花間集 訳注解説 (157)回目薛昭蘊 十九首《巻三39小重山二首其二》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8510

 157)回目薛昭蘊 十九首《巻三39小重山二首其二》

 

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花間集 訳注解説 (157)回目薛昭蘊 十九首《巻三39小重山二首其二》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8510

(小重山二首 其の二:漢の成帝、趙飛燕姉妹の史事を詠っている)

寵愛を失ったまま秋が来る、長門宮には草木が枯れ始め、菊の黄色も枯れていく、絵模様の梁の上の番のツバメたちもその巣を去って行き、軽快な身のこなしの燕は、後宮の土塀の外に出て東南の宮殿に行ってしまった。ここの宮殿で、きれいに飾られた簫は再び吹かれることはなく「霓裳羽衣の曲」の踊りの練習さえもすることはなくなった。金蝉の簪は化粧台に置かれたまま、鳳鸞鳥の鏡に掩いがしたまま、化粧さえしなくなった。昔の昭陽殿にいたころは花形であった、舞着物には紅の綬帶の佩びていたし、鴛鴦鳥の刺繍がいっぱいに際江の寵愛を受けた。寵愛を失った今に至っても、化粧や飾り付けの花鈿、簪を付けなくても、閨の褥の準備だけは毎日して、なお、香炉に焚くことに惹かれてはいるものの、もう夢にも出てくることはなく、秋の夜長に時を刻む漏更の音は愁いを聞くにほかならない。

 

 

 

 

 

花間集 巻三

 

 

 

 

 

小重山二首 其一

春到長門春草青,玉堦華露滴,月朧明。東風吹斷玉簫聲,宮漏促,簾外曉啼鶯。

愁起夢難成,紅粧流宿淚,不勝情。手挼裙帶遶宮行,思君切,羅幌暗塵生。

小重山二首 其二

秋到長門秋草黃,畫梁雙鷰去,出宮牆。玉簫無復理霓裳,金蟬墜,鸞鏡掩休粧。

憶昔在昭陽,舞衣紅綬帶,繡鴛鴦。至今猶惹御爐香,魂夢斷,愁聽漏更長。

 

 

 

花間集 教坊曲《巻三39小重山二首其二》薛昭蘊

 

 

花間集 訳注解説

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8510

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

花間集 教坊曲『小重山』 六首

 

作者

初句7字

 

韋相莊

巻三

(改訂版)小重山 韋荘

一閉昭陽春又春

 

薛侍郎昭蘊

巻三

小重山二首 其一

春到長門春草青

 

巻三

小重山二首 其二

秋到長門秋草黃

 

和凝

巻六

小重山二首其一

春入神京萬木芳

 

巻六

小重山二首其二

正是神京爛熳時

 

毛秘書熙震

巻十

小重山一首

梁鷰雙飛畫閣前

 

薛侍郎昭蘊十九首:

小重山二首 

浣溪紗八首 

喜遷鶯三首 

離別難一首 

相見歡一首 

醉公子一首 

女冠子二首

謁金門一首

 

薛昭蘊:五代、後蜀の官司至侍郎。(生卒年未詳)、字、出身地ともに未詳。詞風は温庭第に近い。『花間集』には十九首の詞が収められている。『花間集』には、薛侍郎昭蘊と記されている。

醇紹撃(生没年未詳)花間集に載せられている詞人。花聞集では薛侍即とあり、侍郎の官についた人であることがわかるだけで、詳しい伝記はわからない。唐書の薛廷老伝によると、廷老の子に保遜があり、保遜の子に紹緯がある。乾寧中に礼部侍郎となった。性質は軽率であり、車に坐して夔州刺史に貶せられたという。ところでその経歴をさらにくわしく見ると、紹緯ほ乾寧3年(896)九月に中書舎人から礼部侍郎にたり、ついで戸部侍郎となり、光化2年(899)六月戸部侍郎から兵郡侍郎に選っている(唐僕尚丞郎表に依る)。これによって唐末に侍郎の官にあった人であることは明らかである。紹緯のことはまた北夢瑣言にも見えている。紹緯は才を侍み物に倣り、亦父(保遜)の風があった、朝省に入る毎に、笏を弄んで歩行し、旁若無人であった。好んで浣渓沙詞を唱したという。

