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韋莊《訴衷情二首其二》

 

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杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49

(13)763年蜀中転々 96

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(16-1) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)80

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花間集 訳注解説 巻三-18 (134)回目韋莊二十五首《訴衷情二首其二》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8372

(妃嬪の孤独な心情を詠う二首の其の二。妃嬪の夢をくだく、雨による舟遊びの中止の様子を詠う。)

後宮の池には柳の緑に水面も染まっていて、赤い花と薫り高い花が咲きほこっているが、カスミが靄になり細雨に変わり静かに時が過ぎていく。その日の舟遊びを楽しみにしていた妃嬪が、蘭の棹に倚り、ゆくのをためらっている。そこには大勢の宮女たちが整列して佩び玉もたれて整列している、ゆっくりと帯列が動き交差してゆく、見目麗しくしなやかなか細い腰である。鴛鴦の様に寵愛されることを夢見ていたし、その数少ないチャンスは、七夕のカササギの橋の様なものだった、また遙か遠いものになってしまった、魅力的な越のうす絹の上衣にしっかりとお香を付けていたのに、うす暗くこの雨によりすべて消え去った、このままでは若くて花もしっかりと開いている時をいたずらに過ごしてしまって枯れ落ちてしまう。

 

 

 

 

 

花間集 巻三

 

 

 

 

 

訴衷情二首 其一

燭燼香殘簾半卷,夢初驚。

花欲謝,深夜,月朧明。

何處按歌聲?輕輕,舞衣塵暗生,負春情。

 

訴衷情二首 其二

碧沼紅芳煙雨靜,倚蘭橈。

垂玉佩,交帶,嫋纖腰。

鴛夢隔星橋,迢迢,越羅香暗銷,墜花翹。

 

 

 

 

 

 

 

 

花間集 教坊曲『訴衷情』 十三首

 

 

作者

初句7字

 

 

溫庭筠

巻一

訴衷情一首

鶯語花舞春晝午

 

 

韋莊(韋相莊)

巻二

訴衷情二首 其一

燭燼香殘簾半卷

 

 

巻二

訴衷情二首 其二

碧沼紅芳煙雨靜

 

 

毛文錫

巻五

訴衷情二首其一

桃花流水漾縱橫

 

 

巻五

訴衷情二首其二

鴛鴦交頸繡衣輕

 

 

巻七

訴衷情二首 其一

香滅簾垂春漏永

 

巻七

訴衷情二首 其二

永夜人何處去

 

魏承班(魏太尉承班)

巻九

訴衷情五首 其一

高歌宴罷月初盈

 

 

巻九

訴衷情五首 其二

春深花簇小樓臺

 

 

巻九

訴衷情五首 其三

銀漢雲晴玉漏長

 

 

巻九

訴衷情五首 其四

金風輕透碧

 

 

巻九

訴衷情五首 其五

春情滿眼臉紅綃

 

 

 

 

 

 

 

 

作者

詩題

詞形 ○平韻 ●仄韻

 

溫庭筠

訴衷情一首

7③❸❷③ ⑤②⑤③

33

六平・二仄

 

(❷❷❸③❸❷③ ⑤②⑤③)

(十一句六平五仄)

韋莊

訴衷情二首其一

7③❸❷③ ⑤②⑤③

33

六平・二仄

訴衷情二首其二

⑦③❸❷③ ⑤②⑤③

33

六平・二仄

毛文錫

訴衷情二首其一

7⑤33⑤ ⑤③⑦③

41

六平韻

訴衷情二首其二

7⑤33⑤ ⑤③⑦③

41

六平韻

顧夐

訴衷情二首其一

7③❸❷③ ⑤②⑤③

33

六平・二仄

訴衷情二首其二

7③❸❷③ ⑤②⑤③

33

六平・二仄

魏承班

訴衷情五首其一

⑦⑤3③⑤ ⑤③⑦③

41

八平韻

訴衷情五首其二

⑦⑤3③⑤ ⑤③⑦③

41

八平韻

訴衷情五首其三

⑦⑤3③⑤ ⑤③⑦③

41

八平韻

訴衷情五首其四

⑦⑤3③⑤ 5③7③

41

六平韻

訴衷情五首其五

⑦⑤3③⑤ ⑤③⑦③

41

八平韻

 

