花間集 訳注解説  (154)回目薛昭蘊 十九首《巻三-37喜遷鶯三首其三》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8492

 巻三-37 薛昭蘊 喜遷鶯三首其三

 

 

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花間集 訳注解説  (154)回目薛昭蘊 十九首《巻三-37喜遷鶯三首其三》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8492

(何年も頑張って来て進士に及第した、その日は春の盛りの清明節に晴天であったのに、雨がぱらついたが馬を飛ばし、野山に行楽に出かけ、楽しみ、帰り道まで、雨に濡れたも活力を出している、自分も次の目標にむかって頑張ろうと詠う。)

清明節の日、朝から晴天であったのに突然雨が降り出した。それでも、まさに積年の願いがみのり、おもいが叶ったということだ。我が馬は高さ六尺の馬である、少し雨が降ったので少し道が軟らかく、錦の幟の美しい情景が続き、既に乾いて来ている。袖口を加工していてそこの香りがするが鞭を軽く当てると、香りが広がり、自分も気にいっている。花の色はこの景色に溶け込み、人々も、この景色を口々に賞賛する。この日のために刺繍で飾った鞍敷きをつけ鞍をつけ、馬の赤のむながいをあたらしくしてやったから、これもみんなが褒めそやす。花の色はこの景色に溶け込み、人々も、この景色を口々に賞賛する。この日のために刺繍で飾った鞍敷きをつけ鞍をつけ、馬の赤のむながいをあたらしくしてやったから、これもみんなが褒めそやす。

 

 

 

 

花間集 巻三

 

 

 

 

 

喜遷鶯三首 其一

殘蟾落,曉鐘鳴,羽化覺身輕。乍無春睡有餘酲,杏苑雪初晴。

紫陌長,襟袖冷,不是人間風景。迴看塵土似前生,休羨谷中鶯。

 

其二

金門曉,玉京春,駿馬驟輕塵。樺煙深處白衫新,認得化龍身。

九陌喧,千啓,滿袖桂香風細。杏園歡宴曲江濱,自此占芳辰。

 

其三

清明節,雨晴天,得意正當年。馬驕泥軟錦連乾,香袖半籠鞭。

花色融,人競賞,盡是繡鞍朱鞅。日斜無計更留連,歸路艸和煙。

 

 

 

花間集 教坊曲《喜遷鶯三首其三》韋莊

 

 

花間集 訳注解説 巻三-37喜遷鶯三首其三

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8492

 

 

 

1. 長安の妓女 (3/3

 

 妓女は買われてくると、歌舞や酒席での遊戯などを習い、少しでも怠けると仮母に激しく鞭打たれたり殴られたりし、成人に達すると客を取り銭を稼がされた。彼女たちは行勤の自由がなく、平生は勝手に門を出ることもできなかった。平康里の妓女は僧が道でお経を講ずるのを最も待ち望んだ。僧が来ると、仮母に千文納めて機を見て外出し、半日間自由の空気を吸うことができたからである。

 妓女は平生、人に呼ばれて宴会や遊戯の席に侍ったり、あるいは家で客を接待したりした。毎年新たに進士の合格者が発表されると、彼らは盛んに平康里に泊って遊んだ。この時こそ彼女たちの最も多忙な時期であった。長安の妓女の大半は歌や踊りといった技芸にそれほど熟達してはいなかったので、往々にしてさかんに客にふざけたりへつらったりした。普段は客席に侍り、話のあいづちをうったり、また客と寝て売春するのが主で、芸は補助的なものであった。こうした点が、地方の楽営妓女と違うところであり、また後世の娼妓と似ているところであった。客席に侍る料金は一般に一席あたり四銀(銀は銅銭の単位)であり、灯ともし時になるとその倍になった。新来の客は倍の料金を払った。新しく進十に合格した者が妓女を買う時は、慣例により一般の客よりも多くの花代を包まねばならなかった。値段は妓女の名声や地位によって決められた。平康里の名妓天水仙寄は少しばかり名声があり、貴公子劉草が彼女を遊びに呼ぼうとしたが彼女はわざと断った。そこで劉草は次々と値段を上げ、ついにかれこれ百余金を投じた。また、客は銭の支払いの他に絹布などを贈って礼晶とした。たとえば中央の官僚たちが鄭挙挙の家に集まって酒を飲む時には、座が盛りあがると客はそれぞれ彩締などを御礼に贈った。こうしたことは、客が自ら自由意志で行うことであった。