 

今、花間集に侍郎とあり、また、その中に収められた十八首の詞の中、八首の浣渓沙があることから推量して薛昭蘊は紹緯と同じ人物であろうといぅ説が考えられるといわれている。晩年に磎州(渓州に同じであろう、広西に属する)に配せられているが、全唐詩の薛紹緯の条には天復中(唐末の年号、901903)に渓州司馬に貶せられたといぅひおそらくこの頃に貶せられたであろう。なお、北夢瑣言では薛澄州と呼んでいる。澄州もまた広西に属する。また、全唐詩に河東の人とあるのは、おそらく薛氏の出身地を言うのであろう。

 

歴代詩余の詞人姓氏では前局に編入して蜀に仕えて侍郎となったごとく記している。この説に従ってかれが韋荘と同じく蜀に仕えて侍郎となったとしている伝記も見受けられるが、紹澄が紹緯と同一人であるとすると上記の経歴と矛盾を生ずる。王国維は紹緯と薛昭蘊とを兄弟と見て、一門に浣溪沙詞を好んだものがあったと解しているが、この説よりも上にのべた同一人と見る説の方がよいようだ。花間集において温庭筠、皇甫松、韋荘についで薛昭蘊を並べているのも、唐王朝に仕えた人物を先に置いたためであろう。両者を同一人としておいた。

 

 

小重山二首 其一

(小重山二首 其の一:漢の陳皇后が武帝の寵愛を失い、所縁の長門宮に隠居させられて、切ない思いをすると詠う)

春到長門春草青,玉華露滴,月朧明。

春が訪れて長門宮にも春の芳草が青く芽吹く、宮殿の美しい階を降りてゆくと花の花弁に甘露が滴り、月はおぼろに照っている。

東風吹斷玉簫聲,宮漏促,簾外曉啼鶯。

春風に乗って芳草の香りと笛の音に酔っていると、きれいに飾られた簫の吹奏の音は、春の突風が吹いて中段される、宮殿の夜は日ごと短く時せわしなくすすむ、すだれの外に夜明けの鶯が啼いている。

愁起夢難成,紅粧流宿淚,不勝情。

寵愛を失って、愁いがはじまり、しだいに夢にも見なくなってしまう、春の夜に、頬を紅く染めた化粧をとかす涙は夜具をぬらす、それは耐えることができない。

手挼裙帶遶宮行,思君切,羅幌暗塵生。

皇后を廃され、長門宮に隠居させられたのである、どれほど天子の事を慕おうとこのせつなさはどれほどのものであろうか。絹のとばりにほこりや塵が積もっている。

 

(小重山二首 其の一)

春は長門に到り 春草 青く、玉 華露 滴り、月は朧に明らかに。

東風 玉簫聲の声を吹断す、宮漏 促【せきた】て、簾外 鶯 暁に啼く。

愁い極まり 夢 成り難く、紅粧 宿涙 流る、情に勝えず。

手もて裙帶を挼りつつ階を遶りて行く、君を思うこと切に、羅幌 暗に塵 生ず。

 

 

(改訂版)-4.薛昭蘊139《巻三39小重山二首 其二》

(小重山二首 其の二:漢の成帝、趙飛燕姉妹の史事を詠っている)寵愛を失ったまま秋が来る、長門宮には草木が枯れ始め、菊の黄色も枯れていく、絵模様の梁の上の番のツバメたちもその巣を去って行き、軽快な身のこなしの燕は、後宮の土塀の外に出て東南の宮殿に行ってしまった。

秋到長門秋草黃,畫梁雙去,出宮牆。

寵愛を失ったまま秋が来る、長門宮には草木が枯れ始め、菊の黄色も枯れていく、絵模様の梁の上の番のツバメたちもその巣を去って行き、軽快な身のこなしの燕は、後宮の土塀の外に出て東南の宮殿に行ってしまった。

玉簫無復理霓裳,金蟬墜,鸞鏡掩休粧。

ここの宮殿で、きれいに飾られた簫は再び吹かれることはなく「霓裳羽衣の曲」の踊りの練習さえもすることはなくなった。金蝉の簪は化粧台に置かれたまま、鳳鸞鳥の鏡に掩いがしたまま、化粧さえしなくなった。

