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韋莊《上行盃二首其二》

 

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花間集 訳注解説 巻三-20 (136)回目韋莊二十五首《上行盃二首其二》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8384

(妓楼において送別の主人が差し出す杯の詞、其の二:其の一で部下の歌う驪歌に腸が寸断されるおもいになった、上司のものが、部下の遊侠の貴公子の者に、別れの歌を返して激励し、だから、今日は心行くまで大いに飲もうというもの【其一と其二はセットになっている連歌のようである】

部下の男は育ちが良くて、賢者の乗る白馬に、飾り立てた鞭に、金に輝く轡を付けている。これまでは、貴公子の遊侠の士といわれていたのであるが、あの白馬にのって遙かに遠くに去って行き、それも千里、万里の先の方にいくのであるが、こうして驪歌の曲を歌ったうえでは、離別するのも容易にできるというものだ。君のような賢者の部下が異郷に行ったまま一所にとどまらない所に行くというのは、恨み嘆くことである、それでも、宴席にあってみんな盃を注ぎ合い進めあおう、すると涙が和んでくるというものだ、こいねがうことは、存分に愧じるほど飲もうという我が意を酌んで、「これ以上飲めないと言ってはいけない。」ということだ。

 

 

 

 

 

花間集 巻三

 

 

 

 

 

 

 

上行盃二首其一

芳艸灞陵春岸,柳煙深,滿樓弦管,一曲離腸寸寸斷。

今日送君千萬,紅樓玉盤金鏤盞,須勸珍重意,莫辭滿。

 

上行盃二首其二

白馬玉鞭金轡。少年郎,離別容易。迢遞去程千萬裏。

惆悵異雲水,滿酌一杯勸和淚。須愧,珍重意,莫辭醉。

 

 

 

 

 

 

 

 

花間集 教坊曲『上行盃』四首

 

 

韋相莊

0319

上行杯二首 其一

芳草灞陵春岸

 

 

0320

上行杯二首 其二

白馬玉鞭金轡

 

 

孫少監光憲

0837

上行盃二首 其一

草草離亭鞍馬

 

 

0838

上行盃二首 其二

離棹逡巡欲動

 

 

 

 

 

 

 

 

官  妓

 

 唐代の社会に充ちあふれ、一つの階層を形成していたのは、主に各級の官庁の楽籍に登録されていた大量の官妓である。もし、宮妓と教坊妓とを一般に芸人と見なすことができ、そしてまた家妓が姫妾・婢女と同類だとすれば、ここでとりあげる官妓だけが後世の娼妓と同じ性格をもっていた。いわゆる唐代の娼妓とは主にこの部類の人たちを指すのである。

 唐代は妓楽が盛んであり、「唐人は文を尚び、狸(芸妓遊ぴ)を好む」(張端義『貴耳集』巻下)と評された。官庁の送迎、宴会典礼はもちろん、また官吏が集まって遊ぶ時にも、常に妓楽で雰囲気を盛りたてた。官吏が妓楼に泊り、娼妓と遊ぶ風潮はきわめて盛んであり、朝廷の法律もこれを決して禁止することはなかった。白居易は杭州の刺史(各州に置かれ地方官を監督した役職。太守とも呼ばれた)の任にあった時、日がな一日妓女を連れて遊んだ。それで後の宋代の人は、これを怪しみ、論難してフ』れによって当時の郡政(郡の政治)には暇が多く、吏議(官吏の議論)も甚だ寛やかだったことが分かる。もし今日だったら、必ず処罰の対象とされたであろう」(聾明之『中呉紀聞』)と書いている。また、清代の人は白居易をいささか羨ましく思い、「風流太守は魂の消ゆるを愛し、到る処 春游 翠鮪有り。想見す 当時 禁網疎にして、尚お官吏宿娼の条無きを」(趙翼「白香山集の後に題する詩」、銭泳『履園叢話』巻二I「笑柄」)と迷べている。官妓制度はまさにこの種の社会風潮と朝廷の放任のもとで、唐代に盛況を極めたのである。

