花間集訳注解説 (101)回目韋莊二十二首-10《巻二37 菩薩鬘五首其五》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8168

 (101)回目韋莊二十二首-10《巻二37 菩薩鬘五首其五》

花間集訳注解説 (101)回目韋莊二十二首-10《巻二37 菩薩鬘五首其五》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8168

(洛陽の町の春の素晴らしさをいい、賈誼が左遷されて、他郷からこの地をおもい、白居易が最も風流といった魏王堤、果たして自分は洛陽に帰えりたいのに、杜甫のようにこのまま旅暮らしを続けざるをえないと詠う。)

洛陽の才子である賈誼のようにわたしは、よその郷の蜀で年をとろうとしているが、いまごろ、洛陽城の街のなかは、のどかな春のけしきにかわって、ほんとうに好ましいものになっているだろう。とくに、白居易が最も風情があるといったところの、洛陽城郭の南にある、魏王:李泰の名がついたある柳のしげった魏王堤をおもい出す。あの池塘の柳を思い出すと、わたしのこころはますます洛陽のかなたへさまようばかりなのだ。万物を成長させる洛水の水は雪解けの澄み切ったきれいな増水のながれに、うつくしい桃の花びらがちってながれてゆき、ながれのほとりにはうえにはおしどりが仲むつまじく浴をしている。あの白居易が朝から夕方まで散策したあの池塘は、洛陽の春の西日の当たる景色をおもいうかべてしまい、帰ることができない杜甫と同じようにうらめしく思うきもちというのは、わたしも同じように帰れずにいるから、これほどまでに洛陽にいる人のことを憶いだしているけれど、わたしの切ない心をだれも知っていてはくれないだろう。

 

 

 

 

 

花間集 巻二

 

 

 

 

 

(妓優)-5

長安の妓女

 

 ここでは主に長安の平康里や、その他の街坊に集中して住んでいた一般の娼妓について述べたい。先に迷べた皇室専属の教坊妓はこの中には含まない。

 長安の官妓は、上に述べた地方の官妓とは多くの違いがあるように思う。唐後期の孫渠が長安の妓女について専門に記した『北里志』と、その他こまごまとした史料からみると、長安の妓女も官府に属し、官府の御用に応じなければならなかったが、しかし官奴婢としての色合いはそれほど強くはなかった。官府の彼女たちに対する支配は比較的ゆるやかで、彼女たちも自分がどの長官の管理下にあるかもよく知らず、身分の束縛もあまりなく、地位も少しばかり高かった。また、彼女たちは官府から衣食を支給されておらず、自分で商売を営んでおり、後世の娼妓とほとんど変りなかった。これはたぶん、長安などの大都市が各界の人士、とりわけ天下の才子である進士たちが遊ぶ有名な場所であり、朝廷の支持と容認の下、妓楼で遊ぶ風潮がたいそう盛んであったため、長安などの妓女たちを官府が独占的に支配することはもはやきわめて難しく、しだいに社会仝体に開放されていったからであろう。こうした情況は、およそ唐の中後期に向うに従って次第に発展していった。しかし、地方官妓は唐の後期になると藩鎮が巨大な権力を持ったため、なおいっそう地方官、とりわけ藩鎮の独占支配を受けることとなった。長安の妓女たちの生活情況は、唐代の官妓がしだいに自由業の娼妓に変化してゆく過程をよく反映している。

 長安の妓女は「楽営」には属さず、孫渠の『北里志』序の言葉をかりると、「京中の飲妓、籍は教坊に属す」というように、籍は教坊にあった。先に述べたように、玄宗時代に教坊が設立されたのは、もともと天下の芸人を集めて訓練を行い、専ら宮廷の御用に供するためであったが、『北里志』がいう「京中の飲妓」とは明らかに宮廷に奉什する芸人ではなく、民間で営業する娼妓であり、彼女たちも教坊には住まず、平康里やその他の里坊に住んでいたのである。これでは「京中の飲妓、籍は教坊に属す」という記述と矛盾する。いったいどうしたことだろうか。筆者が推測するに、これはたぶん教坊制度の変化と関係があるように思う。玄宗以後、教坊はしだいに衰退していったが、後の時代になっても教坊は依然としてたびたび芸妓を選抜して朝廷の御用に供していた。しかしふだんは彼女たち仝部を教坊の中に住まわせることができなくなり、ただ若干の名妓だけを選んで教坊籍に入れ、いつでも宮廷の御用に派遺できるようにしていた。大半の妓女は普通はもといた置家とか、自宅に住んで、前と同じく自由営業の娼妓生活を送っていた。白居易の「琵琶行」に、「自ら言う 本これ京城の女、家は蝦煥陵(長安の東部、常楽坊にあった街区名)下に在りて住む。十三にして琵琶を学び得て成り、名は教坊第一部に属す。……五陵(漢の五帝陵が並び長安の上流階級が多く住んでいた地城)の年少、争って纏頭し(祝儀を出す)、一曲に紅納数を知らず」とある。この教坊籍に名を列した琵琶妓は教坊に住んではおらず、一般社会で芸を売り身を売って生活していたのである。