屋内娯楽

囲碁は、隋代から19路盤が用いられ、現代に似た打ち方であった。唐代、囲碁は特に盛んであり、囲碁は文人たちに好まれ、女性にも打つものがいた。713年の玄宗期に、棋待詔制度が創設され、皇帝に召し出される囲碁の名人が指定され、新羅や日本の名人と打つこともあった。玄宗自身も碁を好み、日本人の弁正と打ったという話や棋譜も残っている。囲碁は、民間や辺境でも広く遊ばれ、碁盤や碁石には貴重な素材を用いられることもあった。

象棋も唐代には打たれ、駒には「将」、「馬」、「車」、「象」「卒」、「砲」などがあった。すでに、現在のシャンチー(象棋)に近いルールになっていた。

弾棋は、貴族や文人の間で遊ばれた。中央と四隅が高くなった盤を用い、交互に石を弾き、相手の石に当てた数を競うもので詳細な内容は分からなくなっている。唐末まで遊ばれた。

博や双陸はサイコロや盤、駒を用いて遊ばれ、賭け事などに用いられた。詳細な内容は分からなくなっている。

 

 

酒と酒宴

唐代は、酒の禁令がなかったため、酒造業が急速に発展した。酒の種類は増加し、紅麹の酒など甘い酒が中心であり、また、好まれた。多くの詩人が飲酒をテーマに漢詩で唱った。

酒の中でも葡萄酒は、高昌国を制圧したことで、葡萄と醸造技術が伝えられ、葡萄酒の味が向上し、広まっていった。葡萄酒は紅のものと、白のものがすでに存在していた。葡萄酒は西涼州産が最高級のものとして知られていた。また、果実酒も存在した。杯は木製、陶磁器は主流であったが、高級なものに白玉製やガラス製があった。

当時の酒宴は、食事が終わって酒を飲んだ。酒宴は午後にはじまり、日暮れに終わり、夜に酒宴を行うと照明に多額の費用がかかった。相手に酒を奨める時は、杯に酒を酌んで奨めた。順次に一人ずつ杯から酒を飲み、一斉に飲むことはなかった。また、酒宴の時に音楽が奏でられ、歌が歌われることがあった。歌舞は楽人や妓女たちだけでなく、主人や客から行われることもあった。

冬の季節には、遊牧民族が行うゲル(氈帳)を邸宅の庭に設置し、中に炉を置いて、酒宴を行う風習も存在した。

酒宴の時に行われる様々な遊戯は、酒令と呼ばれた。酒令の遊戯は文学的なもの多かった。参加者は20名程度を標準とし、主人の他に酒を管理する「明府」、酒宴を運営する二名の「録事」が定められた。遊戯には、壺に矢をいれて数を競う「投壺」、二組に分かれて相手の組のうち背にものを持った人物をあてる「蔵鈎」、盆でものを隠して、なにが入っているかを当てる「射覆」があった。いずれも負けた場合には、罰杯が課された。唐代には、「指巡胡」という片手をあげた胡人の人形を回し、倒れた人形の指が示した人物が罰杯を飲むという遊戯が生まれた。また、「骰子令」というサイコロを使った遊戯もあった。複雑なものとして、「律令」という古典を利用した遊戯があり、その中には、筒の中にいれた籤をひき、そこにある古典を模した言葉により、罰杯の相手を決める「酒籤」や古典の知識を競い合うものがあった。また、「著辞令」というで即興で詩をつくり、曲をつけるものがあった。

 

 

喫茶と茶道

茶の普及は唐代になって行われた。南北朝時代までは南方における習慣であったが、統一王朝である唐が安定したため、物流が確立し、北方にも流通した。また、後趙時代から禅宗の寺において、禅修行のため、眠気覚ましに覚醒作用のある茶を飲むことが許されたため、在家の仏弟子たちの間で飲まれており、北方にも次第に普及した。