憶昔在昭陽,舞衣紅綬帶,繡鴛鴦。

昔の昭陽殿にいたころは花形であった、舞着物には紅の綬帶の佩びていたし、鴛鴦鳥の刺繍がいっぱいに際江の寵愛を受けた。

至今猶惹御爐香,魂夢斷,愁聽漏更長。

寵愛を失った今に至っても、化粧や飾り付けの花鈿、簪を付けなくても、閨の褥の準備だけは毎日して、なお、香炉に焚くことに惹かれてはいるものの、もう夢にも出てくることはなく、秋の夜長に時を刻む漏更の音は愁いを聞くにほかならない。

 

 

(改訂版)-4.薛昭蘊139《巻三39小重山二首 其二》

『小重山二首』 現代語訳と訳註

(本文)

小重山二首 其二

秋到長門秋草黃,畫梁雙鷰去,出宮牆。

玉簫無復理霓裳,金蟬墜,鸞鏡掩休粧。

憶昔在昭陽,舞衣紅綬帶,繡鴛鴦。

至今猶惹御爐香,魂夢斷,愁聽漏更長。

 

(下し文)

(改訂版)小重山二首 其二

秋は長門に到り 秋草 黃づく,畫梁 雙鷰 去る,宮の牆を出づ。

玉簫 無く 復た霓裳を理め,金蟬 墜ちて,鸞鏡 掩うて 粧を休む。

昔を憶う 昭陽に在るを,舞衣 紅綬の帶,繡の鴛鴦。

至今 猶お御爐香に惹かる,魂夢 斷つ,愁聽す 漏更 長ずるに。

 

(現代語訳) (改訂版)小重山二首 其二

(小重山二首 其の二:漢の成帝、趙飛燕姉妹の史事を詠っている)

寵愛を失ったまま秋が来る、長門宮には草木が枯れ始め、菊の黄色も枯れていく、絵模様の梁の上の番のツバメたちもその巣を去って行き、軽快な身のこなしの燕は、後宮の土塀の外に出て東南の宮殿に行ってしまった。

ここの宮殿で、きれいに飾られた簫は再び吹かれることはなく「霓裳羽衣の曲」の踊りの練習さえもすることはなくなった。金蝉の簪は化粧台に置かれたまま、鳳鸞鳥の鏡に掩いがしたまま、化粧さえしなくなった。

昔の昭陽殿にいたころは花形であった、舞着物には紅の綬帶の佩びていたし、鴛鴦鳥の刺繍がいっぱいに際江の寵愛を受けた。

寵愛を失った今に至っても、化粧や飾り付けの花鈿、簪を付けなくても、閨の褥の準備だけは毎日して、なお、香炉に焚くことに惹かれてはいるものの、もう夢にも出てくることはなく、秋の夜長に時を刻む漏更の音は愁いを聞くにほかならない。

 

(訳注) 

小重山二首 其二

18.(小重山二首 其の二:漢の成帝、趙飛燕姉妹の史事を詠っている)

19.【解説】 小重山は後宮の故事を詠う詠懐詞狄なものである。この詩は、漢の成帝、趙飛燕姉妹の史事を詠っている。成帝は当初皇太子時代からの妃で皇后である許誇を寵愛し、臣下から子孫繁栄のため他の妻妾にも目を向けるようにと諫言されるほどであったが、後に寵愛は衰え皇后を廃位している。後に趙姉妹の姉は皇后に、妹は昭儀となり、成帝の寵愛を独占した。趙姉妹は寵愛が他に移ることを防ぐために、成帝が他の后妃などとの間に儲けた皇子を殺害した。まもなく趙飛燕は成帝の寵愛を失うが、今度は妹の趙合徳に寵愛が向けられた。

実子がいなかったため甥に当たる劉欣(後の哀帝)を皇太子に立てた翌年の綏和2年(前7年)、成帝は崩御した。突然の崩御であったため、崩御直前まで共にいた趙合徳が原因との流言が生まれ、皇太后王氏が詳細を調査しようとしたが趙合徳は自殺してしまう。皇后であった趙飛燕は哀帝が即位すると皇太后となるが、成帝の皇子を殺害していたことが発覚しその権力は表面的なものとなった。

