105)回目 浣溪沙五首 /菩薩鬘五首 /  歸國遥三首 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8192

 浣溪沙五首 /菩薩鬘五首 /  歸國遥三首 【字解集】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017217

の紀頌之5つの校注Blog

 

 

 

 

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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注

 

 

Ⅰ李白詩

(李白集校注)

744年-053卷163_4 陽春歌(卷四(一)二八六)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8189

 

 

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744年-集07字解集 a相逢行-b陌上贈美人-c古風其八-d秋夜獨坐懷-e怨歌行-f望終南山寄紫閣隱者Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8159

 

 

孟浩然

李白詩

謝霊運

司馬相如 《子虛賦 ・上林賦》

揚雄 《甘泉賦》

諸葛亮 出師表

 

 

曹植詩65

兩都賦序・西都賦・東都賦

李白全詩

漁父辞(屈原

楚辞・九歌》東君

《楚辞九辯》

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●唐を代表する 中唐 韓愈 全500首 

 

 

Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注

744年-053卷163_4 陽春歌(卷四(一)二八六)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8189

 

 

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806年-集06- 送許郢州序・寒食日出游 【字解集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8160

 

 

・李商隠詩 (1) 136首の75

・李商隠詩 (2) 135首の61

韓愈1 ・孟郊・張籍と汴州乱41

index-2[800年~804年]27

index-3 805年陽山から江陵36

index-4 806年 39 江陵・国子博士25

 

 

index-5 806年39歳(2)25

index-6 807~809年 20

index-7[810年~811年 44歳] 34

index-8 [812年~814年47歳]46

index-9[815年~816年 49歳57

index-10[817年~818年 51歳]「平淮西碑」28

 

 

index-11 819年『論佛骨表』左遷 38

index-12 820 國子祭酒18

index-13 821年~822年 22

index-14 57歳・病気のため退職。没す14

韓愈 哲学・儒学「五原」

孟郊

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●杜甫の全作品1500首を訳注解説 ●理想の地を求めて旅をする。"

 

 

Ⅲ 杜詩

詳注

767年-74#4 秋行官張望督促東渚耗(一作刈)稻向畢清晨遣女奴阿稽豎子阿段往問#4 杜詩詳注(卷一九(四)一六五五)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8197

 

 

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767年-集-4字解 【字解集】 a灩澦・ b七月一日題終明府水樓・c行官張望補稻畦水歸 字解集 Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8173

 

 

杜甫詩(1)736~751年  53

杜甫詩(2)752年~754年、43歳 73

杜甫詩(3)45歳 安史の乱に彷徨う 26

杜甫詩(4)757年、左拾遺 43

杜甫詩(5)758年47歳 左遷 53

杜甫詩(6)759年 三吏三別 44

 

 

杜甫詩(7)759年秦州詩 66

杜甫詩(8)759年同谷紀行、成都紀行36

杜甫詩(9)760年、49歳 成都 45

杜甫詩(10)761年、50歳 成都82

杜甫詩(11)762年蜀中転々43

杜甫詩(12)762年 蜀中転々 49

 

 

(13)763年蜀中転々 96

 (14)764年 三月成都へ帰る 100

 (15)765年正月幕府を辞す 63

(16-1) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)80

(16-2) 766年雲安、暮春、夔州 168首 の(1)81

 

 

 

杜甫詩 (17-1)767年夔州・西閣・赤甲・瀼西132

杜甫詩 (17-2) 767年・瀼西・東屯 133

杜甫詩 (18)768年江陵・公安縣・岳州 78

杜甫詩 (19)769年・洞庭湖・潭州・衡州 78

杜甫詩 (20)770年・洞庭湖・潭州・衡州。27

杜甫詩 (21)洩れ分(未詳分)・散文

 

 

 

杜甫詩 全詩 総合案内 

 

 

 

●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集  不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。

 

 

Ⅳブログ詩集

漢・唐・宋詞

105)回目 浣溪沙五首 /菩薩鬘五首 /  歸國遥三首 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8192 (02/17)

 

 

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105)回目 浣溪沙五首 /菩薩鬘五首 /  歸國遥三首 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8192 (02/17)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●花間集全詩●森鴎外の小説の”魚玄機”詩、芸妓”薛濤”詩。唐から五代詩詞。花間集。玉臺新詠連載開始

 

 

.唐五代詞詩・女性

・玉臺新詠

玉-040 定情詩一首-#1〈〔繁欽〕〉 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ 8193

 

 

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玉集-08 室恩一首・情詩一首 【字解集】   Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠ブログ 8187

 

 

●薛濤の全詩

●花間集(1

●花間集(2

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●魚玄機全詩

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105)回目 浣溪沙五首 /菩薩鬘五首 /  歸國遥三首 【字解集】》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8192

 

 

韋莊 【字解集】

 

 

 

 

 

花間集 教坊曲《浣溪沙五首》 韋 莊

 

 

 

 

 

1.韋莊

 836910)、字は端己、京兆の杜陵(陝西省西安市の南郊)の人。中唐の詩人韋応物の玄孫で、宰相韋見素の孫。父母を早く失い、家は没落、貧に苦しんだ。五十代に入ってから、数年間、広く長江の中、下流域を渡り歩き、何度も科挙に落第した末、昭宗の乾寧元年(894年)、59歳でようやく進士に及第(高等文官試験)に合格し、校書郎に任じられた。66歳で四川省にいた王建が叛乱を起こしたので、朝廷では李詢を正使、韋荘を補佐として宣撫に赴かせたが、ほどなくして唐が亡び、王建が前蜀の帝を称えると、韋荘はそのまま王建に仕え、王建が前蜀王朝を建てるのに協力して、吏部侍郎・同平章事に任ぜられた。宰相にまで昇進している。前蜀の都は成都にあり、韋荘はその郊外の、かつて杜甫が住んでいた浣花草堂を修復して、自分の庵にした。温庭第と並んで温蒙と併称され、晩唐期を代表する詞人である。喜涯の詞は率直明快さを特色とし、『花問集』 には48首の詞が収められている。

 

 

唐宋の時代の女性は、それぞれ異なった階層に属していた。彼女たちはおよそ次の十種に分けることができる。

 ①   妃嬪、

 ②   宮人、

 ③   公主(附郡主・県主)、

 ④  貴族・宦門婦人、

 ⑤   平民労働婦人、

 ⑥  商家の婦人、

 ⑦  妓優、

 ⑧  姫妾・家妓、

 ⑨  奴碑、

 ⑩  女尼・女冠(女道士)・女巫

以上である。

 

2.  唐は隋の制度を参照して完壁で精密な「内官」制度をつくった。その規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬪(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人)、捷好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。上記のそれぞれの女性は官品をもち、合計で122人の多きに達した。皇后だけが正妻であり、その他は名義上はみな「妃嬪」-皇帝の妾とされた。

また、皇太子の東宮にも「内官」があり、太子妃一人、その下に良娣、良媛、承徽、昭訓、奉儀などの品級があった。諸親王の王妃の下にも孺人【じゅじん】等の媵妾【ようしょう】の身分があった。

宮官は宮人の最上層にある人々であり、後宮のさまざまな部局に属する職員であった。唐朝の後宮には六局(尚宮局、尚儀局、尚服局、尚食局、尚寝局、尚功局)があり、宮中のすべての事務を管理していた。六局の各首席女官の尚宮、尚儀、尚服、尚食、尚寝、尚功が六部の尚書(長官)になった。六局の下に二十四司を統括し、各司の女官はそれぞれ別に司記、司言、司簿、司闈、司籍、司楽、司賓、司賛、司宝、司衣、司飾、司使、司膳、司醞、司薬、司饎、司設、司輿、司苑、司灯、司制、司珍、司森、司計に分けられていた。またその他に二十四典、二十四掌、及び宮正、阿監、形史、女史など各級の女官もあった。これらの女官には品級・給与が与えられており、彼女たちは礼儀、人事、法規、財務、衣食住行(行は旅行、出張等の手配)などの宮廷事務を担当した(『旧唐書』職官志三)。

 

浣溪沙五首 其一

3. (また、春が訪れ、寒食、清明、科挙の合格発表、春の行楽を待ち望んでいるが、やはりお声はかからなかったそれでも寵愛を受けられるように準備をして待つ毎日だと詠う。)

4. 日がな一日、何にもしないで、奇麗な部屋、奇麗な庭、奇麗な建物、牡丹の花が咲き誇る…これだけの条件の中にいることができる女性は、妃嬪だけである。貴族の愛妾ということもなくはないが、寵愛を失った妃嬪というのが適切であろう。寒食の日には、お墓参りのお供を夢見、春の行楽を待ち侘び、、二羽の牡丹の花を一緒に見たいと夢見ている、どんなことがあっても、寵愛を受ける準備をしておかないといけないのが妃嬪なのだ。

春まだ寒い時期、染め付けた布地を水にさらした後、河原に干す。春になると谷間の美しい光景となる。「浣溪沙」は、春の河原に、色とりどりの万幕を張って行楽を楽しむ様子が布地を晒し、乾かす光景と似ているために、春の行楽の恋模様を詠うものである。多くの階層の歌があるが、妃嬪・宮人・妓優のものがほとんどである。

 

5. 唐の教坊の曲名。『花間集』 には五十七首所収。韋莊の作は五首収められている。双調四十二字、前段二十一字三句三平韻、後段二十一字三句二平韻で⑦⑦⑦/7⑦⑦の「AAA/AA」詞形をとる。の詞は花間集巻二所収の浣溪沙其一である。

其一

淸曉妝成寒食天 柳球斜嫋間花鈿 捲簾直出畫堂

指點牡丹初綻朶 日高猶自凭朱 含顰不語恨春

  

  

6・淸曉:あかつきの最初。の夜が明けたばかり。

7・妝成:清明の日の朝の身繕いもできあがり。

8・寒食:清明節の3日前夜。現在の暦で言うと、四月四日前後か。“掃墓”(先祖のお墓参りをして、お墓の掃除をする日)の日でもある。寒食は冬至から数えて百五日目。この日は火を燃やすことを禁じ、あらかじめ調理しておいた冷えた料理を食べたので寒食と言った。その起源は、春秋時代、晋の介子椎の故事に基づくと言われている。彼は、又公の亡命の供をした。そして、文公が復権し帰国すると、故郷の山に隠れ文公の呼び出しに応じなかった。文公は山に火を放ては介子推が山から出て来るものと思い、火を放ったところ、介子椎は樹を抱いて焼死した。文公はその死を悼んで、介千推の命日には国民に火を焚くことを禁じたと言う。二十四節気の清明の前日に当たる。

9・天:日。一日(いちにち)。

10・柳球:“柳花球”のこと。風に方々飛ばされた柳絮が団子状に固まったものを頭に飾ったことから白い球状の物を頭に着けた。介千推の命日ということで、喪章の意味もあったのである。

11・斜:ななめに。きっちりとなっていないさまをいう。

12・嫋:かぼそく弱々しいさま。風がそよそよと吹くさま。煙などがゆらゆらと立ち上るさま。ここでは、ゆらゆらと揺れ動くさまをいう。

13・間:間する。隔てる。間(ま)をおく。ここは動詞の意。名詞とは声調が違う。

14・花鈿:婦人の頭の装飾品で、前額にはりつけるもの。或いは、花かんざし。ここは花かんざしを挿した女をいう。

魚玄機『折楊柳』

朝朝送別泣花鈿,折盡春風楊柳煙。

願得西山無樹木,免教人作淚懸懸。

朝朝 送別 花鈿に泣き、春風に折り尽くすは楊柳 煙る。

願はくは 西山 樹木なしとし、人をして 涙の懸懸を作さしむるを免るるを得んことを。

15・捲簾:スダレを巻き上げる。

16・直出:直ちに…に出て。

17・畫堂:美しく彩色してある建物。立派な建物。

名残を惜しんで臨み、だけど、恨み言を口にすることができないし、どんな時でも寵愛を受ける事だけ思って生きていく人生なのだ。

18・指點:指摘する。一つ一つ指差して数える。

19・牡丹:ボタンの花。進士及第の発表で、城内の貴族高級官僚の庭を開放、無礼講の祝賀が催された。牡丹は、長安の街には晩春の風物詩である。

20・初:咲いたばかりの。いましがた咲いたばかりの。

21・綻朶:花がほころんだばかりの枝。

22・日高:日が高くなる。お昼近くなる。

23・猶自:…でさえ、なおかつ。

24・凭:よりかかる。もたれる。

25・朱欄:あかい欄干。

26・含顰:眉をひそめる。しかめる。 

27・顰 顔をしかめる。眉を寄せる。

28・不語:…を口にしない。言わない。

29・恨:恨み言。

30・春殘:移ろいゆく春。去りゆく春。

 