盛唐になり、茶の普及が広がっていくなかで、陸羽が、上層階層向けに、史上はじめての茶の専門書である「茶経」を書き、喫茶を規範化する動きが行われた。それ以前は、茶には、生姜や蜜柑の皮、葱、紫蘇などをいれ、飲んでいたが、「茶経」では茶が持つ真の味を損なうとして、新たな喫茶や茶の煎り方を薦めている。そのため、文人や官僚の間で喫茶の形式化が進むことになり、「茶道」という言葉も生まれた。茶は皇族や貴族、官僚に浸透し、風習にまでなった。9世紀になり、茶は、「荼」という字で表されていたが、「荼」は「苦菜」の意味も含むことから、独立して「茶」という字で表されることになった。茶は南方で採り、北方では固められ、「餅茶」として運ばれた。飲むときは、粉にして抹茶の形にして飲んだ。次第に北方でも茶を生産するようになる。北方の随所に茶を売る店や茶店が生まれ、飲まれるようになった。

茶には塩や生姜をいれる風習は続いた。「餅茶」だけでなく、「散茶」も存在した。晩唐には、「点茶」が生まれた。

また、唐代には禅宗の寺だけでなく、寺全般に茶を普及し、禅宗では喫茶は宗教儀礼の中に、茶礼として組み入れられていった。寺院では需要に応じて、茶園がつくられていた。

「餅茶」は、茶の主流もあり、保存・運搬ともにすぐれ、回紇に好まれ、「茶馬交易」が行われ、日本にも伝来した。茶の生産・消費の増大とともに、780年には茶税がはじまり、課税され、唐政府の重要な財源となった。835年に、全て官営茶園で独占しようとする動きがあったが、猛烈な反対に遭い、中止となっている。

 

 

散楽と劇

散楽は、「百戯」とも呼ばれる民間で行われる様々な娯楽のための技芸の総称である。次第に西域の技芸が取り入れられるようになり、盛唐では、宮廷でも左右教坊によって管轄された。散楽は、民間の音楽や角觝など武術、芝居も含まれるが、主流は曲芸や幻術(手品)、であった。内容は、竿木、縄伎(戯縄ともいう)、舞馬(象で行うこともある)、跳丸、弄剣、筋斗(とんぼ)、球伎、馬伎、呑刀、吐火、舞剣、植瓜、種棗、盤舞、杯盤舞などがあった。

竿木は、唐代には特に盛んであった。高い竿を頭に乗せて動く、あるいは、他の者が、頭に乗った状態の竿に登る技芸であった。登る人の軽業も筋斗(とんぼ)や逆立ちを組み合わせた。竿の上に物を載せることもあった。

縄伎は綱渡りのことであり、音楽に合わせて高下駄をはいた女性が縄の上でお互いに交差するもの、長竿を足に結んで渡るもの、渡るものの肩の上に二人が乗るものなど変化の多かった。

馬伎は、教坊にいる内人の女性によって行われ、鎧を着て、馬に乗り、弓を射て、刀剣を扱うもので、馬上で様々な技芸を行い、多数で様々な陣を形作った。

滑稽劇は、従来からの舞踏劇に加え、唐代には「参軍戯」という滑稽な演劇が流行した。参軍戯は、動作や台詞に加えて、音楽や歌舞もあり、女優もいた。参軍戯を得意とするものは、宮廷のみならず、民間にもいた。また、「踏揺娘」という歩きながら歌う滑稽な歌舞劇も生まれた。舞踏劇では、「大面戯」という蘭陵王を題材にとったものがよく行われた。

人形劇は唐代には盛んであり、人形は「傀儡子」、人形劇は「傀儡戯」と呼ばれた。糸で関節が動く木彫りの人形を操って動かすもので、精巧な人形が巧みに動かされて、演劇が行われたと伝えられる。「郭公」という禿頭の滑稽劇が人気であった。

