちまげのようだし、頬紅はぼかしてないのでまるで赤ら顔だ(妍媸:美醜、含悲啼:泣きべそ顔、圓鬟:丸髷、堆髻:さいづちまげ、胡人の女が結ぶ、斜紅:斜めに引いた頬紅、赭面:赤ら顔)

昔のことに、髪をふり乱した者たちが伊川で踊っているのを見て、辛有はその地が戎の地だといったというではないか、元和の流行の化粧について記録しておいてほしい、さいづちまげや赤ら顔は華風ではないと(被髪:髪を振り乱す、妝梳:化粧とヘアスタイルのこと)

 

 

同時代に流行したファッションを批判したもの。都の人々が中国固有の化粧やヘアスタイルを捨てて、戎の風俗にしているという内容で、白居易は中国風でない化粧や髪型の流行を慨嘆している。こうした胡服や胡粧は大半が北方と西北の遊牧系少数民族から伝わってきた。服装と装飾が胡族化したことは、まさに強盛な大帝国が率先して外来文化を吸収したことを、最も良く示す現象である。

唐代の人々には、宋代の人のような「〔中華の〕遺民 涙尽く 胡塵の裏」(陸游「秋夜将に暁に籬門を出で涼を迎えんとして感有り」)といった亡国の痛みはなかったので、当然にも胡服や胡粧によって中華の中心たる中原が胡化するとか、生臭い土地に変り「蛮夷」の邦になるといった恐れや心配は全く頭に浮かんではいない。ただ唐の中期になり、「胡騎 煙塵を起こす」というようになると、始めて「女が胡の婦と為り胡敏を学ぶ」(元稹「法曲」)のは乱国の兆であると、悲しみ嘆く人が出てきた。国勢が衰退したので、統治者の自信が揺らいだのである。女性からすると、一瞥の女卑からの解放、自由な外出へと、社会的な大変革をもたらすものであった。これは、文化的頽廃、性倫理の変貌と有機的に化学反応したものである。

 

 

戎装と男装

唐宋代の女性、とりわけ宮廷の女性は、常に戎装(軍装)と男装を美しいものと考えていた。高宗の時代、太平公主は武官の服装をして宮中で歌舞を演じたことがある。また、武宗の時代、王才人は武宗と同じ服を着て一緒に馬を駆って狩りをした。それで天子に上奏する人はいつもどちらが天子か見まちがったが、武宗はそれを面白がった。宮女たちが軍服を着たり、男装するのは全く普通のことだった。「軍装の宮妓、蛾を掃くこと浅し」(李賀「河南府試十二月楽詞」)、「男子の衣を着て靴をはく者がいる。あたかも奚、契丹の服のようである」(『新唐書』車服志)などの記録はたいへん多い。絵画や彫像の中にはさらに多くの戎装、男装の宮女の姿を見ることができる。こうした風潮は民間にも伝わり、妓女や俳優(役者)たちも常に「装束 男児に似たり」(李廓「長安少年行」)といわれ、また「士流(士人階級)の妻は、あるいは大夫の服を着、あるいはまた男物の靴、衫(上着)、鞭、帽子などを用いて、妻も夫も身仕度が同じだった」(『大唐新語』巻十)といわれている。男女が同じ服を着て、妻と夫の区別も無いとは、本当に平等な感じがする。こうした風潮が生れたのは、社会の開放性と尚武の気風があったからにはかならない。当時の若干の保守的な人々は、男女の服装に違いがなく、陰陽が逆さまになっている情況に頭を横に振りながら、「婦人が夫の姿になり、夫は妻の飾りとなっている。世の中の顛倒でこれより甚だしいものはない」(『全唐文』巻三一五、李華「外孫崔氏二孩に与うる書」)と慨嘆した。これぞまさしく、女性が男装する風潮は封建道徳の緩みであると説明する直接的表現ではないか。

 