 雛妓(半玉)の「初夜権」は高い値段で買い取らねばならなかった。南曲の張住住が成人になろうとした時、金持の陳小鳳は大金を出し「その元を取ろう」とした。彼女はすでに処女を失っていたが、手管を使って処女のごとく振舞って陳を馴した。陳は処女を得たと思い、さらに三編(一権は銅鉄一千枚)を張家にやった。その他、「買断」という決まりもあった。つまり妓女が一人の客に独占されることであり、客が毎日仮母に一彬を払うと、この妓女はもう他の客をとれなかった。

 

 少し有名な妓女はなじみの客を多くよぶことができたので、豪門や富貴の客から大量の銭と晶物が仮母の懐に入った。これらの妓女の生活は一般にかなり裕福であり、贅沢ですらあった。また、ある妓女は仮母に大量の金を儲けさせたが、仮母はいぜんとして彼女にぴどく辛くあたった。たとえば楊莱児は仮母にたっぷり金を儲けさせたが、仮母は彼女を虐待した。それで、莱児は身請けされて行く時、仮母を大いに罵り衣を払って去った。やっと誉憤を晴らしたのである。下層妓女の収入はたいへん少なく、生活はきわめて苦しかった。張住住の家の場合は、抱えている二人の妓女が売れなかったので、置屋は没落し、雑貨を売って生活しなければならなかった。

 

 教坊籍に入らない妓女は官府の統制下になかったので、客から身請けされ堅気となって嫁すことができた。落籍の費用は地位によって異なっており、先に述べた王福娘の請け値は。一、二百金〃であった。これはだいたい中等の値段であり、妓女の標準の値段であった。唐代の小説『李娃伝』の主人公李娃は堅気になろうとして、二十年間の衣食代を白分の貯えた金の中から仮母に返し、身請けされた。この金額は決して少なくはなかったはずである。こうしたことは現実にはそう多いことではなかったであろう。なぜなら、かりに名高い妓女でも普通はこれほど多くのへそくりをエ面することは難しかったからである。身請けの大部分は客が見初めたものであって、彼女たちの意志ではどうすることもできなかった。しかし、長安の妓女は総じて地方官妓に比べるといくらか主体性を持っていた。たとえば、王福娘は挙子(科拳受験生)の孫渠を見初め、彼に落籍を頼んだ。また、睦州刺史の柳斉物は名妓の嬌陳を好きになった。彼女はそれに応えて「もし科挙に合格して錦帳三十枚をくださるなら、一生お仕えいたします」と答えた。柳斉物は果たして錦帳を数通りそろえて彼女を迎えにきたので、彼女は柳家に嫁いだ(『因話録』巻一)。何はともあれ、無理に落籍されたり贈答の具に供されたりするのに比べたらずっとマシであった。

 

 以上が長安に生きる妓女のおよその生活状態であるが、東都洛陽や揚州など大都市の妓女の生活も、長安により近かったようである。揚州は娼妓の都市としてたいへん有名なところであり、ひとたび夜になると、「妓楼の上に、常に赤い絹の被いで包んだ夜燈が無数にともされ空中に輝いた。九里三十歩の広さの街は、真珠、栽翠などさまざまな飾りで満ち溢れ、はるか遠い仙境のようだった」(『太平広記』巻二七三)という。この繁華の情景は妓館の多さ、遊廓の繁栄ぶりをよく物語っている。ここは長安の平康里とひじーっによく似ており、妓女たちの生活も長安とほぼ同じだったと思われる。

 

(改訂版)-4.薛昭蘊135《巻三35喜遷鶯三首 其一》
喜遷鶯三首 其一

(喜遷鶯三首 其の一:進士にやっと及第し、貴族の庭園をまわり、杏園で祝賀で飲み過ぎてたので、気持ちの良い春暁も二日酔いで台無しだ、それにしても、及第したものよりもはるかに落第したものが多くいえり袖を濡らしたことだろう、しかし、落第したからといって、羨んでいても仕方ないと詠う。)

殘蟾落,曉鐘鳴,羽化覺身輕。

昨日の祝宴で飲み過ぎて、名残の月も沈んでしまい、暁の仕事始めの鐘が打ち鳴らされた、酔いはのこったままで天にも昇るほど、身が軽くまだ夢見心地なのだ。

乍無春睡有餘酲,杏苑雪初晴。

そんな春眠はたちまちのうちに醒めてしまう、ところが、どうやら二日酔いのようである。杏の中庭の庭園には春の雪が降っていたが、夜明けから天気も晴れてくる。

紫陌長,襟袖冷,不是人間風景。

牡丹の花を廻ってお屋敷をはしごした、都大路は長く、落第してえりと云い袖と云い涙でぬれたものにとって朝の風は冷たいし、しかし、これだけが人の世の風景というものではない。