20.【構成】・小重山は《柳色新》《小冲山》、《小重山令》という別名がある。『花間集』 には薛昭蘊の作が2首収められている。双調五十八字、前段三十宇六句四平韻、後段二十八字六句四平韻で、⑦5③⑦3⑤/⑤5③⑦3⑤の詞形をとる。

(改訂版)小重山二首 其一

春到長門春草、玉堦華露滴、月朧

東風吹斷玉簫聲、宮漏促、簾外曉啼鶯。
愁起夢難、紅粧流宿淚、不勝

手挼裙帶遶宮行、思君切、羅幌暗塵生。


(改訂版)小重山二首 其二

秋到長門秋草、畫梁雙鷰去、出宮

玉簫無復理霓裳、金蟬墜、鸞鏡掩休
憶昔在昭、舞衣紅綬帶、繡鴛

至今猶惹御爐香、魂夢斷、愁聽漏更長。

○。

 

秋到長門秋草黃,畫梁雙鷰去,出宮牆。

寵愛を失ったまま秋が来る、長門宮には草木が枯れ始め、菊の黄色も枯れていく、絵模様の梁の上の番のツバメたちもその巣を去って行き、軽快な身のこなしの燕は、後宮の土塀の外に出て東南の宮殿に行ってしまった。

21. 長門 長門宮は長安城の東南にあった。この長門宮は、元は長門園と言い、武帝の母の王氏の別荘で、陳氏の母の館陶公主が献上した物である。

《重山二首 其二》「春到長門春草青,玉堦華露滴,月朧明。」が秋に変わったもの。台座位が趙飛燕であるから、寵愛を失うことと、ツバメが帰っていたことを結びつけている。

 

玉簫無復理霓裳,金蟬墜,鸞鏡掩休粧。

ここの宮殿で、きれいに飾られた簫は再び吹かれることはなく「霓裳羽衣の曲」の踊りの練習さえもすることはなくなった。金蝉の簪は化粧台に置かれたまま、鳳鸞鳥の鏡に掩いがしたまま、化粧さえしなくなった。

22. ・理 おさめる。うでをみがく。おさまる。

23. ・霓裳 霓裳羽衣の曲【げいしょう ういのきょく】とは唐の玄宗が楊玉環のために作ったとされる曲。霓裳羽衣の曲は玄宗が婆羅門系の音楽をアレンジした曲と言われる。玄宗は愛妾である楊玉環のお披露目の際、この曲を群臣に披露し、群臣に楊玉環が特別な存在であると意識させた。楽史「楊太真外伝」によると、玄宗が三郷駅に登り、女几山を望んだ時に作曲したものである説と、玄宗が、仙人の羅公遠に連れられ、月宮に行き、仙女が舞っていた曲の調べをおぼえて作らせた説双方が記されている。楊貴妃もこれに合わせて、舞うのを得意としたという。

しかし、玄宗期に起こった安史の乱以降、この曲は国を傾けた不祥の曲であると忌まれ、楽譜も散逸してしまった。

白居易『長恨歌』

「漁陽鼙鼓動地來、驚破霓裳羽衣曲。」(漁陽の鼙鼓地を動もして来たり、驚破す 霓裳羽衣の曲。)

 

憶昔在昭陽,舞衣紅綬帶,繡鴛鴦。

昔の昭陽殿にいたころは花形であった、舞着物には紅の綬帶の佩びていたし、鴛鴦鳥の刺繍がいっぱいに際江の寵愛を受けた。

24. ・昭陽 殿の名。成帝の趙(飛燕)皇后の妹が、昭儀(女官の最高位。位は丞相に比し、爵は諸侯王に比す)となり、昭陽の殿舎にすむ。姉は飛燕といわれたが後に寵愛されなくなり、妹が愛された。趙飛燕(?‐前1)中国,前漢末の女性で,成帝の皇后。もと踊り子の出で,軽快な身のこなしが燕を思わせるところから飛燕と称された。成帝に見そめられて,妹とともに後宮に入り,帝の寵愛を一身に集めて栄華を誇った。哀帝が立つと皇太后となったが,帝の死とともに権勢を失墜して自殺した。彼女の故事を物語化した《飛燕外伝》1巻があり,漢の伶元(れいげん)の撰と称されるが,おそらく六朝人の創作であろう。《漢書》卷九十七下〈外戚列傳下·孝成趙皇后〉孝成趙皇后,本長安宮人。初生時,父母不舉,三日不死,乃收養之。及壯,屬陽阿主家,學歌舞,號曰飛燕。成帝嘗微行出,過陽阿主,作樂。上見飛燕而之,召入宮,大幸。有女弟復召入,俱為倢?,貴傾後宮。