散楽は、宮廷だけではなく、皇族や貴族の邸宅で行われた。また、長安には、大慈恩寺、青竜寺、大薦福寺、永寿寺などの寺の境内や門前に「戯場」が置かれ、散楽が演じられた。

安史の乱以後は、散楽も、各地の節度使のもとや地方の州で行われるようになった。

 

 

牡丹の流行

牡丹は当時の世界で最も花卉園芸が盛んであった唐において代表となる花であった。

牡丹は、武則天によって、郷里の太原から長安に移植され、洛陽に遷都した時に移され、次第に全国に伝わったとされる(ただし、発見されている牡丹の野生種は中国西南の山地が中心である)。また、武則天が、古来からの名である「木芍薬」から「牡丹」に改名したとも伝えられる。牡丹はまた「富貴花」とも呼ばれ、「百花王」ともうたわれた。

玄宗時代に、牡丹は爆発的に流行し、唐代の終わりまで流行は耐えなかった。玄宗は興慶宮の沈香亭に植えられた牡丹を楊貴妃とともに観賞することを好み、華清宮にも植えていた。文宗も牡丹を好み、中唐以降では、漢詩の「花」は牡丹を指した。

長安では、牡丹の盛んな時期には、人々が牡丹を求めて、20日間ほど長安中の名所を車馬や徒歩で行き来した。また、毎年35日に牡丹を陳列し、街の人を招いて、見栄えの良さが競われた。長安の人々は牡丹のために狂奔して金を惜しまず、珍奇な牡丹は数万銭をすることもあった。牡丹の花で知られた官僚や武将の屋敷も存在し、破産するものもあったと伝えられる。そのために園芸業が繁盛した。

長安の牡丹の名所は、慈恩寺、西明寺、崇敬寺などが知られていた。慈恩寺の牡丹は場所によって、長安で一番初めに咲き、また、最後に咲いたと伝えられる。西明寺は、牡丹の時期には寺の一部が開放され、唐代を通じて最も良く知られていた。官庁でも牡丹が植えられ、名所になることもあった。総じて、紫色、紅色の牡丹が好まれ、後に黄牡丹が現れ、白い牡丹は人気が薄かったとされる。

 

 

異国趣味

唐代は、西域のものを中心とした異国の文物が好まれ、盛唐の長安、洛陽において、特に盛んであった。長安では貴族から庶民から、ペルシア、インド、ソグド、突厥の絵や飾りがつけられた工芸品が使われた。ペルシア語や突厥語の言語や文字が学ぶ者もいた。

西域や突厥の影響を受けた衣類、食事に加え、天幕などの住居も流行した。音楽や舞踊も西域のものが愛好された。画家による異国人や異国の神々を題材に描いたものが多数存在し、壁画に残っている。塑像でも異国人をモデルにしたものが作られ、仏像も異国の影響が強いものが作成された。百戯の一部となる曲芸や幻術も伝来した。

また、多くの唐詩で異国人や異国の動物が題材として唱われた。

中唐以降は、異国品は身近なものではなくなっていったが、異国を題材とした文学が、より盛んとなった。李賀、杜牧などが唐詩に用い、多くの伝奇小説が書かれた。

異国人[編集]

唐は比較的、胡人と呼ばれる異国人に寛容であったため、唐代では胡人が各地に居住していた。胡人は、長安、洛陽、広州、揚州などの商業取引が盛んな大都市や市場がある中都市に集まっていた。胡人は、西域から来たソグド人、北方の突厥人や回紇人が特に多かった。胡人は、唐代以前に、中国西北部に集落をつくり、唐の建国後移住するものが多かった。彼らは、商人だけでなく、宗教家、画家や楽士、工芸家、曲芸師などがいた。

胡人は、居住区を区別され、都市の胡人居住地においては、それぞれの長が選ばれ、紛争は自国の法律で裁くことが定められ、他国同士の紛争は唐の法律で裁かれた。胡人は、唐で死んだ場合、妻子がいなければ、財産は国の所有になった。また、唐の女性を妻妾にした場合は連れ帰ることは許されなかった。