浣渓沙五首 其二

31.(また、春が訪れ、寒食、清明の行事でブランコを用意してもらったものの、乗る気にならない。ただ漠然と時は過ぎてゆく。科挙の合格発表、春の行楽を待ち望んでいるが、やはりお声はかからなかったそれでも寵愛を受けられるように準備をして待つ毎日だと詠う。)

32. 其一の続版で、寒食、清明節の行事として鞦韆に乗ったとしても、誰に見てもらうわけでもなく、高さを競って遊んだものだが今は、その気にならない。近くにいても連絡さえ取れず、鼻と風だけが通い合っていると思うと焦燥にかられる。それでも、寵愛を受けることで毎夜待っていることだけで生きている。

33. 唐の教坊の曲名。『花間集』 には五十七首所収。韋莊の作は五首収められている。双調四十二字、前段二十一字三句三平韻、後段二十一字三句二平韻で⑦⑦⑦/7⑦⑦の「AAA/AA」詞形をとる。の詞は花間集巻二所収の浣溪沙其一である。

浣渓沙五首 其一

淸曉妝成寒食天 柳球斜嫋間花鈿 捲簾直出畫堂

指點牡丹初綻朶 日高猶自凭朱 含顰不語恨春

  

  

浣渓沙五首 其二

欲上鞦韆四體  擬教人送又心 畫堂簾幕月明

此夜有情誰不極 隔墻梨雪又玲  玉容憔悴惹微

●●○○●●○  ●△○●●○○ ●○○●●○△

●●●○○△● ●○○●●○○  ●○○●●○○

34・鞦韆 ぶらんこ蕩ぎのこと、2本の綱や鎖で横木をつり下げ、それに乗って前後に揺り動かして遊ぶもの。ぶらんこ。しゅうせん。《季 春》

35・蕩鞦韆 この女性の遊びは、毎年、寒食(清明節の前二日の節句)と清明節(冬至から一〇六日目、春の到来を祝う)前後に行われた。「天宝年間、宮中では寒食節に至ると、鞦韆を作って宮婦たちを乗せて宴楽とした。これを〝半仙の戯〞(半分仙人気分となる遊び)とよんだ」(『開元天宝遺事』巻下)。民間の女性もぶらんこをして遊んだ。唐詩王建《鞦韆詞》に、「少年き児女は鞦韆を重んじ、巾を盤け帯を結んで両辺に分かつ。身は軽く裙薄く 力を生じ易し、双手は空に向き 鳥の翼の如し。下り来り立ち定まりて 重ねて衣を繋ぎ、復た斜めの風の 高きを得ざらしむるを畏る。傍人 上に送る 那ぞ貴ぶに足らん、終に鳴璫を賭け 聞いて自ら起つ。回り回って高樹と斉しかるが若く、頭上の宝釵 従って地に堕つ」

王建《鞦韆詞》

長長絲繩紫復碧,裊裊橫枝高百尺。

少年兒女重秋千,盤巾結帶分兩邊。

身輕裙薄易生力,雙手向空如鳥翼。

下來立定重系衣,復畏斜風高不得。

傍人送上那足貴,終賭鳴鬥自起。

回回若與高樹齊,頭上寶釵從墮地。

眼前爭勝難為休,足踏平地看始愁。

また別の詩、韓偓《鞦韆》に、

「五糸もて縄を繋ぎ 墻を出ること遅く、力尽き纔かに瞵りと隣の圃を見る。下り来って矯く喘ぎ末だ調うる能わず、斜めに朱闌に借りて久しく語無し」(韓偓「鞦韆」)とある。

韓偓《鞦韆》

池塘夜歇清明雨,繞院無塵近花塢。

五絲繩繫出牆遲,力盡才瞵見鄰圃。

下來嬌喘未能調,斜倚朱欄久無語。

無語兼動所思愁,轉眼看天一長吐。

これらの詩からみると、少女たちはぶらんこが大好きで大いに勝負を争い、時にアクセサリーまで賭けて、誰が最も高く揚がるか競った。

36・四体 頭・胴・手・足。全身。五体。

37・慵 物憂い,けだるい.

38・忪 ドキドキする、動悸が不安定、驚く、恐れおののく。

39・畫堂:美しく彩色してある建物。立派な建物。

40・玲瓏 玉などが透き通るように美しいさま。また、玉のように輝くさま。 2 玉などの触れ合って美しく鳴るさま。また、音声の澄んで響くさま。

42・玉容 美しい容貌(ようぼう)。玉貌。

43・憔悴 病気や心痛のために、やせおとろえること。やつれること。

 

浣渓沙 其三 ----081

44.(選ばれて後宮に入ってきたが、毎夜、寵愛を受けるため、お香を朝霧がただよったかのように焚いているが、全く寵愛を受ける事は無い、妃嬪は、家柄もいいとされた美人であってもそのまま年老いていくと詠う。)

45. 「後宮に選抜された宮嬢の多くは衣冠(公卿大夫)の家の子女である」と書いている。しかしながら、良家の子女の才智徳行あるものを厳格に選択するというのは、主に皇太子、諸王の妃を決める時だけであった。事実、歴代の皇帝は宮女を選別するのに、決してこれほど厳格な規定を持ってはいなかった。皇帝たちは名門の令嬢でも、貧しい家の娘でも、はては娼妓、俳優などの賎しい女たちであろうとも、ただ容姿、技芸が衆に抜きんでていれば、一様に選んで宮廷に入れたのであった。数多く選出されるけれど、全員がもれなく寵愛を受けるというわけではなく、寵愛を全く受けずに年老いてゆくということもあるわけである。この詩は、多くの美しい娘が生娘のまま生涯を終えるということを詠ったものである。

46. 唐の教坊の曲名。『花間集』 には五十七首所収。韋莊の作は五首収められている。双調四十二字、前段二十一字三句三平韻、後段二十一字三句二平韻で⑦⑦⑦/7⑦⑦の「AAA/AA」詞形をとる。

浣渓沙五首 其一

淸曉妝成寒食天 柳球斜嫋間花鈿 捲簾直出畫堂

指點牡丹初綻朶 日高猶自凭朱 含顰不語恨春

  

  

浣渓沙五首 其二

欲上鞦韆四體傭 擬教人送又心忪 畫堂簾幕月明

此夜有情誰不極 隔墻梨雪又玲瓏 玉容憔悴惹微

●●○○●●○  ●△○●●○○ ●○○●●○△

●●●○○△● ●○○●●○○  ●○○●●○○

惆悵夢餘山月斜 孤燈照壁背窗紗 小樓高閣謝娘

暗想玉容何所似 一枝春雪凍梅花 満身香霧簇朝

   

   

この詞は花間集巻二所収の浣溪沙其三である。

47・惆悵:うらめしい。うらみがましい。失意のさま。本来受けるべき情が全く受けられない時の心情。恨めしいことだが春が過ぎ去って帰っていくのを留めるることはできない。 
白居易《三月三十日題慈恩寺詩》「慈恩春色今朝盡,盡日裴回倚寺門。惆悵春歸留不得,紫藤花下漸黄昏。」(【三月三十日 慈恩寺に題す】 慈恩の春色 今朝 盡く,盡日 裴回して 寺門に倚る。惆悵す春の歸るは 留め得ざるを,紫藤花下 漸く黄昏。
『淸平樂』
野花芳草,  寂寞關山道。
柳吐金絲鶯語早,惆悵香閨暗老。
羅帶悔結同心, 獨凭朱欄思深。
夢覺半床斜月, 小窗風觸鳴琴。
淸平樂 () 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-261-5-#15  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2687

『荷葉杯』

記得那年花下。 深夜。

初識謝娘時。

水堂西面畫簾垂。 攜手暗相期。

惆悵曉鶯殘月。 相別。

從此隔音塵。

如今倶是異鄕人。 相見更無因。

荷葉杯 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩紀頌之の漢詩ブログ2672

『應天長 之二』韋莊

別来半歳青書絶、一寸離腸千萬結。

難相見。易相別、又是玉楼花似雪。

暗相思、無虚説、惆悵夜来煙月。

想得此時情切、 涙沾紅袖

小樓高閣謝娘家。

暗想玉容何所似、一枝春雪凍梅花、

應天長 二 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩紀頌之の漢詩ブログ2667

『歸國遙』 韋荘

春欲暮、 滿地落花紅帶雨。

惆悵玉籠鸚鵡、單棲無伴侶。

南望去程何許、問花花不語。

早晩得同歸去、恨無雙翠羽。

歸國遙 一 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩紀頌之の漢詩ブログ2642

韋荘『菩薩蠻 一』
紅樓別夜堪惆悵。 香燈半捲流蘇帳。
殘月出門時。美人和涙辭。
琵琶金翠羽。絃上黄鶯語。
勸我早歸家。綠窗人似花。
菩薩蠻 一 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩花間集i紀頌之の漢詩ブログ2617

48・夢餘 同じ夢を見続けること。

49・山月斜 名残の月と云える下弦の月が山に傾いている。夕刻からすることもなく漫然と過ごすものの月が登り、西に傾くまでうとうととしていたと眠りにつけない状況を示す。

50・孤燈 閨に一人で眠れないままじっとしている状況を強調する語。

・照壁 燭灯の焔の明かりが壁の影を移す、その揺らめきを漫然と見ている孤独を強調する語。

51・背窗紗 絹を張った窓を背景にする、場面を外に移す常套語。

52・小樓 離れ家。樓は高く構えた建物。たかどの。遠くを見るためにつくった高い建物。ものみやぐら。望楼。

53・高閣 (1)高くて立派な建物。高楼。 (2)高い棚。

54・謝娘家 「良家」の出身、つまり一般の官僚あるいは士人の家の出であったおとめ。生娘。美女や妓女、あるいは愛妾の棲む家。十数歳に達した「良家の子女」は、一定種の選抜をへて多数宮廷に入ったのであるが、彼女たちの中のほんの少しの者だけが幸運を得て妃嬢に列し、大多数の者は名もなき宮女のままで生涯を終えたのである。謝家:唐の李徳祐が豪邸を築いて謝秋娘を池のほとりの楼閣に住まわせたことによる。比喩する相手が特定される場合は、晋の謝安であったり、謝靈運、謝朓を示す場合もある。

55・暗想 ひそかに思う。

56・玉容 美しい姿、顔だち。

何所似 ・何所似:何に似ているだろうか。 ・何所-:どこ。どんな。何。後に動詞を附けて、行為の目標または帰着するところを謂う。杜甫《旅夜書懐》「飄飄何所似,天地一沙鷗。」(飄飄 何の似たる所ぞ,天地 一沙鷗。)自分のただようている境遇はいかなるものに似ているかといえば、それは天地のあいだにおけるひとつの沙鴎のようなものだ。

765年永泰元年54-38 《旅夜書懷》 杜甫index-15 杜甫<838 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ4925 杜甫詩1500-838-1156/2500

57・春雪 春先に降る雪。

58・凍梅花 早春に葉より先だって花を開くが、凍りつくほど寒い朝をいう。

59・満身 体に満。杜甫《高都護驄行》「五花散作雲滿身,萬裡方看汗流血。」(五花散じて作す雲満身、万里方に看る汗血を流すを。)からだは五色の梅の花がたが散らばって雲が一ぱいにひろがっているようだ。我々は眼前この馬が万里の道中をして来て血の汗を流すのをみるのである。

高都護驄行 杜甫

60・香霧 杜甫《月夜》「香霧雲鬟湿、清輝玉臂寒。」(香霧(こうむ)に雲鬟(うんかん)湿(うるお)い、清輝(せいき)に玉臂(ぎょくひ)寒からん。)二人で過ごした室には香霧がこめ、雲の髪型もうるおいが生じる、清々しい月のひかり輝いて妻のうなじに、影を落としている、美しい姿もつめたく感じていることであろう。

月夜 杜甫  kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ 杜甫特集700- 144

61・簇朝霞 朝霧がむらがる。

 

浣渓沙五首 其四 

62.(きれいな谷間が春のきれいな水でさらした反物を干す砂浜にいっぱいになる早春の出来事、春の行楽の事を詠う。)

63. 寒食、清明節のころの春の行楽、男女のようすを詠う新しい形の詩。

64. 唐の教坊の曲名。『花間集』 には五十七首所収。韋莊の作は五首収められている。双調四十二字、前段二十一字三句三平韻、後段二十一字三句二平韻で⑦⑦⑦/7⑦⑦の「AAA/AA」詞形をとる。

浣渓沙五首 其一

淸曉妝成寒食天 柳球斜嫋間花鈿 捲簾直出畫堂

指點牡丹初綻朶 日高猶自凭朱 含顰不語恨春

  

  