 

 当時、長安と洛陽の両京に大量の官妓がいたばかりでなく、地方の大きな州、府にも官妓がいた。それで「府娼」とか「郡娼」という言葉があった。揚州、成都のような繁華な大都会は、みな名妓が集中する場所であった。県の官庁についていえば、『旧唐書』の「章堅伝」には、天宝の初め、霊宝県と映県(河甫省)の官府は両県の「官使の婦人」(官妓)を集めて得宝歌(玄宗が楊責妃を得た時作られた曲。楽府の一っ)を唱わせ、玄宗皇帝に悦ばれたとあり、また李徳裕の『文武両朝献替記』には、李が宰相になった時、「両県に命じてこれ以上娼妓を置かないようにさせる」という処置をとったことが記されている。県の官庁にも官妓が設けられていたことがわかる。

 

 そう多くはない現存する史料の分析を通じて、筆者は地方の州・府の官妓の地位と生活は、都長安の官妓と比べてかなり異なっていたことを知った。従って以下においてはそれらを分けて述べよ

 

 

I 地方の官妓

 

 ここで主にとりあげるのは各州・府(及び唐代後期の藩鎮)に隷樋する官妓である。これら官妓には二つの来源があった。一つは、代々「楽籍」に入れられていた、官に隷属する賤民の女子であり、他に生きる道はなく、ただ先祖代々の仕事を踏襲するだけで昔どおりの楽妓となったもの。もう一つは、良民の女子であったがいろいろの原因によって楽籍に落ちたものである。たとえば名妓の蔀濤は元は良家の娘であり、父が仕官を求めて各地を巡るのに付き従っていたが、ついに蜀(四川省)まで流れ来た時落ちぶれて楽籍に入った。また章中丞の愛姫が生んだ娘は、兄弟がみな死んだので「身を楽部に委ね、先人を恥辱しめ」ざるをえなかった(『雲渓友議』巻三)。これらはみな衣食にこと欠いたために楽籍に入らざるをえなかった例である。また、地方長官から良民の身分を剥奪され婢にされたものもあった。林菖は耶州(湖南省宝慶県)の剌史となった後、「門客の陶元之を杖殺し、その妻を籍没して侶(娼妓)とした」(『新唐書』儒学伝下「林藤伝」)。しかし、こうした事例はだいたい例外的なものであった。なぜなら、一般的には罪人の家族を籍没して官奴婢に落とすことは、皇帝だけに出来ることであり、官吏が良民を抑えつけて勝于に賤民にすることはできなかったからである。

 

さて、これらの女性はひとたび楽籍に入ると、官に隷属する賤民となり、その地位は官奴婢とほとんど同じであった。李商隠は「妓席」という詩の中で、〔君に勧む 面指名の際には〕小字(幼名)を書し、慎んで官奴と喚ぶ英かれ」と述べ、官妓たちが宮奴の身分であったことを明らかにしている。

 地方官妓は「楽営」の管理下に属していたので、常に「楽営妓人」、「楽営子女」などと呼ばれた。唐代にはまた「営妓」という呼称もあった。営妓は専ら軍士の娯楽に供されたもので、官妓と異なる人々であるという人もいる。しかし今まで見た文献の記載では「官妓恍左「営妓」は混同されて使われており、何らの区別も見出せない。営妓とよばれた人々の多くも、一般の官妓と同じように地方長官の管理下に置かれ官府に奉仕したのであって、専ら軍士の娯楽の用にのみ供されたという根拠を見出すことはできない。こうした理由で、唐代に専業の軍妓がいたと断定することは不可能である。筆者が思うに、営妓とはただ地方官妓の一種の別称にすぎず、楽営に所属していたがゆえに「楽営妓人」と呼ばれ、或いは単に「営妓」とも略称されたのではないか。誤解を生んだ理由は、一つには営妓という名が軍営を連想させたこと、二つには唐代の中期以後、地方官妓はみな藩帥(藩鎖)の統括下に入り、長官が軍事長官の職権を兼ねたので、人々は属下の営妓は軍事長官が軍隊のために設置したもの、と考えたことにあろう。