迴看塵土似前生,休羨谷中鶯。

この人の俗世間を見まわしてみると結局、ずっと以前から同じようなことを繰り返している、だからといって、鶯が啼いて谷を移り変わってゆく、世渡りの上手い立身出世を遂げてゆく絶頂期のものを羨んだりすることはやめたほうが良い。

殘蟾【ざんせん】落ち,曉鐘【ぎょうしょう】鳴る,羽化 身輕を覺ゆ。

乍ち春睡無く餘酲有り,杏苑 初めて晴れ雪のごとし。

紫陌 長く,襟袖 冷か,是れなく人間風景を。

迴看し塵土 前生に似たり,羨むを休む 谷中の鶯。

 

(改訂版)-4.薛昭蘊136《巻三36喜遷鶯三首 其二》

喜遷鶯三首 其二

(喜遷鶯三首 其の二:科挙に及第したその当日、天子に謁見し、その後街に出て祝福を受け、杏園、曲江での祝宴を満喫すると詠う。)
金門曉,玉京春,駿馬驟輕塵。

いつも見る金光門の暁が、今日は晴れやかだ、天子におあいできる輝かしい都の春である、駿馬もこの日は次々に入城してきて、急ぎ馬が砂塵を巻いて突っ走り、人も集まって進むと砂塵が舞う。

樺煙深處白衫新,認得化龍身。

謁見の宮殿には樺の燭火の煙は奥まったところにまで漂っていて、そこには白く新しい上着をまとった官女がならぶ、そこ二つの角と五つの爪を持つ龍に化身された皇帝が鎮座されているのが分かった、科挙試験合格が実感として感じる。

九陌喧,千啓,滿袖桂香風細。

安城の南北にぬける「九通」はどの通りも喧しくなり、たくさんの邸宅、家という家の門は開かれた、及第者は、各家を回って祝ってもらう、通りの大勢の人々は手を振って喜んでくれ、各所で焚かれる桂のお香は春のおだやかな微風に乗って届いてくる。

杏園歡宴曲江濱,自此占芳辰。

夕方には、杏園で、歓喜の祝宴を賜り、曲江のほとりの砂浜でも色とりどりの幔幕が張られ祝いの宴が催され、長安の街を園遊する。このようにいま自分は目標を達成し、よい日、よい時を一人でかみしめ、満喫しているのだ。

(喜遷鶯三首 其の二)

金門の曉,玉京の春,駿馬は驟【はし】り 輕塵【じんけい】す。

樺煙 深處 白衫の新,認得す 龍身に化するを。

九陌の喧,千の啓,滿袖 桂香 風細やかなる。

杏園の歡宴 曲江の濱,自ら此に 芳辰を占む。

 

(改訂版)-4.薛昭蘊137《巻三37喜遷鶯三首 其三》

喜遷鶯三首 其三

(何年も頑張って来て進士に及第した、その日は春の盛りの清明節に晴天であったのに、雨がぱらついたが馬を飛ばし、野山に行楽に出かけ、楽しみ、帰り道まで、雨に濡れたも活力を出している、自分も次の目標にむかって頑張ろうと詠う。)

清明節,雨晴天,得意正當年。

清明節の日、朝から晴天であったのに突然雨が降り出した。それでも、まさに積年の願いがみのり、おもいが叶ったということだ。

馬驕泥軟錦連乾,香袖半籠鞭。

我が馬は高さ六尺の馬である、少し雨が降ったので少し道が軟らかく、錦の幟の美しい情景が続き、既に乾いて来ている。袖口を加工していてそこの香りがするが鞭を軽く当てると、香りが広がり、自分も気にいっている。

花色融,人競賞,盡是繡鞍朱鞅。

花の色はこの景色に溶け込み、人々も、この景色を口々に賞賛する。この日のために刺繍で飾った鞍敷きをつけ鞍をつけ、馬の赤のむながいをあたらしくしてやったから、これもみんなが褒めそやす。

日斜無計更留連,歸路艸和煙。

花の色はこの景色に溶け込み、人々も、この景色を口々に賞賛する。この日のために刺繍で飾った鞍敷きをつけ鞍をつけ、馬の赤のむながいをあたらしくしてやったから、これもみんなが褒めそやす。

 

 

(改訂版)-4.薛昭蘊137《巻三37喜遷鶯三首 其三》 

『喜遷鶯三首 其三』 現代語訳と訳註

(本文)

喜遷鶯三首 其三

清明節,雨晴天,得意正當年。

馬驕泥軟錦連乾,香袖半籠鞭。

花色融,人競賞,盡是繡鞍朱鞅。

日斜無計更留連,歸路艸和煙。

 