『飛燕外伝』は成帝と趙飛燕の関係を描写した一種の小説であり、史実を忠実に反映したものとは言えないが、後世に対し成帝の印象を決定付ける役割を果たしている。その内容によれば、趙合徳は成帝の寵愛を失わぬよう特殊な房中術を以って成帝に伝え、房事の最中に成帝は急死した。この死に不審を抱いて孝元皇太后によって調査が行われた結果、趙合徳が成帝に精力剤を服用させすぎたことによる中毒死と判明し、その責任を取るため趙合徳は自殺に追い込まれた。自殺直前に趙合徳は我が身で皇帝に仕え、過分な寵愛を受けもはや思い残すことは無い(「私は帝王を股間に弄した。女の本懐、これに優るものはない」)と述べ毒を仰いだとされている。

25. ・紅綬帶 赤の印綬、印綬とは、官吏がその身分や地位を示すしるしとして天子から賜った、印およびそれを下げるための組み紐(ひも)をいい、綬帶鳥は妃嬪のうち最も寵愛をされている腰細の妃賓をいう。綬帶鳥,見於宋代古籍禽經曰: 「壽帶鳥,似山鵲而小,頭上披一帶。雌者短尾,雄者長尾。」

後宮の妃嬪の制度 内職、冊封 古来、宮中にはいわゆる「内職」という制度があった。『礼記』「昏義」 に、「古、天子は、后に六宮、三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻を立て、以て天下の内治を聴く」とある。唐初の武徳年間(618626)に、唐は隋の制度を参照して完壁で精密な「内官」制度をつくった。その規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬪(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人)、捷好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される

 

至今猶惹御爐香,魂夢斷,愁聽漏更長。

寵愛を失った今に至っても、化粧や飾り付けの花鈿、簪を付けなくても、閨の褥の準備だけは毎日して、なお、香炉に焚くことに惹かれてはいるものの、もう夢にも出てくることはなく、秋の夜長に時を刻む漏更の音は愁いを聞くにほかならない。

26. ・御爐香 女を愛する男を待つのはお香をたいた部屋であること。ここでは男が通わなくなっても依然として男を待ってお香を炉に燻らせている。化粧や飾り付けの花鈿、簪を付けなくても、閨の褥の準備だけは毎日しているというほどの意。

27. ・漏更 漏は水時計。更は夜を5分割した時間。

28. ・長 秋の夜長、待ち続ける時間が長いこと。

 

 

29. 唐の芸妓、教坊の曲 舞踊、おしゃれ

紅桃

『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。楊貴妃の侍女。楊貴妃に命じられて、紅粟玉の腕輪を謝阿蛮に渡した。後に、玄宗が安史の乱の勃発後、長安に帰還した時、楊貴妃の侍女の一人として会合する。そこで、楊貴妃の作曲した「涼州」を歌い、ともに涙にくれたが、玄宗によって、「涼州」は広められた。

謝阿蛮

『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。新豊出身の妓女。「凌波曲」という舞を得意としていた。その舞踊の技術により、玄宗と楊貴妃から目をかけられ、腕輪を与えられた。後に、玄宗が安史の乱の勃発後、長安に帰還した時、舞踊を披露した後で、その腕輪を玄宗に見せたため、玄宗は涙を落としたと伝えられる。

張雲容

全唐詩の楊貴妃の詩「阿那曲」で詠われる。楊貴妃の侍女。非常に寵愛を受け、華清宮で楊貴妃に命じられ、一人で霓裳羽衣の曲を舞い、金の腕輪を贈られたと伝えられる。また、『伝奇』にも説話が残っている。内容は以下の通りである。張雲容は生前に、高名な道士であった申天師に仙人になる薬を乞い、もらい受け、楊貴妃に頼んで、空気孔を開けた棺桶にいれてもらった。その百年後に生き返り、薛昭という男を夫にすることにより、地仙になったという。