胡人の商業に対する規制は強く、朝貢や関税の形をとって、商品を一部差し出す必要があることが多かった。さらに、交易を行う商品は制限された上で、大きな市で販売をしなくてはいけなかった。また、輸出品も大きく制限された。それであっても、胡人の商人は成功するものが大勢いた。彼らは、利益を得るため、各地に赴いて、商取引を行い、大金で交易するものも数多かった。また、長安には邸店を開いていたペルシャ人もいた。

長安を中心とした高級な酒場である旗亭や酒楼では、胡姫と呼ばれる若いソグド人の白色人種の女性が働いていた。彼女らの中では、唄や胡旋舞などの踊りに長じるものも多かった。

初唐や盛唐では節度使などの唐政府の要職に就くことが多かったが、中唐以降は、服装や結婚、不動産所有が規制されることが増え、唐全体として排外主義の思想が強くなった。

宗教としては、長安には、ゾロアスター教、マニ教、ネストリウス派キリスト教、密教の寺院が建立され、9世紀の武宗の宗教弾圧までは様々な宗教が混在していた。

 

 

無頼と刺青

安史の乱後の客戸とよばれる農業人口移動の増大や都市の発展とともに、唐代後半に大きな存在になったのが、無頼である。

遊民層にもっとも目立つ存在で、生業につかず、規範や道徳を嫌って衝突する人間たちが無頼と呼ばれた。無頼はまた、博打を好んだため「博徒」と呼ばれ、暴力を誇り、都市の市場を主な活動範囲としていた。彼らは出身階層に関わらず、個人の資質によって存在した。若者が多かったため、悪少年、軽薄少年とも呼ばれた。無頼となり、家族や故郷と別離して都市に流れてくるものも多く、長安に客戸坊というスラム街をつくっていた。彼らが治安を乱すことが多く、盗賊になることもあった。大室幹雄は、彼らの行動動機は「生の過剰」によるものであると評している。[14]

唐政府は無頼を弾圧したが、府兵制崩壊後は、無頼が募兵の重要な供給源となり、罪を犯しても軍に逃げ込み、逃れるものが多く、無頼は次代の五代十国時代にはさらに増加した。また、無頼の組織化もはじまっていた。

盗賊となった無頼には、強盗の時に殺人を行い、食人するという習慣が生まれていた。宿屋に絵を描き、仲間に連絡を行うということもなされていた。

この時代、かつては犯罪者の証であった刺青が流行し、無頼の多くが刺青を行っていた。左右の腕には漢詩を彫ることが多く、全身に漢詩全てを描くこともあった。背中に毘沙門天や、全身くまなく、蛇などを彫る技術も存在し、刺青を彫ることを商売にしているものもいた。刺青は傷をつけて墨をいれるもの、針がついた印で押して墨を刷り込むものがあり、様々な技術と工夫があった。

 

 

 

 

 

花間集 教坊曲《訴衷情二首其二》韋莊

 

 

花間集 訳注解説 巻三-18訴衷情二首其二

 

 

漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8372

 


改訂版 3 韋莊《03-38 訴衷情二首 其一》

訴衷情二首 其一

(女盛りを過ぎた女の孤独な心情を詠う二首の其の一:踊りと美しさにより妃嬪となったが、毎年新しい女性が後宮に選ばれて後宮に入って来次第に忘れ去られる寵愛を失った踊りの得意であった妃賓を詠う。)

燭燼香殘簾半卷,夢初驚。

寵愛を失い、孤独の夜をうとうととしている、今しがた、なにかで夢から目覚めて驚いた、春とはいえ少し肌寒いと思えば、蝋燭も燃え尽き、残り香も消えても未だ昼間に帳を半分巻き上げたままにしていたからだが、それでも何もする気になれない。

花欲謝,深夜,月朧明。

庭を見ると、もう、深夜をすぎたから、月はおぼろにあかるくて、花はもう散りかけ凋み始めている。

何處按歌聲?輕輕,舞衣塵暗生,負春情。

夢を醒ませた楽器に合わせて歌う歌声は何処の御殿から聞こえてくるのだろう、こちらには、自慢であった舞の衣に塵が積もって色あせて見える、春の心情は忘れないし、寵愛を受ける準備も、踊りの準備も毎日している、それに負けたら生きていけないのだと思っても、心は折れそうになる。