(下し文) (改訂版)喜遷鶯三首 其三

喜遷鶯三首 其の三

清明節,晴天に雨ふり,意を得る 正に年に當るを。

馬は驕 泥は軟 錦 連って乾とす,香袖 半ば籠鞭す。

花色は融け,人は賞を競う,是を 繡鞍 朱鞅に盡す。

日斜となりも計無く 更に留り連るも,歸路は艸 煙に和む。

 

(現代語訳) (改訂版)喜遷鶯三首 其三

(何年も頑張って来て進士に及第した、その日は春の盛りの清明節に晴天であったのに、雨がぱらついたが馬を飛ばし、野山に行楽に出かけ、楽しみ、帰り道まで、雨に濡れたも活力を出している、自分も次の目標にむかって頑張ろうと詠う。)

清明節の日、朝から晴天であったのに突然雨が降り出した。それでも、まさに積年の願いがみのり、おもいが叶ったということだ。

我が馬は高さ六尺の馬である、少し雨が降ったので少し道が軟らかく、錦の幟の美しい情景が続き、既に乾いて来ている。袖口を加工していてそこの香りがするが鞭を軽く当てると、香りが広がり、自分も気にいっている。

花の色はこの景色に溶け込み、人々も、この景色を口々に賞賛する。この日のために刺繍で飾った鞍敷きをつけ鞍をつけ、馬の赤のむながいをあたらしくしてやったから、これもみんなが褒めそやす。

花の色はこの景色に溶け込み、人々も、この景色を口々に賞賛する。この日のために刺繍で飾った鞍敷きをつけ鞍をつけ、馬の赤のむながいをあたらしくしてやったから、これもみんなが褒めそやす。

 

(訳注) (改訂版)-4.薛昭蘊137《巻三37喜遷鶯三首 其三》

喜遷鶯三首 其三

25.(何年も頑張って来て進士に及第した、その日は春の盛りの清明節に晴天であったのに、雨がぱらついたが馬を飛ばし、野山に行楽に出かけ、楽しみ、帰り道まで、雨に濡れたも活力を出している、自分も次の目標にむかって頑張ろうと詠う。)

 

26. 進士及第の発表があり、祝宴も終ってすぐの清明節の日に、鞍敷き鞍もその日もままに街を出ると、節句を祝う幟も加わっていたが、得意満面で馬を進め、待ち中を巡り、歩いたけれど、計画があるわけでもなく、夕方まで続けていたが、草の芽は朝方の潤いを受けて夕方には、勢いを増していた、自分も、次の目標に向かって意気をつよくした。


*
ただ、薛昭蘊という人物は『花間集』で高く取り上げられているものの誰だかわかっていない。この詩からも高級官僚になった家柄であろうということは推察できる。おそらく899年兵部侍郎になった紹緯に間違いないと考える。(9-1小重山二首其一に示した略歴とは異なる。)

 

27.【構成】喜遷鶯は、またの名を喜選鶯令、鶴冲天、鶴冲霽、燕帰来、燕帰梁、早梅芳、春光好などという。遷鶯は鶯遷のこと。 鶯が谷から出て大きな木に移ること。転じて、立身出世すること。進士の試験に及第することをいう。科挙の試験に合格し、朝まだき、天子にお目見えするさまを、道教の神、玉華君にお目見えするさまを借りて詠うもので率直な表現をしている。“花間集」には薛昭蘊の詩三首収められている。双調四十七字、前段二十三字五句五平韻、後段二十四字五句二仄韻二平韻で、3③⑤⑦⑤/3❸❻⑦⑤の詞形をとっている。
(改訂版)喜遷鶯三首 其一

殘蟾落、曉鐘鳴、羽化覺身

乍無春睡有餘、杏苑雪初晴。

紫陌長、襟袖、不是人間風
迴看塵土似前
、休羨谷中鶯。


(改訂版)喜遷鶯三首 其二

金門曉、玉京春、駿馬驟輕

樺煙深處白衫新、認得化龍

九陌喧、千、滿袖桂香風
杏園歡宴曲江、自此占芳辰。


(改訂版)喜遷鶯三首 其三

清明節、雨晴天、得意正當

馬驕泥軟錦連乾、香袖半籠

花色融、人競、盡是繡鞍朱
日斜無計更留、歸路艸和


 

清明節,雨晴天,得意正當年。

清明節の日、朝から晴天であったのに突然雨が降り出した。それでも、まさに積年の願いがみのり、おもいが叶ったということだ。

28.・清明節 「清明節」は地球から見た太陽の位置で算出する暦上の二十四節気のひとつ。清明節の前日は「寒食節」と呼ばれる。二十四節気の第5。三月節(旧暦2月後半 - 3月前半)。現在広まっている定気法では太陽黄経が15度のときで45日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。恒気法では冬至から7/24年(約106.53日)後で47日ごろ。《太平廣記四_翰林院》「應擧進士及第。清明節這天」「清明時節雨紛紛」と見える。進士合格発表と、清明節、雨降りという日もあったようだ。

期間としての意味もあり、この日から、次の節気の穀雨前日までである。

謝靈運『入東道路詩』

整駕辭金門.命旅惟詰朝.