 

 楽営官妓は、節度使や州刺史などの地方長官が直接に掌握し支配した。彼女たちは一般に楽営に集中して居住し、そこから自由に出ることは許されず、官庁から衣服や食糧の支給を受けていた。そして、いつでも官庁からの呼び出しに応じることができるよう準備していたので、「官使の婦人」とか、「官使の女子」などと呼ばれたのである。官庁が挙行する各種の祝典宴会・歓送迎会・上官接待などの時に、宮府は彼女たちを召集して芸の披露、酒席の接待、夜の相手などをさせた。官妓の大半はみな一定の技芸を持ち、歌や舞い、酒席での遊び、それに管弦楽器の演奏などに長じていた。彼女たちは、一段と大きな権勢を持つ長官に占有される以外は、一般に地方長官の許可なしに客を自由に接待することはできなかったと思われる。しかし、この種の制限も決してそれほど厳格なものではなく、すべて長官個人の好みにかかっていた。『雲渓友議』(巻こ一)に次のような話がある。池州(安徹省貴池県)の杜少府(少府は官名。県尉に同じ)と、毫州(安徽省毫県)の章中丞(中丞は官名。御史台の長官)の二人は仏教、道教にたいへん帰依していたので、楽妓に対してあまりよい感じをもっていなかった。それで彼らは「楽営の子女には厚く衣・糧を給し、営外に住むに任せている。もし宴会があれば呼びよせる。花柳の巷では好きに楽しませている」と言った。すると科挙受験生の張魯封が嘲って、「楽営は都て是れ閑人管り、両地の風情(色恋沙汰)日に漸く多し」(張魯封「池毫二州の賓佐を謔い、兼ねて宣武軍掌書記李昼に寄す」)と言った。この話は、第一に官妓は一般に楽営の外に住んだり、閑人(楽営外の人)と交際してはならないという規則であったこと、しかし第二に、この規則はそれほど厳格なものではなかったことも同時に示している。全体的に見れば、地方官妓は一般に官府に頼って生活しており、彼女たちの任務は官の御用に応じて、芸を披露し宴席に侍るのが中心で、自由に肉体を売ることなどは本来の仕事ではなかった。しかし、実際は彼女たちはしばしば秘かに客をとっていたのであった。

 

 官妓は地方長官の管轄下にあったので、長官が完全に支配し、常に彼らの私有財産のようになっていた。長官たちは「花魁を独占する」ことができたので、彼女たちを勝手に人に贈ったり、また人から奪ったりすることができた。張褐は晋州(山西省臨扮県)の長官になると、愛する営妓を外に囲って一子をもうけた。このように官妓を側室にした例は記録に少なくない。歌妓の張好好は江西の沈公の管轄下にあった。後に沈公は宜城(安徽省宣城県)の鎖守となって転任すると、張好好を宣城の官妓の籍に移した。また、白居易は杭州刺史の任にあったが任地を離れる時、歌妓をつれて洛陽に帰った。しかし、後に披女を銭唐(浙江省杭州)に送り返した。また、杜晦が常州(江蘇省武進県)の官を辞任した時、郡守の李晦が送別の宴を開いた。杜は辞去する時、営妓の朱娘に別れを告げ挟で顔をおおい大いに泣いた。それを見て李は、「こんなはすっぱの妓女など、員外郎の貴方さまが御入り用なら仰ってください。何の遠慮がございましざっ」と言い、この営妓を杜に連れて行かせた。また、蔀宜僚は新羅に使節として赴く途中、青州(山東省益都県)を通った時、飲妓(酒席の接待をする妓女)の段東美という妓女を見初めた。すると、節度使はすぐ彼女を贈呈した。また、剌史の戎晟は管轄下にある一歌妓と情を通じていた。しかし上官である節度使の于岨が所望したので差し上げざるをえなかった。後に于頓は彼女を戎竪に返した。また、李晟は剣南(四川省一帯)に軍を率いて行き、帰る時成都の官妓高氏というものを連れ去ったので、成都の長官張延賞は人を派して取り返した。