(訴衷情【そちゅうじょう】二首其の一)

燭 燼【も】え 香 残り 簾 半ば捲かれて 夢初めて驚む。

花も謝【しぼ】まんと欲す、深き夜、月朧に明かく。

何處よりぞ 按歌の聾の軽軽たる、舞衣は塵 暗【ひそ】かに生じて春の情に負【そむ】く。


 

 

(改訂版)-40韋荘118《巻3-18 訴衷情二首 其二》

訴衷情二首 其二

(妃嬪の孤独な心情を詠う二首の其の二。妃嬪の夢をくだく、雨による舟遊びの中止の様子を詠う。)

碧沼紅芳煙雨靜,倚蘭橈。

後宮の池には柳の緑に水面も染まっていて、赤い花と薫り高い花が咲きほこっているが、カスミが靄になり細雨に変わり静かに時が過ぎていく。その日の舟遊びを楽しみにしていた妃嬪が、蘭の棹に倚り、ゆくのをためらっている。

垂玉佩,交帶,嫋纖腰。

そこには大勢の宮女たちが整列して佩び玉もたれて整列している、ゆっくりと帯列が動き交差してゆく、見目麗しくしなやかなか細い腰である。

鴛夢隔星橋,迢迢,越羅香暗銷,墜花翹。

鴛鴦の様に寵愛されることを夢見ていたし、その数少ないチャンスは、七夕のカササギの橋の様なものだった、また遙か遠いものになってしまった、魅力的な越のうす絹の上衣にしっかりとお香を付けていたのに、うす暗くこの雨によりすべて消え去った、このままでは若くて花もしっかりと開いている時をいたずらに過ごしてしまって枯れ落ちてしまう。

(訴衷情【そちゅうじょう】二首其の二)

碧沼 紅芳して煙雨静かなり、蘭橈【らんとう】に倚る。

玉佩【ぎょくはい】垂れ、交帯し、嫋纖【じょうせん】の腰。

鴛夢 星橋を隔ち、迢迢たり、越羅の香は暗【ひそ】かに銷え、花翹 墜つ。

 

宮島(10)
 

(改訂版)-40韋荘118《巻3-18 訴衷情二首 其二》 

『訴衷情二首 其二』 現代語訳と訳註

(本文)

訴衷情二首 其二

碧沼紅芳煙雨靜,倚蘭橈。

垂玉佩,交帶,嫋纖腰。

鴛夢隔星橋,迢迢,越羅香暗銷,墜花翹。

 

(下し文)

(訴衷情【そちゅうじょう】二首其の二)

碧沼 紅芳して煙雨静かなり、蘭橈【らんとう】に倚る。

玉佩【ぎょくはい】垂れ、交帯し、嫋纖【じょうせん】の腰。

鴛夢 星橋を隔ち、迢迢たり、越羅の香は暗【ひそ】かに銷え、花翹 墜つ。

 

(現代語訳)

(妃嬪の孤独な心情を詠う二首の其の二。妃嬪の夢をくだく、雨による舟遊びの中止の様子を詠う。)

後宮の池には柳の緑に水面も染まっていて、赤い花と薫り高い花が咲きほこっているが、カスミが靄になり細雨に変わり静かに時が過ぎていく。その日の舟遊びを楽しみにしていた妃嬪が、蘭の棹に倚り、ゆくのをためらっている。

そこには大勢の宮女たちが整列して佩び玉もたれて整列している、ゆっくりと帯列が動き交差してゆく、見目麗しくしなやかなか細い腰である。

鴛鴦の様に寵愛されることを夢見ていたし、その数少ないチャンスは、七夕のカササギの橋の様なものだった、また遙か遠いものになってしまった、魅力的な越のうす絹の上衣にしっかりとお香を付けていたのに、うす暗くこの雨によりすべて消え去った、このままでは若くて花もしっかりと開いている時をいたずらに過ごしてしまって枯れ落ちてしまう。