懷居顧歸雲.指塗泝行飆.

清明節.榮華感和韶.

陵隰繁綠杞.墟囿粲紅桃.

入東道路詩 謝霊運(康楽) 詩<44#1>Ⅱ李白に影響を与えた詩430 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ1107

『月蝕詩 其二』

東海出明月,清明照毫髮。朱弦初罷彈,金兔正奇

三五與二八,此時光滿時。頗奈蝦蟆兒,吞我芳桂枝。

我愛明鏡潔,爾乃痕翳之。

月蝕詩 盧仝 詩<7>Ⅱ中唐詩512 漢文委員会kanbuniinkai 紀頌之の漢詩ブログ1615

張泌『江城子 二首 其一』

碧欄干外小中庭,雨初晴,曉鶯聲。

飛絮落花,時節近清明。

睡起捲簾無一事,勻面了,沒心情。

江城子 二首 其一 張泌ⅩⅫ唐五代詞・「花間集」 Gs-357-7-#19  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3332

29. ・雨晴天 晴天なのに突然雨が降り出した。

30. ・得意 ①自分の心に叶うこと。②望みどおりになる。③おごりたかぶる。④心地良いこと。⑤国名。⑥商売上のきまったお客。

31. ・正當 正しく当たる。丁度~に当たる。賈島《三月晦日日贈劉評事詩》「三月正當三十日、風光別我苦吟身。」

32. ・年 ①みのる。②穀物。③とし。④時、代。⑤新年。

 

馬驕泥軟錦連乾,香袖半籠鞭。

我が馬は高さ六尺の馬である、少し雨が降ったので少し道が軟らかく、錦の幟の美しい情景が続き、既に乾いて来ている。袖口を加工していてそこの香りがするが鞭を軽く当てると、香りが広がり、自分も気にいっている。

33. ・馬驕 馬高が六尺の馬を驕という。《詩経、小雅》「我馬維驕」

34. ・泥軟 少し雨が降ったので少し道が軟らかくなっている。

35. ・錦連乾 美しい情景が続く、乾は①強い。すこやか。②天,空、雨。③乾く、乾かす。④生気がない。

36. ・香袖 香りが袖口からしてくる。

37. ・半籠鞭 1.寒い時に鞭を持つ手が寒いので手袋のように袖口に加工をしたもの。半はつよくではなくなかばむちをふる。

 

花色融,人競賞,盡是繡鞍朱鞅。

花の色はこの景色に溶け込み、人々も、この景色を口々に賞賛する。この日のために刺繍で飾った鞍敷きをつけ鞍をつけ、馬の赤のむながいをあたらしくしてやったから、これもみんなが褒めそやす。

38. ・融 景色に溶け和む。

39. ・競賞 鑑賞を競う。馬飾、自宅の庭、着ている服などをじまんしあう。

40. ・繡鞍 刺繍で飾った馬の鞍。

41. ・朱鞅 赤の馬のむながい。赤い馬の腹帯。男を恨む。

 

日斜無計更留連,歸路艸和煙。

しかし、今日も日が傾いて来ても、進士に及第したといって次に何の計画もない、そうかといって、さらにここに留どまり続けるのもいかがなものか、帰り道には雨が草に活力を与え力強く成長していこうとしていて、夕靄が草草の上にかかってきて景色を和ませてくれる。

42. ・日斜 時間の経過を示す。日が落ち掛けてきたこと。

43. ・無計 進士に及第したばかりで、これといって次に何の計画もない。

44. ・更留連 なんにもするきにならないのでさらにここに留どまり続ける。

45. ・艸和煙 うっそうと生えてきた草が夕靄になじんでくる、と抒情的な表現になるが、ここでは草は行楽に来ている不特定のおんなであり、煙は作者自身であり、草むらで一緒に過ごしたという意味になる。

 

 

 

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1. 長安の妓女 (1/3

 