 

また、章保衝は独孤雲の幕下の官僚として赴任した時、一人の飲妓を連れていった。ところが副史の李甲はもともとこの飲妓に気があったので、速達の公文書を独孤雲に送り、彼女を取り返した。また、盧胚が廬江(安徽省廬江県)の太守になった時、郡内の曹生なるものが営妓の丹霞を自分にほしいと頼んだが盧は許さなかった。

 これらの話は、劉崇遠『金華子雑編』、孫光憲『北夢頂言』(巻ハ)、銭易『南部新書』(戊、庚、辛)、孔平忠『続世説』(巻一こ、芭櫨『雲渓友議』(巻一)、『仝唐詩』(巻五二〇)等の書物に載っており、こうした事例からみると、官妓はほとんど地方長官の私物のような存在であったことが分かる。しかし官妓の籍は官府に属していたので、長官が彼女たちを支配し贈与し、あるいは占有物にしたとはいえ、勝乎に売買することはできなかった。多くの記録からみるに、官妓が身請けされるのはすべて長官が贈与するか、あるいは長官が許可した場合だけであった。「妓籍から降されんことを祈る」(『太平広記』巻二七三「章保衝」)という常用句からみて、官妓を自分のものにしたい人は長官に落籍を頼んだのであって、決して金銭で買ったのではなかったことが分かる。要するに、地方官妓は官奴婢的色彩がきわめて強く、「官身」(官に隷属する者)であって白由の身ではなかったのである。

 

 

 

 

 

花間集 教坊曲《上行盃二首其二》韋莊

 

 

花間集 訳注解説 巻三-20上行盃二首其二

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8384

 

 

 

-41韋荘119《巻3-19 上行杯二首 其一》

上行盃二首其一

(妓楼において送別の主人が差し出す杯の詞、其の一:長安の東㶚橋の駅亭の高樓において、春の配置転換の部下の送別の宴を催す。部下の歌う驪歌に腸が寸断されるおもいになる。だから、今日は心行くまで大いに飲もうというもの

芳艸灞陵春岸,柳煙深,滿樓弦管,一曲離腸寸寸斷。

長安春明門から東30里、灞陵、㶚水の春の岸に若草が香る。土手の柳並木も鬱蒼と煙り、㶚水亭の高殿には管絃楽の音が満ちわたる。驪歌一曲、驪駒歌一節の歌に、もう腸はずたずたに断ち切られる思いになる。

今日送君千萬,紅樓玉盤金鏤盞,須勸珍重意,莫辭滿。

この日、はるか千里万里の地、旅行く君を見送る、頬紅を紅く染めた妓女の舞に高樓には鱠盛る大血と金縁の杯をそえている。肴も酒も調えているので、こいねがうことは、存分に飲もうという我が意を酌んで、「これ以上飲めないと言ってはいけない。」ということだ。

(上行盃二首其の一)

芳草の㶚陵、春の岸、柳 煙深くし、樓 弦管滿つ、一曲の離に腸断するに寸々たり。

今日 君を千萬に送る、紅樓 玉盤 金鏤の盞、須【ねが】うは、珍重する意「滿するを辞することなかれ」を勸める。

 

(改訂版)-42韋荘120《巻3-20 上行杯二首 其二》

上行盃二首其二

(妓楼において送別の主人が差し出す杯の詞、其の二:其の一で部下の歌う驪歌に腸が寸断されるおもいになった、上司のものが、部下の遊侠の貴公子の者に、別れの歌を返して激励し、だから、今日は心行くまで大いに飲もうというもの【其一と其二はセットになっている連歌のようである】

白馬玉鞭金轡,少年郎,離別容易,迢遞去程千萬里。

部下の男は育ちが良くて、賢者の乗る白馬に、飾り立てた鞭に、金に輝く轡を付けている。これまでは、貴公子の遊侠の士といわれていたのであるが、あの白馬にのって遙かに遠くに去って行き、それも千里、万里の先の方にいくのであるが、こうして驪歌の曲を歌ったうえでは、離別するのも容易にできるというものだ。