 長安の娼妓は、名儀上でも決してすべてが教坊に属していたのではない。『北里志』の「楊妙児」なる一節に記載されている妓女の王福娘は、人に身請けされることを願い、「私は幸いに教坊籍に入っていません。あなたにもし結婚の意志があるなら一、二百金のみですみます」といった。どうやら、教坊籍に入っていれば「官身」となり勝乎に請け出されることはできないが、教坊籍に入っていないものは金を出し身請けする人がいればいつでも落籍できたようである。しかし、教坊籍に入っていない妓女も、やはり完全に官妓身分から脱していたというわけではなかった。「楊妙児」の一節によると、妓女たちがたとえ客から「買断」(特定の客が囲い独占すること)されても、いぜんとして彼女は「官使を免れず」、つまりこれまで通り官府への奉什を免れることができなかったようである。また同書には、「およそ中央官僚の集まりや宴会には、役所から妓女を借り出す許可状をもらわねばならず、そうやって始めて彼女たちは他処に出ることができた」(『北里志』序)とある。官僚が妓女を宴遊に呼ぶには官府の許可が必要だったということは、妓女が官妓の身分であったことを証明している。その他、平康里の妓女たちの中には「都知」と呼ばれるものがいて、妓女たちを分担管理しており、古株のものがその任に就いた。妓女にも一定の組織があり、完全に独立し自由というわけでなかったことが分かる。教坊籍に入っていない妓女は、当然長安の妓女の大多数を占めていたはずだが、彼女たちは一体どこの管轄下に属していたのだろうか。地方州府の制度に照らせば、京兆府の管轄下に属すのが当然と思われるが、いまだそうした記録を見出せないので、みだりに結論を出さないでおきたい。

 

 長安の妓女の人多数は平康里に住んでいた。「長安に平康坊という所があって、妓女の居住地である。京都の侠少(遊侠の若者)は此に草集る。……当時の人々はこの坊を風流藪沢(歓楽街)と呼んだ」(『開元天宝遺事』巻上)。『北里志』の記載によると、平康里の街区は三曲に分れ、名妓は多く南曲、あるいは中曲に住み、北曲に住むものの大多数は無名の「卑屑」(醜くて卑しい)の小妓であった。この三曲に住む妓女の生活にも高低貧窟の差があった。漸飴、中油はおおむね駄院汁こムく浄似で、完内には花が植えられ池もあり、室内の設備は快適で、華美にすぎるものさえあったが、下層の妓女の住まいは粗末なものであった。劉泰娘は北曲の小さな家の娘であったから、他の妓女たちと宴席に向う時、あなたは何処にお住まいですかと聞かれると、言葉をにごして、門前に一本の木がありますわ、などと言うだけであった。どの曲内に住んでいるかが、その妓女の身価に大きな関係があったようである。それ以外にも平康里に住まない妓女がおり、その他の街坊にそれぞれ分散して住んでいた。

 

 妓女たちは皆それぞれ一派を立て、家を単位に独一丑して営業していた。彼女たちのあるものは家族と一緒に住んでいたが、多くは家の暮らしが立たないので、妓女として生きざるをえなかったのである。たとえば、唐代の小説『崔小玉伝』(蒋防作)の主人公宦小玉は、もともと崔王の娘であったが、母親が崔王の婢女であったから、後に母娘ともども追い出されてしまった。やむなく小玉は妓女となり母と一緒にくらした。また、「琵琶行」に出てくる琵琶妓は、「弟は走って軍に従い阿銕は死す」といっているので、家族と一緒に住んでいたことがわかる。これらの妓女の大半は慮待を受けず、境遇はいくらかマシだった。しかし、その他多くの妓女は家族はおらず、「仮母」に買わ