 ここでは主に長安の平康里や、その他の街坊に集中して住んでいた一般の娼妓について述べたい。先に迷べた皇室専属の教坊妓はこの中には含まない。

 長安の官妓は、上に述べた地方の官妓とは多くの違いがあるように思う。唐後期の孫渠が長安の妓女について専門に記した『北里志』と、その他こまごまとした史料からみると、長安の妓女も官府に属し、官府の御用に応じなければならなかったが、しかし官奴婢としての色合いはそれほど強くはなかった。官府の彼女たちに対する支配は比較的ゆるやかで、彼女たちも自分がどの長官の管理下にあるかもよく知らず、身分の束縛もあまりなく、地位も少しばかり高かった。また、彼女たちは官府から衣食を支給されておらず、自分で商売を営んでおり、後世の娼妓とほとんど変りなかった。これはたぶん、長安などの大都市が各界の人士、とりわけ天下の才子である進士たちが遊ぶ有名な場所であり、朝廷の支持と容認の下、妓楼で遊ぶ風潮がたいそう盛んであったため、長安などの妓女たちを官府が独占的に支配することはもはやきわめて難しく、しだいに社会仝体に開放されていったからであろう。こうした情況は、およそ唐の中後期に向うに従って次第に発展していった。しかし、地方官妓は唐の後期になると藩鎮が巨大な権力を持ったため、なおいっそう地方官、とりわけ藩鎮の独占支配を受けることとなった。長安の妓女たちの生活情況は、唐代の官妓がしだいに自由業の娼妓に変化してゆく過程をよく反映している。

 長安の妓女は「楽営」には属さず、孫渠の『北里志』序の言葉をかりると、「京中の飲妓、籍は教坊に属す」というように、籍は教坊にあった。先に述べたように、玄宗時代に教坊が設立されたのは、もともと天下の芸人を集めて訓練を行い、専ら宮廷の御用に供するためであったが、『北里志』がいう「京中の飲妓」とは明らかに宮廷に奉什する芸人ではなく、民間で営業する娼妓であり、彼女たちも教坊には住まず、平康里やその他の里坊に住んでいたのである。これでは「京中の飲妓、籍は教坊に属す」という記述と矛盾する。いったいどうしたことだろうか。筆者が推測するに、これはたぶん教坊制度の変化と関係があるように思う。玄宗以後、教坊はしだいに衰退していったが、後の時代になっても教坊は依然としてたびたび芸妓を選抜して朝廷の御用に供していた。しかしふだんは彼女たち仝部を教坊の中に住まわせることができなくなり、ただ若干の名妓だけを選んで教坊籍に入れ、いつでも宮廷の御用に派遺できるようにしていた。大半の妓女は普通はもといた置家とか、自宅に住んで、前と同じく自由営業の娼妓生活を送っていた。白居易の「琵琶行」に、「自ら言う 本これ京城の女、家は蝦煥陵(長安の東部、常楽坊にあった街区名)下に在りて住む。十三にして琵琶を学び得て成り、名は教坊第一部に属す。……五陵(漢の五帝陵が並び長安の上流階級が多く住んでいた地城)の年少、争って纏頭し(祝儀を出す)、一曲に紅納数を知らず」とある。この教坊籍に名を列した琵琶妓は教坊に住んではおらず、一般社会で芸を売り身を売って生活していたのである。

 長安の娼妓は、名儀上でも決してすべてが教坊に属していたのではない。『北里志』の「楊妙児」なる一節に記載されている妓女の王福娘は、人に身請けされることを願い、「私は幸いに教坊籍に入っていません。あなたにもし結婚の意志があるなら一、二百金のみですみます」といった。どうやら、教坊籍に入っていれば「官身」となり勝乎に請け出されることはできないが、教坊籍に入っていないものは金を出し身請けする人がいればいつでも落籍できたようである。しかし、教坊籍に入っていない妓女も、やはり完全に官妓身分から脱していたというわけではなかった。「楊妙児」の一節によると、妓女たちがたとえ客から「買断」(特定の客が囲い独占すること)されても、いぜんとして彼女は「官使を免れず」、つまりこれまで通り官府への奉什を免れることができなかったようである。また同書には、「およそ中央官僚の集まりや宴会には、役所から妓女を借り出す許可状をもらわねばならず、そうやって始めて彼女たちは他処に出ることができた」(『北里志』序)とある。官僚が妓女を宴遊に呼ぶには官府の許可が必要だったということは、妓女が官妓の身分であったことを証明している。その他、平康里の妓女たちの中には「都知」と呼ばれるものがいて、妓女たちを分担管理しており、古株のものがその任に就いた。妓女にも一定の組織があり、完全に独立し自由というわけでなかったことが分かる。教坊籍に入っていない妓女は、当然長安の妓女の大多数を占めていたはずだが、彼女たちは一体どこの管轄下に属していたのだろうか。地方州府の制度に照らせば、京兆府の管轄下に属すのが当然と思われるが、いまだそうした記録を見出せないので、みだりに結論を出さないでおきたい。

 

 

1. 長安の妓女 (2/3

 