浣渓沙五首 其二

欲上鞦韆四體傭 擬教人送又心忪 畫堂簾幕月明

此夜有情誰不極 隔墻梨雪又玲瓏 玉容憔悴惹微

●●○○●●○  ●△○●●○○ ●○○●●○△

●●●○○△● ●○○●●○○  ●○○●●○○

浣渓沙五首 其三

惆悵夢餘山月斜 孤燈照壁背窗紗 小樓高閣謝娘

暗想玉容何所似 一枝春雪凍梅花 満身香霧簇朝

   

   

浣渓沙五首 其四

緑樹藏鶯鴬正啼 柳絲斜拂白銅堤 弄珠江上草萋

日暮飲歸何處客 綉鞍驄馬一聲 満身蘭麝醉如

   

   

この詞は花間集巻二所収の浣溪沙其四である。

 

65白銅堤 古代襄陽境漢水堤名。・白銅蹄 六朝時代に襄陽に流行した童謡の題。内容は斉の東昏侯の失政に対して、ヨウ州(治所は襄陽)にいた梁の武帝がクーデターを起こすことを予言したもの。白は方位学で金性に属し、西を意味する。西の騎馬が、東の都・康京を占領する「襄陽白銅蹄、反縛揚州兒」後に武帝自ら詞をつくり、沈約に曲をつけさせた。 李白『0412 襄陽曲四首其一』「襄陽行樂處、歌舞白銅鍗。江城回淥水、花月使人迷。」(嚢陽はたのしい行楽の場所だ。人びとは、古いわらべ歌の「白銅蹄」を歌ったり踊ったりする。江にのぞむこのまちは、うつくしい水にとりまかれ、なまめかしい花と月とが、人の心をまよわせる。)あるいは六朝の宋の隋王寵が作ったといわれる「嚢陽楽」という歌謡に、「朝に嚢陽城を発し、暮に大隄の宿に至る。大隄の諸女児、花顛郡の目を驚かす」とある。《隋書》卷十三《音樂志上》「 初武帝之在雍鎮,有童謠云:「襄陽白銅蹄,反縛揚州兒。」識者言,白銅蹄謂馬也。白,金色也。及義師之興,實以鐵騎,揚州之士,皆面縛,果如謠言。故即位之後,更造新聲,帝自為之詞三曲。又令沈約為三曲,以被絃管。帝既篤敬佛法,. 又令沈約為三曲,以被絃管。」(初めて武帝の雍鎮に在るや,童謠有りて云く:「襄陽白銅蹄,反縛揚州兒。」と。識者言う,白銅蹄は馬を謂う也。白は,金色なり。義師の興るに及び,實に鐵騎を以てす,揚州の士,皆 面縛すること,果して謠言の如し。故に即位の後,更めて新聲を造る,帝 自ら之が詞 三曲を為す。又 沈約をして三曲を為らしめ,以て絃管に被らしむ。)

66・弄珠 筝曲の名。玩珠。漢皋の二女が鶏の卵ほどの真珠以て遊んだという故事のきょくの事を歌った曲。(真珠など宝石。 美しいもの、すぐれたもの、尊いもののたとえ。特に芸術作品にいうことが多い。)

 玩珠。指 漢皋の二女の事を歌った曲。《文選·張衡》:“耕父光於清泠之渊,游女弄珠於 漢皋之曲。” 李善 注引《詩外傳》:“ 鄭交甫 将南適楚 ,乃遇二女,佩両珠,大如鶏之卵。” 唐 李白 《2132 峴山懐古》:“弄珠游女,醉酒怀 山公 。《北史·百濟傳》:“有鼓角、箜篌、筝竽、篪笛之,投、摴蒲、弄珠、握槊等杂戏。”

26 《峴山懷古》Index-7 Ⅱ―2 727年開元十五年27 6首 安陸を中心に35歳まで約十年遊ぶ。<126> Ⅰ李白詩1308 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5088

67白銅堤 古代襄陽境漢水堤名。・白銅蹄 六朝時代に襄陽に流行した童謡の題。内容は斉の東昏侯の失政に対して、ヨウ州(治所は襄陽)にいた梁の武帝がクーデターを起こすことを予言したもの。白は方位学で金性に属し、西を意味する。西の騎馬が、東の都・康京を占領する「襄陽白銅蹄、反縛揚州兒」後に武帝自ら詞をつくり、沈約に曲をつけさせた。 李白『0412 襄陽曲四首其一』「襄陽行樂處、歌舞白銅鍗。江城回淥水、花月使人迷。」(嚢陽はたのしい行楽の場所だ。人びとは、古いわらべ歌の「白銅蹄」を歌ったり踊ったりする。江にのぞむこのまちは、うつくしい水にとりまかれ、なまめかしい花と月とが、人の心をまよわせる。)あるいは六朝の宋の隋王寵が作ったといわれる「嚢陽楽」という歌謡に、「朝に嚢陽城を発し、暮に大隄の宿に至る。大隄の諸女児、花顛郡の目を驚かす」とある。《隋書》卷十三《音樂志上》「 初武帝之在雍鎮,有童謠云:「襄陽白銅蹄,反縛揚州兒。」識者言,白銅蹄謂馬也。白,金色也。及義師之興,實以鐵騎,揚州之士,皆面縛,果如謠言。故即位之後,更造新聲,帝自為之詞三曲。又令沈約為三曲,以被絃管。帝既篤敬佛法,. 又令沈約為三曲,以被絃管。」(初めて武帝の雍鎮に在るや,童謠有りて云く:「襄陽白銅蹄,反縛揚州兒。」と。識者言う,白銅蹄は馬を謂う也。白は,金色なり。義師の興るに及び,實に鐵騎を以てす,揚州の士,皆 面縛すること,果して謠言の如し。故に即位の後,更めて新聲を造る,帝 自ら之が詞 三曲を為す。又 沈約をして三曲を為らしめ,以て絃管に被らしむ。)

68・弄珠 筝曲の名。玩珠。漢皋の二女が鶏の卵ほどの真珠以て遊んだという故事のきょくの事を歌った曲。(真珠など宝石。 美しいもの、すぐれたもの、尊いもののたとえ。特に芸術作品にいうことが多い。)

1. 玩珠。指 漢皋の二女の事を歌った曲。《文選·張衡》:“耕父光於清泠之渊,游女弄珠於 漢皋之曲。” 李善 注引《詩外傳》:“ 鄭交甫 将南適楚 ,乃遇二女,佩両珠,大如鶏之卵。” 唐 李白 《2132 峴山懐古》:“弄珠游女,醉酒怀 山公 。《北史·百濟傳》:“有鼓角、箜篌、筝竽、篪笛之,投、摴蒲、弄珠、握槊等杂戏

26 《峴山懷古》Index-7 Ⅱ―2 727年開元十五年27 6首 安陸を中心に35歳まで約十年遊ぶ。<126> Ⅰ李白詩1308 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5088

69・江上 長安曲江のほとり。長安の曲江池、楽游原などの景勝の地。「春薪踏青」参照。

70.何處客 どこの人たちと行楽に行って正体不明になるほど酔いつぶれた人をいう。

70・噺 【話、咄】①話すこと。口に出して語ること。②話された内容。③話題。④うわさ。評判。⑤話し合って決めるべき事柄。㋐相談ごと。㋑交渉ごと。⑥人に語り聞かせる,ある内容や筋をもった事柄。㋐昔ばなしや説話など。㋑講演。演説。㋒落語。小咄。㋓談話。⑦物の道理。⑧いきさつ。事情。⑨つくりごと。うそ。⑩(形式名詞のように用いて)こと。ことがら。

71・蘭麝 蘭の花と麝香(じゃこう)の香り。また、よい香り。【蘭奢待】香木の一種。正倉院宝物の香薬中,目録に黄熟香(おうじゆくこう)と記されている3500匁,51寸の香木を香道家は蘭奢待と呼ぶ。木所(きどころ)は伽羅である。目録では薬物に分類され,鎮静,去痰の薬効があるという。芯の部分は朽ちて空洞となっている。数ヵ所に截香の跡がある。黄熟の語義は明らかでないが,中国明代,倪朱謨(げいしゆばく)の《本艸彙言》によれば,木肌が熟して黄色をおび佳香を発するところから名づけられたという。

72・綉 繍:えぎぬ。刺繍。縫い取り。美しく飾る。

 

 

 

 

0229

浣渓沙五首 其一

淸曉妝成寒食天、柳球斜嫋間花鈿、捲簾直出畫堂前。

指點牡丹初綻朶、日高猶自凭朱欄、含顰不語恨春殘。

0230

浣渓沙五首 其二

欲上鞦韆四體傭擬教人送又心忪畫堂簾幕月明風

此夜有情誰不極隔墻梨雪又玲瓏玉容憔悴惹微紅

0231

浣渓沙五首 其三

惆悵夢餘山月斜孤燈照壁背窗紗小樓高閣謝娘家

暗想玉容何所似一枝春雪凍梅花満身香霧簇朝霞

0232

浣渓沙五首 其四

緑樹藏鶯鴬正啼、柳絲斜拂白銅堤、弄珠江上草萋萋。

日暮飲、綉驄馬一聲満身蘭麝醉如泥

0233

浣渓沙五首 其五

夜夜相思更漏殘、傷心明月凭欄干。想君思我錦衾寒。

咫尺畫堂深似海,憶來唯把舊書看。幾時攜手入長安。

 

73・春薪踏青(ハイキング)

正月十五日以後から三月の清明節の前後にかけて、人々は盛んにハイキングをしたり、野宴を催したりして楽しんだ。女性も春のハイキングに巻き込まれ、一年の内、最も愉快で自由なめ日を楽しんだ。「長安の男女は春の野を遊歩し、名花に遇えば敷物を広げ、紅い 裾を順番に挿し掛けて、宴の幌とする」、「都の男女は、毎年正月半ば過ぎになると、各おの車に乗り馬に跨り、園圃(農園)あるいは郊野(郊外の野原)の中に帳をしつらえて、探春の宴をする」(『開元天宝遺事』巻下)。こう見てくると、春の野に遊宴を催すとは、何と現代的なことかと思う。長安の曲江池、楽游原などの景勝の地は、ひとたび新春が訪れると女性たちがみな押しょせて見物したり笑い合ったりする場所であり、その他の景勝地もみな同様であった。唐詩の中には女性たちが春を楽しむ情景を歌ったものが少なくない。李華の詩「春遊吟」 に、「初春 芳句(春の野)遍く、千里 藷として職に盈つ。美人は新しき英を摘み、歩歩 春緑に玩る」とあり、また施肩吾の詞「少婦遊春詞」 に、「錦を集め花を轢めて勝遊を闘かわせ、万人 行く処 最も風流」とある。杜甫は「麗人の行」 の中で、貴婦人たちの訪春の情景を「三月三日 天気新なり、長安の水辺 麗人多し」と描写した。張萱の 「虢国夫人游春図」は、さらに生々と唐代貴婦人の游春の情景を再現している。

 

浣溪沙五首 其五

74. (きれいな谷間が春のきれいな水でさらした反物を干す砂浜にいっぱいになる早春になったのに、天子の御殿がすぐ近くにあっても、その間には深い海が横たわっている、でもいつの日か手を携えて長安の街を通り抜け、春の行楽に往けることだろうと詠う。)

寒食、清明節のころになっても、寵愛を受けることが無くなった妃嬪の春の行楽を夢見て過ごす妃嬪のようすを詠うもの。

75.唐の教坊の曲名。『花間集』83番目、巻二の23番目の詩、韋荘の詩は花間集に四十七首所収、浣溪沙は五十七首所収で、韋莊の作は五首収められている。双調四十二字、前段二十一字三句三平韻、後段二十一字三句二平韻で⑦⑦⑦/7⑦⑦の「AAA/AA」詞形をとる。

浣渓沙五首 其一

淸曉妝成寒食天 柳球斜嫋間花鈿 捲簾直出畫堂

指點牡丹初綻朶 日高猶自凭朱 含顰不語恨春

  

  

浣渓沙五首 其二

欲上鞦韆四體傭 擬教人送又心忪 畫堂簾幕月明

此夜有情誰不極 隔墻梨雪又玲瓏 玉容憔悴惹微

●●○○●●○  ●△○●●○○ ●○○●●○△

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浣渓沙五首 其三

惆悵夢餘山月斜 孤燈照壁背窗紗 小樓高閣謝娘

暗想玉容何所似 一枝春雪凍梅花 満身香霧簇朝

   

   

浣渓沙五首 其四

緑樹藏鶯鴬正啼 柳絲斜拂白銅堤 弄珠江上草萋

日暮飲歸何處客 綉鞍驄馬一聲 満身蘭麝醉如

   

   

浣渓沙五首 其五

夜夜相思更漏殘 傷心明月凭欄干 想君思我錦衾

咫尺畫堂深似海 憶來唯把舊書 幾時攜手入長

  