惆悵異雲水,滿酌一盃勸和淚,須愧珍重意,莫辭醉。

君のような賢者の部下が異郷に行ったまま一所にとどまらない所に行くというのは、恨み嘆くことである、それでも、宴席にあってみんな盃を注ぎ合い進めあおう、すると涙が和んでくるというものだ、こいねがうことは、存分に愧じるほど飲もうという我が意を酌んで、「これ以上飲めないと言ってはいけない。」ということだ。

 

 (改訂版)-42韋荘120《巻3-20 上行杯二首 其二》

《上行杯二首》現代語訳と訳註

(本文)

上行盃二首其二

白馬玉鞭金轡,少年郎,離別容易,迢遞去程千萬里。

惆悵異雲水,滿酌一盃勸和淚,須愧珍重意,莫辭醉。

 

(下し文)

(其の二)

白馬に玉の鞭と金の轡、少年郎は 離別容易ならんも、迢遞たる去程は千萬裏。

惆悵ことならん異郷の雲と水とに、一杯を勸和して涙和りに勘む、須らく愧づべし、意を珍重せよ、酔うことを辭するなかれ。

 

(現代語訳)

(妓楼において送別の主人が差し出す杯の詞、其の二:其の一で部下の歌う驪歌に腸が寸断されるおもいになった、上司のものが、部下の遊侠の貴公子の者に、別れの歌を返して激励し、だから、今日は心行くまで大いに飲もうというもの【其一と其二はセットになっている連歌のようである】

部下の男は育ちが良くて、賢者の乗る白馬に、飾り立てた鞭に、金に輝く轡を付けている。これまでは、貴公子の遊侠の士といわれていたのであるが、あの白馬にのって遙かに遠くに去って行き、それも千里、万里の先の方にいくのであるが、こうして驪歌の曲を歌ったうえでは、離別するのも容易にできるというものだ。

君のような賢者の部下が異郷に行ったまま一所にとどまらない所に行くというのは、恨み嘆くことである、それでも、宴席にあってみんな盃を注ぎ合い進めあおう、すると涙が和んでくるというものだ、こいねがうことは、存分に愧じるほど飲もうという我が意を酌んで、「これ以上飲めないと言ってはいけない。」ということだ。

 

 

(訳注) (改訂版)-42韋荘120《巻3-20 上行杯二首 其二》

上行杯二首 其二

15.(妓楼において送別の主人が差し出す杯の詞、其の二:其の一で部下の歌う驪歌に腸が寸断されるおもいになった、上司のものが、部下の遊侠の貴公子の者に、別れの歌を返して激励し、だから、今日は心行くまで大いに飲もうというもの【其一と其二はセットになっている連歌のようである】

○上行 上に進む。上の人が行う。上座。上の列。上の人の指図。下級の者が上級の者に差しだす杯。妓楼の亭主のさしだす杯。送別の歌のお手本というべき詞である。

16.【構成】唐の教坊の曲名。『花間集』には四首所収。韋荘の作は二首収められている。その二は双調四十一字、前段二十字四句三仄韻、後段二十一字四句三仄韻で、❻3❹❼/6❼❺❸の詞形をとる。

《巻3-19 上行杯二首 其一》

芳艸灞陵春柳煙深、滿樓弦一曲離腸寸寸
今日送君千紅樓玉盤金鏤須勸珍重意莫辭滿 

 
 

《巻3-20 上行杯二首 其二》

白馬玉鞭金、少年郎、離別容、迢遞去程千萬
惆悵異雲水、滿酌一盃勸和須愧珍重、莫辭


 

 

白馬玉鞭金轡,少年郎,離別容易,迢遞去程千萬里。

部下の男は育ちが良くて、賢者の乗る白馬に、飾り立てた鞭に、金に輝く轡を付けている。これまでは、貴公子の遊侠の士といわれていたのであるが、あの白馬にのって遙かに遠くに去って行き、それも千里、万里の先の方にいくのであるが、こうして驪歌の曲を歌ったうえでは、離別するのも容易にできるというものだ。