れ養女にされたものであった。仮母とは後世いうところの「鴇母」(やりて婆)と同じであり、みな年増の妓女がなった。仮母に夫や家族はなく、しかし容色はまだ全く衰えたというわけではなかったので、大半が王侯貴族の邸宅を警護する武官の囲われ者であった。また、ある者はこっそりと夜伽をする男を囲っていたが、夫と言えるような代物ではなかった。平康里の置屋の大部分は仮母が何人かの妓女をかかえて営業していた。たとえば楊妙児の置屋を例にとれば、彼女はもともと名妓であったが、のちに仮母となり、莱児、永児、迎児、桂児の四人の養女をひきとって育てた。その他の置屋もほぼ同じようなものであった。これらの妓女はみな生活はたいへん苦しく、大部分が「田舎の貧家」から買われてきた幼女であり、仮母の姓を名のった。ある者は自分の実の父母さえ全く知らなかった。またある者は、人に編されて売られて、この世界に堕ちたのであった。「ある良家の娘は、自分の家の嫁にするといって連れて行かれたが、他に多額の謝礼で転売され、誤ってこの苦界に堕ち、脱出することができなかった」(『北里志』「海論三曲中事」)。たとえば、王福娘は解梁(山西省臨晋県)の人であったが、嫁にやると喘されて都に連れて行かれ、色町に売られてしまった。しかし彼女は何も真相を知らないでいた。後に置屋は披女に歌を習わせ客を取らせた。一人のか弱い女が行き場を失えば、他人の言いなりになるしかなかった。この間、家の兄弟が捜し出して奪い返そうとした。しかし彼女は、白分はすでに操を失った身であり、また兄弟には何の力もないことを考えると、望みを絶って兄弟に手を引かせるしか方法がなく、家族と泣き泣き永別したのであった。唐代の社会は良民と賤民の区別が明確であり、いったん娼妓の世界に転落すれば、身を脱することが困難であったばかりか、肉親と行き来して顔を合わせることさえきわめて錐しかった。

 

 妓女は買われてくると、歌舞や酒席での遊戯などを習い、少しでも怠けると仮母に激しく鞭打たれたり殴られたりし、成人に達すると客を取り銭を稼がされた。彼女たちは行勤の自由がなく、平生は勝手に門を出ることもできなかった。平康里の妓女は僧が道でお経を講ずるのを最も待ち望んだ。僧が来ると、仮母に千文納めて機を見て外出し、半日間自由の空気を吸うことができたからである。

 妓女は平生、人に呼ばれて宴会や遊戯の席に侍ったり、あるいは家で客を接待したりした。毎年新たに進士の合格者が発表されると、彼らは盛んに平康里に泊って遊んだ。この時こそ彼女たちの最も多忙な時期であった。長安の妓女の大半は歌や踊りといった技芸にそれほど熟達してはいなかったので、往々にしてさかんに客にふざけたりへつらったりした。普段は客席に侍り、話のあいづちをうったり、また客と寝て売春するのが主で、芸は補助的なものであった。こうした点が、地方の楽営妓女と違うところであり、また後世の娼妓と似ているところであった。客席に侍る料金は一般に一席あたり四銀(銀は銅銭の単位)であり、灯ともし時になるとその倍になった。新来の客は倍の料金を払った。新しく進十に合格した者が妓女を買う時は、慣例により一般の客よりも多くの花代を包まねばならなかった。値段は妓女の名声や地位によって決められた。平康里の名妓天水仙寄は少しばかり名声があり、貴公子劉草が彼女を遊びに呼ぼうとしたが彼女はわざと断った。そこで劉草は次々と値段を上げ、ついにかれこれ百余金を投じた。また、客は銭の支払いの他に絹布などを贈って礼晶とした。たとえば中央の官僚たちが鄭挙挙の家に集まって酒を飲む時には、座が盛りあがると客はそれぞれ彩締などを御礼に贈った。こうしたことは、客が自ら自由意志で行うことであった。

 雛妓(半玉)の「初夜権」は高い値段で買い取らねばならなかった。南曲の張住住が成人になろうとした時、金持の陳小鳳は大金を出し「その元を取ろう」とした。彼女はすでに処女を失っていたが、手管を使って処女のごとく振舞って陳を馴した。陳は処女を得たと思い、さらに三編(一権は銅鉄一千枚)を張家にやった。その他、「買断」という決まりもあった。つまり妓女が一人の客に独占されることであり、客が毎日仮母に一彬を払うと、この妓女はもう他の客をとれなかった。

 

 少し有名な妓女はなじみの客を多くよぶことができたので、豪門や富貴の客から大量の銭と晶物が仮母の懐に入った。これらの妓女の生活は一般にかなり裕福であり、贅沢ですらあった。また、ある妓女は仮母に大量の金を儲けさせたが、仮母はいぜんとして彼女にぴどく辛くあたった。たとえば楊莱児は仮母にたっぷり金を儲けさせたが、仮母は彼女を虐待した。それで、莱児は身請けされて行く時、仮母を大いに罵り衣を払って去った。やっと誉憤を晴らしたのである。下層妓女の収入はたいへん少なく、生活はきわめて苦しかった。張住住の家の場合は、抱えている二人の妓女が売れなかったので、置屋は没落し、雑貨を売って生活しなければならなかった。

 