  

この詞は花間集 韋荘の浣溪沙 其五である。

・韋莊:韋荘。唐末、蜀の詞人。

 

76・夜夜:秋冬と長い夜を独りで過ごしてきたこと。単なるよごとではない。詞題から、夜が次第に短くなってきていること、辛い長い夜というのを強調する語である。

77・相思:大事な人を思いしのぶ。相は、相互にの意味は、この場合は弱い。相思相愛の相思とは違う。現代語に単相思(片思い)がある。但し、想君思我錦衾寒のとり方によっては、「相互に」の意味になる。ここは、ある時期、ある期間、相互相思であったこと、寵愛を受けていた期間があったことをいう。この詩は李白《長相思》詩に基づいて作られた詩のように感じられる。

長相思

長相思,在長安,絡緯秋啼金井闌。

微霜淒淒簟色寒,孤燈不明思欲

卷帷望月空長歎,美人如花隔雲端。

上有青冥之長天,下有水之波瀾。

天長路遠魂飛苦,夢魂不到關山難。

長相思,摧心肝。

(長相思)

長相思,長安に在り,絡緯 秋啼く 金井闌。

微霜 淒淒 簟色寒し,孤燈 明らかならず 思いえんと欲す。

帷を卷き 月を望んで空しく長歎し,美人 花の如く雲端を隔つ。

上には青冥の長天有り,下には淥水の波瀾有り。

天長く 路遠くして 魂 飛ぶこと苦なり,夢魂 到らず 關山難し。

長相思,心肝を摧く。

(寵愛を失っても、あの方のことを思い続けるしかないと詠う。)

あの人のことを長く思い続けている妃嬪は、長安に在る。秋も深く金の飾りを鏤めた井戸端のあたりでは蟋蟀がしきりに機織りの様な声を立てて啼いている。

夜間、薄霜が降りて冷え冷えとし、“もしか”と思い寝牀に敷いていた簟の色さえ寒々としている。この時に当たり、半分消えかかったような孤燈をとってかかげて、絶えぬ愁いの意を抱き続けている。

そして、とばりを巻き上げて、月を見上げて、空しく長嘆の声を発してみる。なぜなら、寵愛を失った妃嬪であっても牡丹の花のように美しさをたもっているけれど、月とおなじように、遠く雲端を隔てて天涯におかれているからである。

上には、蒼蒼とした仙郷のごとく天は何処までも続き、下には、澄み切った水の上に波瀾を生じて広げる。

このように天は長く、道は遠いために、魂が飛んでゆくことは苦しく、夢中の魂すら飛んでゆくことは難しい。

そこで、ずっと長く思い続けるしかなく、それが心も体も砕くことになっても思い続けるのだ。

136 《長相思》Index-10 Ⅱ―5-730年開元十八年30歳 <136> Ⅰ李白詩1321 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ5153

 

78・更漏:水時計。転じて時間。漏刻が部屋にある後宮の妃嬪の部屋。

79・殘:のこりすくない。そこなう。ここでは、残る、残り、等ではない。残更になったこと。明け方、午前四時頃になったこと。慕う気持ちが残っていること、残は残暑、残更、名残、の残。

80・傷心:心をいためること。妃嬪は、どんな場合でも、寵愛を受ける準備をしておかないといけない。

81・凭欄干:準備をしているから、待つのは侘しいことであり、呆然として高殿の手すりに寄り添うこと。この時代に、妃嬪、富貴の愛妾でなければ、何もしないで生活できることはない。妃嬪は、景色を眺めたりしながら、物思いに耽ることで、詞では想いに耽るという場合の常套表現。倚欄干、憑欄干等に同じ。

82・錦衾寒:錦の掛け布団が寒い。つまり独り寝で、夜を過ごしていることを、主人公は想像している。

この三句は、長い夜、眠れぬまま、一人で過ごす布団が寒いこと、ちょうあいをうしなって、生甲斐を失いかけていることを表現するものである。

83・咫尺:僅かの距離。咫は八寸。ここでは、画堂が小さいことをいう。

84・畫堂:麗しく彩色を施した建物。

85・深似海:狭い画堂が海のように深く感じられる。画堂に住んでいる主人公の孤独感、寂寥感を表している。天子との間にわたることのできない深い海に隔てられているというほどの意。

86・憶來:おもいだしては。来は、動詞に着く助動詞のような働きをする。

87・把:…をとって、…もって。把は手に持つ、握るというのが、基本的な意味で、ここもその意味になる。

88・舊書:昔の手紙。

89・攜手:攜=携に同じ。手を持つ。手をつなぐ。異性を指す。

晋謝安を詠った李白『送侄良攜二妓赴會稽戲有此贈』李白『憶東山二首其二』  「攜妓東山去。 春光半道催。遙看若桃李。 雙入鏡中開。」(姪良が二姥を携えて会稽に赴くを送り、戯れに此の贈有り、妓を携えて 東山に去れば。春光 半道に催す。遙(はるか)に看る 桃李(とうり)の若く、双(ふた)つながら鏡中に入って開くを。)

『送侄良攜二妓赴會稽戲有此贈』
攜妓東山去。 春光半道催。 
遙看若桃李。 雙入鏡中開。
 
姪良が二姥を携えて会稽に赴くを送り、戯れに此の贈有り
妓を携えて 東山に去れば。春光 半道に催す。
(はるか)に看る 桃李(とうり)の若く、双(ふた)つながら鏡中に入って開くを。

送姪良携二妓赴会稽戯有此贈  李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -287
○漢の謝安(字は安石)が始寧(会稽紹興市の東の上虞県の西南)に隠居して朝廷のお召しに応じなかったのは「東山高臥」といって有名な講である。山上に謝安の建てた白雲・明月の二亭の跡がある。また、かれが妓女を携えて遊んだ寄薇洞の跡もある。○携 佳人=美人=芸妓を携える。謝安の故事をふまえる。府城臥竜山南にあった白樓亭のこと。『会稽志卷第九』山府城の卧龍山府に其東麓に治据されていた。山陰陽經雲种山、また別名として重山は越大夫の种所葬られた太平御覧种山の名としたである。山南道で旧と傳えられる白楼亭は今の遺址は関連性からいうと不確かであるが、山頂にある城隍祠ああって、其の西南の越王台の下にある。

憶東山二首其二

我今攜謝妓。 長嘯人群。

欲報東山客。 開關掃白云。

我 今 謝妓を攜え。 長嘯して 人群をつ。

東山の客に報わんと欲っす。關を開いて 白云を掃く。

私は今謝安が東山で芸妓ととも過ごしていたころと同じだ、気合を入れて、時が来れば、長い歌を吟じて奸臣の輩を絶滅させるのだ。

謝安のように東山の客としていた以上は同じように時期が来れば立ち上がって、国を救おうと思っている。長安の状態を打開して叛乱軍を平定して偽の皇帝と名乗っているものを払い落としてみせる。

憶東山二首其二 李白 李白Kanbuniinkai紀頌之の漢詩李白特集350 -270

 

 

 

 

 

 

 

 

ID

作  品  名

 

 

■ 韋相莊(韋荘【いそう】)四十七首

 

 

1

二巻

浣溪沙 其一(淸曉妝成寒食天)韋莊 ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-264-5-#18 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2867

 

 

2

二巻

浣渓沙 其二 (欲上鞦韆四體傭) 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-265-5-#19  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2872

 

 

3

二巻

渓沙 其三 (惆悵夢餘山月斜) 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-266-5-#20  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2877

 

 

4

二巻

浣渓沙 其四 (緑樹藏鶯鴬正啼) 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-267-5-#21  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2882

 

 

5

二巻

浣渓沙 其五 (夜夜相思更漏殘) 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-268-5-#22  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2887

 

 

6

二巻

菩薩蠻 一 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩紀頌之の漢詩ブログ2617

 

 

7

二巻

菩薩蠻 二 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩紀頌之の漢詩ブログ2622

 

 

8

二巻

菩薩蠻 三 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩紀頌之の漢詩ブログ2627

 

 

9

二巻

菩薩蠻 四 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩紀頌之の漢詩ブログ2632

 

 

10

二巻

菩薩蠻 五 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩紀頌之の漢詩ブログ2637

 

 

11

二巻

歸國遙 一 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩紀頌之の漢詩ブログ2642

 

 

12

二巻

歸國遙 二 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩紀頌之の漢詩ブログ2647

 

 

13

二巻

歸國遙 其三 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩紀頌之の漢詩ブログ2967

 

 

14

二巻

應天長 一 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩紀頌之の漢詩ブログ2662

 

 

15

二巻

應天長 二 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩紀頌之の漢詩ブログ2667

 

 

15

二巻

荷葉杯 其一 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩紀頌之の漢詩ブログ2942

 

 

16

二巻

荷葉杯 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩紀頌之の漢詩ブログ2672

 

 

17

二巻

淸平樂(一) 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩紀頌之の漢詩ブログ2682

 

 

18

二巻

淸平樂 (二) 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩紀頌之の漢詩ブログ2687

 

 

19

二巻

淸平樂(三) 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩紀頌之の漢詩ブログ2692

 

 

20

二巻

清平楽 其四 韋荘 ⅩⅫ唐五代詞・宋詩紀頌之の漢詩ブログ2962

 

 

21

二巻

望遠行 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩紀頌之の漢詩ブログ2972

 

 

22

三巻

謁金門 其一 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩紀頌之の漢詩ブログ2947

 

 

23

三巻

謁金門二首 其二 韋荘 ⅩⅫ唐五代詞・宋詩i紀頌之2677

 

 

24

三巻

江城子 其一 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩kanbuniinkai紀頌之3022

 

 

25

三巻

江城子 其二 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩紀頌之3027

 

 

26

三巻

河傳 其一 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩紀頌之の漢詩ブログ2977

 

 

27

三巻

河傳三首 其二 韋荘  ⅩⅫ唐五代詞・宋詩紀頌之2982

 

 

28

三巻

河傳三首 其三 韋荘  kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2987

 

 

29

三巻

天仙子 其一 ~ 其五 其一 韋荘  紀頌之の漢詩ブログ2897

 

 

30

三巻

天仙子 其二 韋荘  kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2902

 

 

31

三巻

天仙子 其三 韋荘  紀頌之の漢詩ブログ2907

 

 

32

三巻

天仙子 其四 韋荘  紀頌之の漢詩ブログ2912

 

 

33

三巻

天仙子 其五 韋荘  kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2917

 

 

34

三巻

喜遷鴬 其一 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3012

 

 

35

三巻

喜遷鴬 其二 韋荘 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3017

 

 

36

三巻

思帝郷 其一 韋荘 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2992

 

 

37

三巻

思帝鄕 韋荘 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2697

 

 

38

三巻

訴衷情 其一 韋荘 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3002

 

 

39

三巻

訴衷情 其二 韋荘 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3007

 

 

40

三巻

上行杯 其一 韋荘 kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ3032

 

 

41

三巻

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花間集 教坊曲《菩薩蠻五首》韋莊

 

 

 

 

 

花間集 菩薩蛮五首 唐・蜀 韋莊

溫助教庭筠        菩薩蠻十四首

韋荘(韋相莊)        菩薩蠻五首

牛嶠(牛給事嶠)   菩薩蠻七首

歐陽舍人炯        菩薩蠻一首

孫少監光憲        菩薩蠻五首

閻處士選          菩薩蠻一首

毛秘書熙震        菩薩蠻三首

李秀才珣          菩薩蠻三首

 

菩薩蛮五首 其一

1.(この夜が最後の夜で、別の妃嬪のもとに行くという、最後の夜と翌朝を詠う。)

2. 一定の期間を過ぎれば、子供できない場合、別の妃嬪に寵愛は移る。妃嬪の資格として、音楽、舞踊は最低限の嗜みであった。この詩は、妓優が朝別れるというには、全体的に優雅な雰囲気を感じさせるので、妃嬪の事と考える。。

3. 唐の教坊の曲で花間集には四十一首所収、溫庭筠の菩薩蠻は十四首、双調 四十四字。換韻。前段二十四字四句二仄韻二平韻、後段四句二仄韻に平韻で、❼❼⑤⑤/❺❺⑤⑤の詞形をとる。 

菩薩蛮五首 其一

紅樓別夜堪惆。 香燈半捲流蘇

殘月出門、美人和涙

琵琶金翠、絃上黄鶯

勸我早歸。   綠窗人似

 
 