 長安の妓女の人多数は平康里に住んでいた。「長安に平康坊という所があって、妓女の居住地である。京都の侠少(遊侠の若者)は此に草集る。……当時の人々はこの坊を風流藪沢(歓楽街)と呼んだ」(『開元天宝遺事』巻上)。『北里志』の記載によると、平康里の街区は三曲に分れ、名妓は多く南曲、あるいは中曲に住み、北曲に住むものの大多数は無名の「卑屑」(醜くて卑しい)の小妓であった。この三曲に住む妓女の生活にも高低貧窟の差があった。漸飴、中油はおおむね駄院汁こムく浄似で、完内には花が植えられ池もあり、室内の設備は快適で、華美にすぎるものさえあったが、下層の妓女の住まいは粗末なものであった。劉泰娘は北曲の小さな家の娘であったから、他の妓女たちと宴席に向う時、あなたは何処にお住まいですかと聞かれると、言葉をにごして、門前に一本の木がありますわ、などと言うだけであった。どの曲内に住んでいるかが、その妓女の身価に大きな関係があったようである。それ以外にも平康里に住まない妓女がおり、その他の街坊にそれぞれ分散して住んでいた。

 

 妓女たちは皆それぞれ一派を立て、家を単位に独一丑して営業していた。彼女たちのあるものは家族と一緒に住んでいたが、多くは家の暮らしが立たないので、妓女として生きざるをえなかったのである。たとえば、唐代の小説『崔小玉伝』(蒋防作)の主人公宦小玉は、もともと崔王の娘であったが、母親が崔王の婢女であったから、後に母娘ともども追い出されてしまった。やむなく小玉は妓女となり母と一緒にくらした。また、「琵琶行」に出てくる琵琶妓は、「弟は走って軍に従い阿銕は死す」といっているので、家族と一緒に住んでいたことがわかる。これらの妓女の大半は慮待を受けず、境遇はいくらかマシだった。しかし、その他多くの妓女は家族はおらず、「仮母」に買わ

れ養女にされたものであった。仮母とは後世いうところの「鴇母」(やりて婆)と同じであり、みな年増の妓女がなった。仮母に夫や家族はなく、しかし容色はまだ全く衰えたというわけではなかったので、大半が王侯貴族の邸宅を警護する武官の囲われ者であった。また、ある者はこっそりと夜伽をする男を囲っていたが、夫と言えるような代物ではなかった。平康里の置屋の大部分は仮母が何人かの妓女をかかえて営業していた。たとえば楊妙児の置屋を例にとれば、彼女はもともと名妓であったが、のちに仮母となり、莱児、永児、迎児、桂児の四人の養女をひきとって育てた。その他の置屋もほぼ同じようなものであった。これらの妓女はみな生活はたいへん苦しく、大部分が「田舎の貧家」から買われてきた幼女であり、仮母の姓を名のった。ある者は自分の実の父母さえ全く知らなかった。またある者は、人に編されて売られて、この世界に堕ちたのであった。「ある良家の娘は、自分の家の嫁にするといって連れて行かれたが、他に多額の謝礼で転売され、誤ってこの苦界に堕ち、脱出することができなかった」(『北里志』「海論三曲中事」)。たとえば、王福娘は解梁(山西省臨晋県)の人であったが、嫁にやると喘されて都に連れて行かれ、色町に売られてしまった。しかし彼女は何も真相を知らないでいた。後に置屋は披女に歌を習わせ客を取らせた。一人のか弱い女が行き場を失えば、他人の言いなりになるしかなかった。この間、家の兄弟が捜し出して奪い返そうとした。しかし彼女は、白分はすでに操を失った身であり、また兄弟には何の力もないことを考えると、望みを絶って兄弟に手を引かせるしか方法がなく、家族と泣き泣き永別したのであった。唐代の社会は良民と賤民の区別が明確であり、いったん娼妓の世界に転落すれば、身を脱することが困難であったばかりか、肉親と行き来して顔を合わせることさえきわめて錐しかった。

 

 

1. 長安の妓女 (3/3

 

 妓女は買われてくると、歌舞や酒席での遊戯などを習い、少しでも怠けると仮母に激しく鞭打たれたり殴られたりし、成人に達すると客を取り銭を稼がされた。彼女たちは行勤の自由がなく、平生は勝手に門を出ることもできなかった。平康里の妓女は僧が道でお経を講ずるのを最も待ち望んだ。僧が来ると、仮母に千文納めて機を見て外出し、半日間自由の空気を吸うことができたからである。