(改訂版)《巻三41相見歡》

相見歡

(相見歡:いつも一緒に、同じ軍装をきて、好きな小草原の広がる砂地に戒の駿馬に乗って狩をしたものだが、いまはもうそんなことはまったくなく、ただひたすら、待ち続けて歳を重ねるだけだと詠う。)

羅襦繡袂香紅,畫堂中。

夜化粧に紅をさし、薄絹の上着の刺繍の袂に香しきのかおりをつけ、あのお方を待つ鳳凰の画かれた奥まった御殿の閨の中にいる。

細艸平沙蕃馬,小屏風。

いつも一緒に、同じ軍装をきて、好きな小草原の広がる砂地に戒の駿馬に乗って狩をしたもので、寝牀の置く小さな屏風にも馬の画の物を飾る。

卷羅幕,凭粧閣,思無窮。

薄絹の幃帳を巻きあげ、少し高い床の化粧の部屋の窓辺に寄りに気怠く眺める、あのお方のことをいくら思っても果てがない、でもそれしかすることがないのも事実だ。

暮雨輕煙魂斷,隔簾櫳。

高唐の賦の「朝雲暮雨」様にいつも一緒だよと誓ってくれていたのに、妃嬪を思いやる気持ちは絶たれてしまった。待つだけが使命である妃嬪にとって、今や簾のかかる連子窓によって隔離されたようなものだ。

 

 

(改訂版)《巻三41相見歡》

『相見歡一首』 現代語訳と訳註

(本文)

相見歡

羅襦繡袂香紅,畫堂中。

細艸平沙蕃馬,小屏風。

卷羅幕,凭粧閣,思無窮。

暮雨輕煙魂斷,隔簾櫳。

 

(下し文)

相見歡

羅襦【らじゅ】繡袂【しゅうべい】紅に香り,畫堂の中。

細艸 平沙の蕃馬【ばんば】,小屏風にあり。

羅幕を卷き,粧閣に凭【よ】るも,思 窮り無し。

「暮雨輕煙」の魂 斷つ、簾櫳に隔たる。

 

(現代語訳)

(相見歡:いつも一緒に、同じ軍装をきて、好きな小草原の広がる砂地に戒の駿馬に乗って狩をしたものだが、いまはもうそんなことはまったくなく、ただひたすら、待ち続けて歳を重ねるだけだと詠う。)

夜化粧に紅をさし、薄絹の上着の刺繍の袂に香しきのかおりをつけ、あのお方を待つ鳳凰の画かれた奥まった御殿の閨の中にいる。

いつも一緒に、同じ軍装をきて、好きな小草原の広がる砂地に戒の駿馬に乗って狩をしたもので、寝牀の置く小さな屏風にも馬の画の物を飾る。

薄絹の幃帳を巻きあげ、少し高い床の化粧の部屋の窓辺に寄りに気怠く眺める、あのお方のことをいくら思っても果てがない、でもそれしかすることがないのも事実だ。

高唐の賦の「朝雲暮雨」様にいつも一緒だよと誓ってくれていたのに、妃嬪を思いやる気持ちは絶たれてしまった。待つだけが使命である妃嬪にとって、今や簾のかかる連子窓によって隔離されたようなものだ。

 

 

(訳注) (改訂版)《巻三41相見歡》

相見歡

1. (浮気男に棄てられた女の愁いの情を詠う。)

2. 【解説】妃嬪の愁いが詠われる時、季節は多く晩春である。「暮雨輕煙魂斷,隔簾櫳」妃嬪は待つのが使命である、寵愛を失えば、これほど人格を否定されるものがないから、詩に登場する。この時代、その他の階層の女性は、比較的、自由な性生活をしている。不倫や自由恋愛多いから、役所で取り締まらなければいけなかった。妃嬪には、その可能性が極めてない。その間、春が来るごとに「暮の雨」花が落ち、年増になってゆくこと、それでも、地位が変わらなければ、あいかわらず、ちょうあいをうけるじゅんびをして、まちつづけなければならないのである。と、詠うものである。