● 
 

 この詞は花間集 韋荘の菩薩蛮其一である。上片で恋人との切ない別れの情景が、下片では、女性を懐憶している。

・韋莊:韋荘。唐末、蜀の詞人。

溫庭筠 菩薩蠻十五首其一

小山重疊金明,鬢雲欲度香顋
懶起畫蛾
。弄妝梳洗
照花前後
。花面交相
新帖繡羅
。雙雙金鷓

●○△●○○●  ●○●●○○●

●●●△○  ●○○●○

●○○●●  ○●○△●

○●●○○  ○○○●○

4・紅樓:赤く色を塗った、美しい高殿。南の正門に続く御殿を示し、お金持ちの家の愛妾の住む建物で寵愛を受けるところ(基本、男が女の所に通う、「通い婚」)。青楼であれば、品が落ちてくるが、いずれにしても、この男女が密会した場所をいう場合が多い。

5・別夜:別れの夜。男と女が別れた、その夜。

6・堪:(現代語)たえがたい。たえられようか。この中心の語義は、古語と同じ「たえる」だが、ここでは違う。「紅樓の別夜 惆悵に堪へたり」(別れの辛さを克服できた)というのではなくて、少し字が多くなるが、「紅樓の別夜 (なんぞ)惆悵に堪へたらんや」とでもして、別れの耐え難さを表しているところ。

7・惆悵:恨み嘆く。

8・香燈:香しい灯火。香は、女性の居場所を暗示させる語。

9・半捲:半ば巻く。大きく巻き上げていないところに、女性の微妙な気持ちが現れている。

10・流蘇:五色の糸を混ぜたふさで、幕や旗などの飾りに使う。流蘇帳は、ふさの飾りが付いた幕。華麗で艶めかしいベッド等の家具を連想させる働きがある。初唐・上官儀の『八詠應制二首』之一に「啓重帷,重帷照文杏。翡翠藻輕花,流蘇媚浮影。瑤笙燕始歸,金堂露初晞。風隨少女至,虹共美人歸。」とある。

11・帳:とばり。たれぎぬ。カーテン。ここは床帳(ベッドカーテン)か。(中国では、ベッドをカーテンで囲む習慣がある。あてにはできないが、「大明宮詞」でも武則天はカーテン付きのベッドに寝ていたが…。いつ頃からか、また調べておきます。)

12・殘月:有明の月。夜が明けてもまだ空にある月。この頃は、夜が明けるまでに帰らないといけなかった。名残月は20日頃の月をいう。

13・出門:その人の元を立ち去るとき。

14・美人:詞では妓優、歌妓(歌姫)を指すこと多い。元来、妃嬪をいう、隋唐の「内官」制度、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬪昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人)、捷好九人、美人九人才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。上記のそれぞれの女性は官品をもち、合計で122人の多きに達した。普通に、美人といえば、やはり美しい女性を指すが、男性をいう場合や、心が立派な君子や君主など、いろいろな場合がある。ここは、涙と共に別れの言葉を言った訳であるから、やはり女性のことか。

・和涙:涙とともに。涙を含んで。

15・辭:別れの挨拶の辞を言う。もしも美人を作者の男性ととると、辞去する、になる。ここは前者が相応しい。

妓優 玄宗は音楽、歌舞を特に愛好したので、彼の治世には宮妓の人数は大幅に増大し、教坊は隆盛を極めた。また玄宗は宮中に梨園、宜春院などを設け、特に才能のある芸妓を選りすぐり、宮中に入れて養成した。当時、宜春院に選抜された妓女は、「内人」とか、「前頭人」とよばれた。玄宗は常日頃、勤政楼の前で演芸会を開き、歌舞の楽妓は一度に数百人も出演することがあり、また縄や竹竿を使う、さまざまな女軽業師の演戯もあった。この後は、もうこれほどの盛況はなかったが、しかし教坊は依然として不断に宮妓を選抜して教坊に入れていた。憲宗の時代、教坊は皇帝の勅命だと称して「良家士人の娘及び衣冠(公卿大夫)の家の別邸の妓人を選び」内延に入れると宣言したので(『旧唐書』李緯伝)、人々は大いに恐れおののいた。そこで憲宗は、これは噂であると取り消さざるを得なかった。文宗の時代、教坊は一度に「霓裳羽衣」(開元、天宝時代に盛んに行われた楽曲)の舞いを踊る舞姫三百人を皇帝に献上したことがあった。

16・琵琶:弦楽器の一。右端の女性が奏でているような楽器。

17・金翠羽:金の翡翠(翠は雌のカワセミ)の羽の飾り模様。琵琶の表面か、ばちに画かれ・いる。羽がややこしいのは韻を踏むためでもあろう。

18・絃上:絃を弦とする本も多い。弦で。演奏して。弦楽器を奏でることをいう。

19・黄鶯:うぐいす。詞ではよく出てくる。ここでは、琵琶から流れ来る音楽の形容。

20・語:言葉。黄鶯語の外にも解語花(女性のこと)等、という風に語を使う。琵琶から流れ来るメロディが、まるで弾く人の意を体して、語りかけてくるような感じを謂っている。

21・勸我:琵琶から流れ来るメロデイは、「はやくもどってきなさいね」と語りかけるようだ、ということ。

22・早歸家:「早く戻れ。」「いってかえり」という出掛けのあいさつの様なもの。早の意味は、早期に。「近日中に帰ってこい」の意味であって、「もういい時間になったので、いそいで速く家に帰らないと」ではない。早、夙などと、速、快、疾などとでは、日本語では、どれも「はやい」と読むものの、意味が全く違う。

23・綠窗:緑のうすぎぬのカーテンをした窓は東のまどで、「東鄰()の女」宋玉の賦の中に出てくる美人、美人で賢い女性をイメージさせる。

24・似:…の ようである。ごとし。如・似ともに「ごとし」と読み、意味も近いが、似は●、如は○のところでと、使い分ける。

韋莊

836910)、字は端己、京兆の杜陵(陝西省西安市の南郊)の人。中唐の詩人韋応物の玄孫で、宰相韋見素の孫。父母を早く失い、家は没落、貧に苦しんだ。五十代に入ってから、数年間、広く長江の中、下流域を渡り歩き、何度も科挙に落第した末、昭宗の乾寧元年(894年)、59歳でようやく進士に及第(高等文官試験)に合格し、校書郎に任じられた。66歳で四川省にいた王建が叛乱を起こしたので、朝廷では李詢を正使、韋荘を補佐として宣撫に赴かせたが、ほどなくして唐が亡び、王建が前蜀の帝を称えると、韋荘はそのまま王建に仕え、王建が前蜀王朝を建てるのに協力して、吏部侍郎・同平章事に任ぜられた。宰相にまで昇進している。前蜀の都は成都にあり、韋荘はその郊外の、かつて杜甫が住んでいた浣花草堂を修復して、自分の庵にした。温庭筠と並んで温韋と併称され、晩唐期を代表する詞人である。韋莊の詞は率直明快さを特色とし、『花問集』 には48首の詞が収められている。

 

 

25 菩薩蠻 妓優(芸妓)

唐代には「妓」と呼ばれた人は三種類あった。家妓・宮妓・官妓の三種である。いずれも妓と称されたが、三者の身分・生活はそれぞれ異なっていた。家妓は私人が自宅で養い蓄えている女楽、歌舞人であり、私有財産であって、姫妾とか婢女と呼ばれる人と同類であった。それで彼女たちは「姫妾」の部に入れて論ずることにし、ここでは言及しない。以下に、先学たちが「公妓」とよんだ二つの種類、宮妓と官妓について論ずることにする。

 

 

一 妓優

 

1.宮妓、敦坊妓

 宮妓は後代の娼妓を意味するものではなく、専門に宮廷に奉仕する女芸人であった。彼女たちは歌舞や楽器を習い、縄・竿・球・馬などを操る曲芸を学んだ。その職貴は皇室が挙行する各種の祝祭・式典・宴会などの儀式に出演したり、また平生にあっては天子の耳目を楽しませることであった。

 宮妓の大部分は直接民間から選抜された芸、容貌ともに秀でた楽戸、侶優などの女子、それに少数の一般平民出身の女子であった。たとえば、著名な宮廷歌妓の永新は、もともと吉州(江西省吉安県)の楽戸の娘であり、歌が上乎だったため選ばれて宮中に入った。蔀瓊瓊はもとは色町の妓女であったが、筝が上手だったため宮中に入って仕えることになった。平民女性で選抜されたものは、

玄宗時代には特に「権弾家」(演奏家)と称された(以上は、段安節『楽府雑録』「歌」、『占今図書集成』閑媛典閔艶部、崔令欽『教坊記』による。以下『教坊記』を出典とするものは一々注記しない)。

 

1.1 生活

何百何千もの宮妓は、どのような生活をしていたのであろうか。宮妓は宮人と共通するところもあったが、しかし全く同じというわけでもなかったようだ。宮人の中から選抜されて宮妓にされたものの大半は、「宮婢」の身分のままであったが、それ以外の民間から選抜されたものの地位と身分は、一般の宮人に比べてやや高かったようである。各時代の記録はきわめて少ないが、ただ玄宗の時代についてだけは、『教坊記』という書物が彼女たちについて専門に書いている。その記載によると、選ばれて宜春院に入った「内人」は身分が最も高かった。彼女たちが演舞する時には、雲詔院で訓練中の宮人とは衣服や装飾品に高低の区別があり、「内人」には佩魚(五品以上の貴人が身に着けることを許されていた魚形のバヴジ)が許されていたが、宮人には許されなかった。内人は比較的優遇されており、その家庭は「内人家」とよばれ、みな宮廷の外の外教坊に住み、季節ごとに宮廷から糧米が支給されていた。内人の中で皇帝から最も寵愛を受けていた「十家」と称される内人は邸宅を賜り、日常の賞賜もたいへん多かった。また、内人は家族と常時会うことができ、毎月の二目、十六日、あるいは自分の誕生日などに母親や姉妹が訪ねることができた。敬宗の時、皇帝は自ら内人の家族千二百人を招待し、教坊で宴席を設け、褒美として錦を下賜した(『旧唐書』敬宗紀)。

 

彼女たちの生活も比較的自由で、彼女たちに対する宮中の束縛も、それほど厳格ではなかった。年をとり容色が衰えると、宮中から出て家に帰りたいと申し出ることが許されており、宮人のように必ずしも深宮の中で朽ち果てねばならないというわけではなかった。『教坊記』に記されている竿木妓の芭漢女大娘子、許渾の「蕭煉師に贈る」という詩に出てくる内妓の蕭煉師、また『楽府雑録』に記されている宣徽院(宮中の一役所)の門弟楊氏などは、みな年老いて後、宮中から退出した内人であった。張結の「退宮の人」という詩に、「歌喉漸く退えて宮閲を出でんとし、泣いて伶官(宮中の楽官)に話せば 上 帰るを許す」とある。席融の「退宮妓」という詩に、「一且色衰えて故里に帰るも、月明 猶お夢に梁州(曲名)を按く」とあるが、これらはいずれも内人が年老いて後、宮中から退いたことを述べているのである。宮妓が宮中から出た後の境遇は、おしなぺてそれほど良いというわけでもなかったが、宮人に比べれば概して白由の身であったといえよう。以上によって、唐朝の宮廷は宮妓を芸人と見なして待遇し、宮人のような賤民身分とは区別していたこと、少なくとも玄宗の時代には、宮妓たちの待遇はまだ比較的良かったことが分かる。

 

 

 もちろんのこと、たとえ宮妓は芸術家であり、原則として芸は献じるが身は献じないということになっていたにせよ、そしてまた一般の宮人に比べれば高い礼遇を受けていたにせよ、所詮彼女たちも皇帝の慰み物にすぎず、その漁色の対象になるものも少なくなかった。玄宗の弟の申王は、冬になると宮妓たちに周囲をすき間なく囲ませて暖をとり、これを「妓囲」とよんだ。別の弟の岐王は寒い時妓女の懐に乎を入れて暖をとった(『開元天宝遺事』巻古。こうした事例からみると、宮妓たちは芸人ではあったが、結局のところ娼妓との区別は、彼女たちが皇室専用の慰み物であるというにすぎない。

(妓優)-2

 もちろんのこと、たとえ宮妓は芸術家であり、原則として芸は献じるが身は献じないということになっていたにせよ、そしてまた一般の宮人に比べれば高い礼遇を受けていたにせよ、所詮彼女たちも皇帝の慰み物にすぎず、その漁色の対象になるものも少なくなかった。玄宗の弟の申王は、冬になると宮妓たちに周囲をすき間なく囲ませて暖をとり、これを「妓囲」とよんだ。別の弟の岐王は寒い時妓女の懐に乎を入れて暖をとった(『開元天宝遺事』巻古。こうした事例からみると、宮妓たちは芸人ではあったが、結局のところ娼妓との区別は、彼女たちが皇室専用の慰み物であるというにすぎない。

 