 教坊籍に入らない妓女は官府の統制下になかったので、客から身請けされ堅気となって嫁すことができた。落籍の費用は地位によって異なっており、先に述べた王福娘の請け値は。一、二百金〃であった。これはだいたい中等の値段であり、妓女の標準の値段であった。唐代の小説『李娃伝』の主人公李娃は堅気になろうとして、二十年間の衣食代を白分の貯えた金の中から仮母に返し、身請けされた。この金額は決して少なくはなかったはずである。こうしたことは現実にはそう多いことではなかったであろう。なぜなら、かりに名高い妓女でも普通はこれほど多くのへそくりをエ面することは難しかったからである。身請けの大部分は客が見初めたものであって、彼女たちの意志ではどうすることもできなかった。しかし、長安の妓女は総じて地方官妓に比べるといくらか主体性を持っていた。たとえば、王福娘は挙子(科拳受験生)の孫渠を見初め、彼に落籍を頼んだ。また、睦州刺史の柳斉物は名妓の嬌陳を好きになった。彼女はそれに応えて「もし科挙に合格して錦帳三十枚をくださるなら、一生お仕えいたします」と答えた。柳斉物は果たして錦帳を数通りそろえて彼女を迎えにきたので、彼女は柳家に嫁いだ(『因話録』巻一)。何はともあれ、無理に落籍されたり贈答の具に供されたりするのに比べたらずっとマシであった。

 

 以上が長安に生きる妓女のおよその生活状態であるが、東都洛陽や揚州など大都市の妓女の生活も、長安により近かったようである。揚州は娼妓の都市としてたいへん有名なところであり、ひとたび夜になると、「妓楼の上に、常に赤い絹の被いで包んだ夜燈が無数にともされ空中に輝いた。九里三十歩の広さの街は、真珠、栽翠などさまざまな飾りで満ち溢れ、はるか遠い仙境のようだった」(『太平広記』巻二七三)という。この繁華の情景は妓館の多さ、遊廓の繁栄ぶりをよく物語っている。ここは長安の平康里とひじーっによく似ており、妓女たちの生活も長安とほぼ同じだったと思われる。

 

 

 

 

 

 

花間集 教坊曲《菩薩蠻五首》韋莊

 

 

 

 

 


花間集

6韋荘84《巻2-34 菩薩蠻五首之 一》

菩薩蛮五首 其一

(この夜が最後の夜で、別の妃嬪のもとに行くという、最後の夜と翌朝を詠う。)

紅樓別夜堪惆悵、香燈半捲流蘇帳。

赤く美しい御殿での明日の朝には別れなければいけない、その夜だけに、恨み嘆くことをこらえることができない。閨に香しい灯火のかげに五色の糸を混ぜた房に飾られたとばりを半ばかかげて、寝牀の中に入ってゆく。

殘月出門時、美人和涙辭。

名残の月が残る夜が明けて、門を出る時が来ると、美しい妃嬪に涙ながらの別れを告げた。

琵琶金翠羽、絃上黄鶯語。

妃嬪は翡翠のかざりが付いた撥で琵琶を奏でてくれる。その絃の調べは響き渡って、鶯の春を告げる言葉のように二人を引き留める。

勸我早歸家、綠窗人似花。

「早くここにお帰ってきてください」と勧める歌と琵琶曲で、「東鄰の女」、美人で賢い女であるから、「花のようにきれいな女になっているから、待っている」と云っているのだろう。

(菩薩蛮五首その一)

紅樓の別夜 惆悵に堪え、香燈 半ばに捲く 流蘇の帳【とばり】を。

殘月 門を出でし時、美人 涙と辭を和【とも】にす。

琵琶 金翠の羽。絃上 黄鶯 語る。

我に勸む 「早【つと】に 家に歸れ」と。「綠窗の人」 花の似【ごと】し。

 

7韋荘85《巻2-35 菩薩蠻五首其二》

菩薩蠻五首其二

(長安にいて、世間の人が言う若いうちに江南に行ったことのあるものが、その良さを想像して詠うもの)

人人盡説江南好,遊人只合江南老。

世間の人々だれもかれも、江南はいいところだという。遊学して世間のことが分かっている人は、歳をとったら江南へいって暮すのが一ばんよいとおもっている。 

春水碧於天,畫船聽雨眠。

雪解けの澄んだ増水した春水のながれは空の青さと一体化し、舟遊びには江南名物の美しく彩られた船にのって、雨音をききながら眠る。

爐邊人似月,皓腕凝雙雪。

酒爐のほとりには、お月さまを彷彿させる美人が居てくれる。色白の顔、真白な腕は昔の西施を思い浮かべる両の腕、両の足の、雪のようなうつくしさがある。

未老莫還鄕,還鄕須斷腸。

まだまだ歳をとってはいないものがここへ来たならば、故郷へ帰りたいとは思いはしない。故郷などへ帰ったならば、だれもが性的欲求不満を起してしまうに違いない。

(菩薩蠻五首其の二)