 

 

(訳注)

訴衷情二首 其二

10. (妃嬪の孤独な心情を詠う二首の其の二。妃嬪の夢をくだく、雨による舟遊びの中止の様子を詠う。)

11. 唐教坊曲、『花間集』には韋荘の作が二首収められている。単調三十三字、九句六平韻二仄韻で、7③❸❷③⑤②⑤③の詞形をとる。

03-38 訴衷情二首 其一》

燭燼香殘簾半卷  夢初
花欲   月朧

何處按歌  舞衣塵暗  負春

  
   

    

《巻3-18 訴衷情二首 其二》  

訴衷情二首 其二

碧沼紅芳煙雨靜、倚蘭橈。
垂玉、交、嫋纖

鴛夢隔星橋、、越羅香暗銷、墜花


 

 

碧沼紅芳煙雨靜,倚蘭橈。

後宮の池には柳の緑に水面も染まっていて、赤い花と薫り高い花が咲きほこっているが、カスミが靄になり細雨に変わり静かに時が過ぎていく。その日の舟遊びを楽しみにしていた妃嬪が、蘭の棹に倚り、ゆくのをためらっている。

12. ・蘭橈 蘭の棹。楚辞九歌、湘君「薜茘柏兮蕙綢、蓀橈兮蘭旌。」(薜茘【へいれい】の柏、蕙の綢。蓀の橈【かじ】、蘭の旌。)湘君が行くのをためらっている様子をうたうもの。・橈:くじく。よわまった蘭の花。しなやか。みだす。くじく。ちらす。かい。さかえる。蘭の曲った木。

 

垂玉佩,交帶,嫋纖腰。

そこには大勢の宮女たちが整列して佩び玉もたれて整列している、ゆっくりと帯列が動き交差してゆく、見目麗しくしなやかなか細い腰である。

13. ・玉佩【ぎょくはい】礼服(らいふく)の付属具の一。即位・大嘗会・朝賀の儀式に、三位以上の臣下が腰に帯びた装身具。5色の玉を貫いた5本の組糸を金銅の花形の金具につないで足先に垂らし、沓(くつ)先にあたって鳴るようにしたもの。佩()び物。

交帶 せいれつしたものがこうさする。

14. 嫋纖腰 見目麗しくしなやかなか細い腰。

 

鴛夢隔星橋,迢迢,越羅香暗銷,墜花翹。

鴛鴦の様に寵愛されることを夢見ていたし、その数少ないチャンスは、七夕のカササギの橋の様なものだった、また遙か遠いものになってしまった、魅力的な越のうす絹の上衣にしっかりとお香を付けていたのに、うす暗くこの雨によりすべて消え去った、このままでは若くて花もしっかりと開いている時をいたずらに過ごしてしまって枯れ落ちてしまう。

15. ・鴛夢 鴛鴦のように過すことを夢におもう。

16. ・星橋 七夕のように牽牛と織姫のカササギの橋。年に一度は銀河をわたって夜を過ごすというものである。李商隱『七夕』詩「鸞扇斜分鳳幄開,星橋橫過雀飛。」

17. ・羅 羅は絡み織を用いた、目の粗い絹織物の一種。もともと羅とは鳥や小動物などを捕獲するための網を意味する言葉だったが、絹で織った網のような薄物を指す言葉にもなった。宮妓が夜天子が閨に來るのを待つ時の上に着る体のラインが透けて見える衣服を云う。

18. ・翹 ①鳥の尾羽のように、高くかかげる。つまだてる。つま先だって背を高くする。②特に秀でた人。また、特にすぐれているさま。ぬきんでる。翹楚【ぎょうそ】大勢の中でとびぬけてすぐれていること。また、その人。

「楚」は、特に丈の高い木。『詩経、周南・漢広』「翹翹錯薪、言刈其楚(翹翹と錯れる薪の、言は其の楚を刈らん)」とある。 
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