 宮妓はまたしばしば皇帝の御下賜晶として大臣や貴族に与えられた。唐の各時代に、某人に「女楽」幾祖を下賜するといった記録があるが、この「女楽」とはよく訓練された宮中の楽妓のことである。宮妓たちはその半生を軽やかな音楽とあでやかな舞、笙・蕭などの笛や太鼓の中に費やし、そして少なからざる宮妓がその名を後世に残したのであるが、しかし生前の境遇はといえば、たいへん不幸なものであった。彼女たちはいったん年老いて容色が衰え、婚期を逸すると、宮中を退いてから嫁に行くのは容易でなく、また芸を売るのはさらに難しかった。それでぴじーっに多くの宮妓が尼か女道士となって、孤独と貧寒の中で残生のけりをつけなければならなかった。たとえば、先に述べた宮廷の名妓蕭煉師は寺観の中で一生を終えたし、有名な歌妓永新は当時皇帝から光栄ある寵愛をこうむっていたが、安史の乱の後、宮中を出て一人の読書人に付き従い、その読書人が死んだ後は母とともに長安に帰り、乱世の中で老いて死んだ(『楽府維録』「歌」)。

 長く宮中に住む宮妓の他に、玄宗の時代から長安と洛陽の宮殿にほど近い街区に、左右二つの芸妓養成のための外教坊が設けられた。ここでも多数の芸妓が養成されたが、この芸妓は宮廷の専用に充てられ、宦官によって管理された。彼女たちが宮妓と異なるのは、宮中には住まず、必要な時に呼び出され宮中の御用に供された点にある。記録によれば、右教坊の芸妓の多くは歌がうまく、左教坊のものは舞いが上乎だったという。彼女たちは宮妓と同じように民間から選抜された技芸練達の人々であった。玄宗は彼女たちをたいへん愛したが、しかし「侠遊(民間の遊里)の盛んなるを奪うを欲せず、未だ嘗て置きて宮禁(宮中)に在らしめず」元棋「連昌宮詞」注)と詩人に詠まれた名歌妓の念奴、「凌波曲」(玄宗が夢の中で龍宮の女に頼まれて作ったといわれる詩曲)をよく舞った新農の女芸人謝阿蛮(『明皇雑録に補遺』、『教坊記』に記載されている歌舞妓の顔大娘、鹿三娘、張四娘、裴大娘、それに竿木妓の王大娘、および、杜甫の「公孫大娘が弟子の剣器を舞うを観る行」という詩に出てくる、剣舞の名乎公孫大娘などは、みな長安の外教坊に所属する芸妓であったらしい。というのは、記録によると彼女たちは一般に長く宮中に留まることはなく、行勤は比較的自由だったからである元棋の「連昌宮詞」に、高力士 伝呼して念奴を見れど、念奴は潜に諸郎を伴って宿す」という句がある。また謝阿蛮も常日頃宮中に出入りしたり、楊国忠(楊貴妃の一族)の邸宅に遊びに行ったりしていた。こうしたことから、彼女たちの行勤や私生活について、宮廷はほとんど束縛しなかったことがわかる。また、彼女たちの中の少なからざる者が、夫、子供、家庭を持ち、家族仝員で教坊の中に住んでいた。宮中に在る内教坊の宮妓は宮中から自由に出人りしたり、男女が混って一緒に住むことは、ほとんど不可能であったから、彼女たちはいずれも外教坊に属す人々であったと思われる。

 

 外教坊の芸妓の大半は、家族全員が宮廷に仕える芸人集団であった。たとえば裴大娘自身は歌舞妓であり、その兄は筋斗伎であり、夫は竿木伎であった。芸妓たちの生活は、たいてい皇室からの給養で成り立っており、いつでも御召にそなえ、宮中に出仕したが、それ以外に宮廷外の招きに応じることもできたようである。たとえば『教坊記』に次のような話が載っている。蘇五奴の妻で歌舞妓であった張四娘は、「踏謡娘」を上手に演ずることができたので、いつも人々から招かれた、と。おそらく一定の報酬を得ていたことだろう。

 

 教坊妓は彼女たち独特の一風変った生活の仕方と考えを持っていた。彼女たちは仲間同士で意気投合すると、「香火兄弟」(神仏の前で香火をたき義姉妹の契りを結んだ仲)となった。多いものは十四、五入少ないものでもハ、九人がそれぞれ集団をつくった。もし、その中のT入が嫁に行くと、香火兄弟たちは彼女の夫を女仲間にみたてて、「嫂嫂」とか「新婦」などとよんだ。また同時にその夫に睦み親しむことができたが、妻となった妓は決して嫉妬することはなかった。彼女たちはそれを突叛の習俗にならったものであるといっていた。

 また、香火兄弟でない人々の間でも、男女関係は比較的自由であった。裴大娘は伎人の趙解愁と私通し夫が邪魔になった。彼女は土袋で夫を圧死させようとして失敗したので、坊中の妓女たちはいつも「あなた、今後土袋を縫う時はきちんとすき間がないように縫いなさいよ。決してほころびたりしないようにね」などと冗談をいって笑いあった。また別の歌舞妓の張四娘は招かれて外出する時、いつも夫の蘇五奴がついて行った。招いた人は夫がいつも彼女の側にいるのが邪魔で、酒を飲ませて酔いつぶそうとした。蘇五奴は言った。「銭をたんまりはずんでくださりさえすれば、鎚子(蒸しまんじ。う)を食べても酔いますよ。酒など飲まなくてもね」と。それで後世、妻を他人に抱かせる男を「五奴」とよんだ。教坊妓たちのように「義兄弟」の契りを結んだり、自ら男のように装う生活方式は、他の階層の女性には無い点であり、男女に関する彼女たちの道徳観念や流儀は他の階層の女性たちと全くちがっていた。こうしてみると、俳優、芸人など芸を売って暮らしている女性は、一般の貴族、平民の女性に比べてより独立性があり、男に従属することも少なく、男女の地位も自然で比較的平等であったこと、また彼女たちは娼妓と同じではなかったが、男女関係に対する観念は同じように大いに自由奔放であったことが分かる。

 

 (妓優)-3

官  妓

唐代の社会に充ちあふれ、一つの階層を形成していたのは、主に各級の官庁の楽籍に登録されていた大量の官妓である。もし、宮妓と教坊妓とを一般に芸人と見なすことができ、そしてまた家妓が姫妾・婦女と同類だとすれば、ここでとりあげる官妓だけが後世の娼妓と同じ性格をもっていた。

 

いわゆる唐代の娼妓とは主にこの部類の人たちを指すのである。

唐代は妓楽が盛んであり、「唐人は文を尚び、狎(芸妓遊び)を好む」(張端義『貴耳集』巻下)と評された。官庁の送迎、宴会典礼はもちろん、また官吏が集まって遊ぶ時にも、常に妓楽で雰囲気を盛りたてた。官吏が妓楼に泊り、娼妓と遊ぶ風潮はきわめて盛んであり、朝廷の法律もこれを決して禁止することはなかった。自居易は杭州の刺史(各州に置かれ地方官を監督した役職。太守とも呼ばれた)の任にあった時、日がな一日妓女を連れて遊んだ。それで後の宋代の人は、これを怪しみ、論難して「これによって当時の郡政(郡の政治)には暇が多く、吏議(官吏の議論)も甚だ寛やかだったことが分かる。もし今日だったら、必ず処罰の対象とされたであろう」(襲明之『中呉紀聞』)と書いている。また、清代の人は白居易をいささか羨ましく思い、「風流太守愛魂銷,到處春翹有舊游;相見當時疏朝綱,尚無官吏宿娼條」(風流太守は魂の消ゆるを愛し、到る処 春訪 翠麹有り。想見す 当時 禁網疎 にして、尚お官吏宿娼の条無きを)〔趙翼題《白香山集後》(白香山集の後に題する詩)、銭泳『履園叢話』巻二一「笑柄」)と述べている。官妓制度はまさにこの種の社会風潮と朝廷の放任のもとで、唐代に盛況を極めたのである。

当時、長安と洛陽の両京に大量の官妓がいたばかりでなく、地方の大きな州、府にも官妓がいた。

 

 

それで「府娼」とか「郡娼」という言葉があった。揚州、成都のような繁華な大都会は、みな名妓が集中する場所であった。県の官庁についていえば、『旧唐書』 の「葦堅伝」 には、天宝の初め、霊宝県と隣県(河南省)の官府は両県の「官便の婦人」(官妓)を集めて得宝歌(玄宗が楊貴妃を得た時作られた曲。楽府の一つ)を唱わせ、玄宗皇帝に悦ばれたとあり、また李徳裕の『文武両朝献替記』 には、李が宰相になった時、「両県に命じてこれ以上娼妓を置かないようにさせる」という処置をとったことが記されている。県の官庁にも官妓が設けられていたことがわかる。

そう多くはない現存する史料の分析を通じて、筆者は地方の州・府の官妓の地位と生活は、都長安の官妓と比べてかなり異なっていたことを知った。従って以下においてはそれらを分けて述べよ

 

 

地方の官妓

ここで主にとりあげるのは各州・府(及び唐代後期の藩鎮)に隷属する官妓である。これら官妓には二つの来源があった。一つは、代々「楽籍」に入れられていた、官に隷属する職民の女子であり、他に生きる道はなく、ただ先祖代々の仕事を踏襲するだけで昔どおりの楽妓となったもの。もう一つは、良民の女子であったがいろいろの原因によって楽籍に落ちたものである。たとえば名妓の薛濤は、元は良家の娘であり、父が仕官を求めて各地を巡るのに付き従っていたが、ついに蜀(四川省)まで流れ来た時、落ちぶれて楽籍に入った。また韋中丞の愛姫が生んだ娘は、兄弟がみな死んだので「身を楽部に委ね、先人を恥辱しめざるをえなかった」(『雲渓友議』巻三)。これらはみな衣食にこと欠いたために楽籍に入らざるをえなかった例である。また、地方長官から良民の身分を剥奪され婢にされたものもあった。

 

また、地方長官から良民の身分を剥奪され蝉にされたものはまれであった。林蕗は郡州(湖南省宝慶県)の刺史となった後、「門客の陶元之を杖殺し、その妻を籍没して倡(娼妓)とした」(『新唐書』儒学伝下「林蘊傳」)。しかし、こうした事例はだいたい例外的なものであった。なぜなら、表的には罪人の家族を籍没して官奴稗に落とすことは、皇帝だけに出来ることであり、官吏が良民を抑えつけて勝手に賤民にすることはできなかったからである。

 

さて、これらの女性はひとたび楽籍に入ると、官に隷属する璧となり、その地位は官奴婢とほとんど同じであった。李商隠は「妓席」という詩の中で、「君に勧む〔御指名の際には〕小字(幼名)を書し、慎んで官奴と喚ぶ莫かれ」と述べ、官妓たちが官奴の身分であったことを明らかにしている。

地方官妓は「楽営」の管理下に属していたので、常に「楽営妓人」、「楽営子女」などと呼ばれた。

 

唐代にはまた「営妓」という呼称もあった。営妓は専ら軍士の娯楽に供されたもので、官妓と異なる人々であるという人もいる。しかし今まで見た文献の記載では「官妓」と「営妓」は混同されて使われており、何らの区別も見出せない。営妓とよばれた人々の多くも、一般の官妓と同じょうに地方長官の管理下に置かれ官府に奉仕したのであって、専ら軍士の娯楽の用にのみ供されたという根拠を見出すことはできない。こうした理由で、唐代に専業の軍妓がいたと断定することは不可能である。筆者が思うに、営妓とはただ地方官妓の一種の別称にすぎず、楽営に所属していたがゆえに「楽営妓人」と呼ばれ、或いは単に「営妓」とも略称されたのではないか。誤解を生んだ理由は、一つには営妓という名が軍営を連想させたこと、二つには唐代の中期以後、地方官妓はみな藩帥(潘鎮)の統括下に入り、長官が軍事長官の職権を兼ねたので、人々は属下の営妓は軍事長官が軍隊のために設置したもの、と考えたことにあろう。

楽営官妓は、節度使や州刺史などの地方長官が直接に掌握し支配した。彼女たちは一般に楽営に集中して居住し、そこから自由に出ることは許されず、官庁から衣服や食糧の支給を受けていた。

 

そして、いつでも官庁からの呼び出しに応じることができるよう準備していたので、「官使の婦人」とか、「官侯の女子」などと呼ばれたのである。

 

官庁が挙行する各種の祝典宴会・歓送迎会・上官接待などの時に、官府は彼女たちを召集して芸の披露、酒席の接待、夜の相手などをさせた。官妓の大半はみな一定の技芸を持ち、歌や舞い、酒席での遊び、それに管弦楽器の演奏などに長じていた。彼女たちは、一段と大きな権勢を持つ長官に占有される以外は、一般に地方長官の許可なしに客を自由に接待することはできなかったと思われる