人人の盡く説くは 江南好しとす,遊人 只だ合う 江南に老ゆべしと。

春水 天に碧く,畫船に 雨を聽きて眠る。

爐邊 人は 月の似く,皓き腕は 雙つ雪を凝らせる。

未だ老いざれば 鄕に還る 莫かれ,鄕に還らば 須らく斷腸すべし。

 

8韋荘86《巻2-36 菩薩蠻五首其三》二巻36-86

菩薩蠻五首其三

(長安にいて、世間の人が言う、今になって思い出す、若いうちに江南に行ったころは楽しかった、ずっと楽しいまま、白髪になっても帰らないと言っていたものだと、その良さを想像して詠うもの)

如今却憶江南樂,當時年少春衫薄。

いまになって残念だなあと思い返す、それは江南に遊んでいたころ、楽しいことばかりであった。そのときは、年若く、伊達の盛りで、うすい春の上衣を身につけた粋な装いでいたものだ。

騎馬倚斜橋,滿樓紅袖招。

そして、馬にまたがって官妓高楼に渡る橋のたもとに馬をとどめると、どこの靑楼からも、官妓が紅い袖をふって、手招きしていたものだ。

翠屏金屈曲,醉入花叢宿。

太守専用(高級官僚用)座敷の翡翠の屏風には金の金具が飾られている、そして、お酒に酔ったいきおいで、花の様な美しい妓女のたくさんいる宿に入りびたり楽しく過ごした。

此度見花枝,白頭誓不歸。

そしてこのときは、花の枝のような細身のうつくしい好みの人とまみえた、だからその時、白髪あたまになっても、故郷に帰ることなどないと誓っていた。

(菩薩蠻五首其の三)

今の如し 却って憶ふ 江南の樂しきを,當時 年少なれば 春の衫 薄きし。

馬に騎し 橋に倚ること斜にす,樓に滿つ 紅袖が招く。

翠の屏 金の屈曲あり, 醉ひて 花叢の宿に入る。

此の度【たび】 花の枝に見【まみ】ゆ,白頭 歸らざると誓う。

 

9韋荘87《巻2-37 菩薩蠻五首其四》

菩薩蠻五首其四

(理想に思うは半官半隠で、その一番な事は、春の短い夜の酒宴に遭遇して、愉快に、陽気に、心行くまで酒を飲むことだけであると詠う。)

勸君今夜須沈醉,樽前莫話明朝事。

酒宴の主人は「今夜の酒宴では思いきり飲んで酔っぱらうべきである。大盃を前にしては、お酒をのむことだけすれよいのであって、あしたのことなど一切考えない、はなさないで、今のこのときをたのしむべきである。」といって酒をすすめてくれる。

珍重主人心,酒深情亦深。

酒宴の主人の思いやりのこころはまことに感謝するところだ。酔えば酔い、酔いが深まれば深まるほど、主人の情が深く感じられる。

須愁春漏短,莫訴金杯滿。

こんなに楽しく、万物が成長する春夜の時が短いことをなげくべきで、金に輝く大盃にはいっぱいに酒をつぐものであり、もう飲めないなどと訴えてはいけない。

遇酒且呵呵,人生能幾何?

酒宴に出会ったのなら、愉快に、大いに笑い、陽気にのむものであり、人生百年というもののそれがどれほどのものか。このみじかい時を、酒こそ大いにのもうとおもうのだ。

(菩薩蛮五首其の四)

君に勸む 今夜 須【すべか】らく沈醉すべし,樽前に 明朝の事を話す莫れ。

珍重す主人の心, 酒深くして情も亦た深し。

須【すべか)らく 春漏の短きを愁ふべし,金杯に滿ちたるを訴ふる莫れ。

酒に遇【あ】えば 且【しば】らく呵呵【かか】たれ,人生能【よ】く幾何【いくばく】かある?

 

10韋荘88《巻2-38 菩薩蠻五首其五》

菩薩蠻五首其五

(洛陽の町の春の素晴らしさをいい、賈誼が左遷されて、他郷からこの地をおもい、白居易が最も風流といった魏王堤、果たして自分は洛陽に帰えりたいのに、杜甫のようにこのまま旅暮らしを続けざるをえないと詠う。)

洛陽城裏春光好,洛陽才子他鄕老。

洛陽の才子である賈誼のようにわたしは、よその郷の蜀で年をとろうとしているが、いまごろ、洛陽城の街のなかは、のどかな春のけしきにかわって、ほんとうに好ましいものになっているだろう。

柳暗魏王堤,此時心轉迷。

とくに、白居易が最も風情があるといったところの、洛陽城郭の南にある、魏王:李泰の名がついたある柳のしげった魏王堤をおもい出す。あの池塘の柳を思い出すと、わたしのこころはますます洛陽のかなたへさまようばかりなのだ。