17. ・迢遞 遙遠的樣子。指路途遙遠。遙かに遠い。遠くに隔たる。遙か高く遠くに。

 

惆悵異雲水,滿酌一盃勸和淚,須愧珍重意,莫辭醉。

君のような賢者の部下が異郷に行ったまま一所にとどまらない所に行くというのは、恨み嘆くことである、それでも、宴席にあってみんな盃を注ぎ合い進めあおう、すると涙が和んでくるというものだ、こいねがうことは、存分に愧じるほど飲もうという我が意を酌んで、「これ以上飲めないと言ってはいけない。」ということだ。

18. ・惆悵 恨み嘆くこと。うらめしい。うらみがましい。

19. ・雲水 雲が定めなく行き、水が流れてやまないように、一所にとどまらない自由な人。また、そのような境涯。行方を定めないで諸国を行脚する修行の僧。雲水僧。雲衲(うんのう)

20. 珍重意 私の心を酌んで。

 

上行盃二首其二

白馬玉鞭金轡,少年郎,離別容易,迢遞去程千萬里。

惆悵異雲水,滿酌一盃勸和淚,須愧珍重意,莫辭醉。

 21. この詩の参考(白馬)

『詩経、小雅、白駒篇』に「皎皎たる白馬、我が場苗を食まば、之か繋ぎ之を維【つな】ぎて、以て今朝を永うせん」と。白馬がわが畑の苗を食ってくれるならば、繋いで今朝だかでも永く止めておきたい。賢人の留まるのを願う詩。二君にまみえることを恥じてみせる。

『詩経、小雅、白駒篇』

大夫刺宣王也.

皎皎白駒.食我場苗.縶之維之.以永今朝.所謂伊人.於焉逍遙。

皎皎白駒.食我場藿.縶之維之.以永今夕.所謂伊人.於焉嘉客。

皎皎白駒.賁然來思.爾公爾侯.逸豫無期.慎爾優游.勉爾遁思。

皎皎白駒.在彼空谷.生芻一束.其人如玉.毋金玉爾音.而有遐心

 

曹植《白馬篇》

白馬飾金羈,連翩西北馳。

借問誰家子?幽幷遊俠兒。

少小去邑,揚名沙漠垂。

宿昔秉良弓,楛矢何參差。

#2

控弦破左的,右發摧月支。

仰手接飛猱,俯身散馬蹄。

狡捷過猴猿,勇剽若豹螭。

邊城多驚急,虜騎數遷移。

羽檄從北來,厲馬登高堤。

#3

長驅蹈匈奴,左顧陵鮮卑。

棄身鋒刃端,性命安可懷。

父母且不顧,何言子與妻。

名在壯士籍,不得中顧私。

捐軀赴國難,視死忽如歸。

 

(白馬篇)

白馬 金羈を飾り、連翩として西北に翩す。

借問す 誰が家の子ぞ、幽幷の遊侠児。

少小にして郷邑を去り、声を沙漠の垂に揚ぐ。

宿昔 良弓を秉り、楛矢 何んぞ参差たる。

 

#2

弦を控きて左的を破り、右に発して月支を摧く。

手を仰げて飛猱を接ち、身を俯して馬蹄を散ず。

狡捷なる 猴猿に過ぎ、勇別なる 豹螭の若し。

邊城 驚急多く,虜騎 數ば遷移す。

羽檄 北從り來り,馬を厲まして高堤に登る。

 

#3

長驅して匈奴を蹈み,左顧して鮮卑を陵がん。

身を鋒刃の端に棄つ,性命 安んぞ懷う可けん。

父母すら且つ顧みず,何んぞ子と妻に言わん。

名は壯士の籍に在り,中に私を顧みるを得ず。

軀を捐てて國難に赴むく,死を視ること忽ち歸するが如し。

 