 

 

官僚が妓女を宴遊に呼ぶには官府の許可が必要だったということは、妓女が官妓の身分であったことを証明している。その他、平康里の妓女たちの中には「都知」と呼ばれるものがいて、妓女たちを分担管理しており、古株のものがその任に就いた。妓女にも一定の組織があり、完全に独立し自由というわけでなかったことが分かる。教坊籍に入っていない妓女は、当然長安の妓女の大多数を占めていたはずだが、彼女たちは一体どこの管轄下に属していたのだろうか。地方州府の制度に照らせば、京兆府の管轄下に属すのが当然と思われるが、いまだそうした記録を見出せないので、みだりに結論を出さないでおきたい。

 

長安の妓女の大多数は平康里に住んでいた。「長安に平鹿坊という所があって、妓女の居住地である。京都の侠少(遊侠の若者)は此に草集る。……当時の人々はこの坊を風流薮沢(歓楽街)と呼んだ」(『開元天宝遺事』巻上)。『北里志』の記載によると、平康里の街区は三曲に分れ、名妓は多く南曲、あるいは中曲に住み、北曲に住むものの大多数は無名の「卑屑」(醜くて卑しい)の小妓であった。この三曲に住む妓女の生活に旦口同低貧富の差があった。南曲、中曲はおおむね堂院は広く静かで、院内には花が植えられ池もあり、室内の設備は快適で、華美にすぎるものさえあったが、下層の妓女の住まいは粗末なものであった。劉泰娘は北曲の小さな家の娘であったから、他の妓女たちと宴席に向う時、あなたは何処にお住まいですかと聞かれると、言葉をにごして、門前に一本の木がありますわ、などと言うだけであった。どの曲内に住んでいるかが、その妓女の身価に大きな関係があったようである。それ以外にも平鹿里に住まない妓女がおり、その他の街坊にそれぞれ分散して住んでいた。

 

妓女は平生、人に呼ばれて宴会や遊戯の席に侍ったり、あるいは家で客を接待したりした。毎年新たに進士の合格者が発表されると、彼らは盛んに平康里に泊って遊んだ。この時こそ彼女たちの最も多忙な時期であった。長安の妓女の大半は歌や触りといった技芸にそれほど熟達してはいなかったので、往々にしてさかんに客にふざけたりへつらったりした。普段は客席に侍り、話のあいづちをうったり、また客と寝て売春するのが主で、芸は補助的なものであった。こうした点が、地方の楽営妓女と違うところであり、また後世の娼妓と似ているところであった。客席に侍る料金は一般に一席あたり四環(鎧は銅銭の単位)であり、灯ともし時になるとその倍になった。新来の客は倍の料金を払った。新しく進士に合格した者が妓女を買う時は、慣例により一般の客よりも多くの花代を包まねばならなかった。値段は妓女の名声や地位によって決められた。平鹿里の名妓天水仙苛は少しばかり名声があり、貴公子劉雫が彼女を遊びに呼ぼうとしたが彼女はわざと断った。そこで劉軍は次々と値段を上げ、ついにかれこれ百余金を投じた。また、客は銭の支払いの他に絹布などを贈って礼晶とした。たとえば中央の官僚たちが鄭挙挙の家に集まって酒を飲む時には、座が盛りあがると客はそれぞれ彩給などを御礼に贈った。こうしたことは、客が自ら自由意志で行うことであった。

 

雛妓(半玉)の「初夜権」は高い値段で買い取らねばならなかった。南曲の張住住が成人になろうとした時、金持の陳小鳳は大金を出し「その元を取ろう」とした。彼女はすでに処女を失っていたが、手管を使って処女のごとく振舞って陳を騙した。陳は処女を得たと思い、さらに三緡(一緡は銅銭一千枚)を張家にやった。その他、「買断」という決まりもあった。つまり妓女が一人の客に独占されることであり、客が毎日仮母に一緒を払うと、この妓女はもう他の客をとれなかった。

 

(妓優)-5

長安の妓女

 

 ここでは主に長安の平康里や、その他の街坊に集中して住んでいた一般の娼妓について述べたい。先に迷べた皇室専属の教坊妓はこの中には含まない。

 長安の官妓は、上に述べた地方の官妓とは多くの違いがあるように思う。唐後期の孫渠が長安の妓女について専門に記した『北里志』と、その他こまごまとした史料からみると、長安の妓女も官府に属し、官府の御用に応じなければならなかったが、しかし官奴婢としての色合いはそれほど強くはなかった。官府の彼女たちに対する支配は比較的ゆるやかで、彼女たちも自分がどの長官の管理下にあるかもよく知らず、身分の束縛もあまりなく、地位も少しばかり高かった。また、彼女たちは官府から衣食を支給されておらず、自分で商売を営んでおり、後世の娼妓とほとんど変りなかった。これはたぶん、長安などの大都市が各界の人士、とりわけ天下の才子である進士たちが遊ぶ有名な場所であり、朝廷の支持と容認の下、妓楼で遊ぶ風潮がたいそう盛んであったため、長安などの妓女たちを官府が独占的に支配することはもはやきわめて難しく、しだいに社会仝体に開放されていったからであろう。こうした情況は、およそ唐の中後期に向うに従って次第に発展していった。しかし、地方官妓は唐の後期になると藩鎮が巨大な権力を持ったため、なおいっそう地方官、とりわけ藩鎮の独占支配を受けることとなった。長安の妓女たちの生活情況は、唐代の官妓がしだいに自由業の娼妓に変化してゆく過程をよく反映している。

 長安の妓女は「楽営」には属さず、孫渠の『北里志』序の言葉をかりると、「京中の飲妓、籍は教坊に属す」というように、籍は教坊にあった。先に述べたように、玄宗時代に教坊が設立されたのは、もともと天下の芸人を集めて訓練を行い、専ら宮廷の御用に供するためであったが、『北里志』がいう「京中の飲妓」とは明らかに宮廷に奉什する芸人ではなく、民間で営業する娼妓であり、彼女たちも教坊には住まず、平康里やその他の里坊に住んでいたのである。これでは「京中の飲妓、籍は教坊に属す」という記述と矛盾する。いったいどうしたことだろうか。筆者が推測するに、これはたぶん教坊制度の変化と関係があるように思う。玄宗以後、教坊はしだいに衰退していったが、後の時代になっても教坊は依然としてたびたび芸妓を選抜して朝廷の御用に供していた。しかしふだんは彼女たち仝部を教坊の中に住まわせることができなくなり、ただ若干の名妓だけを選んで教坊籍に入れ、いつでも宮廷の御用に派遺できるようにしていた。大半の妓女は普通はもといた置家とか、自宅に住んで、前と同じく自由営業の娼妓生活を送っていた。白居易の「琵琶行」に、「自ら言う 本これ京城の女、家は蝦煥陵(長安の東部、常楽坊にあった街区名)下に在りて住む。十三にして琵琶を学び得て成り、名は教坊第一部に属す。……五陵(漢の五帝陵が並び長安の上流階級が多く住んでいた地城)の年少、争って纏頭し(祝儀を出す)、一曲に紅納数を知らず」とある。この教坊籍に名を列した琵琶妓は教坊に住んではおらず、一般社会で芸を売り身を売って生活していたのである。

 長安の娼妓は、名儀上でも決してすべてが教坊に属していたのではない。『北里志』の「楊妙児」なる一節に記載されている妓女の王福娘は、人に身請けされることを願い、「私は幸いに教坊籍に入っていません。あなたにもし結婚の意志があるなら一、二百金のみですみます」といった。どうやら、教坊籍に入っていれば「官身」となり勝乎に請け出されることはできないが、教坊籍に入っていないものは金を出し身請けする人がいればいつでも落籍できたようである。しかし、教坊籍に入っていない妓女も、やはり完全に官妓身分から脱していたというわけではなかった。「楊妙児」の一節によると、妓女たちがたとえ客から「買断」(特定の客が囲い独占すること)されても、いぜんとして彼女は「官使を免れず」、つまりこれまで通り官府への奉什を免れることができなかったようである。また同書には、「およそ中央官僚の集まりや宴会には、役所から妓女を借り出す許可状をもらわねばならず、そうやって始めて彼女たちは他処に出ることができた」(『北里志』序)とある。官僚が妓女を宴遊に呼ぶには官府の許可が必要だったということは、妓女が官妓の身分であったことを証明している。その他、平康里の妓女たちの中には「都知」と呼ばれるものがいて、妓女たちを分担管理しており、古株のものがその任に就いた。妓女にも一定の組織があり、完全に独立し自由というわけでなかったことが分かる。教坊籍に入っていない妓女は、当然長安の妓女の大多数を占めていたはずだが、彼女たちは一体どこの管轄下に属していたのだろうか。地方州府の制度に照らせば、京兆府の管轄下に属すのが当然と思われるが、いまだそうした記録を見出せないので、みだりに結論を出さないでおきたい。

 

 長安の妓女の人多数は平康里に住んでいた。「長安に平康坊という所があって、妓女の居住地である。京都の侠少(遊侠の若者)は此に草集る。……当時の人々はこの坊を風流藪沢(歓楽街)と呼んだ」(『開元天宝遺事』巻上)。『北里志』の記載によると、平康里の街区は三曲に分れ、名妓は多く南曲、あるいは中曲に住み、北曲に住むものの大多数は無名の「卑屑」(醜くて卑しい)の小妓であった。この三曲に住む妓女の生活にも高低貧窟の差があった。漸飴、中油はおおむね駄院汁こムく浄似で、完内には花が植えられ池もあり、室内の設備は快適で、華美にすぎるものさえあったが、下層の妓女の住まいは粗末なものであった。劉泰娘は北曲の小さな家の娘であったから、他の妓女たちと宴席に向う時、あなたは何処にお住まいですかと聞かれると、言葉をにごして、門前に一本の木がありますわ、などと言うだけであった。どの曲内に住んでいるかが、その妓女の身価に大きな関係があったようである。それ以外にも平康里に住まない妓女がおり、その他の街坊にそれぞれ分散して住んでいた。

 

 妓女たちは皆それぞれ一派を立て、家を単位に独一丑して営業していた。彼女たちのあるものは家族と一緒に住んでいたが、多くは家の暮らしが立たないので、妓女として生きざるをえなかったのである。たとえば、唐代の小説『崔小玉伝』(蒋防作)の主人公宦小玉は、もともと崔王の娘であったが、母親が崔王の婢女であったから、後に母娘ともども追い出されてしまった。やむなく小玉は妓女となり母と一緒にくらした。また、「琵琶行」に出てくる琵琶妓は、「弟は走って軍に従い阿銕は死す」といっているので、家族と一緒に住んでいたことがわかる。これらの妓女の大半は慮待を受けず、境遇はいくらかマシだった。しかし、その他多くの妓女は家族はおらず、「仮母」に買わ

れ養女にされたものであった。仮母とは後世いうところの「鴇母」(やりて婆)と同じであり、みな年増の妓女がなった。仮母に夫や家族はなく、しかし容色はまだ全く衰えたというわけではなかったので、大半が王侯貴族の邸宅を警護する武官の囲われ者であった。また、ある者はこっそりと夜伽をする男を囲っていたが、夫と言えるような代物ではなかった。平康里の置屋の大部分は仮母が何人かの妓女をかかえて営業していた。たとえば楊妙児の置屋を例にとれば、彼女はもともと名妓であったが、のちに仮母となり、莱児、永児、迎児、桂児の四人の養女をひきとって育てた。その他の置屋もほぼ同じようなものであった。これらの妓女はみな生活はたいへん苦しく、大部分が「田舎の貧家」から買われてきた幼女であり、仮母の姓を名のった。ある者は自分の実の父母さえ全く知らなかった。またある者は、人に編されて売られて、この世界に堕ちたのであった。「ある良家の娘は、自分の家の嫁にするといって連れて行かれたが、他に多額の謝礼で転売され、誤ってこの苦界に堕ち、脱出することができなかった」(『北里志』「海論三曲中事」)。たとえば、王福娘は解梁(山西省臨晋県)の人であったが、嫁にやると喘されて都に連れて行かれ、色町に売られてしまった。しかし彼女は何も真相を知らないでいた。後に置屋は披女に歌を習わせ客を取らせた。一人のか弱い女が行き場を失えば、他人の言いなりになるしかなかった。この間、家の兄弟が捜し出して奪い返そうとした。しかし彼女は、白分はすでに操を失った身であり、また兄弟には何の力もないことを考えると、望みを絶って兄弟に手を引かせるしか方法がなく、家族と泣き泣き永別したのであった。唐代の社会は良民と賤民の区別が明確であり、いったん娼妓の世界に転落すれば、身を脱することが困難であったばかりか、肉親と行き来して顔を合わせることさえきわめて錐しかった。