桃花春水綠,水上鴛鴦浴。

万物を成長させる洛水の水は雪解けの澄み切ったきれいな増水のながれに、うつくしい桃の花びらがちってながれてゆき、ながれのほとりにはうえにはおしどりが仲むつまじく浴をしている。

凝恨對殘暉,憶君君不知。

あの白居易が朝から夕方まで散策したあの池塘は、洛陽の春の西日の当たる景色をおもいうかべてしまい、帰ることができない杜甫と同じようにうらめしく思うきもちというのは、わたしも同じように帰れずにいるから、これほどまでに洛陽にいる人のことを憶いだしているけれど、わたしの切ない心をだれも知っていてはくれないだろう。

 

(菩薩蠻五首其の五)

洛陽城裏 春光 好く,洛陽の才子 他鄕老ゆ。

柳は暗【ふか】し 魏王の堤。此の時 心 轉【うた】た迷ふ。

桃花 春水 綠にして,水上に 鴛鴦 浴す。

恨を凝らして 殘暉に對し,君を憶えど 君は知らず。

 

 

 

10韋荘88《巻2-38 菩薩蠻五首其五》

《菩薩蠻 五》 現代語訳と訳註

(本文)

菩薩蠻五首其五

洛陽城裏春光好,洛陽才子他鄕老。

柳暗魏王堤,此時心轉迷。

桃花春水綠,水上鴛鴦浴。

凝恨對殘暉,憶君君不知。

 

(下し文)

(菩薩蠻五首其の五)

洛陽城裏 春光 好く,洛陽の才子 他鄕老ゆ。

柳は暗【ふか】し 魏王の堤。此の時 心 轉【うた】た迷ふ。

桃花 春水 綠にして,水上に 鴛鴦 浴す。

恨を凝らして 殘暉に對し,君を憶えど 君は知らず。

 

(現代語訳)

(洛陽の町の春の素晴らしさをいい、賈誼が左遷されて、他郷からこの地をおもい、白居易が最も風流といった魏王堤、果たして自分は洛陽に帰えりたいのに、杜甫のようにこのまま旅暮らしを続けざるをえないと詠う。)

洛陽の才子である賈誼のようにわたしは、よその郷の蜀で年をとろうとしているが、いまごろ、洛陽城の街のなかは、のどかな春のけしきにかわって、ほんとうに好ましいものになっているだろう。

とくに、白居易が最も風情があるといったところの、洛陽城郭の南にある、魏王:李泰の名がついたある柳のしげった魏王堤をおもい出す。あの池塘の柳を思い出すと、わたしのこころはますます洛陽のかなたへさまようばかりなのだ。

万物を成長させる洛水の水は雪解けの澄み切ったきれいな増水のながれに、うつくしい桃の花びらがちってながれてゆき、ながれのほとりにはうえにはおしどりが仲むつまじく浴をしている。

あの白居易が朝から夕方まで散策したあの池塘は、洛陽の春の西日の当たる景色をおもいうかべてしまい、帰ることができない杜甫と同じようにうらめしく思うきもちというのは、わたしも同じように帰れずにいるから、これほどまでに洛陽にいる人のことを憶いだしているけれど、わたしの切ない心をだれも知っていてはくれないだろう。

 

 

(訳注) (改訂版)-10韋荘88《巻2-38 菩薩蠻五首其五》

菩薩蠻 五首其五

94.(洛陽の町の春の素晴らしさをいい、賈誼が左遷されて、他郷からこの地をおもい、白居易が最も風流といった魏王堤、果たして自分は洛陽に帰えりたいのに、杜甫のようにこのまま旅暮らしを続けざるをえないと詠う。)

95.【解説】 春、異郷に在って、かつて身を置いたことのある洛陽を懐かしんだ詞。前段は、洛陽の町の春の素晴らしさをいい、賈誼が左遷されて、他郷からこの地をおもい、果たして自分は洛陽に帰えりたいのに、杜甫のようにこのまま旅暮らしを続けざるをえない、だから思い迷わずにはいられぬことを説く。魏王:李泰がむなしいおもいで、洛陽の池塘をおもい、その地を白居易が思い、杜甫が、成都、夔州で漂泊の中で洛陽をおもい、韋荘が蜀・成都で同じように洛陽を思い出したというものである。「君不知」は、「君不見」、「君不聞」などと同じ常套語である。通常詞の最初に来る場合が多いが、最後に盛ってきたことで面白くしている。

この詩は、春の風物と色を各所に鏤め、面白くしている。韋荘の名作と云えるものである。

また、改訂版の解釈は、全く新しい発見で、従来の解釈とは全く異なったものになった。

菩薩蠻は唐の教坊の曲で花間集には四十一首所収、韋莊の菩薩蠻は五首、双調 四十四字。換韻。前段二十四字四句二仄韻二平韻、後段四句二仄韻に平韻で、❼❼⑤⑤/❺❺⑤⑤の詞形をとる。 