曹植《白馬篇》

白馬には黄金の鞚を飾り、馬を連ねての早く軽やかにかけ、西北の戦地をめざして疾駆する。
あの勇士の若者はどこの家のものかと問うてみた、勇士の名門の幽州、幷州出身の遊侠のものだという。
小さい頃に郷里を離れたものであり、年若くして辺境の砂漠においてその名をあげているという。
彼はその昔、良弓を手に、箙にさした矢が取りやすくして背にさしたという。

 

弦をひけば、まず、左のぶら下がっているまとを破り、右に矢を放てば、月支の板のまとをくだいた。
また手を高くあげて合図して、飛び上がっている猿を迎え射ち、身を低くして、馬蹄のまとをコナゴナにした。
(紙の「左的」,板の「月支」、飛び上がっている「猿」、
ロープの「馬蹄」ここまで次第に難しくなる4つの的をことごとく射抜いた。)
その敏捷さたるや、猴、猿をもはるかにしのぎ、勇敢であり俊敏・軽快なることは、まるで豹かミズチかと見紛うばかりである。
国境の城塞では非常事態がしばしばおこるものであるが、それは、遊牧の異民族どもが不意に移動してくるに対処するためである。
兵を緊急召集する文書が北からくると、さんざん馬にむちうち、敵兵を食い止めるための防塁のところまで駆けつけるのである。

 

長駆して匈奴の軍を踏みくだき、左にかえして鮮卑の兵を踏みしだいてやる。
この身を鋒や兵刃のあいだにすてさるのは覚悟していることである。善悪・道徳・生命など、どうしておしいとおもうものか。
そして、父母さえ顧みないのである。ましてや、なんで子や妻のことを口にしようものか。
名前が勇士の名簿につらねているからには、心中に私事を思うべきではないのである。
また身命をなげうって、国難におもむく上のことである。戦死ということに見合われた時には「帰るべきところに帰ることになるだけだ」(帰る時は死ぬ時だけだ)と考えている。

 

侯音・衛開らが宛城で叛逆すると、龐悳は配下を率いて、曹仁とともに宛城を攻め落として侯音・衛開を斬り、そのまま南に進んで樊城に屯し、関羽を討伐した。樊城にいた諸将は龐悳の兄が漢中にいたので、彼をすこぶる疑った。龐悳はつねづね言っていた。「我は国恩を受けており、義は死を顕すことにある。我は自ら関羽を撃ちたいと思う。今年中に我が関羽を殺さなければ、関羽が我を殺すだろう」のちに自ら関羽と交戦し、関羽を弓で狙って額に射当てた。そのころ龐悳はいつも白馬に乗っていて、関羽の軍中では彼を白馬将軍と呼んで、みな恐れ憚った。

 

古風,五十九首之四十五

八荒馳驚飆,萬物盡凋落。

浮雲蔽陽,洪波振大壑。

龍鳳罔罟,飄颻將安託。

去去乘白駒,空山詠場藿。

(古風,五十九首之四十五)

八荒 驚飆を馳せ,萬物 盡く凋落す。

浮雲 陽を蔽い,洪波 大壑を振う。

龍鳳 罔罟【もうこ】をし,飄颻として將に安にか託せんとす。

去去 白駒に乘じ,空山 場藿を詠ず。 

(この詩は、李白が安史の乱に遭遇して、超然高踏の志を述べたものである。)

暴風、颯然として、一度天地の間を吹くめくれば、ありとあらゆるものが、ことごとく枯れて、凋んでしまう。

仰いで望めば浮雲とび迷うて、落日を蔽い、伏してみれば、大波が東海をふるいうごかして、万象すべて惨澹、逆臣一たび起って、四海兵戈にくるしむもようも、やはり、これとおなじである。

こうして、龍や鳳凰が幸いに網をのがれたところで、飄々として何処へ行ってよいかわからない。自分も幸いに難を遁れたが、如何にしようか。

もし明君が自分を用いてくれるのなら、留まってやっても良いと思うのだが、そうでなければ白い馬に跨って、則世界を離れ、そして、空山に往って、「わが場藿を食わん。」という詩でも詠ってやろうとおもう。 
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