 

 妓女は買われてくると、歌舞や酒席での遊戯などを習い、少しでも怠けると仮母に激しく鞭打たれたり殴られたりし、成人に達すると客を取り銭を稼がされた。彼女たちは行勤の自由がなく、平生は勝手に門を出ることもできなかった。平康里の妓女は僧が道でお経を講ずるのを最も待ち望んだ。僧が来ると、仮母に千文納めて機を見て外出し、半日間自由の空気を吸うことができたからである。

 妓女は平生、人に呼ばれて宴会や遊戯の席に侍ったり、あるいは家で客を接待したりした。毎年新たに進士の合格者が発表されると、彼らは盛んに平康里に泊って遊んだ。この時こそ彼女たちの最も多忙な時期であった。長安の妓女の大半は歌や踊りといった技芸にそれほど熟達してはいなかったので、往々にしてさかんに客にふざけたりへつらったりした。普段は客席に侍り、話のあいづちをうったり、また客と寝て売春するのが主で、芸は補助的なものであった。こうした点が、地方の楽営妓女と違うところであり、また後世の娼妓と似ているところであった。客席に侍る料金は一般に一席あたり四銀(銀は銅銭の単位)であり、灯ともし時になるとその倍になった。新来の客は倍の料金を払った。新しく進十に合格した者が妓女を買う時は、慣例により一般の客よりも多くの花代を包まねばならなかった。値段は妓女の名声や地位によって決められた。平康里の名妓天水仙寄は少しばかり名声があり、貴公子劉草が彼女を遊びに呼ぼうとしたが彼女はわざと断った。そこで劉草は次々と値段を上げ、ついにかれこれ百余金を投じた。また、客は銭の支払いの他に絹布などを贈って礼晶とした。たとえば中央の官僚たちが鄭挙挙の家に集まって酒を飲む時には、座が盛りあがると客はそれぞれ彩締などを御礼に贈った。こうしたことは、客が自ら自由意志で行うことであった。

 雛妓(半玉)の「初夜権」は高い値段で買い取らねばならなかった。南曲の張住住が成人になろうとした時、金持の陳小鳳は大金を出し「その元を取ろう」とした。彼女はすでに処女を失っていたが、手管を使って処女のごとく振舞って陳を馴した。陳は処女を得たと思い、さらに三編(一権は銅鉄一千枚)を張家にやった。その他、「買断」という決まりもあった。つまり妓女が一人の客に独占されることであり、客が毎日仮母に一彬を払うと、この妓女はもう他の客をとれなかった。

 

 少し有名な妓女はなじみの客を多くよぶことができたので、豪門や富貴の客から大量の銭と晶物が仮母の懐に入った。これらの妓女の生活は一般にかなり裕福であり、贅沢ですらあった。また、ある妓女は仮母に大量の金を儲けさせたが、仮母はいぜんとして彼女にぴどく辛くあたった。たとえば楊莱児は仮母にたっぷり金を儲けさせたが、仮母は彼女を虐待した。それで、莱児は身請けされて行く時、仮母を大いに罵り衣を払って去った。やっと誉憤を晴らしたのである。下層妓女の収入はたいへん少なく、生活はきわめて苦しかった。張住住の家の場合は、抱えている二人の妓女が売れなかったので、置屋は没落し、雑貨を売って生活しなければならなかった。

 

 教坊籍に入らない妓女は官府の統制下になかったので、客から身請けされ堅気となって嫁すことができた。落籍の費用は地位によって異なっており、先に述べた王福娘の請け値は。一、二百金〃であった。これはだいたい中等の値段であり、妓女の標準の値段であった。唐代の小説『李娃伝』の主人公李娃は堅気になろうとして、二十年間の衣食代を白分の貯えた金の中から仮母に返し、身請けされた。この金額は決して少なくはなかったはずである。こうしたことは現実にはそう多いことではなかったであろう。なぜなら、かりに名高い妓女でも普通はこれほど多くのへそくりをエ面することは難しかったからである。身請けの大部分は客が見初めたものであって、彼女たちの意志ではどうすることもできなかった。しかし、長安の妓女は総じて地方官妓に比べるといくらか主体性を持っていた。たとえば、王福娘は挙子(科拳受験生)の孫渠を見初め、彼に落籍を頼んだ。また、睦州刺史の柳斉物は名妓の嬌陳を好きになった。彼女はそれに応えて「もし科挙に合格して錦帳三十枚をくださるなら、一生お仕えいたします」と答えた。柳斉物は果たして錦帳を数通りそろえて彼女を迎えにきたので、彼女は柳家に嫁いだ(『因話録』巻一)。何はともあれ、無理に落籍されたり贈答の具に供されたりするのに比べたらずっとマシであった。

 

 以上が長安に生きる妓女のおよその生活状態であるが、東都洛陽や揚州など大都市の妓女の生活も、長安により近かったようである。揚州は娼妓の都市としてたいへん有名なところであり、ひとたび夜になると、「妓楼の上に、常に赤い絹の被いで包んだ夜燈が無数にともされ空中に輝いた。九里三十歩の広さの街は、真珠、栽翠などさまざまな飾りで満ち溢れ、はるか遠い仙境のようだった」(『太平広記』巻二七三)という。この繁華の情景は妓館の多さ、遊廓の繁栄ぶりをよく物語っている。ここは長安の平康里とひじーっによく似ており、妓女たちの生活も長安とほぼ同じだったと思われる。

 

 

菩薩蠻五首其二

25.(長安にいて、世間の人が言う若いうちに江南に行ったことのあるものが、その良さを想像して詠うもの)

一定の期間を過ぎれば、子供できない場合、別の妃嬪に寵愛は移る。妃嬪の資格として、音楽、舞踊は最低限の嗜みであった。この詩は、妓優が朝別れるというには、全体的に優雅な雰囲気を感じさせるので、妃嬪の事と考える。。

26. 唐の教坊の曲で花間集には四十一首所収、韋莊の菩薩蠻は五首、双調 四十四字。換韻。前段二十四字四句二仄韻二平韻、後段四句二仄韻に平韻で、❼❼⑤⑤/❺❺⑤⑤の詞形をとる。 

菩薩蛮五首 其一

紅樓別夜堪惆。 香燈半捲流蘇

殘月出門、美人和涙

琵琶金翠、絃上黄鶯

勸我早歸。   綠窗人似

 
 
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菩薩蛮五首 其二

人人盡説江南,遊人只合江南

春水碧於,  畫船聽雨

爐邊人似,  皓腕凝雙

未老莫還,  還鄕須斷

  
  
  
  

 この詞は花間集 韋荘の菩薩蛮其二である。上片で恋人との切ない別れの情景が、下片では、女性を懐憶している。

27・人人:どの人も。みんな。誰もが。 

28・盡説:ことごとく いう。 ・説:言う。 

29・江南:中国南部の安徽省浙江省等、長江下流以南の地域を指す。この地名のイメージは、女性が美人であること、温暖・豊饒で、文化の成熟した風光明媚な潤いのある風景となる。 

30・好:よい。形よく、美しい意味のよい。

31・遊人:旅行者。遊は旅をする意。遊を游ともする。遊学して世間のことが分かっている人。 

32・只合:ただ まさに。 

33・合:まさに…すべし。当然…べきだ。≒應の意。 

34・老:おいる。年をとる。

35・春水:四川盆地を書くむ山々からの雪解け水により、ミネラル分の多い栄養価の高い増水した澄み切った水で、成長に不可欠の水をいう。杜甫『春水』 

春水 杜甫 成都(4部)浣花渓の草堂(4 - 18)  杜甫 <423  漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2060 杜甫詩1000-423-606/1500

4- 8.春夜喜雨 杜甫

4- 9.春水生 二絶其一 杜甫 

4-10.春水生 二絶其二 杜甫

4-11.江上水如海勢聊短述 杜甫

・春水生 冬の間に力をため込んでいたものを春になって万物が、育ち成長する。山に溜めこんだ冬の力が流れ出ることで、希望に向かう意味で杜甫はよく使う。同じ時期に『遣意二首 其一』「囀枝黃鳥近,泛渚白鷗輕。一徑野花落,孤村春水生。衰年催釀黍,細雨更移橙。漸喜交遊,幽居不用名。」(其の一 枝に囀【さえず】りて 黄鳥【こうちょう】近く、渚に泛かびて 白鴎【はくおう】軽し。一徑【いっけい】野花【やか】落ち、孤村【こそん】春水【しゅんすい】生ず。衰年【すいねん】黍【しょ】を醸【かも】すを催【うなが】す、 細雨【さいう】更に橙【とう】を移す。漸【ようや】く喜ぶ 交遊【こうゆう】の絶ゆるを、 幽居 名を用いず。)

などある。

・碧:あおい。みどり。あさみどり。あおみどり。碧玉等、宝石のような美しい青さをいう。 

・於:…よりも。「形容詞+於…」は、比較を表し、「…よりも○○い」の意味になる。

36・碧於天:空の蒼さになる。河川が多く、成都盆地の河川の水は漫々としてゆったりと流れるが、江陵より下流域は川幅が更に広くなるので空と川が一体となる。。

37・畫船:江南の色彩を施した船。特に河川の合流点は、交通の要衝地点となるため、性風俗のビジネスが盛んであった。美しい船のこと。畫は、「畫堂」の「畫」と同じ働き。 

38・聽雨眠:蜀は夜雨が降り、朝には晴ることをいい、雨音を聞きながら眠りに就くとは男女の交じりあいを云う、テーマは江南であるが詩を披露しているのは成都である。

39・爐邊:酒屋。酒の瓶を置いている土台近く(酒爐辺)にいる(女性)。「爐」は、香炉のこと。香炉の香が立ちこめている奥深い所にある女性の部屋のこと。成都の性風俗店には江南の女性が大勢いた。

40・人:ここでは女性指す。「爐邊人」だと、香炉の香が立ちこめている奥深い部屋にいる女性のこと。「邊人」は、酒の瓶を置いている土台のある酒屋にいる女性のことで、お酒の相手などをする女性、酒旗や青旆、また、青楼、商女、斜巷等といわれ、飲んだり、楽しんだりするところであった。古今東西、性にかかわることが初めにあり、やがて商売につながっていき、やがて整備、規制されていくものである。 

41・似月:女性の尻まわりの曲線をいう。輪郭が月のように丸くて、白くて美しいことを云い、月は女性の代名詞である。白いということは、肉体労働に従事しない高貴な存在、性的アピールをするものである。性に関してかなり自由な部分があったことを示すものである。

42・皓腕:まっ白な肌の腕のことで、女性の腕をいう。 

43・凝:かたまる。こらす。 

44・雙雪:ふたつ並んだ雪、両腕の白さをいう。

45・未老:いまだ 老いず。まだ歳をとっていない。 

46・莫:なかれ。なし。禁止、打ち消しを表す。ここでは、後者の打ち消しになる。

47・須:(古白話)必ず、まさしく、きっと。漢文の伝統では、「すべからく…べし」と読み、…すべきである。…する必要がある。の意味になるが、ここでは、そう読むのは不適切。「須斷腸」は「須(かならず)や斷腸せん」と読み、(きっと、断腸の思いをするだろう)と、とるべきであって、「須(すべから)く 斷腸すべし」とは、しない方がいい。 

48・斷腸:性的欲求不満な状態をはらわたがちぎれるほどの、こらえきれない悶々とした感情のこと。性生活が隠された秘め事というのは時代が進んでからのことで、朱子儒学が科挙の基本になった北宋以降で、次第に、明清になると厳格に性生活が奥にしまいこまれたのである。

 

菩薩蠻五首其三

49.(長安にいて、世間の人が言う、今になって思い出す、若いうちに江南に行ったころは楽しかった、ずっと楽しいまま、白髪になっても帰らないと言っていたものだと、その良さを想像して詠うもの)

50.当時の文人の共通の感情をあらわしている。酒宴、歌会で披露されたもので、実際に江南を旅をする際中の作ではなく思いでの詩である。

菩薩蠻は唐の教坊の曲で花間集には四十一首所収、韋莊の菩薩蠻は五首、双調 四十四字。換韻。前段二十四字四句二仄韻二平韻、後段四句二仄韻に平韻で、❼❼⑤⑤/❺❺⑤⑤の詞形をとる。 

『花間集』巻二50首の36番目で韋荘8番目の菩薩蠻五首其三としてあり、(花間集500首の86首目)、当時の文人の共通の感情をあらわしている。

菩薩蛮五首 其一

紅樓別夜堪惆。 香燈半捲流蘇

殘月出門、美人和涙

琵琶金翠、絃上黄鶯

勸我早歸。   綠窗人似