 妓女は平生、人に呼ばれて宴会や遊戯の席に侍ったり、あるいは家で客を接待したりした。毎年新たに進士の合格者が発表されると、彼らは盛んに平康里に泊って遊んだ。この時こそ彼女たちの最も多忙な時期であった。長安の妓女の大半は歌や踊りといった技芸にそれほど熟達してはいなかったので、往々にしてさかんに客にふざけたりへつらったりした。普段は客席に侍り、話のあいづちをうったり、また客と寝て売春するのが主で、芸は補助的なものであった。こうした点が、地方の楽営妓女と違うところであり、また後世の娼妓と似ているところであった。客席に侍る料金は一般に一席あたり四銀(銀は銅銭の単位)であり、灯ともし時になるとその倍になった。新来の客は倍の料金を払った。新しく進十に合格した者が妓女を買う時は、慣例により一般の客よりも多くの花代を包まねばならなかった。値段は妓女の名声や地位によって決められた。平康里の名妓天水仙寄は少しばかり名声があり、貴公子劉草が彼女を遊びに呼ぼうとしたが彼女はわざと断った。そこで劉草は次々と値段を上げ、ついにかれこれ百余金を投じた。また、客は銭の支払いの他に絹布などを贈って礼晶とした。たとえば中央の官僚たちが鄭挙挙の家に集まって酒を飲む時には、座が盛りあがると客はそれぞれ彩締などを御礼に贈った。こうしたことは、客が自ら自由意志で行うことであった。

 雛妓(半玉)の「初夜権」は高い値段で買い取らねばならなかった。南曲の張住住が成人になろうとした時、金持の陳小鳳は大金を出し「その元を取ろう」とした。彼女はすでに処女を失っていたが、手管を使って処女のごとく振舞って陳を馴した。陳は処女を得たと思い、さらに三編(一権は銅鉄一千枚)を張家にやった。その他、「買断」という決まりもあった。つまり妓女が一人の客に独占されることであり、客が毎日仮母に一彬を払うと、この妓女はもう他の客をとれなかった。

 

 少し有名な妓女はなじみの客を多くよぶことができたので、豪門や富貴の客から大量の銭と晶物が仮母の懐に入った。これらの妓女の生活は一般にかなり裕福であり、贅沢ですらあった。また、ある妓女は仮母に大量の金を儲けさせたが、仮母はいぜんとして彼女にぴどく辛くあたった。たとえば楊莱児は仮母にたっぷり金を儲けさせたが、仮母は彼女を虐待した。それで、莱児は身請けされて行く時、仮母を大いに罵り衣を払って去った。やっと誉憤を晴らしたのである。下層妓女の収入はたいへん少なく、生活はきわめて苦しかった。張住住の家の場合は、抱えている二人の妓女が売れなかったので、置屋は没落し、雑貨を売って生活しなければならなかった。

 

 教坊籍に入らない妓女は官府の統制下になかったので、客から身請けされ堅気となって嫁すことができた。落籍の費用は地位によって異なっており、先に述べた王福娘の請け値は。一、二百金〃であった。これはだいたい中等の値段であり、妓女の標準の値段であった。唐代の小説『李娃伝』の主人公李娃は堅気になろうとして、二十年間の衣食代を白分の貯えた金の中から仮母に返し、身請けされた。この金額は決して少なくはなかったはずである。こうしたことは現実にはそう多いことではなかったであろう。なぜなら、かりに名高い妓女でも普通はこれほど多くのへそくりをエ面することは難しかったからである。身請けの大部分は客が見初めたものであって、彼女たちの意志ではどうすることもできなかった。しかし、長安の妓女は総じて地方官妓に比べるといくらか主体性を持っていた。たとえば、王福娘は挙子(科拳受験生)の孫渠を見初め、彼に落籍を頼んだ。また、睦州刺史の柳斉物は名妓の嬌陳を好きになった。彼女はそれに応えて「もし科挙に合格して錦帳三十枚をくださるなら、一生お仕えいたします」と答えた。柳斉物は果たして錦帳を数通りそろえて彼女を迎えにきたので、彼女は柳家に嫁いだ(『因話録』巻一)。何はともあれ、無理に落籍されたり贈答の具に供されたりするのに比べたらずっとマシであった。

 

 以上が長安に生きる妓女のおよその生活状態であるが、東都洛陽や揚州など大都市の妓女の生活も、長安により近かったようである。揚州は娼妓の都市としてたいへん有名なところであり、ひとたび夜になると、「妓楼の上に、常に赤い絹の被いで包んだ夜燈が無数にともされ空中に輝いた。九里三十歩の広さの街は、真珠、栽翠などさまざまな飾りで満ち溢れ、はるか遠い仙境のようだった」(『太平広記』巻二七三)という。この繁華の情景は妓館の多さ、遊廓の繁栄ぶりをよく物語っている。ここは長安の平康里とひじーっによく似ており、妓女たちの生活も長安とほぼ同じだったと思われる。

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