王大娘

『明皇雑録』『楊太真外伝』に見える。教坊に所属していた妓女。玄宗と楊貴妃の前で雑伎として、頭の上に、頂上に木で山を形作ったものをつけた百尺ある竿を立て、幼児にその中を出入りさせ、歌舞を披露する芸を見せた。その場にいた劉晏がこれを詩にして詠い、褒美をもらっている。

許和子(永新)

『楽府雑録』『開元天宝遺事』に見える。吉州永新県の楽家の生まれの女性で本名を許和子と言った。開元の末年ごろに後宮に入り、教坊の宜春院に属した。その本籍によって、永新と呼ばれた。美貌と聡い性質を持ち、歌に長じ、作曲を行い、韓娥李延年の千年来の再来と称せられた。玄宗から寵愛を受け、演奏中もその歌声は枯れることがなく、玄宗から「その歌声は千金の価値がある」と評せられる。玄宗が勤政楼から顔を出した時、群衆が騒ぎだしたので、高力士の推薦で永新に歌わせたところ、皆、静まりかえったという説話が伝わっている。
安史の乱の時に、後宮のものもバラバラとなり、一士人の得るところとなった。宮中で金吾将軍であった韋青もまた、歌を善くしていたが、彼が広陵の地に乱を避け、月夜に河の上の欄干によりかかっていたところ、船の中からする歌声を聞き、永新の歌と気づいた韋青が船に入っていき、永新と再会し、涙を流しあったという説話が残っている。その士人が死去した後、母親と長安に戻り、民間の中で死去する。最期に母親に、「お母さんの金の成る木は倒れました」と語ったと伝えられる。清代の戯曲『長生殿』にも、楊貴妃に仕える侍女として登場する。

念奴

『開元天宝遺事』に見える。容貌に優れ、歌唱に長け、官妓の中でも、玄宗の寵愛を得ていた。玄宗の近くを離れたことがなく、いつも周りの人々を見つめていて、玄宗に「この女は妖麗で、眼で人を魅了する」と評された。その歌声は、あらゆる楽器の音よりもよく響き渡ったと伝えられる。唐代詩人の元稹の「連昌宮詞」に、玄宗時代の盛時をあらわす表現として、玄宗に命じられた高力士が、彼女を呼び、その歌声を披露する場面がある。清代の戯曲『長生殿』にも、永新とともに、楊貴妃に仕える侍女として登場する。

 

―服装

唐代の女性の服装は、貴賎上下の区別なく、だいたいにおいで杉(一重の上着)、裾(スカート)、岐(肩かけ)の三つからなっていた。上着の衫のすそは腰のあたりで裙でとめる。裙はたいていだぶだぶとして大きく、長くて地面をひきずるほどであり、普通六幅(一幅は二尺二寸)の布で作られた。肩に布をかけるが、これを「帔服」といい、腰のあたりまでゆったりと垂れている。また、常に衫の上に「半臂」(袖の短い上着)をはおったが、これはかなり質のよい布で作り、主に装飾のためのものであった。足には靴か草履をはいたが、これらは綿布、麻、錦帛、蒲などで作られていた。

 

―化粧

唐代の女性は、化粧にたいへん気をつかった。普通は、顔、胸、手、唇などに白粉や頬紅をつけ、また肌を白くし、あるいは艶やかにしたが、それ以外に眉を画くことをことのほか重視した。眉毛の画き方はたいへん多く、玄宗は画工に「十眉図」を描かせたことがあり、それらには横雲とか斜月などという美しい名称がつけられていた(『粧楼記』)。ある人は、唐代の女性は眉毛の装飾に凝り、それはいまだかつてなかった水準に達したと述べている。その他、彼女たちは額の上に黄色の粉を塗り、それを「額黄」「花蕊」「蕊黄」といった。また、金箔や色紙を花模様に切り抜いて両眉の間に貼るのが流行り、「花細」、「花子」などと呼んだ。その他、両頬に赤、黄の斑点、あるいは月や銭の図柄を貼るケースもあり、これは「粧靨」靨はえくぼの意)といった。