96.『花間集』巻二50首の36番目で韋荘10番目の菩薩蠻五首其五としてあり、(花間集500首の88首目)、当時の文人の共通の感情をあらわしている。

菩薩蛮五首 其一

紅樓別夜堪惆。 香燈半捲流蘇

殘月出門、美人和涙

琵琶金翠、絃上黄鶯

勸我早歸   綠窗人似

 
 
● 
 

菩薩蛮五首 其二

人人盡説江南,遊人只合江南

春水碧於,  畫船聽雨

爐邊人似,  皓腕凝雙

未老莫還,  還鄕須斷

  
  
  
  

菩薩蠻五首其三

如今却憶江南,當時年少春衫

騎馬倚斜,滿樓紅袖

翠屏金屈,醉入花叢宿

此度見花,白頭誓不

  
  
  
  

菩薩蠻五首其四

勸君今夜須沈,樽前莫話明朝

珍重主人,酒深情亦

須愁春漏,莫訴金杯滿

遇酒且呵,人生能幾

  
  
  
  

菩薩蠻五首其五

洛陽城裏春光,洛陽才子他鄕

柳暗魏王,此時心轉

桃花春水,水上鴛鴦

凝恨對殘,憶君君不

  
  
  
  

この作品は『花間集』巻二50首の36番目で韋荘8番目の菩薩蠻五首其五としてあり、、当時の文人の共通の感情をあらわしている。

 

洛陽城裏春光好,洛陽才子他鄕老。

洛陽の才子である賈誼のようにわたしは、よその郷の蜀で年をとろうとしているが、いまごろ、洛陽城の街のなかは、のどかな春のけしきにかわって、ほんとうに好ましいものになっているだろう。

97・洛陽:唐の都。河南省にある。洛水の北にあることからついた。(陽:河の北岸。山陽、山陰についても同じ。)

98・春光:春の日和。春の景色。

99.・洛陽才子:前漢の賈誼のこと。賈誼[前200~前168]中国、前漢の学者・政治家。洛陽(河南省)の人。文帝に信任されたが、重臣らの反対にあって長沙王の太傅(たいふ)に左遷された。文章家・思想家としても有名。著「過秦論(かしんろん)」「新書(しんじょ)」など。作者の韋荘自身。彼は江南を漫遊している。旅先で春を迎えたが、洛陽の春の風情や女性が懐かしく思い出される。異郷の地から洛陽を思うこと。

100・才子:才能の優れた男子。才徳の優れた男子。

 

 

柳暗魏王堤。此時心轉迷。

とくに、白居易が最も風情があるといったところの、洛陽城郭の南にある、魏王:李泰の名がついたある柳のしげった魏王堤をおもい出す。あの池塘の柳を思い出すと、わたしのこころはますます洛陽のかなたへさまようばかりなのだ。

101・柳暗:柳の葉が茂るさま。

102・魏王堤:地名。洛陽の南にある名勝。洛水の水が溢れて池が出来、堤を築いて洛水と隔てた、貞觀年間に魏王泰に賜ったのでこの名が付いた。唐代洛陽洛水南岸有池,貞觀年間賜予魏王泰故名魏王池,堤稱魏王堤。貞觀は太宗の年号(627649魏王:李泰(619年—653年)字を惠褒といい,詞の号として小字を青雀といった。唐太宗の四子,母長孫皇后。六朝の雅な文学を好み,草隸体の書が工みであり,集書万卷ある,当時の書法家、書画鑑賞家であった。李泰(り たい、619 - 652年)は、唐の太宗李世民の四男。字は恵褒。636年、魏王に改封され、相州都督を遙領した。太宗は、李泰が士を好んで文学を愛したので、特に王府に文学館を置き、学士を任用することを許した。また李泰の腰周りが大きく、歩行も困難であったので、輿に乗って参朝することを許可した。この頃に、所領地の池を整備し、柳を植えたのでこの名がついたもの。のちに濮王に立てられた。太宗に愛されたが、皇太子李承乾と争い、追放された。白居易『魏王堤』「花寒懶發鳥慵啼,信馬閒行到日西。何處未春先有思,柳條無力魏王堤。」。

103・心轉迷:心が一層迷う。心が変わり、迷う。 

104・轉:(古白話)かえって、一層。

 

桃花春水綠,水上鴛鴦浴。

万物を成長させる洛水の水は雪解けの澄み切ったきれいな増水のながれに、うつくしい桃の花びらがちってながれてゆき、ながれのほとりにはうえにはおしどりが仲むつまじく浴をしている。