寵愛を受けている時と寵愛を失って以降の対比、一人で出かけることはできないので、この語を使用する。なかにわに出るくらいの生活を意味するもの。

3. 【構成】唐の教坊の曲名。『花間集』には薛昭蘊の一首のみ所収。双調三十六字、前段十八字四句二平韻、後段十八字五句二仄韻二平韻で、⑥③6③/❸❸③6③の詞形をとる。

羅襦繡袂香、畫堂中。
細艸平沙蕃馬、小屏風。
卷羅、凭粧、思無

暮雨輕煙魂斷、隔簾櫳。



 

羅襦繡袂香紅,畫堂中。

夜化粧に紅をさし、薄絹の上着の刺繍の袂に香しきのかおりをつけ、あのお方を待つ鳳凰の画かれた奥まった御殿の閨の中にいる。

4. 香紅 もみの上着に薫きしめた香が香ること。

5. 羅襦 杜甫.新婚別詩:「自嗟貧家女、久致羅襦裳。羅襦不復施、対君洗紅粧。」(自ら嗟【さ】す貧家の女,久しく羅襦【らじゅ】裳を致す。羅襦復た施さず,君に対して紅粧【こうそう】を洗わん。)

新婚別 杜甫 三吏三別詩 <218>#3 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1049 杜甫詩集700- 314

6. 繡袂  袂に縋る願いを聞いてもらうまでは離すまいと、人のたもとをとらえる。転じて、相手の同情を引いて助けを求める。

 

細艸平沙蕃馬,小屏風。

いつも一緒に、同じ軍装をきて、好きな小草原の広がる砂地に戒の駿馬に乗って狩をしたもので、寝牀の置く小さな屏風にも馬の画の物を飾る。

7. 蕃馬 戎の馬、小ぶりの足の速い遊牧民族の馬、騎馬兵士の勇壮さが好きだから飾っている。駿馬が好きで、おそらく女性自身も、男装して馬に乗るのであろう。だから屏風にもそうしたえがかれたもおを飾った。

 この時代の女性は、男装にあこがれ、馬の画を善く飾った。この馬を以て意中の男が最果ての砂漠の地に旅立って帰ってこないことを連想するというのは、短絡である。

 

卷羅幕,凭粧閣,思無窮。

薄絹の幃帳を巻きあげ、少し高い床の化粧の部屋の窓辺に寄りに気怠く眺める、あのお方のことをいくら思っても果てがない、でもそれしかすることがないのも事実だ。

8. 粧閣 化粧の部屋。明かりをよくいれるために他の部屋より独立し、階床が高かった。物見もできるもの。

班婕妤 王維 (後宮の妃嬪を詠う)

怪來妝閣閉,朝下不相迎。

總向春園裏,花間笑語聲。

怪しむらくは妝閣【さうかく】の 閉づることを,朝より下りて  相ひ迎へず。

總て春園の裏に 向いて,花間 笑語の聲。

この三句でわかることは、西域のどこか、砂漠に出征したのでなくて、何時でも女のもとに来られることをあらわす句である。

 

暮雨輕煙魂斷,隔簾櫳。

高唐の賦の「朝雲暮雨」様にいつも一緒だよと誓ってくれていたのに、妃嬪を思いやる気持ちは絶たれてしまった。待つだけが使命である妃嬪にとって、今や簾のかかる連子窓によって隔離されたようなものだ

9. 暮雨軽煙 夕暮れの雨と簿霞は高唐の賦の「朝雲暮雨」の故事をいう。晩春に降る雨はここで必ず春の花は落花する。妃嬪の希望、期待を完全に断たれたことを意味する。

10. 簾櫳 簾のかかる連子窓。1窓.2(動物を入れる)おり.寵愛を受けているころは、事あるごとに、連れ立って出かけた、寵愛を失っても、寵愛を受けるための準備と、ただ待つだけが使命であるから、動くことができないから、御殿のその場所から出られないことをいう。

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