唐の玄宗皇帝が画工に命じて描かせた《十眉図》に見られるように,鴛鴦眉(八字眉),小山眉(遠山眉),五嶽眉,三峯眉,垂珠眉,月稜眉(却月眉),分稍眉,涵烟眉,払雲眉(横烟眉),倒暈眉の10種類であった。唐の末期には〈血曇粧〉といって目の縁を赤紫に彩った化粧がはやった。

 

 ―髪型

髪型はさらに豊富多彩で、段成式の著作『髻鬟品』 には、多種多様の髪型が列挙されている。たとえば、半翻髻【はんほんけい】、反綰髻【はんわんけい】、楽游髻、双環望仙髻、回鶻髻、愁来髻、帰順髻、倭堕髻など。髻の上に、色々な宝石や花飾りの簪を挿したり、歩揺(歩く度に美しく揺れ光る髪飾り)を着けたり、櫛を挿したりして飾った。それらは、貧富や貴賎によって定まっていた。

衣服、装飾などはきわめて墳末な物ではあるが、かえって一滴の水と同じょうに、往々にして社会の多種多様の情況をよく映し出すことができた。唐代の女性の服飾もその例に漏れない。そこに浮かび上がる特色もまた、まさに唐代という社会の諸相を映し出す映像そのものであった。

 

10節 化粧と美意識

 

一 胡装

胡服を着て胡帽を被る ー 「女が胡の婦と為り胡敏を学ぶ」(元横「法曲」)、これは唐代女性の特別の好みの一つであった。唐代の前期には、女性が馬に乗って外出する際に被った「帯解」(頭から全身をおおうスカーフ)は、「戎夷」(周辺の蛮族)から伝わった服装であった。また、彼女たちは袖が細く身体にぴったりした、左襟を折り返した胡服を好んで着た。盛唐時代(開元〜大暦の間)には、馬に乗る時に胡帽をかぶるのが一時流行した。胡服・胡帽の姿は絵画や彫刻、塑像の中で、随所に見ることができる。

彼女たちは、また胡人の化粧をも学んだ。ファッション

「新楽府」「其三十五 時世妝」 白居易

時世妝,時世妝,出自城中傳四方。

時世流行無遠近,腮不施朱面無粉。

烏膏注唇唇似泥,雙眉畫作八字低。

妍媸黑白失本態,妝成盡似含悲啼。

圓鬟無鬢堆髻樣,斜紅不暈赭面狀。

昔聞被發伊川中,辛有見之知有戎。

元和妝梳君記取,髻堆面赭非華風。

 

時世の妝 時世の妝、城中より出でて四方に傳はる。

時世の流行 遠近無し、腮に朱を施さず面に粉無し。

烏膏唇に注(つ)けて唇泥に似たり、雙眉畫きて八字の低を作す。

妍媸 黑白 本態を失し、妝成って盡く悲啼を含めるに似たり。

圓鬟(かん)鬢無く堆髻の樣、斜紅暈せず赭面の狀。

昔聞く 被髪伊川の中、辛有之を見て戎有るを知る。

元和(806820年)の妝琉(顔の化粧、髪型) 君 記取よ、髻椎、面赭は華風に非ざるを。

 

流行の化粧は、都会から出て四方に伝わる、時勢の流行には近在も遠方もない、頬紅をささず顔に白粉を塗らぬ、黒い油を口に塗って泥を見るようだ、眉を書けば八の字に垂れ下がって見苦しい(時世妝:流行の化粧法、腮:顎から頬にかけて)

美醜と黒白がひっくり返って、化粧した顔は泣きべそ顔だ、丸髷にはふくらみがなくさいづちまげのようだし、頬紅はぼかしてないのでまるで赤ら顔だ(妍媸:美醜、含悲啼:泣きべそ顔、圓鬟:丸髷、堆髻:さいづちまげ、胡人の女が結ぶ、斜紅:斜めに引いた頬紅、赭面:赤ら顔)

昔のことに、髪をふり乱した者たちが伊川で踊っているのを見て、辛有はその地が戎の地だといったというではないか、元和の流行の化粧について記録しておいてほしい、さいづちまげや赤ら顔は華風ではないと(被髪:髪を振り乱す、妝梳:化粧とヘアスタイルのこと)

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