105・桃花春水綠 柳の緑、春水の雪解けの澄み切ったきれいな増水,雪解け水は、ミネラル分を多く含み、川の流れの中で違った色で流れる。特に綺麗な流れであること。奇麗に透き通った水を運ぶことから、相手に対する思いはこれほど純粋で偽りがないものだということを連想させ、傳えるものである。この詩は、次の二句「憶君君不知」にかかってゆく。

・水上:洛水のほとり。。

106・鴛鴦:(つがいの)オシドリ。雌雄のつがいでいることから夫婦仲のよいことに使う。自分の境遇を強調するために使っている。 ・鴛:雄のおしどり ・鴦:雌のおしどり

107・浴:水浴びをする。鴛鴦は水鳥。

 

凝恨對殘暉,憶君君不知。

あの白居易が朝から夕方まで散策したあの池塘は、洛陽の春の西日の当たる景色をおもいうかべてしまい、帰ることができない杜甫と同じようにうらめしく思うきもちというのは、わたしも同じように帰れずにいるから、これほどまでに洛陽にいる人のことを憶いだしているけれど、わたしの切ない心をだれも知っていてはくれないだろう。

108・凝恨:韋荘は、杜甫が、棲んでいた成都の杜甫草堂を改装して住んでいたことで、杜甫が、故郷の洛陽に帰りたいと思っていたことをいうのである。、うらめしさをこめて。恨みを凝集させて。 ・恨:うらみ、うらむ、の外に、うらめしい、情けない、の意味もある。感情の強さを表す。ここは、「長恨歌」の「恨」と同様で、後者の意。

109・殘暉:夕日の光。残照。残陽。斜陽。夕焼け。

・憶君君不知:この句は、特定の人を指すものではない。賈誼が左遷されて、他郷からこの地をおもい、魏王:李泰がむなしいおもいで、洛陽の池塘をおもい、その地を白居易が思い、杜甫が、成都、夔州で漂泊の中で洛陽をおもい、韋荘が蜀・成都で同じように洛陽を思い出したというものである。

「君不知」は、「君不見」、「君不聞」などと同じ常套語である。通常詞の最初に来る場合が多いが、最後に盛ってきたことで面白くしている。

 

 

白 居易(はく きょい、772年(大暦7年) - 846年(会昌6年))は、中唐の詩人。字は楽天。号は酔吟先生・香山居士。弟に白行簡がいる。772年、今の 新鄭市で生まれ、846洛陽市死没。

 《魏王堤》 白居易 

花寒懶發鳥慵啼,信馬閒行到日西。

何處未春先有思,柳條無力魏王堤。

 (魏王堤)

花は 寒くして 發(ひら)くに 懶(ものう)く  鳥は 啼くに 慵(ものう)し,馬に信(まか)せて 閒行  日 西するに到る。

何(いづ)れの處か 未だ春ならずして  先づ思ひ 有る,柳條 力 無し  魏王堤。

 

110・魏王堤:地名。洛陽の南にある名勝。洛水の水が溢れて池が出来たため、堤を築いて洛水と隔てたことによる。後、貞觀年間に魏王泰に賜ったのでこの名が付いた

 

花寒懶發鳥慵啼、信馬閒行到日西。

早春の堤は、花のつぼみもこの冷えこみで、咲くことを怠り、春を告げるべき鳥も啼くのを億劫にして、啼いてくれない。そのまま馬にまかせたままで、ゆっくりと散策は、日が西に傾くまでになった。 

111・鳥  慵啼という形になっている 

112・花寒:花冷え。春先の寒さ。春寒。余寒。 

113・懶:おこたる。なまける。体技である。ものうい。 

114・發:(花が)開く。 

115・慵:ものうい。おっくう。めんどうくさい。おこたる。 

116・啼:(鳥や獣が)なく。声に出してなく。

117・信馬:馬にまかせる。

118・閒行:のんびりと歩く。そぞろ歩き。 ・到:…になる。…になってしまった。…になりいたった。 ・日:太陽。 ・西:西にゆく。西に傾く。西に沈む。動詞としての用法。

 

何處未春先有思、柳條無力魏王堤。

こんな散策で、いったいどこが春先の景色で、風情があるかといえば、風流でもってここに柳を植えた、書画家であった魏王李泰の筆さばきの様なヤナギの枝がなよなよとしている魏王堤であろう。

119・何處:どこ(で)。いづこ。いづれのところ(…か)。 ・未:まだ…でない。いまだ…ず。

120・春:春になる。動詞としての用法。

先:さきに。前もって。

121・有思:風情がある。・思:心。意志。深い考え、といった名詞の意。

122・柳條:ヤナギの枝。 ・無力:力なく、ぐったりとしている。女性のなよなよとした形容で、ヤナギのしなやかなさまをいう。ここは、魏王:李泰の草書体を画く筆の動きをれんそうさせている。

 

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